新人ドラゴンライダー
紋章術の明かりに照らされる地下の街並み。窓から限定的に伺えるそれらに落ちる複数の影。二枚の大きな翼を持ったそれは、音を立てず、滑空するように素早く過る。
その窓のある建物。最上階。暖かな壁紙とベージュの家具がある部屋の中、マリグリンは共に行動を共にしていた同行者たちと対峙していた。マロンは今の状況を楽しんだ風な、余裕と攻撃性。それが伺える好戦的な笑みを浮かべていて、リックは険しい顔をしてマリグリンを真直ぐ見据え、ゆっくりと距離を詰めてくる。
…戦うことになれば4対1。つまりその選択を取るというのは、この状況からの脱却を諦めるということと同義となる。故に逃走。敵でも味方でもない動く骸骨たちが満ちる危険地帯を抜け、味方と合流しなければならない。…幸いマリグリンにとっての味方。それはなかなか使える部隊を送ってきてくれたようで、この建物の外にさえ出ることが出来れば、勝算はあると思わせてくれる展開速度のものだった。今こうして睨み合っている間にも地下都市の住人と味方。それらが戦う音が近づいて来ている。
「マリグリン、怪我したくないならその場で膝を突いて頭の後ろに手をやれ」
既に間合いに入ったリック。身構えつつ、彼は更に近付いてくる。大人しく従うか、それとも脱出を試みるか。…時間がない。どちらかの選択をマリグリンは迫られる。
――降伏したところで身の安全は守られるだろうか。…かなり怪しい。自分はリックとマロンの素性は知っている。そのことから彼らはきっと自分を殺せない。無線で素性を仲間に喋っている可能性があるから。だが、部屋の出入り口にいる素性のわからない2人。あの2人は別だ。素性は絞れていないし、そういった存在がいるとまでしか報告が出来ていない。脱出の間際口封じのために自分を殺す可能性が十分にある。…少なくとも自分ならそうする。
額をうっすらと濡らす冷たい汗。追い詰められたこの状況にて、浮かべた強がった笑みは崩れかけていた。もうすぐそばまで来てしまっているリック。それの要求通り両手を後頭部に組む素振りを見せた瞬間、マリグリンの視線は近くの窓へと向いた。降伏してくれる。身振りだけ見てそう判断したリックの表情が微かだが緩む。
マリグリンはその一瞬を付き、窓の方へと足を蹴り出した。身体の前に腕を十字に組み、窓を突き破るべく。
「――ッ!」
だが、飛び出した瞬間に感じる足を後ろに掬われる感覚。確かにそれは水の湿り気を感じさせるもの。足をすくわれた身体は窓の前の床へと落ちていく。
「ぐッ!…ッ!」
窓の前でうつ伏せに倒れたマリグリン。その上体に乗る柔らかな感触。それを背中に感じた直後、ダンッと何かを叩きつける音と共に動かなくなる右手。そしてそこから感じる激痛。身体から一気に冷たい汗が噴き出るのをマリグリンは感じ、叫びかけるが口を水の塊が覆った。
「ッ!!!」
激痛で上がるはずの声は出ない。首も動かせない。鼻と口元を覆う魔法の水に激しい水泡が上がるだけ。右手を動かそうとすると酷い痛みを感じる。まるで短剣で床に張り付けられたかのような。
そんな痛みに暴れる彼の左手を足で踏み、その背に足を開いて馬乗りになるマロンは、彼の喉の前に逆手に持ったダガーの刃を置いた。ちょっと腕を引けばマリグリンの喉笛を掻き切ることが出来るように。その時の彼女の表情はいつもの締まりのない笑みを浮かべていて、普段と別段変わりのないもの。だが、そのライトアイボリーの瞳には確かに危険な光が宿っている。
「マリグリンちゃん、マロンちゃんのお願い聞いて頂戴よ」
マリグリンの耳元で囁かれるマロンの声。口調、言い方。今日一日見てきた彼女の物と大して変わらない抑揚。そして喉元に鋭く閃く良く手入れされたダガーの刃。苦痛に歪むマリグリンの表情に恐怖の色が微かに混ざる。そして少ししてマリグリンの鼻と口を覆っていた魔法の水はブクブクと音を立てて蒸発し、マリグリンは自由に呼吸できるようになった。
「っ…! はぁっ、はぁっ…! くぁぁぁっ…!」
右手の激痛とやっと許される呼吸。それによりマリグリンの呼吸は荒く、乱れに乱れたものとなって低い唸り声を上げる。そんな彼の前に放られる見慣れたブローチ。痛みに顔を歪め、懸命に呼吸を整えるマリグリンの目の前でそれは鈍く輝いた。
「通信機で今居る連中を別のところに誘導しな。今ご機嫌取っとかねえとこの埃くせー床がオメーが拝む最後の景色になっちまうって事、お利口なマリグリンちゃんなら解ってくれてるよな」
左手に載っていたマロンの足が退く。…マロンには未知の水を操る力がある。彼女は自分の背の上。腕を軽く引くだけで自分を殺すことが出来る状況。周囲には彼女の味方。今逆らうのは命を投げ捨てるようなものだ。どう考えても賢い選択ではない。そう己の中で今からの指針を決めたマリグリンは、自由になった左手をゆっくりと己の顔の前に落ちているブローチの方へと伸ばし、指先でそれへと触れた。
「…今、城の隠し部屋にいる。っ…3階だ」
かすれた声でマリグリンは言葉を紡き、人差し指でブローチを再度叩くと通信を終えた。その後で微かに聞こえる何かが大きく羽ばたく様な音。それは段々と上へ上へと遠ざかっていく。
その直後、下の階から微かに聞こえる床が軋む音。それに反応して出入り口に立っていた褐色肌の男が動き出す。足音を一切立てない、その図体からは考えられぬ羽の歩みで。
「うっ…!」
間も無く聞こえるくぐもった聞き覚えのある声。次に階段を踏む音が聞こえて、褐色肌の男とそれに抱きかかえられ、首元にスローイングアックスを当てられたメルフィンが姿を現す。…今ある状況がどういう状況なのか。メルフィンはそれが解っていないようで、マロンに押さえつけられるマリグリンや、今自分を捕らえた襲撃者たちに協力するような形になっているマロン、リックに困惑したような表情を向ける。
「おっさん。離してやってくれ」
褐色肌の男に抱きかかえられたメルフィンの姿をその橙色の瞳に映したリックは、彼の方へ数歩近寄ってそれを拘束している褐色肌の男の方へ視線を移し、声を掛ける。
褐色肌の男は視線をマゼンタの瞳の女の方へと向けた後、彼女が頷いたのを確認し、メルフィンの首元からスローイングアックスを退かし、その小さな身体を解放した。それによってメルフィンは床へと足をつけ、リックの方へと歩み寄る。背後にいる正体不明の二人組を警戒したように何度が振り返りながら。
「メルフィン、良かった。でもよくここが解ったな」
「銃声が聞こえたから…そこへと向かってたら偶然窓を開けるような音が聞こえたんだ。それで来たらこうなったわけなんだけど…これは…?」
メルフィンはリックへと向けていた視線を、マロンに押さえつけられているマリグリンの方へと向ける。依然として状況が読み込めていない様子で、微かに瞳を揺らして。そんな彼の前でマロンがマリグリンの右手に突き立てられたダガーの柄に向かい手を伸ばし、それを握った。
「今来てる新手の侵入者。そいつらとマリグリンが内通していた。捕まったらマズイ者同士今は協力してるってわけだ」
リックが端的に今の状況を説明し終えた直後、マロンは右手にあるそのダガーの柄を上方向へと引っ張った。
「がぁっ…!」
勢いよく抜かれるダガー。マリグリンは苦悶の表情を浮かべて痛みに声を上げた。その痛々しい光景にメルフィンは思わず視線を背ける。
「おっと、痛かったかい? へへっ、わりいな」
だが、マロンは相変わらずのまま、謝罪の意の籠らぬ謝罪の言葉をマリグリンへと掛ける。それと同時進行で彼のベルトに手を回してそれを外し、それに取り付けられている鞘に収まったカットラスを床に落としてから、マリグリンの両手を後ろ手に束ね、右手で器用にベルトで拘束。その後で、マロンは左手にあるダガーを腰の鞘に戻し、マリグリンの上から立ち上がった。
「もう良いな。付いてこい」
話が終わったところでその様子を眺めていたマゼンタの瞳の女は組んでいた腕を解き、爪先を建物の窓の方へと向ける。…窓を伝って建物の中を移動して堀の方まで進むつもりのようだ。マロンもリックもその考えに賛成であったため、マリグリンを連れて彼女に続く。
敵の情報源を潰し、逆手に取ることが出来た一行。戦闘音から遠ざかる様に低い建物から更に低い建物へ。窓を伝い移動を続ける。戦闘状態となった骸骨たちからは十分に離れた今でも階層転移の本は使える気配はない。…この袋のネズミの状態からの脱出。それが余儀なくされている。その事実を苦々しく噛みしめながら、リックは行く先を見据えていた。
*
城の方から聞こえる戦いの音。遠くのそれはもう聞こえては来ず、代わりに新しく聞こえてくる、どこに流れ込んでいるのか解らない堀を流れる水の音。一行は堀と広場を隔てる城壁の直ぐ傍までやってきていた。薄暗い物陰から、広場に駐在する、赤い金属の中装鎧を着こむ者たちと背に鞍が取り付けられた、背が黒く、腹が灰色の翼竜たちの様子を視界に捉えて。…良く開けたその場所には敵が5人と20匹以上の翼竜。先ほどのマリグリンに言わせた偽情報を真に受けたらしく、ほとんどは城の方の増援として向かっていったようで、城の近くの建物から見た時より人気は少なくなっていた。…この翼竜たちもプレイヤー同様HPバーは見えず、敵対モンスターとは違うものだ。
「こいつ食いしん坊だな。食べ物やらねえと言うこと聞きやしねえ」
「パンケーキビルディング畜産から買い取ったばっかりなんだろ? だったらそんなもんだよ。ちゃんと好物とか把握して置いて、ご褒美として用意しておくと懐いてくれるぞ」
「好物か…あぁ、甘い物好きだったかも。出動命令掛かる前にドロップの缶器用に破って中にある飴だけ食べてたわ」
「それで言うこと聞いてくれるなんて財布に優しい良い子じゃないか。うちのなんて猫モドキ用の餌シャールだったぞ。一箱二箱ぐらいじゃ全然満足しないし」
最前線で戦っている者たちと要所の守備を任されている者たち。前者の姿は見てはいないが、後者のその面構えは弛みに弛み切っている。…おそらくゾーンキープに回された彼らはこの島の駐在員か…急ごしらえで集められた人員なのだろうということを感じさせてくれる。会話の内容もそんな推測、背景を肯定してくれるようなものだ。
「あー、一時期金がねえって騒いでたのそのせいか。あっ、お前その時貸した4000ゴールド何時返してくれんだよ」
「ぬう…今それを言うか…一週間待ってくれ」
「そう言ってこの前は女に貢いでたよな。NPCのが安上がりでいろいろ出来るだろうに」
「何をどうやっても無条件にスゴイスゴイと褒めてくれるNPCに囲まれて楽しいもんか。虚しいだけじゃないか。あれで気分良くなれる奴は相当寂しい気の毒な奴だよ」
「うお~、超辛辣。キッツい言い方するじゃん。塩パグ学園島の住人に聞かせてやりてえ」
…なんだか憎めない奴らだ。会話内容から察するにプレイヤー。都市属性の此処ならば殺しても死なない。人数も多くはないし、気は進まないがうまくやれば無力化出来そうだ。マロンがそう思い、物陰に出来そうな複数居る翼竜たちの位置を確認していると、リックが小物入れの中からドロップ缶を取り出した。
「ドロップが好きなのがいるって言ってたな」
リックの手にある、まだまだ中身の詰まった頼もしい重さの飴の缶。それが立てるガラリと言う音は、仮初めの協力者たちに彼の考えを察させる。
「…ここは我々に任せろ」
マゼンタの瞳の女は少しマスクを上へと上げ、褐色肌の男もそうした。敵になった時は本当に恐ろしく脅威的な存在であったが、こうなるととても心強い。リックはドロップ缶の蓋を外し、その手にいくつか飴を落とし、それを手中に握って彼らの方へと突き出した。そしてその手の下にマゼンタの瞳の女、褐色肌の男は順に掌を上向きにしてやって、飴を幾つか受け取る。
「ん? ハッカ味か。これは翼竜も食いつき間違いなしだな」
手に落ちたいくつかのドロップの中に白く透明なドロップがあるのを見、褐色肌の男は呟く。これから戦いに行く人間とは思えない様な、どうでもいいことを。
「無駄口を叩くな。さっさと行くぞ。それとハッカは白。それはレモン味だ」
「いいや、これはハッカ味だ。俺は解るんだ。それより…お前そのキャラ疲れないのか。違和感が凄い。調子が狂うぞ」
「…うるさいぞ」
褐色肌の男とマゼンタの瞳の女はまるで買い物でも行く様なノリで会話を交わし、飴を握った対の手にスローイングアックスを鞘から抜くと広場へと向けて歩き出す。暗がりから出る寸前のところでドロップを一つ、今広場にいる5人の向こう側へと浅黒い肌の男が放物線を描くように爪弾いた。
間も無くそれは硬い音を立てて白い石畳の上に落ち、その場に居る5人と多くの翼竜たちの視線と注意を向けた。そして、それと同時になめらかな動きで、一切物音を立てずに物陰から這い寄る様に出る2つの影。それは速やかに近くに立つ者の背後に忍び寄り、口元を抑え、それと同時に喉元にスローイングアックスの刃を滑らせて音を立てずに無力化した。
「おぉっ…なんだ。急に」
ドロップが落ちた場所を目掛けて一部の翼竜たちが行進を開始する。その歩くには適さない後ろ脚を動かし、のそのそと。その間にも、動く翼竜たちの間を縫い、二つの影は静かに進む。…背後から聞こえる翼竜たちの足音に振り向きつつある敵へと向かって。
落ちたドロップを1匹の翼竜がその尖った口の先端で咥え、頭を上に向けてその大きな口を動かす。その時にはもう既に人の声など聞こえては来なかった。聞こえるのはドロップを食べ損ねた翼竜達の不満げな唸り声だけ。一番離れた位置にいた敵は後頭部を投げられたスローイングアックスを後頭部に深くめり込ませ、静かに膝を折って崩れ落ちる最中だった。
「クリア」
「オールクリア」
動かなくなった5人のプレイヤー達と、その周囲に人影がないことを確認した褐色肌の男とマゼンタの瞳の女。後者はマロンたちがいる方へと向かって手を軽く上げ、手の甲を向けると、それを己に引き寄せるハンドサインを送る。…こういうのは良く解らないが、なんとなく来いと言っているのが解ったマロンたちはそちらの方へと素早く駆けよる。
「林檎ちゃんの考えてた脱出プランってのがこれか」
「翼竜が使えなかったらこいつらの装備を貰ってそのまま外に出るつもりだったが…そうならなくてよかった。さ、お前らも翼竜に飴玉をいくつかくれてやって手懐けろ。定時連絡で今城の方にいる奴らが異変に気が付いたらまずい」
「翼竜乗った時なんてねーぞ」
「手綱を右に引けば右に、左に引けば左に。手前に引けば上昇、後頭部を軽く叩いてやれば下降する。飛ばせるときは軽く脇腹を踵で蹴れ」
乗馬ならぬ乗竜。そんなことをしたこともないマロンは簡単な説明をマゼンタの瞳の女から受け、参ったような笑みを口元に浮かべ、肩を竦めつつ鼻からふぅっと息を吐き出すと傍でマリグリンの拘束された後ろ手を持ち、その背後に立つリックへと手を出した。話を聞いていたリックはマロンの手の上に蓋を取った状態の缶を傾け、ドロップを落とすと自分の近くにいて一生懸命大きな口を開ける翼竜の口内へドロップをいくつか投げ込んだ。
「マリグリン、飛んでるとき暴れるなよ。落ちたら死ぬから」
中身が残り少なくなったドロップ缶の蓋を嵌め、小物入れにそれを押し込むとリックは翼竜の鞍の上にマリグリンの身体をうつ伏せに倒し、自分もその鞍の上へと跨った。
「ふふ…今まで大人しかっただろう?」
リックの言葉にマリグリンは恨みがましく言い、首を動かしてリックの瞳を見据える。皮肉めいた薄ら笑いを浮かべたその顔、瞳には味方に向けられるようなものは無く、ただ憎らしい敵へと向けられるようなものだけがあった。その後味の悪くなるような言葉と反応に、リックは何も言葉を返すことなく、ただ顔を顰める。
「海蝕洞窟を出た後はお別れだ。では、幸運を祈る」
心にどこか蟠りを残すリックを他所に、マゼンタの瞳の女は一方的に言うと今己が乗っている翼竜の腹を踵で軽く叩いた。それによって翼竜はその大きく強靭な後ろ脚で地面を蹴って飛び上がり、翼を羽ばたかせて堀の方へと進み始める。その後に褐色肌の男の乗る翼竜、マロンとメルフィンが相乗りする翼竜が飛び立ち、それに続いてリックも翼竜の腹を踵で蹴った。
脚の力だけで飛び上がった翼竜はそれは高く飛び上がり、その後で大きな翼を広げて堀の向こうに見える、自分達が来たアーチへと向かい飛んでいく。来るときは必死になりながら危険を掻い潜ってやってきたが、翼竜は広い城壁、海坊主のいる堀を悠々と飛び越えて、港と接する区画へ繋がるアーチへともう差し掛からんとしている。敵の展開の速さ。それの秘訣が翼竜の存在だったのだと誰もに理解させる速度で風を切って。
今居る城のある区画と向こう側に広がる、港と接する区画。それを繋ぐ人の通り道にしては大きなアーチ。だが、翼を広げた翼竜にとってはぎりぎりの幅のそれを翼竜たちはさも当然のように、最小限に翼を羽ばたかせて滑空する。最後尾を飛ぶリックはビビッて翼竜の後頭部を叩いたりはしなかったが、翼竜は指示が無くとも高さを適切にしてくれていた。
アーチから武器や物資が乱雑に置かれた神殿内へ。自分たちが飛ぶ下には、その場にある物を調べる赤い鎧を着こんだ者たちが多数窺える。彼らは翼竜が飛んで来たことを不思議に思ったように見上げ、その視線を避けるように一行は翼竜の背に密着する。だがその時…リックの前を飛ぶ翼竜。手綱を握るマロンの腰に手を回していたメルフィンの腰から、浅く刺さっていたフリントロックピストルが下へと落ちた。
…今現在、ゴルドニアファミリアしか持っていないであろうそれ。ゴルドニアファミリアに因む装飾が施されたそれは、間も無く硬い神殿の床へと叩きつけられる。下にいた赤い鎧のプレイヤー達がそれを見てどんな反応をするか。それを見る間も無く翼竜は港と接する区画へと出、高度を上げて港の方へと飛んでいく。
…逃げ切れる。そう確信できる状況。気がかりなこともいくつかあるが、とりあえずこの場は何とかなる。広い地下遺跡の上空を飛びつつ、リックはここであったことを振り返る。もう、目の前には地下遺跡と港を隔てる門が見える。そんな気を抜いた風なリックの眼下に見える港。そこに翼竜と、それに駆け寄る赤い鎧のプレイヤー達の姿が見えた時、リックは目を大きく見開いた。
――自分たち。強いて言えば今飛んでいる翼竜に乗っている者たちが侵入者と気付かれた。リックにそう理解させるには十分な光景。リックは口元を苦々しく歪め、片手に階層転移の本を開く。…おそらく追っ手に敵認定されているのだろう。依然絵は灰色になったまま。他の階層には飛べない。だが、リックは開いた本をその手に持ったまま、行く先を見据える。もう遺跡は通り過ぎ、海蝕洞窟へと差し掛かっていて、正面には橙色になりかけた昼下がりの光が見えている。
「待てコラー! 止まらんかー!」
刹那、背後から聞こえる大きく、どこかコミカルな男の声。拡声器を使っているのであろうノイズの混ざったそれは海蝕洞窟に大きく反響し、より煩く響いて一行の耳に届く。当然その呼びかけに誰も止まろうとはしなく、間も無く一行は勢いよく海蝕洞窟から出た。
一気に開ける視界。真っ先に目につくのは橙色になりかけた優しい太陽の光を反射させる青い海。そしてやや橙色の混ざった突き抜けるような青い空。遠目にはそれは大きな積乱雲も見える。
先頭を行くマゼンタの瞳の女の乗る翼竜は急上昇し、リックもそれに続くように手綱を手前に思い切り引く。
「おっ…おおっ…!」
結構な揺れと共に大きく翼を動かしてぐんぐんと上方へと羽ばたく翼竜。リックは思わず声を上げつつ下方を覗き込めば、遥か下に見える今居た島。美しい海はキラキラと輝いて、その前には追っ手の乗る複数の翼竜たちの影が黒く彩る。ふと顔を上げれば周囲には小さな雲が幾つも窺える高さになっていて、先頭を行っていたマゼンタの瞳の女の乗る翼竜が前方に見える、それは大きな積乱雲へと飛び始める様子が見えた。リックはそこで手綱を緩め、軽く翼竜の腹を踵で叩く。
翼竜は大きく羽ばたくのを止め、滑空するように飛び始める。先ほどの地下遺跡、海蝕洞窟を飛んでいた時は狭かったためか本領を発揮できていなかったようで、その時とは比べ物にならないほどの速度を出して。強く吹き付ける風は冷たく、びゅうびゅうと音を立て、目をまともに開けて居られないほど強いものだ。だが、目に付く光景はなかなか神秘的な物で、雲の柱と天井、床。まるで雲の宮殿…渓谷とも言おうか。そんな美しい光景が広がっている。
追っ手から大きく距離を離すそんな中、リックは己の前に横向きで府潰せに鞍の上に乗る、マリグリンの方へと視線をやる。心優しい、悪く言えば甘いリックは彼の身を気に掛けた様子で口を開いた。
「マリグリンッ、大丈夫か?」
「…俺の事なんて心配している場合かい?」
嘲笑の混じったような雰囲気、突っ返すような言葉遣いでマリグリンは俯いたまま言葉を返す。その金髪の前髪に隠れた目元は見栄はしないが、口元には皮肉っぽい笑みが窺えた。
…人がせっかく心配してやったのに。リックはマリグリンの反応に面白くなさそうに片眉を上げ、その後でため息を一つ吐くと、視線を自分たちの前方を行くマロンの乗る翼竜へと向ける。
「…ったく、人が心配してやってるってのに可愛くないな」
マリグリンは会話をするつもりはないようで反応を示さない。リックはそれにぶすっとした表情になりつつ今積乱雲へと突入しようとするマロンの方を注目する。彼女は片手に持った階層転移の本、それを後方にいる自分に見せつけるように左右に振ると、手綱を離して身体を横に傾けた。翼竜から飛び降りるかのような形で。そして積乱雲の中に突入し、その姿は見えなくなった。
上昇に時間がかかった追っ手と自分達。それの距離が離れたためか、気が付けば片手にある階層転移の本の絵は普段通り色付いたものになっている。…翼竜ごと階層転移をするとその先で人目に付きやすい。マロンはそう考えたのだとリックは彼女の手振りについて解釈すると手綱を離し、その手で後ろ手に拘束されたマリグリン腕を掴んだ。
その直後に積乱雲の中に突入するリックの乗る翼竜。先ほどまで見えていた雲の宮殿の神秘的な光景は打って変わり、充満した煙、もしくは濃霧の中に居るかのような一寸先すら見渡せない劣悪な視界状況にへと様変わりする。…雲の中というのはこうなっているのか。リックはそう思いつつ意を決したように瞳を閉じると翼竜の背から身体を横に傾け、その背の上から身を投げた。
「うっ…リック!?」
自分の腕を掴むリックの手。それに下へと向けて引っ張られる感覚にマリグリンは狼狽える。だが、多くの言葉を紡ぐ前にその身体は宙へと投げ出された。
「うわああああああああッ!」
絶叫するマリグリン。そんな彼の腕を離さないように、そして階層転移の本をしっかりと握ったリックは厚い積乱雲から抜けた後の曇り空の下、広がる海を眼下に映す。…人生初のスカイダイビング。これが太陽の光が燦々と照り付ける青い空の下だったら最高だっただろうと思いつつ、リックはその口元から歯を覗かせて、笑みを浮かべていた。
「リックぅぅぅぅ! どういうつもりだぁッ!?」
「…うるせえな。コイツ」
…もっと言えばうるさいマリグリンがいなければもっと良かっただろう。だんだんと迫る海面を薄く開けた目で見つつ、リックは階層転移の本を握った手の親指を動かす。もう少し楽しみたかったが、追っ手が自分たちに追いついて、転移ができなくなれば本当に海面に激突して死んでしまう。それが解っているから名残惜しく思いながらも彼の親指は30階層の絵へ触れた。
大きな積乱雲の下。遠目に太陽の光に照らされた海が周囲を囲うように見えるその場にて、リックとマリグリン。二人は光りとなってその場から姿を消した。
…それからしばらくたった後、積乱雲の中から現れる翼竜に跨った赤い鎧の追っ手たちが現れる。その一団に背に何も乗せていない翼竜4匹を引き連れて。
「だーれも居ねー! ちくしょー! やられたッ! くやちぃーッ! つか俺らやっべー! 給料下げられそう、怒られそう!」
侵入者。その身柄を抑えることなく取り逃がしてしまった追っ手。その先頭に居たリーダーと思しき中肉中背、コーヒーブラウン色のポニーテイルの男がハンカチを前歯で噛みながら騒ぐ。悔しさとその後の処遇。それらに頭を一杯にして。
ポニーテイルの男の乗る翼竜の隣に颯爽と現れる一匹の翼竜。それの上にはチョコレート色の良く手入れされたサラサラの顎髭を顎先に延ばす、軽くウェーブの掛かったチョコレート色のロングヘアの厳つい男。それは騒ぐポニーテイルの男を流し目で見て、口元に笑みを浮かべたキメ顔で親指をビシッと立てて見せた。それによって騒いでいたポニーテイルの男の声が止む。どことなく反応に困ったような顔をして。
「…ふっ、この俺様を誰だと思ってる? 責任転移のプロだぜ?」
低く、聞き心地の良い声で自信満々に男は言う。翼を羽ばたかせ、その場に滞空する翼竜の上で。ポニーテイルの男はそれに視線を左右に泳がせた後、彼の顔へ視線をやった。
「いや、でもよぉ。相棒。今回キッツくねえか?」
渋い顔をするポニーテイルの男は言葉を紡ぐ。なかば諦めたように。望みを失ったように。だが、顎髭の男の顔に浮かべられた自信満々の笑みは一切崩れない。彼は人差し指を左右に振って舌を鳴らす。
「今回は遺跡の中で翼竜を見張っていた奴らのせいにする…任せろ。大船に乗った気で!」
「おぉ…そっか。んなら…上手く行ったらモグモグカンパニーの最上級料理奢ってやんぜ。頼んだぞ!」
「あっ、これもう俺様の実力120パーセント出ちゃいそう。未だかつてないアクロバティックな責任転移出来ちゃうわ」
任務を失敗した追っ手たちの高笑い。それが大きく発せられて、止んだ後、彼らは手ぶらのまま先ほど自分たちが居た島の方へと戻っていく。
そしてマロンとリックの二人が体験した忙しい一日の出来事。その終わりの場となったそこは静かなものとなる。波の揺れる音。時折聞こえる海鳥の声。それだけが聞こえる静かな場所へと。
雲があるような高さに上がって高山病とか大丈夫なのかって? 彼らはある程度人間超越してるので大丈夫なのです。ちなみに積乱雲は結構低い位置にあるぞ! その底辺はな!
ちなみに白い半透明のドロップがレモン味。白がハッカだそうです。