運命の超越
良いですか。絵を書くのであれば顔とか目の形とかそういうのは後も後…先ず最初にやるのはプロポーション。その後で筋肉。特に関節の位置とか解っていないと滅茶苦茶になります。そう、私はそんな中戦っていたのだよ。…つってもさ、ぶっちゃけへその位置とか個人差滅茶苦茶ありませんかね?
強い縦の衝撃のあとに来る、鼻を突くプラスチックが焼ける嫌な臭い。黒い煙が視界を覆い、息苦しくなりかけた後で大きな音とともにドアが蹴破られ、そこから人影が外へと飛び出た。向こう側には眩いほどの橙色の光が満ちていて、思わず目を細めるほどの眩しさだ。
――誤射か、それとも…。
潰れた車内の中に取り残された少女、花子はムカついたような顔をしながら腰にあるレイピアの柄を握り、抜き放ち…車外へと這い出る。敵か味方かハッキリしない、ゴルドニアファミリアの帆船の甲板の上へと。
蹴り飛ばされた扉があったところの向こう側。出迎えるのはプラスチックが焼ける嫌な匂いを取り払う爽やかな潮風と優しい夕焼けの光。尻の傍、ジャケットの端。そこに火をつけ走り回るリックの姿。船尾の方にはフリントロックピストルとカットラスを手に、身構えるゴルドニアファミリアの美男美少年の姿がある。だが、すぐに攻撃しようという感じではない。
「あぢぢぢぢぢっ! けっ…ケツがぁッ! アツゥ――」
「ステイ!」
「オウッ!」
花子は立ち上がったところで火を消さんとし、尻を一生懸命叩くリックの尻をブーツの底で押すように蹴り、空気を遮断。火を消してやると、彼の首根っこを掴んだ。彼女がリックを今引き込まんとする先には、今自分たちが這い出てきた…帆船の甲板の上に頭から突き立つ、荷台の途中から先が無くなっている軽トラックがある。
花子とリックはそれを背にし、自分達とゴルドニアファミリアの船員たちを隔てる障壁として、軽トラックの残骸を利用する形となった。
ほんの一瞬だが、長い時間に思える…その後に訪れる束の間の静けさは、花子に考える時間を与えた。…今、ゴルドニアファミリアを味方とするべきではないと。そう思い至らせる程度には。
「――ケツがこんがり焼けるところだった…サンキュー花子。助かったわ」
「はいはい、解ったから警戒しなさいよね」
とりあえずは安全圏。ゴルドニアファミリアの船員たちが敵だとしても、すぐには攻撃は出来ない…時間的な猶予のある環境。そこに身を置いたリックは、花子に礼を述べながら、しきりに己の尻のあたりに手を当てる。触診するように、何度も…撫でるように。気を張る花子の隣で。
「つか、お前マリグリンヒットするつもりだったのか? 仕事なんだから私情は持ち込むなよな」
「アレは…言葉の綾よ。掛け声的な。5万ゴールド轢き殺すわけないじゃない」
「お前だったらやりかねないという謎の信頼感を持っている俺が、戦々恐々することを忘れないで欲しいもんだ。…良かった。ズボン焼けてケツ丸出しになるかと思ったけど、大丈夫そうだわ。…大丈夫だよな?」
サッと触診が終わった後、リックは小言交じりに心底安心したように言う。だが、その顔も長くは続かなく、すぐに眉を寄せた。目視と言う確実な確認の仕方が出来ていないことに対する不安感から、今さっき自分がした触診の結果に…懐疑が芽生えたようだ。
…平和な時であれば楽しい反応であるが、今は非常事態。尻が見えていないかと言う…リックの懸念も。人としての尊厳に関わる大事なものには違いない。けれど、普段の会話のように軽い印象を受けるリックの様子。それを花子はジト目で見据える。不満を表明するかのように、物言いたげに。
「何呑気にしてんのよ。今敵か味方か解んない勢力のど真ん中だってのに」
「うーん、味方だったらいいなぁって思うけど…敵だろうなぁ。セラアハトの話聞く限りマリグリンの情報はゴルドニアファミリアの中でも部分的にしか流れてないはずだし、知ってるとしたら他から情報提供受けたと見て間違いねえだろうよ」
「私たちに対する反応見て解っちゃいたけど…やれやれね。と言うかそう思ってるんなら余裕ぶってんじゃないわよ」
花子は運転席にて燻る小さな炎が焼く、ダッシュボードやシートの焼ける臭いに顔を顰めつつ、横転した軽トラックのルーフパネルに背を預けながら、顔を少しだけ覗かせて…じりじりと迫ってくるゴルドニアファミリアの美男美少年たちを一瞥。呑気にしながらも右手で細身の剣を抜き、臨戦態勢となりながらゴルドニアファミリアの紋章が描かれた帆がはためく、マストの上を見上げるリックと会話を続ける。
「つーかマストの上からこっち見えてんじゃね? 銃で撃たれそう」
「ハン、あんな遠くからフリントロックピストルで当てられるもんですか」
「おーい、さっきも聞いたぞ。似たようなこと。その直後に砲弾でふっ飛ばされてこうなってんだが」
「うっさい。良いから敵の出方注視しなさいよ。近付いてきた手ごろな奴を人質に取って逃げるの。出来たら弱そうなヤツ」
大凡味方を出迎える感じではない、慎重な動きで包囲するように動くゴルドニアファミリアの美男美少年たちの様子を見つつ、花子は左足の裏を軽トラックのルーフパネルに置いて左膝を水平に立て、スカートを撫でるようにしてたくし上げる。ガーターベルトの下にて太腿に巻かれた黒革製の投げナイフホルダーが露わになり、それに差し込まれるようにしてセットされている、細長い華奢な投げナイフを3本左手に取り、指と指の間に通すように握りしめた。
花子がナイフを抜き、リックが腰から細身の剣を抜き放った時…船舶の後方部からやってくる木製のボートが1隻。帆船に積まれている島に上陸するための小さなそれは、乗員が漕ぐオールによって進んで僅かだが音を立てる。風が吹き抜ける音と岸壁に波が打ち寄せる音。軽トラックが燃える音。時折聞こえる海鳥の声。それぐらいしか聞こえる物のない甲板の上にいる花子とリックの耳にも、微かではあるがボートが進む音は届いた。
「いいね。脱出用のボートを運んで来てくれた気の利く奴がいるみたいだ」
「後は私たちの盾になってくれるお利口さんが来てくれたら完璧ね。抜かるんじゃないわよ」
帆船の船体側面に取り付けられたロープ梯子を何人かが登ってくる、微かに縄が軋む音。靴の先が船体を蹴る音。それらは敵の増援が来た事をリックと花子に理解させる。その事実は、2人の表情を絶望の色に染め上げる…なんてことは微塵もなく、その口元に攻撃的な笑みを浮かべさせた。
最中にも人の足音すら聞こえなかった膠着状態だった甲板を踏み、近付いてくる複数の足音。花子の握るレイピアに一筋の赤い稲妻が走り、リックはいつでも飛び出せるように身構える。敵地のど真ん中。絶体絶命にも思える逆境の中で、守りではなく…あくまで攻め。奪いに行く心をその胸に。獲物が来るのを虎視眈々と心待ちにして。
*
ほどほどの小汚さ、ボロさが良い味を醸す、雑居ビルの並ぶ島。高い建物でも階層は3階建てまで。電光看板が乱立し、犇めくように店が密集する場所。賑やかで活気のある…どこかノスタルジーを感じる街並みは、夕日の色に染め上げられて、その雰囲気を強めていた。
そんな商店街がまんま乗っかった島にて、まだ崩壊せずに残っている秩序の中…2つの影が走り抜ける。そこそこの人の密度の通りを、各々の目的のために。己の行く先を遮る人々を遠慮なく押しのけて。
「粘りますね…」
人込みの合間に見えるマリグリンの背をその灰色の瞳に、シルバーカリスは唸った。真直ぐ逃げるわけでもなく、曲道と言う曲道に入り、なんとかこちらを撒こうとするマリグリンの動きを見据えて。そこからは何とか隠れてやり過ごそうとする魂胆が窺える。
お互い一歩も引かぬ、互いの距離がなかなか離れず近付かない状況。着実に失われつつある体力。それは確かにマリグリンを蝕んでいて、彼の顔を弱気な物にさせていた。振り返ればその瞳に映る、いまだに体力尽きる様子もないシルバーカリスの姿も相まって。しかし、そんな彼が再び進行方向に視線を向けた時――とある人影が目に映った。腕章をつけた学生姿のプレイヤー達が。
「お巡りさん! 変な人に追わているんですッ! 助けてくださいッ!」
風紀委員の腕章をつけた学生服の集まり。5人ほどだろうか。それらの背へと隠れ、マリグリンは己を追っていたシルバーカリスを指差した。聖乙女学園でセラアハトにされたように、他を己の味方とするべく。
「任せたまえ!」
マリグリンの言葉に風紀委員は応じ、訳も聞くことなくシルバーカリスの方へと向き直って身構える。己の手を汚さずに敵を排除する快感。それを存分に感じた風なマリグリンは、風紀委員達が壁の如く阻む向こう側に見えるシルバーカリスへと向かって勝ち誇ったように微笑し、己の前髪を人差し指で払うと再び走り始めた。
「…やってくれますね。捕まった時吠え面かいても知りませんよ」
シルバーカリスは口角を上げ、口元に笑みを浮かべると弁解しようとすることもなく、腰にあるサーベルを抜き放つ。彼女が見据えるのは風紀委員の集まりではなく、その向こう側に見える、小憎たらしい微笑をその顔に浮かべ、走り出すマリグリンの後姿だ。
「大人しくしなさーい! 逆らうなら学園島永久追放もあり得ますよー!」
――ここで風紀委員達に足止めされたら見失う。強行突破するしかない。
制止を呼びかけつつ己の行く手を阻む風紀委員。それらと接触する前にシルバーカリスは左手には蓋を緩めたポーションを。右手に握ったサーベルを頭の上に高々と振り上げ、斬りかかるようなそぶりをわざとらしく見せて全力ダッシュ。彼らはそれに反応し、上から来るであろう攻撃に身構えたが、シルバーカリスが左手を横に振った瞬間、薄青い液体が顔にかかったことによって目を閉じてしまった。
「なんか撒い――!」
「ツメタァイ!」
「ペッペッ、口に入った! …あれ? 美味しい?」
「めっ…目が~!」
「フンギャッ!」
騒ぐ風紀委員達。一瞬奪えた視界。その隙をついてシルバーカリスは正面に居る1人の風紀委員の顔面目掛けて飛び、吹奏楽部とは思えぬ美しく、キレのあるフォームで膝蹴りを顔面食らわせた。その一撃は、攻撃対象の身体を微かにだが上方に上がらせ、クリーンヒットした事もあってやすやすと意識を断ち切り、攻撃を受けた風紀委員は大の字に仰向けに倒れた。
「すみませんね。本当に」
秩序を破壊しているという自覚。罪悪感からか、シルバーカリスは懺悔の言葉を口ずさみながらも膝蹴りを食らった風紀委員の上を飛び越え、細い路地へ入ろうと曲がるマリグリンの後を追う。最中、頭の中にセラアハトの顔を思い浮かべ、裾に付いたブローチを叩いた。
明るい色のタイルが敷かれた通りから室外機と建物の外へ突き出るパイプなどが並ぶ、薄暗く、全体的に灰色の路地裏へ。マリグリンが逃げようとする向こう側には、他の通りに通じているであろう光差す出口が見えるが、間も無くそこに人影が立ちはだかった。裾にぼんやりとした光を灯しながら。
「よくやった。シルバーカリス。――さぁ、マリグリン。鬼ごっこはお終いだ」
その人影は右手にフリントロックピストルを構え、ゆっくりとした足取りで、立ち止まったマリグリンへとゆっくりと歩み寄る。――その声の主は紛れもない…セラアハトだ。口ぶりからして恐らくシルバーカリスから何らかの合図を受け取り、回り込んだのであろう彼の姿に、マリグリンは絶望感を感じながらも酷く荒んだ笑みを浮かべる。歯を見せ、獰猛に。諦めとは程遠い表情を。
「セラアハトさん、とりあえず捕まえてください。風紀委員の人達がすぐ来ると思うので」
「マリグリン、膝立ちになれ。逆らえば脚を撃つ。今の僕の気は長くないぞ」
セラアハトはシルバーカリスからの言葉を聞き、頷きながらマリグリンへとゆっくりと迫り、背後へと回る。――人1人が通れる程度の幅しかない路地裏に追い詰められたマリグリンは何かないかと瞳を動かし、周囲の様子を見ていたが、彼は間も無く膝立ちになった。
――塩パグ学園島は広い。逃げるチャンスならいくらでもあるさ…。
そう腹の中で呟いたマリグリンの目論見通り、次の瞬間…シルバーカリスの後方から複数人の風紀委員達が現れた。
「あそこにいたぞー!」
響く風紀委員達の声。シルバーカリスは焦った様に目を見開き振り返り、その後でセラアハトとアイコンタクトを取り、視線の先に居る彼は頷いた。
シルバーカリスは室外機とパイプ…冷風、温風、冷水、温水、電気の配管などだろうか。それらが所狭しと走る壁を上っていく。室外機の上に乗り、飛んでパイプを掴み、よじ登ったりして。風紀委員達を振り切ろうと。
「逃げたぞー! って…どうすんのアレ。なんか屋上まで行けちゃいそうじゃない? あの子」
「感心してるんじゃないよ! お前も上るんだよ!」
「バカ! 雑居ビルの中上がって屋上に出ろ! それで先回りするんだよ! 後続部隊は金髪の事情聴取! ハイ! 行動開始!」
「イエッサー!」
スルスルと止まることなく壁を上って行き、建物の屋上の向こう側へと消えていくシルバーカリスを見、何やら各々やんややんやと騒いでいた風紀委員達が散って行く中…建物と建物に挟まれてとても狭く見える橙色の空を…何かが遮り、路地裏への明かりに少しばかり陰りを齎し――セラアハトは瞬時に反応。マリグリンの首根っこを捕まえて――
「グエッ!」
容赦なく引っ張って、マリグリン目掛けて降ってきた何かから思いっきり距離を取り、マリグリンが潰れたカエルの様な苦しそうな声を上げ…間髪入れずにセラアハトは今着地音が聞こえてきた場所へ向けて銃口を向けた。その時、その空色の瞳に映るのは…どこか既視感のある人影だった。
「惜しかったんだけどなぁ」
リックより少し年上であろう女が呟く。丸メガネと黒いナップザック。地味な白Tシャツとジーパン姿の、ローツインテールの彼女の髪色、瞳の色は…紛れもない。地下遺跡で見たマゼンタ色。そのサイドにいるのはミリタリーファッションの浅黒い肌の坊主頭の男と、彼と同じようなファッション、背丈、体格の白い肌の坊主頭の男。各々手には現代的なデザインの大振りなサバイバルナイフを持ち、マリグリンが居た辺りにその刃を向け、屈んだ状態から今立ち上がろうとしている。
――反応できなければマリグリンは殺されていた。地下遺跡の時と状況が変わっているのか…?
腑に落ちなく思うセラアハトであったが、気にして居られたのはほんの一瞬。フリントロックピストルの銃口が、自分から逸れたことを目視で確認したマリグリンがセラアハトの手を振り払い、路地裏の出口の方へと向かい走り始めた。その時振り返ってセラアハトを見るマリグリンの表情は…その立場から、現状セラアハトが自分を撃てない事を見越したような、何とも小ばかにしたような笑みだった。
「今の見たか? そいつらは俺を始末するつもりだ。ここで俺を撃てば目的は果たせなくなるぞ! だから撃つなよ!」
先ほど自分の命を守ったセラアハトの行い。そこから彼の目的が自分に死なれては困る物だと理解できたマリグリンは、健気に任務を果たそうとするセラアハトの足元を見、図に乗ったような発言をしつつ、自分を追い始めたセラアハトの背後に見える3人組。彼らが咄嗟に投げたサバイバルナイフを躱し、路地裏から出、通りを曲がって死角に入っていった。
当然セラアハトもその後を追い始める。尻に鉛玉でも食らわせてやろうかと言う、獰猛な感情を理性で押し殺しつつ、心底ムカついたような顔をして。その最中、建物の上方から何か慌ただしい声が聞こえてきた。
「もう逃げられんぞ!」
「暗黒の世界に強制送還してやるッ! 覚悟しろッ!」
「お喋りしている時間は無い…突っ込めー!」
セラアハトが路地裏から出、広いメイン通りと思われる場所へとマリグリンの後姿をその視界に収めた辺りで、騒ぎ声の発生源が通りのサイドにある、建物上方であることに気が付く。背後に迫る3人組の事もあって、気にしては居られなかったが、マリグリンとセラアハト、地下遺跡で出会った3人組が通りに出たところで、その喧噪に武器と武器を打ち合わせるような音が混じり始めた。
いろいろと同時進行で進む中、セラアハトは顔を横に向けて地下遺跡の3人組の方へと顔を向け、口を開いた。無駄だと解りながらも、もしかしたら手を引かせることが出来るかもしれない。そんな儚い望みを胸に。
「お前ら…良いのか? マリグリンに何かあったら証人として、洗いざらいある事ない事世間に暴露するぞ?」
「…その声、地下遺跡の…!? 女装男子可愛い!」
「うるさいッ。これには訳が…いや、僕の事はどうでもいい。世間の目が怖いなら引けと言っているんだ。NPCの殺害はプレイヤー間ではタブーなんだろう? …というか地下遺跡で見た時とキャラ全然違うな。変な物でも食べたか」
「いっ…いやぁ…あの時は仕事モードと言いますか何と言いますか。そういう感じで気分が乗っていたもので…。あと…仕事だし手を引くのは無理かなぁ。いやー、いろいろあって私たち今立場ヤバくってさぁ」
上方から聞こえる戦闘音は進行方向へと進んで行き、セラアハトは背後の3人組に距離を縮められ、セラアハトとマゼンタ色の瞳の女が会話をする。返ってくる言葉や雰囲気は地下遺跡で見たものとはまるっきり別物。塩パグ学園島の住人に近しい雰囲気を感じさせる…親しみやすいものだった。こちらに危害を加える雰囲気も様子もなく、しかし、こちらの要求を飲むつもりもない風に。その最中にも移動し続ける建物上での喧噪は激しさを増していく。
「こいつゥッ…! あっ、やめっ…!」
「どっせーい!」
「わっ…わあああッ!」
直後、上方から聞こえていた騒ぎ声がより一層激しい物となり、聞き覚えのあるハスキーボイスの掛け声の後、間の抜けた悲鳴が聞こえてきた…と思えば、その音源がセラアハト達の行く先へと振ってきた。野太い声を上げ、丸い身体に付いた手足を翼のようにバタつかせて。
「空から丸い学生服のおっさんがぁッ――!」
「ぶひぃッ!」
横に広い学生服の男。風紀委員の腕章をつけたそれは地下遺跡の3人組のメンバーである、浅黒い肌の男の上へと目掛けて落ちてくる。浅黒い肌の男は何か言いかけながら、振ってきた男と接触。下敷きにされて顔面から商店街の暖色のタイルの上にダイブした。
「ピータン!」
マゼンタ色の瞳の女は振り返り、横に広い学生服の男をその背に乗せたまま動かない浅黒い肌の男、ピータンを呼ぶ。彼の身を案じたように、どことなく悲痛な声色で。その彼女の視界の端に映る白い肌の男は首を横に振ってみせた。
「ラズ子、ピータンは諦めろ。いくら奴とてあんな丸い男の下敷きになったとあっちゃあ…」
「かたゆでたまごマン…いや、なんか立ち上がろうとしてません? あの人」
ドライな物言いで任務を続行しようとする白い肌の坊主頭の男、かたゆでたまごマン。彼の諦念の伺える言葉に反し、マゼンタ色の瞳の女、ラズ子の瞳に映るピータンはポーションを咥え、己の上に乗る丸い男を押しのけて立ち上がりつつあった。彼のいる向こう側には騒ぎを聞きつけて集まってきた風紀委員達の姿がある。
かたゆでたまごマンはラズ子の言葉に反応し、彼女が見る光景を横目に捉え、その目を丸くした。
「あっ…ほんとだ。あー…。でも丁度いいかも。追って来てる治安維持部隊片付けて貰おう」
「そーですね。下手打ったピータンが悪い。私とかたゆでたまごマンは悪くない」
かたゆでたまごマンもラズ子も。満場一致で躊躇うことなくピータンを見捨てることを決定。ぐったりする丸い男を蹴って転がし己の片脚の上から退かすピータンから、再びセラアハトの、男にしては華奢な背中の向こう側に見える、マリグリンの背中にへとピントを合わせた。
シルバーカリスとセラアハト。マリグリンの3人との間で行われていた逃走劇は、いつの間にか参加する人数が多くなったことにより、大きな人の流れとなる。大部分はこの騒ぎを起こす首謀者を事情聴取をするべく追ってくる風紀委員たちであるが、関係ない人々にとっては迫りくる人の集まりには変わりなく、マリグリンがいく先ではプレイヤー達が彼らのために道を開ける。戸惑った目をし、良く解らない騒ぎの中心人物たちをその目で見て。
当然、人が掃けることによって走りやすくなり、商店街での逃走劇は純粋な足の速さがモノを言うフェーズに差し掛かる。身長が高いマリグリンに対する追い風になり得る状況となったが、その条件に利するのは彼だけではない。最も頭角を露わするのは…かたゆでたまごマンだった。
「いけー! かたゆでたまごマン! マリグリンをヒットしろー! 今日の晩御飯は豪勢に行こーう!」
「まかせろい! 今日はちょっと良い酒飲むぞー!」
しばらく走り、セラアハトと並走する形となったラズ子はあと少しでマリグリンに追いつきそうになる己の同僚に向かい、呼びかけた。かたゆでたまごマンも勝利を噛みしめ、応えたが――
「させるかぁッ!」
ラズ子の隣にいたセラアハトが吼え、それと同時にその右手に握ったフリントロックピストルをかたゆでたまごマンの背に向け、引き金を引いた。少量の火薬が爆ぜる少しのタイムラグの後、発砲音と共に弾丸が発射される。
――走りながらの発砲。最新鋭の銃でもまあ当たらないであろう体勢からの射撃であったが、セラアハトの執念か、マリグリンの悪運か。弾丸はかたゆでたまごマンの左尻へと着弾。アスリートの様な綺麗なフォームで走る彼の動きを止めた。
「ぐおっ! ケツがあッ!」
「よしッ!」
致命傷とまではいかないが、歩行するにあたって致命的なダメージが齎されたことによって、かたゆでたまごマンは倒れ…彼は間も無く走りながらも歓喜の声を上げるセラアハトの瞳に映らなくなった。その時を見計らったかのように、彼の隣にいたラズ子が軽くジャンプし、セラアハトの顔面目掛けて回し蹴りを放つ。
「くっ…!」
空を切り裂く切れの良い回し蹴りは、なんだか地味でラフなファッションのラズ子がするにはギャップを感じさせるほどのもの。セラアハトは何とか身を低くして回避したが、走る姿勢を崩したことにより立て直すための時間を要することとなって速度が鈍り、着地し走り始めたラズ子にリードを許してしまった。
「ありゃ、避けられちゃったか。油断させてたつもりだったんだけどな」
「ふんっ、競争相手と慣れ合うほど僕は甘くはないさ」
強かなラズ子。鼻から警戒していたセラアハト。彼らの視線の先に居るマリグリンは十字路に差し掛かり、それを曲がった。直後にその先から人の頬でも殴りつける、ほどほどに鈍い肌と拳がぶつかる様な音が聞こえた。
「ギャッ…イタァイ! 何をするんだ!」
「悪いね。借りるよ。永遠にね!」
男の悲痛な叫びとマリグリンの聞き心地だけは良い声が聞こえる十字路に差し掛かり、マリグリンが曲がったその先にラズ子が目をやれば、自転車に跨り、こちらをあざ笑う様に眺めながらペダルを漕ぐマリグリンの姿が映った。彼の傍には頬を抑えて床に這い蹲り、涙目になっている学生服の男の姿。何があったかはすぐに理解できたが――それはラズ子にとっても、セラアハトにとっても…至極どうでもいいこと。マリグリンが文明の利器を手にした事実にラズ子は焦り、その後にやってきたセラアハトはギリリと歯を食いしばった。
「シルバァーカリィース!」
周囲には自転車などは無い。このまま逃げ切られる。セラアハトは大声で己の仲間に呼びかける。確かになりかけた負けを拒絶するかのように。その魂の叫びが…思いが届いたのか、マリグリンが行く通りに面した建物の屋上が騒がしくなり始めた。
「あっ、立ち止まった…なんかサーベル構えてますよ!?」
「おいー、お前行けよー」
「えぇ~…斬られて蹴落とされるの自分嫌ですよぅ」
「何のために奴を追っていた――うわッ! こっち来た!」
先ほどよりも大分覇気のない会話が聞こえた直後、悲鳴のような声が少し聞こえ――
「やめろー! 死にたくなーい!」
マリグリンの行く通りに面した3階建ての雑居ビルの屋上辺りから、風紀委員の男の物と思われる悲痛な命乞いの後、その声を発していた風紀委員が蹴り落とされたのをきっかけに――植木鉢、バケツ、スタンド灰皿…果てには鉄パイプとプラスチック板で出来た簡素なベンチ等が通りに降る。マリグリンの行く先目掛けて。当然狙いを逸れた物は道行く通行人の無防備な頭上へと落下していく。
「フン、そうそう当たるものかよ!」
次々と蹴落とされる物、風紀委員達。後者の叫び声と落下する物によって頭を強打する道行く通行人たちの悲鳴が木霊す通りの中、肝心のマリグリンは巧みな自転車さばきで己へと向かって降ってくる物や人を躱し、その射程外へと進んで行く。もう勝利を手にしたかのような笑みをその口元に。
――僕の負けだ。
セラアハトは遠のくマリグリンの背を見、無意識に…心の奥底で呟いて、その脚を止めた。周囲はまだシルバーカリスの手段を択ばぬやり方により騒がしい筈であったが、セラアハトの耳に届くのは煩いほど高鳴る心臓の鼓動と、自分自身の荒い呼吸だけ。時間を置いて頭の中で敗北を理解した時、悔しそうに歯を噛みしめた。
両膝に手を付き、呼吸を整えながらも上目遣いでマリグリンを睨む。彼の遥か後方にはいまだに走ることを辞めないラズ子の背が見え、彼女とマリグリンの行く先にはT字路。突き当りには幌をアーチ状にし、荷台に被せた軽トラックが1台。商店街の島の出口に近いのか、分岐した通りの先からは、微かであるが波の音が聞こえている。
――あの鉄の箱が使えれば可能性がある…?
セラアハトはT字路、とんかつ屋の前の突き当りにある軽トラックに目を付け、思い…再び駆け出す。差は大きく開いているが、マリグリンがT字路のどちらかの方向にあるかもしれない橋の方へと行ってくれたのであれば、軽トラックで追いつくことは容易にできる。もちろん、自分でも都合がいい想定のもとでの考えだということは理解しているつもりだった。軽トラックがすぐに動かせること。ラズ子が軽トラックを無視すること…マリグリンが橋の方へ逃げてくれること。そのすべてが都合よく揃ってくれて漸く実現できることだ…と。
マリグリンはそろそろT字路に差し掛からんとしている。スピードをそこそこに抑え、勝ち誇ったように自分を追ってくる者たちをチラチラと伺いながら。だが、その時…T字路突き当り。1階がとんかつ屋の雑居ビルの屋上に2つの影がゆらりと現れた。――黒と紫のドレス風の衣類に身を包んだ少女とスチームパンクファッションを着こむ少年。それは紛れもない…花子とリックの姿だった。
余裕をかましていたマリグリンが顔を前に向け、今、T字路に差し掛かった時…彼へ目掛けてリックが飛び掛かる。3階建ての雑居ビルの上から、躊躇う様子もなく。右手に細身の剣を握って。
「マリグリン、会いたかったぜ!」
「なにィッ!?」
ギリギリのところでリックの存在に気が付いたマリグリンはブレーキをかけて止まり、間一髪のところでリックの間合いから外れたが、着地したリックは床を蹴り、そのままマリグリンへと飛び出した。細身の剣を手に、剣先を彼の脚へと向けて――だが、その剣先はどこからともなく飛んで来た、緑色のブリキの塵取りを貫いたことによって狙いが逸れた。
「さっせなっいよーん」
「チッ…こいつ、地下遺跡の…林檎ちゃんか!?」
塵取りを投げた女、ラズ子は塵取りとセットで置かれていたのであろう竹箒を手に、リックに殴りかかり、リックは其れを潜る形で躱す。…おそらく他の島、エリアにも仲間がいるのであろう。それも近くに。目標を手中に収めるよりも競争相手の妨害に舵を切ったラズ子の行いは、リックとその仲間たちに察させた。
そのごたごたの最中にもマリグリンは自転車を必死に漕ぎ、建物の切れ目と橋、その向こうに広がる橙色の夕焼け空が広がる場へと進み始めている。彼の背後ではリックが戦闘技術の差と得物に刺さった塵取りを外すのに手こずるハンディに、ラズ子に圧倒されていて、遅れて屋上から飛び降り、軽トラックのルーフパネルの上に着地して投げナイフを3本、マリグリン目掛けていっぺんに投げる花子の姿もある。そのうち1本が自転車を立ち漕ぎするマリグリンの尻に当たったが、刃ではなく柄頭だったようで彼の尻肉を叩き、軽く揺らす程度のダメージにしかなりえなかった。
「うっうおおおおおおっ!」
マリグリンは吼える。余裕を見せつけた代償として齎された窮地を今脱さんとし、必死にペダルを漕いで。けれど彼に構っていられるものはもはや場には存在しなかった。ラズ子を相手に苦戦を強いられ、竹箒で脇腹を叩かれるリックに、その仲間たちは加勢せざるを得なくて。
「クッ…! やっぱつえぇなこの野郎ッ…!」
竹すら切り裂けない、現実の刃物と同じ程度の切れ味の細身の剣。ようやっとブリキの塵取りから抜いたその鈍で、ラズ子と対峙するリック。相手はどこか大きなギルドに飼われている精鋭だ。攻撃も竹箒で受けられ、良いように攻撃される。武器のリーチのせいもあるだろうが、リックの攻撃は掠りもしない。だが、1体1の戦いなどそうあるものでもなかった。今この場においても。
「おっと! あぶなっ!」
無言で雑居ビルの屋上から飛び降り、サーベルをラズ子目掛けて降り降ろすシルバーカリス。ラズ子はその一撃を身を仰向けに逸らして間一髪のところで躱し、時間差なく突き出される花子のレイピアの腹を手の甲で咄嗟に払う。刃のあるレイピアを素手で払ったことにより、浅くだが切り傷が出来て痛みを感じはするものの、ラズ子は動きを鈍らせることなく、竹箒を放ってバックステップし、3人から距離を取った。
「4対1はさすがに厳しいや。撤退撤退」
ラズ子は肩を竦めて言うと、いつの間にかその手に握っていた火の付いた導線が口から伸びる丸い小さな袋を花子たちの方へと放った。
「グレネードォ!」
シュウシュウと音を立てて火花が散る導線。それを見た花子は混乱を招くようなことを声高々に言って身を引くし――
「レモネード?」
シルバーカリスは聞き間違えた風に小首を傾げ――
「えっ、嘘だろッ!? チィッ、南無三!」
リックは集まりつつあった野次馬たちと同じく、花子の言葉を真に受けて地面へと伏せた。
しかしその後で大きな爆発音などは聞こえては来ず、代わりに…シュウシュウと言う音とともに白い煙が辺りを満たし始めた。少し先も見えなくなるほどの煙が。そこでラズ子が何を投げたのか理解したリックは立ち上がり、なんだか申し訳なさそうな顔をしながら立ち上がる花子を見――
「煙玉やないかーい!」
ノリツッコミを入れた。花子の肩を軽く、ぺしっと手の甲で叩いて。
「そのっ…ごめんなさい。1回やってみたかったの」
花子は申し訳なさそうに視線を斜に逸らし、釈明。その後でセラアハトがやっと3人の元へと到達した。視界が効かなくなるほど濃くなる白い煙の中に。
「お前らッ、遊んでいる時間は無いぞ! さっさとマリグリンを追う手立てを見つけろ!」
がなるセラアハト。せっつかれるゴルドニアの音楽隊。騒ぎを聞きつけ方々から集まってくる風紀委員達。混沌の中心。濃い煙の中、花子が視界が効く範囲で見まわせば、とんかつ屋の前に止められた軽トラックに真っ先に目が行く。しかし、扉には鍵が掛かっていて窓ガラスの向こう側に見える運転席にも鍵など見当たらない。
――軽トラックは使えない。
花子が呟き、諦念にも似た気持ちを抱きかけた時…幌の掛かった荷台から降りてくる四足歩行の影を見つけた。恐らく煙で驚いて出てきたのであろうそれは…肌色の大きく、円筒状のわがままボディ。キュートな巻き尻尾。頻りにフゴフゴ言う、特徴的な鼻を持つ…立派な豚だった。それを見た瞬間、花子の脳裏に電撃は走った――
「もうこれしかないッ…自転車に四駆が負けるわけないわ! さあ、今こそとんかつになる運命を超越する時よ!」
半ばヤケクソに花子は豚へと跨ると、その腹部をまるで馬にするかのように踵で軽く蹴った。そしてそれをきっかけに、豚は通りの綺麗なタイル張りの床を蹴り、走り始めた。従順な馬のように、真直ぐ…煙の向こうに広がっているであろう橙色の世界と橋へと向かって。
満ちる煙、集まる野次馬。前者を切り裂き、後者をふっとばし…現れたるは2匹の豚。先を行く豚の上にはドレスのフリルをはためかせる花子。その後ろを行く豚の上にはクリーム色のジャケットの端をはためかせるシルバーカリスがいた。
豚は走る。とんかつ屋の前から。運命の終点から連れ出してくれた花子とシルバーカリスを乗せて。命の輝き宿る健やかなる走りと共に、夕焼け空の色に染まる橋の向こうへと。やがてその背中は消えていく。まばゆくすら見える橙色の世界の中へと。
ピータンは真っ黒い卵ですね。中国料理の。あまり馴染み無いかもしれませんが。黒人をののしっているわけではないぞ! 肌色由来のハンドルネームだが!
あと豚が屠殺場を介さずにとんかつ屋にダイレクトアタックしている理由は、ゲーム的な感じで食肉処理できるからだ。この世界がゲームなのかって? それは後々語られるさ…この調子で行くと何時になるか解らんがな!