放たれた猟犬達と新居へやってきた客
厚い雲。いつもは広く見える青い空にそれらが複数浮かび、青と白の彩りを成す。それは時折明るい太陽へと被り、その光を遮断することによって若干だが地上を暗くさせ、それはまた趣のある30階層の顔を見せてくれる。穏やかであった昨日よりも強い風、波。それらが広がっている青いその世界の一面を。
始まりの島。ゴルドニア島の住人たちがそう呼び、今や梅酒愛好会に占拠されて発展の限りを尽くした島。バルコニーや屋上に緑の生い茂るビルが並ぶ、科学と自然が共存する場所。外の世界から30階層にやってきた者が先ず最初に踏むその地に、昨晩話を纏め、依頼を受けたゴルドニアの音楽隊はやってきていた。…パーティーに自分たちの依頼主、セラアハトを加え、薄れゆく朝の爽やかさがわずかに残るその場に。
「よかったわね。愛しのリックと一緒に居られて」
向かい側から強く吹き付ける潮風。それに艶めく濃紺色の髪を靡かせながら花子は己の隣を行く、青髪の美少年を横目に捉えて茶化すような笑みを浮かべていた。だが、一見ただの冷やかしにも思える彼女の心内。その真意を見透かしているセラアハトは前を向いたまま、淡々と進みつつ口を開く。目的地に向かう道中差し掛かった緑豊かな、木漏れ日が白い石畳の上にぽつぽつと落ちる公園の中にて。
「マリグリン捜索中の経費は全てこちら持ち…と言う条件が無かったら僕はここには居なかった。財布をお前の様な奴に握らせて野放しにするほど僕は愚かじゃないぞ」
花子の魂胆。思惑。それを難なく見透かしたセラアハトの視線の先には今居る緑豊かな公園の切れ目。その向こう側に見える近代的な街並みがある。
「それで、お前らの持っている情報源と言うのは確かなんだろうな?」
「この島を実質支配下に置いた組織のトップよ。マロン達から離れた後のマリグリンの目撃情報を持っていると見て間違いないわ。アポも取っておいたし、話ぐらいは聞いてくれるはずよ」
「なるほど…しかしこの島を支配下に…か。外の世界の連中は本当に好き勝手やっているな。わが物顔で」
「自分らの土地だって言うなら文句言いなさいよ。PTとかに」
「ふん…僕がゴルドニアファミリアのボスならそうしたさ」
仕事の話をするセラアハトと花子。その後ろで自分たちのペットたちについて話すリックとシルバーカリス。間も無く一行は緑豊かな公園から出、雑居ビルの立ち並ぶ都市部へと踏み入れる。その区画の中にある、一つのビル。何の変哲もないそれの正面玄関から自動ドアを経て、それは小さなエントランスホールから狭苦しいエレベーターへと乗り込んだ。
「マリグリンがPTの庇護下にあったらどうする?」
エレベーターの操作パネル。11階まであるそれの11のボタンを押した花子に向け、リックは尋ねる。どことなく結果を見透かした風な、いまいち気乗りしていない様子で。
「そうなったらお手上げね。個人的にはその可能性の方が高いと思っているのだけれど」
閉まり行くエレベーターの扉の方に視線をやりつつ、花子は思ったこと。現実を見据えた意見を返す。それは傍から聞いているセラアハトにとって面白い物ではなく、彼は片眉を吊り上げ、その顔を顰めた。間も無く扉は閉じられて、エレベーターが上昇するときに感じる妙な重さ。それを一行に微かに感じさせながらエレベーターは上昇を始めた。
花子とセラアハトの話を傍らで聞いていたシルバーカリスは腹部の前に腕を組み、片肘を掌の上に立てて、対の手で己の顎に触れながら視線を斜にした。マリグリンがPTの庇護下に居た場合の突破口。対策。それについて考えたように。
「でもマロンちゃんが出任せ言って取引に応じたってことはPTに隠したい何かがあると見ていいと思います。個人的に接触できればゴルドニア島に潜むPTと内通する人たちの情報を聞き出せるかもしれませんよ」
エレベーターの扉の上部。そこに取り付けられたパネルは1から順に上がっていく様子。それを見上げていたリックの視線がシルバーカリスの横顔へと向いた。シルバーカリスの案。それを聞いてパッと思い浮かんだ問題点を胸に。
「PT側の人間なのにゴルドニア島に潜伏している仲間売るか? 普通」
「んー、たぶんですけどお金握らせるか、マロンちゃんとの取引の内容を脅迫材料にすれば情報ぐらいは出すと思います。マロンちゃんからの話を聞く限り、マリグリンさんは組織に忠誠を誓う…なんて殊勝な性格はしていなくて、自分の利益のためなら仲間売るのも躊躇いなさそうですし」
「あー…言われて見りゃそうかも。つか可愛い顔してえげつないこと思い付くな。お前」
「えへへ…それほどでもぉ」
えげつないシルバーカリスの思い付きに若干引くリックとなんだか照れたように笑うシルバーカリス。それらの会話が終わった途切れた時、扉上部のパネルは11に点灯し、ゆっくりと扉は開かれた。
扉の前。エレベーターが行き着く辺りは左手に屋上へと続く窓がある、灰色の無機質な空間であるが、その横に長細い空間の向こうにはガラス張りのドアが一つ。その先にはクリーム色の壁紙、ベージュの床。淡い色のオフィス家具が並ぶ、明るい空間がそこには広がっていた。花子を先頭に一行はその扉の向こうへと踏み入れる。
…室内の備品は充実しており、ウォーターサーバーなんかも置いてあって結構繁盛しているようだった。少なくとも1階層。そこの空き地に業務用テントを立てて集会していた時とは比べ物にならないほどには。一昨日見たホバークラフト、百貨店。それらを見た後だから今更驚くようなものでもないが。
「いらっしゃい。ささ、座ってくださいな」
シンと静まり返った人の気配のないその室内の奥から、緑と黒の袴姿の少女が姿を見せた。沢山のおやつが乗った皿と湯呑5つが乗ったお盆を両手で持って。花子はそれに口元に笑みを浮かべて応え、リックは小春がなんなのか知らないため、借りてきた猫のようになって頭を軽く下げ、シルバーカリスはお盆の上のおやつに視線を釘付けにする。中でもセラアハトはこの島の実質的な支配者である、一昨日夕飯をご馳走してくれた感じのいい少女がそれであると知って酷く驚いた風であった。
相変わらず気の抜けるようなのほほんとした笑みをその顔に浮かべたまま、小春は室内の窓際。二つの2人用のソファーに挟まれ、窓の対面側に一人用のソファーを置いた、丸いローテーブルの上にお盆を置いて1人用のソファーの上に。花子とシルバーカリスは机の右側にある2人用のソファーに。その対面の2人用のソファーにリックとセラアハトが腰かけた。…窓に掛かる金属製のブラインドの隙間からは、微かに陽の光が室内に差し込んで各々が囲むテーブルの上を微かに彩っている。
「…落霜紅さんが情報提供者と言うことは…この島の支配者が貴女なのか」
「えぇ、そうなりますね」
短い間であったが、一昨日の夕飯時。その時に語らい、尊敬できるものを見つけていたのだろう。朗らかに答える小春を目の前にするセラアハトの複雑そうな表情は、確かにその心境を現していた。そんな彼の事の心情など察した風もなく、小春は前のめりになってお茶の入った湯呑をローテーブルの上へ、各々の前へと並べていく。
「それで…人探しに協力してほしいということでしたね」
湯呑を並べ終わった後、小春は姿勢を正すと花子の方へと顔を向けた。それに花子は頷き、昨日マロンやリックから詳しく聞いた情報を頭の中で整理しつつ、口を開く。
「身長180センチぐらいで金髪。上下に白いジュストコールとボンタン。腰にカットラス。そういう装備の男の目撃情報があれば知りたいんです」
花子の言葉に小春はテーブルの上に視線を落とす。その顎に手を当て、そんな情報があったかどうか記憶の中を探る様に。その深紅の瞳には、おやつの乗った皿に伸びるシルバーカリスの手が映っている。
「ふむふむ…良いでしょう。…ただ訳を聞いても? 花子ちゃんを信用しないわけではありませんが、この島の統治者として、理由を聞いて置きたいのです。もしかしたら後に面倒ごとの火種にもなりかねませんし」
小春は少し考えた後、視線を花子の方へと向ける。…彼女の懸念は一つの組織の頂点に立つ者ならば当然にも思えるようなものだ。だが、これは自分で判断していいものだろうか。迷った花子は指示を仰ぐようにセラアハトの方へと瞳を動かす。
「ゴルドニア島内で裏切り者が出た。その裏切り者と言うのが今花子が言った男だ」
花子の視線を視界端に映したセラアハトは彼女の考えを瞬時に感じ取り、一抹の言い淀みもなく、出す情報を最小限に訳を話した。どういった裏切りだったのか。どういった背景があったのか。それを一切伏せたままに。リックが熱そうにお茶を啜り、シルバーカリスがおかきを噛み砕き、花子がおやつの乗った皿に手を伸ばす最中、小春は小さく頷いた。
「ふむ…ここは貸しを作らせて貰いましょうか」
小春はそれ以上深く踏み込むような事もせず、協力してくれる旨を伝えてきた。悪戯っぽく笑って恩を着せるような言い方をして。…常日頃から自分の味方だと言っている小春。本当に頼りになると思う反面、彼女に頼ってしまうのはズルをしているような気分になる。心中で少しばかし複雑な、プライド、体裁、メンツ。そう言ったものに拘るからこそ抱く思いを花子は抱きながらソファーの上から立った。口内にクッキーを放り込み、噛み砕いて。
「もう行っちゃうんですか? もっとゆっくりしていっていいですよ~」
立ち上がった花子を見上げ、小春はのほほんとした雰囲気で言う。引き留めるかのように。…きっと久々の花子との会話が名残惜しいのだろう。花子と小春。2人の関係性を知っているシルバーカリスは傍から見てそう思う。しかし、花子はソファーに座ろうとはしなかった。
「これから聞き込みとかしたほうがボーっとしているよりかは有意義だと思いますし」
「それはどうでしょう? ゴルドニアファミリアとその手先がうろついているのを、目標が見たり聞いたりしたら警戒すると思いますよ?」
一理ある小春の意見。花子はそれに踏み出しかけた足を止め、若干迷った後、セラアハトの方へ視線を向けた。決定権を委ねるように。
セラアハトはそんな花子の様子を上目で一瞥。その後で右手に持った湯呑から茶を啜ると、テーブルの上に視線を落としながら口を開いた。
「落霜紅さんの意見もお前の意見も一理ある。…昼になってから捜索を開始しよう。変装をしてな」
セラアハトの決定に小春はにっこりと微笑み、花子はソファーの上に再び腰を下ろす。リックはただ話し合いの様を傍観。そんな中、シルバーカリスは何か楽しみが出来たように微笑んでいた。
組織の裏切り者を探す者とそれに雇われた猟犬達。最初の一歩はそれは静かで、平和で、穏やかな物であった。もしかしたらタバコカルテル、パンケーキビルディングタバコ産業と剣を交える可能性を孕んだ案件。そんな仕事の始まりにしては。
*
海鳥の声とは違う、独特な抑揚の南国の鳥の声。耳馴染のないそれが響く森に囲まれた、円形のぽつんと存在する整地された資材の多数置かれた土地。波の音が聞こえる方に目をやれば、茂る木々の向こう側、切り立った崖の向こうに見える鮮やかな海の青色。そんな全く開発の手が行き届いていない土地へとマロンはやってきていた。上に黒いノースリーブTシャツを着、下に黒いデニムショートパンツを履き、その腰回りに黒く太いシルバーアクセサリーの付いたベルトを巻いた、ラフな姿で。セラアハトの代理人である何時のもスーツ姿のゼルクと、幾人かの作業着を着こんだ10代20代ぐらいのプレイヤー達と共に。その幾人かの中にはバカでかい大鎌を背負ったものもいる。
「後で問題になりませんかね。PTや塩パグが協定違反だと言ってくるの目に見えてますよぉ」
作業着を着こんだプレイヤー達。その中の1人がおどおどした様子で言う。マロンの方をチラチラ見つつ、踏ん切りが付かない様子で。
「へーきへーき。お前ら雇ったのはあたしじゃなくてゴルドニア島の住人セラアハト。セラアハトが代理人のゼルクを通してプレイヤーの業者を雇って自分の土地に家立てるってだけの話だろうが」
マロンはその薄い胸の前で両腕を組みつつ、資材に寄りかかりながら実質自分の土地ではあるが、便宜上セラアハトの物としている土地。それへと向けて顎をしゃくる。だが、作業着の男の顔は晴れない。何処か他に懸念しているものがある。そんな感じで。
「でもマロンちゃんが住むんすよね? いいのかなぁ…大丈夫かなぁ…」
「ガタガタいうんじゃねえ。男のくせにうじうじしやがって。それでも天下のモグモグカンパニーの一員かァ?」
「社長やその周辺がフォーカスされてるからやべー連中と思われてるだけで、下っ端の僕らそんな凄くないんすよぉ」
「っはぁ~。なっさけねえなぁ。腹括れよ。ここまで来たんだからよ。オメーあたしのファンなんだろ? 少しはその気概見せてくれよなァ」
煮え切らない作業着の男とだんだんそれに呆れ、苛ついてくるマロン。ゼルクはまだ話は纏まらないのかと言いたげにマロンの方へと眼鏡越しにキツイ視線を送るが、それによって何か変わることもない。
「…自分の押しが男と住むための建物作るってなったら僕みたいになりますって。と言うか僕の方がまだ理性的では? そのセラアハトって人と一緒に住むんでしょう!?」
急に豹変する作業着の男。…こいつが乗り気じゃなかった理由はこれか。恋愛観があまりにも乖離しているために汲み取ることの出来なかった彼の気持ちに、ようやく気が付けたマロンはジト目で視線を向けた。当然、寄り添うつもりは微塵もない。
「わりーかよ。ユニコーン野郎が。お前らみたいなのはどうして男女と下関係を直結させたがるんだ? 股にぶら下がってるもんと頭の中身入れ替わってんのか? そんな薄暗ぇナメクジみたいな性根だから女に相手されねーんだぞ」
大凡そう言ったある意味ピュアな男たちに夢を見せ、金を巻き上げる仕事。それに従事しているものが言ってはいけないであろう、彼の言葉の真意。それを穿って出た言葉。落ち目のアイドルだからこそ言えたのかもしれない厳しく確かな現実は、それを聞いていた作業着の男の顔を絶望に染まらせ、その耳をふさがせた。そして間もなく彼は地面に倒れ、のた打ち回る様に転がり始め――
「わああああああああ! 僕のマロンちゃんはそんなこと言わないッ! 聞きたくないッ! 聞きたくないィーーーッ!」
絶叫と共に転がり始めた。余りにも見苦しいそれにマロンは片眉を吊り上げると、組んでいた腕を解いき、前頭部に手をやるとため息を1つ吐いた。
「浦安のネズミだって常に夢の国の住人ってわけじゃねえ。それと同じようにあたしにもオンオフあんのよ。…なぁ、こいついつもこうなのかァ?」
話す最中、マロンの視線は地べたで転げまわる彼と一緒に来た他の作業員の方へと向く。見据えられた作業員の一人は愛想笑いを浮かべ、後頭部に手をやった。
「マロンさんの熱狂的なファンでしたからねー、ショックだったんでしょう。オフの時のギャップも。気持ちは解らんでもないですが、俺としては押しの柘榴ちゃんが幸せであってくれたなら…OKです!」
マロンに応対する作業員は後頭部にやった手を前に出し、勢いよく親指を立て、歯を見せ笑った。清々しい笑みを浮かべて。マロンはそれに少しばかり機嫌を良くし、締まりのなくガラの悪い笑みを彼へと向ける。
「好きな奴の幸せを自分差し置いて思ってやれる器量があって初めて男ってもんだよな。オメーにはいい奴見つかりそうだぜ」
「そうですかねー、そうだと良いなぁ。…おい、いつまで転がってんだ。そろそろやるぞ。もう金貰ってんだしさ」
彼は今地面の上で大人しくなっている男とは違い、協定の方を懸念材料としているようだった。だが、マロンとの会話で吹っ切れたのか、間も無く腰にある小槌をその手に握る。照れくさそうに笑ってから、ようやく静かになった地面に倒れた同僚に声を掛け、空き地に並べられた資材の前へと歩み寄って。
それをきっかけに地面に転がっていたのも含め、資材の前に集合し何やら少し話し合った後、各々その手に持った小槌を資材へ打ち付けた。資材はそれによって光となり、ゴルドニア島にあっても違和感のない様式の白を基調とした洋館と、敷地の隅に動物の小屋を形作った。…その有様は実にゲーム的。現実とは思えぬものだ。しかし、見方を変えればこんな魔法、力があったとするなら現実とも思える。マロンは難しい顔をしながら基礎からしっかり作られた風なその洋館を見上げた。
「次は海までの道の整備ですねー」
「おう、よろしく」
マロンは適当に相槌を打ち、作業着の男たちの中で大鎌を背負っていた者たちが洋館の正面。その先にある木々を刈り取り始めた。死神の大鎌の様なそれで木々が刈り取られていくたびに、木々の合間から見える海の青はより見えるようになって行き、やがてその視界を遮る木々は刈り尽されて洋館の正面には断崖絶壁の向こう側に広がる海が臨めるようになる。刈られた木々、切り株は小槌を持った作業員によって叩かれ、その姿を木のタイルに変えて屋敷の正面とその向こう側に見える断崖絶壁を真直ぐ繋ぐ。…この熱帯樹の中では腐ってしまいそうな不安はあるが、立派なものだ。
「…超常の力か。地下で見たものも凄かったがこれもなかなかだな」
その作業員たちの働きを傍から見ていたゼルクが呟く。彼の目にはこのプレイヤーが行う建築。それが魔法の類、地下遺跡でリックが使って見せた紋章術と同じ様なものに映ったようだった。
…時間的な矛盾、今自分たちが扱えているゲーム風に見える力、数値化された身体能力、そしてプレイヤー間では行えないとされている子作り。それらを取っ払えばこの世界が現実であると言われても抵抗なく受け入れられそうな状況。故にマロンはゼルクの呟きを耳にし、少し考えたように視線を斜にする。この世界は本当にゲームの世界なのだろうかと。最近目の当たりにした事も鑑みて。
「工事完了ですー。この書類にサインお願いしまーす」
あまり気にしないようにしていたこの世界の在り方。謎。それについて少しばかり深く考え始めたマロンであったが、あっという間に仕事を終わらせ、戻ってきた作業員の声によって意識が引き戻された。顔を上げればカルテに止められた書類を受け取り、それにサインしていくゼルクの姿がある。…そういえば名目上はセラアハトの持ち物なんだったか。なんてことを思っていれば、ゼルクが書類にサインをし終えて、カルテを作業員に渡した。白いシルクの手袋の嵌った細く長い人差し指で前髪を弾き、気障な雰囲気を出して。
「はーい…じゃっ、俺らはこれで。お疲れっしたー」
「おう、気をつけて帰れよ~」
カルテを受け取り、書類にサインがなされたことをしっかりと確認した作業員たちはそのまま森の中へと入っていく。道なき道へと。がさがさと音を立てて。…セラアハトも随分と良い土地をくれたものだ。その大変そうな彼らの背を見、マロンは皮肉めいた感想を心中に挨拶を返した。その後で大きな洋館の正面。そこから崖の方に続く木のタイルで舗装された道を行き、崖側面にうねるようにして取り付けられた急な石の階段からその先の海に突き出た小さな桟橋へと進む。
「…あとはフルブロッサムの金で全員分の水上バイク買ってやりゃ30階層の活動拠点は完璧か」
桟橋の先端。そこへと立ち、マロンは腰に両手を当てて胸を張り、視界を遮る物のない空の青と海の青が水平線の向こうまで広がる世界をそのライトアイボリーの瞳に映す。そして肺一杯に鼻から空気を吸った後、大きくそれを吐き出した。一つの大仕事が終わった達成感。それを強く味わった風に。
「セラアハトの遣いも終わったし、俺は港町の方に戻っている。用があれば来てくれ」
「おう。お疲れさん」
海を眺めるマロンの小さな背中。それを後ろから眺めていたゼルクは頭の中に自分がやるべきことを思い浮かべ、それが全て達成されたことを確認。その後で桟橋の上で踵を返し、内陸の方へと向けて歩き出した。鼻に付く気障な口調、声色で言いながら、芝居がかった雰囲気を醸しながら。…普段はこういう感じか。なんて風にゼルクを思っているとその気配は遠ざかり、やがて崖の上の森の中へと消えていった。
訪れる静寂。強い潮風に髪を靡かせ、マロンはただ海を眺めて目を細める。太陽の眩しさと風に。近頃忙しくてまともにのんびりできる時間がなかったため、ほんのつかの間の穏やかさ。それを存分に感じるように。
――だが、その波の音と風の音だけが支配する場に微かな雑音と気配が混じった。マロンはそれから何かを察し、ため息を一つ吐く。
「…PTのお遣いかい? 眼帯のおっさんよ」
ゆっくりと振り返るマロン。その視線の先には貧相なスケイルアーマーを着、粗末なショートソードを腰に差した、顔半分を覆う眼帯を付けた短い茶髪の男が1人。いまいち乗り気でなさそうな、やる気のない表情で、視線を斜にしながらそこにいた。その口に短くなった手巻きタバコを咥えて。
「おじさんも乗り気じゃないんだけどね。でも仕事なんで」
朗らかな柴犬の彫金のなされた金属製の携帯灰皿。取り出されたそれは30階層の陽ざしを強く受け、それは強く輝き、それの中へと眼帯の衛兵は口に咥えたタバコを押し込んだ。そしてマロンへと真直ぐ視線を見据える。いつもヘラヘラしていた彼からは想像できないような、鋭利なダガーの様な雰囲気。それを放って。
マロンは何も言わず、態勢を変えず。ただベルト後方に取り付けられた二本のダガーの存在を意識する。…重要なのは彼が何をしに来たかだ。地下遺跡の事なのか、ゴルドニア島に建物を建てたことなのか。それともマリグリンが裏切ったか。それを会話ではっきりさせる。マロンは眉一つ動かさず、鼻から息を一つ吐き出してそう己の中の目標を決めた。
人の集まるゴルドニア島の港町。そこから大きく外れた場所にある新しくできた石造りの桟橋。周囲に人なぞいるはずのないそこの上に張り詰めた空気が流れ、地上を照らす太陽は厚い雲に覆われて、地上はやや暗くなる。この今の状況。その不穏さを現すかのように。あたりにはただ波の音と風の音が。不思議と海鳥の声は聞こえては来なかった。
駆け引きと言うのは難しい物です。欲しい物のために行動を起こしてしまえば、こちら側の魂胆が大凡察せられてしまう場合などは特に。