最初の依頼
雲一つない蒼穹。突き抜けるような青の下に広がるのは、それまた青い30階層の世界。太陽はてっぺんから降りかけた位置にあり、昼特有の爽やかさはないが温かさのある陽射しを燦々と下の世界へと降り注がせる。風は穏やか、波も穏やかで白い砂浜の上に生えたヤシの木から聞こえる騒めきも、いつもより控えめなものだった。
それはゴルドニア島も例外ではなかったが、そのゴルドニア島の街。それを一望できる丘の上に立つ、淡い青色の洋館。それは美しい青薔薇と白薔薇の前庭を備えたそれの中では、今日の気候とは正反対な腹の内を持った者たちが、チョコレート色のシックなデザインの長テーブルを挟んでひざを突き合わせていた。その中心には水晶が1つ置かれ、涼やかに輝いている。
「ウズルリフ、セラアハト。マロンは信用できない。外の勢力と内通してた裏切り者のマリグリンを逃がしたんだよ。僕と対立してまでしてね。取り調べるべきだよ」
明るい外のお陰でやや暗く見える少し広めな部屋の中、青い空が向こう側に見える大きな窓を背にし、己の隣に座る長い白髪、コート姿の美男。それから左前に居る、己の顔の前で両手を組むスーツ姿の青髪の美少年セラアハトへと視線を向けながら、同じくスーツ姿の栗毛の気の弱そうな美少年、メルフィンは言うと己の正面。セラアハトの隣。テーブルを挟んで居る、白革と白金の金属の鎧に身を包む、ライトアイボリーの髪、瞳のマロンの方へと視線を向けた。敵を見るような冷たく、刺すような視線を。
「あたしはテメーの身ぃ守るための手打っただけだ。あの時はマリグリンが後ろにいる奴に上手いこと言ってくれりゃ丸く収まる局面だった。オメーらに立場や都合がある様に、あたしもあたしの立場、都合ってもんがあんだよ」
マロンの前には1000万ゴールドと金額が記入された小切手が一枚。だが彼女はそれに一切目をくれることなく、椅子の背もたれに大きく凭れ掛かり、天井を見据えながら後頭部に両手をやっている。メルフィンの視線に一切怖気づいた様子無く、椅子の前足を浮かせ、後ろ足で立つ形にしながら身体を前後に揺らして。その時の顔は呆れ混じりで、ムカついたようなものだ。
険悪な空気が流れる中、白く長い髪の男。ウズルリフがセラアハトの方へと視線を向けた。淡々とした表情、雰囲気のまま。
「当面の活動はマリグリンの確保。ゴルドニア島に存在する裏切り者の調査になる…か」
ウズルリフはその端整な顎に手を当てて呟く。これから自分たちがすべきことを、ざっくりと。
「前者の方は僕に任せてくれ。ウズルリフ。お前はゴルドニア島に居る裏切り者の調査に集中してほしい。外の勢力と繋がる獅子身中の虫のな」
セラアハトは視線を斜に流し、少しばかり疲れた風な顔をしながら言葉を紡ぐ。ウズルリフとセラアハトの2人。まるでメルフィンの主張を聞いていないかのようなそれらの態度は、感情的になったメルフィンの目じりを、より高く上がらせるには十分なものだった。
「…セラアハト」
メルフィンは多くは語らず、ただ一言だけセラアハトを見据えてその名を呼ぶ。言葉より多くのものを語る瞳を携えて。だが、セラアハトは眉一つ動かさない。冷静沈着な表情のまま流し目でメルフィンに視線を送り返すだけだ。
「マロンが裏切り者とするといろいろ腑に落ちない点がある。黒ずくめの奴らの仲間ならファーストコンタクトの時点で奴らと協力して僕たちを捕らえただろうし、マリグリンと繋がっていた奴らの仲間であれば遺跡から逃げ出そうなんて思いはしなかっただろう。それ以前に僕に宝の地図の話を持ってきたことに納得いく答えが見出せない」
「ッ…」
理路整然としたセラアハトの言葉。それにややヒステリックになっているメルフィンは言葉を詰まらせた。しかしまだ感情的になっているのか、勢いは鈍りはしたが依然敵意をマロンの方へと向けたままだ。
「…マロンは何かマリグリンと秘密を共有している風だった」
負け惜しみ。そんな雰囲気を感じさせる態度。それを示しつつメルフィンは上目でマロンを睨む。それにウズルリフは片眉を上げ、セラアハトは一切動じないまま話に耳を傾ける。
「あたしがPTに捕まるような事態になればマリグリンの野郎が拾ったものについて洗いざらい話してやる…ってなニュアンスで脅し掛けただけだ。あたしはあいつが何を拾ったかは知らねえし、ハッタリだったんだけどな」
マロンは相変わらず天井の方を眺めたまま、淡々と釈明する。己のその時の立場を。言いよどむことなく。その堂々とした態度は傍から見る者にとって、嘘を吐いているようには見えないものだ。…少なくとも表面上は。
「そのハッタリを真に受けて行方をくらましたということは…重要なものを見つけた…? ゴルドニア島での地位、それを引き換えても惜しくないと思えるほどの何かを…?」
続いてセラアハトが呟く。マロンの言葉から得られた情報。それらから推察できることを。マロンを疑った様子は無く、信じきった風に。
「マロンからPTに情報が漏れるのを恐れたということは…マリグリンは他の勢力に地下遺跡で得た何かを売ろうと考えていたと見ていいだろう。マリグリンへの足掛かりになるやもしれん。…マロンの情報が本当ならばな」
ウズルリフはマロンに対して懐疑的なようで、今現在のマロンの変化。些細なそれすらも見逃さんとその切れ長の目にマロンを映しつつ、己の考えを述べる。その時の目はまるで獲物を目の前にする蛇のよう。だが、それに対してもマロンは一切態度を崩さない。
それからほんの少し、沈黙が流れる。その間に天井に向けられていたマロンの視線はテーブルの上を這い、中心にある水晶。そして己の前にある小切手。それ以外何も置かれていない様子を見た後、再び視線を天井へと戻した。
「――あたしにとっちゃオメーらのこれからの事なんざこれっぽっちも興味ねえ。んなことより土地の権利書がテーブルの上に見当たらねー理由が聞きてえな」
「それはマリグリンの身柄の確保…それに協力し、一定の成果を上げた時のみ与える」
マロンの問いかけ。当初提示されていた条件を達成した上でのそれは、やすやすとウズルリフに一蹴される。約束の反故。返ってくる言葉もどうも要領の得ないもので、向こう側に決定権全てがあるような基準のあいまいなものだ。マロンは思わずそれに鼻から息を吐き出し、最大限の不満を露わにするかのように良く磨き抜かれ、鏡のように室内を映し出す艶めくチョコレート色のテーブルの上にドカりと両脚を乗せた。それによって足具の足の裏から白い砂が落ちてテーブルの上に散り、踵によって小切手がぐしゃぐしゃになる。
「舐めてんのか? どんな取引でも信用ってのが大事なんだよ。自分が相手の要求を満たした時、相手側がその時に生じる義務を絶対に果たす確証、信用がよ。たった今ゴールポスト動かしやがったオメーにそれがあると思うか?」
マロンの視線は天井からウズルリフへ。メルフィンを経由し、それから己の隣にいる心苦しそうなセラアハトの横顔へ。相変わらず冷静沈着そうな風であったが、確かに心苦しさの様な物を感じた風なそれを一瞥したのち、マロンは視線を天井へと戻した。それは不機嫌そうな顔をして。
「今は以前と状況が違うことを理解しろ。PTとのつながり。それをお前が完全に否定するにはマリグリンを捕らえるしかない。奴の口からお前の名が出なかった時、我々はやっとお前を信用できる。こちらにも立場や都合と言うものがあるのだ」
マロンのその態度にウズルリフは眉を顰めながらも冷静さを保ちつつ言葉を紡ぐ。…彼の言う意見、腹の中にあるであろう懸念はもっともなものであるが、マロンはお構いなしにテーブルの上をガンガンと踵で叩いて砂を盛大に落とす始末だ。それをきっかけに場に今まで以上に険悪な空気が流れ始める。
「ハッ、クソくらえ」
ウズルリフからの新たな条件。それを聞き終えたマロンは後頭部にやった手を解くと、歯切れよく言い放ちつつ右手中指を立てて見せた後、テーブルの上から脚を退け、椅子から立った。ぐしゃぐしゃになった小切手にも目もくれず、踵を返して爪先を出入り口の扉へと向ける。
「――マロン。待て…お前の要望通りの立地ではないが、僕から土地を譲る…それで話を聞いてほしい」
室内の出入り口。部屋と廊下を隔てる木製の立派な扉。それの鈍い真鍮色のドアノブにマロンの手が伸び掛けた時、いつの間にか思い悩み、険しい表情をしていたセラアハトが前を向いたまま、絞り出すような声で言った。その声にマロンの手の動きは止まり、セラアハトの正面に居るウズルリフは眉間に皺を寄せながらセラアハトの顔を見据え、メルフィンに至ってはセラアハトを敵でも見るような目で見る。
「セラアハト、勝手なことは許さんぞ」
「僕の持つ土地をどうしようと勝手だ。義理は通す」
リックに対する思いがそうさせたのか、それとも本当に義理を通すためにそうしたのか。マロンには解らなく、どうでもよかったが、セラアハトはウズルリフへの対立姿勢を露わにして、マロンが望んでいた言葉を口にした。それによってマロンは半身になって顔をセラアハトの方へと向け、扉の方へと向けて顎をしゃくる。
「おし、案内しろ。んで土地の権利書寄越しやがれ」
一も二もなく有無も言わさぬ雰囲気でマロンは言うと、ドアノブを回して扉の向こうへと進んで行く。
「忘れるな。少しでも妙な動きがあれば我々はお前を調査すると」
去りゆくマロンの後姿へ向けてウズルリフは言うが、彼女は気にも留めた様子もなく、すぐに扉の向こうへと消えた。その後でセラアハトは席を立ち、険しい顔をするウズルリフとメルフィンの顔を一瞥。背を向けてマロンの後を追う。扉の向こうの廊下。エントランスホールに続く方向にマロンの小さな背中が見え、セラアハトは小走りでそれに追いついた。
「昨日リックと話して何か解ったかよ」
「外の世界から来た人間。プレイヤー。それの子孫が僕達なんじゃないかって話をしていた。超常の力は魔法で…まさひこがどうとかとも」
「…その辺良く練ってあの頭の固い奴ら納得させられるように話纏めとけよ」
「あぁ。プレイヤーがどういう能力を持っているか。それが説明出来ればあの水晶とセットで納得させられる自身がある。大丈夫だ」
薄暗い廊下を行き、マロンとセラアハトは前を向いたまま会話をしつつ、エントランスホールへと行き着く。天井にはウサギの頭蓋骨が描かれた海賊旗が貼り付けられており、昨日の地下遺跡の中で見たものと同じデザインのそれをマロンは見上げる。…大昔の戦利品だろうそれに、いろいろ思うところはありはするが、気にするべきものではない。そう思って何かコメントすることもなく、セラアハトと共に正面玄関から外へと出た。
エントランスホールの扉の先には美しい庭園。白い薔薇と青い薔薇の咲き誇るその場所の向こう側には、遠目に見える青い海と丘や水上に並ぶ港町の佇まい。右手に見える、緩やかな坂に面した庭園の出口には豪華な装飾が成された、2頭の白馬が繋がれた黒い馬車が止まっている。緩やかな風に乗り、青と白の花弁が舞うその庭園をマロンとセラアハトは進み、やがて馬車へと乗り込んだ。
「準備が良いこって。ダメもとであのロンゲに無茶苦茶言わせたんじゃねえだろうな」
「いや…こうなるんじゃないかと思って準備しておいたんだ。でもウズルリフの気持ちも解ってやって欲しい。ゴルドニアファミリアの領地がプレイヤーに占拠され、今や仲間内に裏切り者が紛れ込んでいる事実も発覚した。プレイヤーであるお前を警戒するのはむしろ当然だと」
2人が馬車に乗り込んだところで、馬車はゆっくりと動き始める。白馬の小さないななき声と共に。港町の方ではなく、島の内陸。そこへと続く道へ進路を取って。
「余計なお世話かもしれねーけど、オメーも気を付けた方が良いぜ。客観的に見りゃ今まで守り切ってた土地に外部勢力入れようとしてんのが今のお前なんだからよ」
「問題ない。土地をお前に渡すことはボスに了解を取っていた」
「へぇ。てぇなるとゴルドニアファミリアも一枚岩じゃなさそうだな。あのロンゲの感じ見てると」
「あいつは用心深いからな。お前を見定める時間が欲しかったんだろう。やり方が違うだけで僕らが目指しているところは同じなはずだ」
馬車に取り付けられた窓の外から見える光景は、陽の照り付ける明るい場所から背の高い木々が周囲に伺える緑と木漏れ日の世界に。派手な色の小鳥が飛び交い、南国風な植物が多数見受けられるその場所に敷かれた、端々に少しばかり苔の生す、黒く変色した石畳を馬車は駆ける。
「ところでマロン、土地を紹介した後だが…仕事は請け負って貰えると考えていいのか?」
セラアハトは馬車の外に流れる風景を窓ガラス越しに眺めながら、先ほどの話を切り出す。マリグリンの捜索。それについてを。
「あん? ヤダよ。昨日みたいなあぶねー橋2度と渡るもんか。土地手に入りゃオメーらに求めるものは何にもねえし」
両手を後頭部にやり、セラアハトの横顔を見るマロンから返ってくる返事は無情なものだ。なんとなくそんな気はしていたセラアハトはふぅっ、と鼻から息を吐き出すと両目をゆっくりと瞑る。…自分と部下でどうにかするしかない。そう腹を決めて。
しかし、そんなセラアハトの横顔を見ていたマロンの口はすぐに再度開かれる。しつこく頼み込むわけでもない潔く、男らしいセラアハトの事を少しばかり気に入ったような爽やかで、どこか優し気な笑みを浮かべながら。
「あたしは無理だけど…今丁度金が無くて割のいい仕事探してるのに心当たりがある。その馬鹿共雇う金用意できるんなら紹介してやるよ」
「…使える奴だろうな」
「あぁ。腕は確かだ。うるせーじゃじゃ馬だけどな」
緩やかな下りと登りが繰り返される道。まだまだ抜けられそうにない熱帯林。それらを行く馬車の中、セラアハトはこれからの指針を得る。目標は行方不明となったマリグリンの確保。自分の生まれ故郷を守るため。それを売らんとする裏切り者たちを白日の下にさらさんがため。今はただ穏やかな時間に心を休めながら。
*
優しく暖かで、見る者にふと一日を振り返らせてくれる優しい橙色の空。通り雨でも降ったのか、晴れ渡った空の下に広がる街や草原には水滴、水たまりなどの水由来の輝きが橙色の光を反射させていた。
1階層。嘗ては夕暮れ時になれば各階層からプレイヤーたちが訪れ、それは大きな賑わいを見せていたそこは、農業従事者、それに使われるNPC。30階層に訳があって旅立てない商人たち。それだけが疎らに伺える場所。夕暮れ時は祭りの前の様なワクワクするような雰囲気が感じられたが、その橙色は今や閑古鳥の鳴く現状の、郷愁と物悲しさをより際立たせるものとなっている。
仕事場か。はたまた寝に帰る場所か。もうそれぐらいにしか意義を見出せなくなったその階層に花子一行…改めゴルドニアの音楽隊は、自分たちの塒である高級住宅地へと一足早く帰ってきていた。
黒い馬。手足の太く、耳の丸い灰色の犬らしき動物。近くの庭木の枝に止まる白い梟。そして、白い子ライオン。それらと共に花子は背中に紐で巻き付けて、それは大きな草束を。シルバーカリスとリックは大きな葉で何重にも包まれた大荷物を担ぎ、白い宮殿の前にある広い前庭。その端っこにある木の板で作られた掘っ立て小屋の前にて、今立ち止まった。
「嗚呼…こんな気持ちのいい汗を流したのは久しぶりね…」
背中にそれは高く背負った草束。青臭い匂いを感じるそれを降ろし、暮れ行く空を仰ぎ見て花子は額の汗をガントレットの手のひらで拭った。贅沢三昧の暮らしをしていた時にあった邪気。そんなものは一切感じられない、素朴でピュアな、充実感を感じた穏やかな表情、様子で。しみじみと。
「解体してもらったお肉はどうします? NPCの人に言って冷凍庫にしまっておいてもらいます?」
花子が置いた大きな草束。その上にシルバーカリスとリックは担いだ大荷物を放る。その後でシルバーカリスは花子へと向き直りつつ花子へ問い掛け、リックは己の脛に頭や身体を執拗に擦り付ける白い子ライオンに視線を向けて屈む。その顔に優しくもだらしのない満面の笑みを浮かべて。
「そうしましょう。…現実世界みたいに時間凍結の紋章術が使えたのなら、最後のひとかけらまで獲りたての状態で食べさせてあげられるんだけれど」
「魔法が使えないのは不便ですよね…意外と何とかなってますけど」
「そうね。でも魔法を頼らずに知恵を出さなくちゃいけない今の状況…嫌いじゃないわよ。私は」
「花ちゃんがそういうこと言うと違和感が凄いですね」
殊勝なことを言う花子とそれに対し、自覚無く毒を吐くシルバーカリス。花子は少しムカついたように愛想のない目つきでシルバーカリスを見据えた後、彼女の額に手を伸ばし、額を爪弾いた。
「いった…何するんですか」
「アンタは一言余計なのよ」
天然なシルバーカリスはそこで漸く花子に対する自分の発言を振り返り、若干ムッとさせていた顔を愛想笑いに変えた。花子はそれをジト目で見据えていたが、自分が言いたかったことがシルバーカリスに伝わったことを彼女の表情の変化から察すると、鼻から息を吐き出して呆れたように、だが、おかしそうに笑った。そして2人は白い子ライオンを抱き上げて、腕の中で撫でまわすリックの方へと視線を向ける。
「くすぐったいっての。オスカー」
「名前付けてたんですね」
「ん? おぉ。仕事中にこう…ビビッと天啓が降りてきてな。な~、オスカー」
「あぁ…モンスター退治の時上の空でしたけど…名前考えてたんですね」
リックは頬を白い子ライオンにザリザリと舐められつつ、こそばゆそうに片目をつぶってシルバーカリスと会話をする。その微笑ましい光景にシルバーカリスは両目を細めて柔らかく微笑み、心温まった風であったが、花子。彼女だけは唇をへの字に曲げ、気に入らなそうな顔をしていた。
「オスカーはやめなさい。サムもダメよ。私が付けた名前…タマでいいじゃない」
花子は据わった目つきのままリックを見据え、その両腕を組む。当然その抗議の声にリックとシルバーカリスは寝耳に水と言った風な顔をし、花子の顔を見据える。
「なんでよ。良い名前だろ? と言うかタマとか安直すぎるだろ」
リックは珍しく露骨に不満を現して声を上げる。唇を尖らせ、その目を座らせて。だが、その珍しいリックの反応にも、彼の視線の先にいる花子は一切動じない。
「うっさい。オスカーよりマシよ。船に乗ったら沈みそうな名前よりね」
「…今度は何だ? 童話か? どういうネタだ?」
「第二次世界大戦の船乗り猫でそういうのが居たの。その猫が乗った船悉く沈んでるんだから」
「そんなの気にしません~、ただの迷信ですぅ~、うちのオスカーはそんな死神みたいなやつじゃありません~」
験担ぎ。その観点から何とか名前を変えさせようとする花子とただの迷信と切り捨て、ブーブー言うリック。珍しくリックが引かないことにより発生する、お互い一歩も譲る気配のない膠着状態。間も無く2人の視線はシルバーカリスの方へと向いた。…同意を求めるようなその目が。
それによってシルバーカリスはふぅっ、と息を吐き、両目を閉じると口元に笑みを作る。そして片手を振り上げてそれの指先で花子を指差した。
「――所詮は迷信です。花ちゃん。そこには魔法も化学もありません。因って僕はリックさんの主張が正しいと見なします」
歯切れよく聞き心地の良い、良く通るハスキーな声で。シルバーカリスは言い淀むことなく、己の気持ち。心中にある物を開陳した。それにより花子は少しばかし決まりの悪そうな顔をすると顔をプイッと背け、リックは勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべる。
「…オスカーを船に乗せるのは禁止よ」
花子は負け惜しむように唸ると、自分の背後にて草束に口を突っ込んでモシャモシャと草を食べていた黒い馬の方へと振り返り、それの背を撫で始める。若干不貞腐れたようにして。その珍しくしおらしさを感じる背中は、それを見るリックに対して確かな勝利を感じさせるものだった。
「…花ちゃんが黒王にご飯食べさせてますし、僕たちもお肉あげましょう」
へそを曲げた花子の面倒臭さを知るが故にシルバーカリスはそれに今は触れようとはせず、リックに提案。それを聞いたリックは頷くと腕の中に居るオスカーを下し、腰後ろの鞘に収まった小ぶりのダガーを手に取って、自分が運んできた大荷物にそれを突き立てた。
「オスカー、ヴォイテク、シェール・アミ。ご飯だぞ~」
大きな葉に何重にも包まれた大荷物の中には枝肉になった肉の塊が幾つか。リックは其れの内のひと固まりを取り出し、雑に切り分けるとオスカー、次に灰色の犬らしき動物であるヴォイテク、最後に白い梟シェール・アミに向かって肉を投げた。間も無くその2頭は投げられたものを口で受けて、前脚で押さえながら齧り、シェール・アミは空中で肉をキャッチし、庭木の上でそれを啄み始めた。
「シルバーカリス。お前は名前付けたりしないのか? 今付いてる名前は仮決めらしいし、特に懐いてるヴォイテクの名前考えてやったらどうだ?」
「んー、結構花ちゃん考えて名前付けてくれたみたいですし、ヴォイテクはヴォイテクのままで僕はいいです」
「確かにタマ以外は割と真面目に考えてそうだよな。…名前の由来とか聞いた? ヴォイテクの」
「第二次世界大戦中にポーランド軍に所属してた熊から取ったと言ってました」
「…マジ? そんなの居たの? あいつよくそんなの知ってんな。やっぱスゲーわ。お嬢様学校の頭脳は。知識量が違う。…と言うかやっぱり犬じゃないよな。小熊だよな。コレ」
「そうですね。熊です。犬じゃないです。なんか後ろ足で直立したりするものだから僕も変だとは思ってたんですけど」
オスカーとヴォイテク。それは名前について語らうリックとシルバーカリスの目の前で豪快に骨を噛み砕き、小気味の良い音を立てながら肉を食らう。子ライオンと小熊。それのパワーとは思えぬ、圧倒的な顎の力で。巨木を難なくへし折る重機の様に。
新しい仲間たちの食事風景。それをぼんやり眺めていたシルバーカリスはふと顔を上げて思う。明日はどうしようかと。先ず目を向けるのは花子が持ってきた草束。そして次に見るのは自分とリックが持ってきた枝肉を包んだ大きな葉の包み。…少なくともあと2日ぐらいは餌を取りに行かなくてもよさそうな備蓄状況。…餌を持つための空きを考えなくてもいい。なら、31階層で素材収集、あわよくば31階層で受けられる仕事でも請け負えれば一石二鳥。シルバーカリスはそんな風に思い至るとリックの方へと顔を向けた。
「明日は――」
「喜べ、金欠共。テメーらに良い話持ってきてやったぜ。このマロン様がな」
だが、シルバーカリスの言葉は聞き覚えのある少女の言葉によって遮られる。不貞腐れた花子を含めたゴルドニアの音楽隊の視線はその方へと向き、その瞳に口元から歯を覗かせて笑い、手を振って近寄ってくるマロンとその後ろに続くセラアハトの姿を映しだす。
「成功報酬は一人当たり5万ゴールド。依頼内容はマリグリン・フラウセンの確保。それをお前たちに依頼したい」
何時になく真剣な顔。眼差しのセラアハト。彼が発する重々しく、どこか覚悟を感じるような言葉にゴルドニアの音楽隊の3人はその動きを一瞬止めた後、3人各々で顔を見合わせる。…5万ゴールド。1つの仕事。1つの依頼にしては破格の報酬。今日受けた仕事は1日1000ゴールド程度のものだったからそれと比べればとても魅力的に見える。だが、彼女たちは喜びはしない。アイコンタクトで各々の考え。気持ちを察したところで冷静な表情のまま、セラアハトに視線を送り返し、花子が間も無く口を開いた。
「まずは交渉。お互い納得できる着地地点を探しましょう」
「…良いだろう」
空は橙色から紫色に。夜の顔へと変わり行く。一日の終わり際を感じさせる空の変化とは相反し、花子の瞳には確かに野望の炎が揺らめき出す。落ち着きとは程遠いそれはセラアハトの瞳に頼もしくも映ったが、どんな事を要求されるか。少しばかり不安に思う。風で庭木が騒めく中、段々と暗くなっていく空の下で。
散財し、攻略勢としての日常に戻らざるを得なくなったはずだったゴルドニアの音楽隊。だが、彼女たちと30階層の縁はまだ切れてはいなかった。金を得るため、もう少しだけ面倒ごとに首を突っ込まねばならなさそうな予感。面倒に思う反面、ワクワクした様子で3人は口元に笑みを携える。それは提示された報酬額を思い浮かべての事か。それとも、その仕事自体を楽しみに思ったものか。それは彼女たちにしかわからない。どうあれ事態は動き出す。1枚の地図から始まり、見えてきた30階層の真の姿へと。
本当はシェール・アミじゃなくてGIジョーにしようと思ったのですが、ブリキのオモチャのイメージの方が強いのでシェール・アミにしました。
ちなみに黒王は…あれだ。世紀末覇者の愛馬から取ったので史実とは関係ない。コマンチにしようとも思ったが、強く大きく育つことを望むのであればこの名前しかなかろう。そうだろう?