第1話 竹橋事件
「全て、私のせいだとでも…言うのか」
「そんな事は言ってはおらん。だがあのような事態を招いてしまった以上、責任は取ってくれという事だ」
絶望し切った顔で辛うじて言葉を絞り出した山縣有朋に対して、大山巌はバッサリとそう言った。
絶望するのも無理はない。事件の責任を全て引き受けてくれ、と言われるようなものだからだ。おそらくその汚名は末代にまで語り継がれる事になるだろう。それでも
「わかった。責任は取ろう。」
どう説得しようかと大山が考えている間に、山縣は答えを出していた。それまで絶望していた人間とは思えないほど生気に満ち溢れ、覚悟を決めた人間の姿があった。
こうして山縣有朋の名は歴史の表舞台から消える事となる。
彼らが話していた事件こそ後に竹橋事件と呼ばれる事になる事件であった。
1878年の8月23日に西南戦争での恩賞の配分に不満を持った近衛砲兵大隊を中心とした士官、兵士らが起こした反乱事件である。
この事件において決起した兵士らは政府首脳の身柄を確保するべく赤坂にあった仮御所に向けて進軍し、その途上で鎮圧部隊と交戦し、発砲した山砲の流れ弾が仮御所に着弾した。
幸いにして死傷者はいなかったものの、御所に砲弾が着弾したという事実は陸軍に対する不信感を高まらせる事になり、国家憲兵的役割を担う存在としての警視隊の復活が認められる事になった。
もちろん陸軍内部でも責任の追及は続いており、その中で槍玉に挙げられたのが恩賞の配分を監督していた山縣有朋だった。
山縣は退官後、故郷に隠遁し何も語らずに死んでいったが、陸軍ではその名はしばらく禁忌の如く扱われ、第二次世界大戦後に陸軍の公刊史料をもとに大幅に脚色される形で書かれた元戦車兵の経歴を持つ小説家が書いた小説では辞任に際して未練がましく抵抗する様が事実の如く描かれていた事から一般にも山縣が権力に執着するような人間である、というイメージが広がる事になった。
だが近年では再評価が進んでおり、彼が生きていれば日本陸軍ひいては大日本帝国は全く違う形になっていたのではないか、との見方もあり評価は分かれている。
そんなわけで第一話でした。
まだまだ未熟ではありますが今回の作品にも御付き合いいただければ幸いです。