不動産王柴犬チャームと一階層住人存亡の危機
星輝く空の下、高く、黒鉄色のお洒落な鉄柵に囲まれた敷地と、その中心にある白く大きな宮殿。初めて見た時はここが自分の家と呼べるようになるとは思ってもみなかったが、今ではもう見慣れた我が家。恐らく生涯において最も手に汗握ったであろう戦いに敗れた、それを見上げる花子の心にその佇まいは安心感と、少しの慰めをもたらしてくれた。
今日に限っては妙に風が強く、髪や装備のマント等が風に靡いて音を立てる。花子一行はその強い風から逃げるようにして白い宮殿のエントランスホールへ続く扉を開け、その中へと入った。
白を基調とした石造りのエントランスホール。正面には丸い噴水が見え、その向こうには半ばで二手に分かれる大きな階段。自分たちの足元には青い絨毯が真直ぐ敷かれており、伸びた先の噴水にぶつかったところで十字に別れている。その正面に伸びる絨毯の両サイドにはメイド服のNPCの姿が複数。その長いスカートの端を指先で摘まみあげて、頭を下げ――
「お帰りなさいませ」
と、とても落ち着いた声色で三人を出迎えてくれた。…眼帯の衛兵や今日会った青髪の美少年セラアハト。それらとは根本的にズレたものを感じる彼女たちは、人の温かみのない、まさにNPCといったもので、挨拶を終えると早々に散っていく。しかし、それらはここで暮らすようになってからの日常風景の一部。今更気になるようなものでもなかった。
「7時にはエントランスホールに集合な」
リックはそういって己の部屋の方へと向かい始める。
「えぇ」
「お休みなさい、リックさん」
花子は一言、シルバーカリスは丁寧にそれに挨拶を返すと、花子とシルバーカリスは一緒に階段を上り、自分達の部屋へと向かっていく。
「花ちゃん、何だかんだ言って楽しかったですね」
「…ふふっ…えぇ、そうね」
花子が自分の部屋の前に差し掛かったところで、二人は今日の事を振り返ったかのように、短い会話を交わす。上手く行きはしなかったが、上手く行かなかったからこそ楽しめたものがある。苦くも楽しかった今日の出来事。思い出になるであろうそれを噛みしめるような静かな笑みを二人は浮かべ、互いに軽く手を振って、花子は自分の部屋の中へと入った。
白を基調とした広い空間、複数の豪華な家具。窓際に並べられたホワイトボディのダブルベース、ピアノ、ジャズドラム。一日の終わり際、疲れた自分を出迎えてくれる部屋。その中にある天蓋付きのベッドの上に座り、その上を開かれた雑誌で盛大に散らかし、手の上にある開かれた雑誌を眺める上下黒ジャージ姿のライトアイボリー色の髪の少女。ミディアムレイヤーの髪を短く白い紐で後頭部で一本に結んでいて、その後姿はパッと見少年のようにも見える。
いつも自分の部屋に入り浸っているそれに花子はツッコむことなく、部屋の隅にある装備展示用のマネキンに右手に持った盾を持たせ、腰にあるグラディウス収まった鞘をベルトから外し、武器保管棚へとそれを掛けた。
「お帰り」
「アンタが出ていくまでには綺麗に片付けておきなさいよ」
ベッドの上に座る少女、マロンは物音で花子が帰ってきたことを察し、開いた雑誌を難しそうな顔で眺めたまま挨拶をし、花子はそれに若干刺々しい口調で返す。だが、マロンはそれに反応しない。いつもなら懐いた中型犬の如く纏わりつき、バカ話の一つや二つ振ってくるところであるが、今日に限っては毛色が違う。そのことに気が付いた花子は、マロンのところまで歩み寄り、彼女が目を通している雑誌を横から覗き込む。
開かれた雑誌には様々な島の物件情報が写真付きで載っている。どれも高額であり、そんじょそこらの木端ギルドが手を伸ばせるようなものではない。――まさか土地でも買うつもりなのか? そう思いながら花子はマロンの周りに散らばる、開かれた雑誌の方にも目をやった。
やっぱりそれらも30階層の島々や土地が纏められたもの。売主はその島を最初に占領したのであろうギルドの名前が書かれている。売主のほとんどがタバコカルテルの中央組織に当たるギルドである鋼血騎士団。…マロンから2億ゴールドで買い取った30階層のデータ。タバコカルテルのトップである柴犬チャームは支払った投資額より多くの利益をすでに手にしたようだった。
「マロン、アンタ30階層に家でも作るの?」
30階層のアクアマリンの海、白い砂浜。誰しもが心を引き付けられるであろう美しい自然。マロンも常夏のリゾート地を堪能したいのだろうと深く考えもせずに彼女が捲っている雑誌に目をやりながら、花子は何の気なしに問いかける。それにしてはとても深刻そうな顔をしている、とそんな風にも思いながらも。
「今、鋼血騎士団が観光案内とかいって30階層に到達できてねえ連中を30階層に続々と招き入れてる。1階層はもうだめだ。これからは30階層が一番人が集まる場所になる」
芸能事務所フルブロッサムの女棟梁マロン。深刻そうなその彼女の言葉は、事の重大さを外野である花子に確かに伝える。そして、マロンがこれから何をしようとしているのか、それすらも。
「柴犬チャームから土地買い取るってなったら足元見られるわよ。モグモグカンパニーのライブで稼いだお金もそうだけど、その前に30階層のデータを2億ゴールドで取引したことも指摘してくる。値切りはできないと思った方が良いわ」
「んなこたぁ分かってんだよ。…チッ…クソッタレがぁッ…安く売りすぎた。モノ確認してから商談するべきだったぜ」
マロンが分かり切っているであろう事柄をご高説する花子と口惜しげなマロン。花子の思ったことは既に考えた後のようで、さらっと流すと過去の己の行いを後悔したように低く唸る。
30階層にはすぐに行けるわけだし、ここから通うというのはダメなのだろうか…とも花子は考えたが、30階層の転移先のそれはもう小さな島。今現在でもそこの停泊場はほぼほぼキャパシティーオーバー状態で、これ以上人の往来が増えるようであれば、水上パイク等の乗り物を停泊させておける場所が確保できなくなることは目に見える。中小ギルドが運航しているフェリーなんかを利用するにしても、二時間に1本とかそういったレベルのものだ。フェリー一隻でも相当な金を積まねば作れないし、今後増やされるとは思えない。故にとても当てにできるようなものではない。
結果、30階層のどこかに拠点を持つべきというマロンが至ったであろう考えに行き着いたため、花子は口を噤んだままマロンの横から離れ、入浴のために着替えをキャビネットから取り出してそれを小脇に抱えると、部屋の中に備え付けてある浴室と脱衣場へと続くドアを開け、その中へと入った。
浴室の前の脱衣室にて、そこにあるタオルバスケットの上に着替えを置き、鎧と下着を脱いでから浴室へと足を踏み入れる。蛇口を捻り、潮風でべたつく髪や身体をシャワーで洗い流しつつ、花子は考えを巡らせる。――芸能事務所フルブロッサムの50人近い大所帯を留めておけるような場所。物件。遊び歩いていたからこそ出せる知恵を。
しばらくして思いつくのはモグモグカンパニーの島に聳える摩天楼たち。大き目のテナントを借りれば…と考えたが、あれは住居用スペースではなく、あくまでも商業用。中に居住スペースを作って寝泊まりしているところもあるであろうが、50人も詰めておけそうなものは無い。親友の力になってやりたいと言う高尚な思いと、あわよくば30階層に住めるのではという打算的な考え。それらから真剣に花子は考えつつ、蛇口を捻ってシャワーを止めてスポンジを使って身体を洗い始める。
いっそのこと未発見の島でも見つけに行こうかという突飛な考えも頭の中に過るが、理性がそれをバカバカしいと一蹴したことにより、花子はまた振出しに戻る。…やっぱり柴犬チャームが率いる鋼血騎士団から土地を買い取るしかないのだろうか。諦念と共に花子は思い、ため息を吐くと髪や身体に付いた泡をシャワーで洗い流した。
それからしばらくシャワーを浴びて身体を温めた後で脱衣所に戻り、バスタオルで身体を拭き、新しい下着と黒ジャージに身を包むと重たい鎧を両手に抱えて部屋へと戻る。…部屋の中のベッドの上ではまだマロンが難しい顔をしてそこにいた。
「アンタも真面目よね」
「あたしにとっちゃ死活問題なんだよ」
マロンと一言会話した後、花子は両腕に抱えた装備を部屋の隅のマネキンまで持っていき、それらをマネキンに几帳面なほど綺麗に着せる。それから雑誌に視線を落したまま、眉間に皺を寄せて難しそうな顔をするマロンの隣へと行ってそこへ腰かけ、ベッドの上に盛大に撒き散らされた雑誌の山を見て、苦笑を浮かべてからマロンの見る雑誌を隣から覗き込む。
「なぁ、花子ぉ。お前良さげな情報持ってねーのか? この一週間遊んで回ってるってリックが愚痴って回ってたし、詳しいだろ? 30階層の事についてよ」
少々引っかかる言い方ではあるが、マロン自身に他意はない。花子は少しだけムッとしたような顔をしはしたが、それが分かっているために突っ掛かることなく、彼女の問いかけについて考えを巡らせる。瞳を伏せ、その形の良い顎に右手をやって。
「そうね…纏まった土地を買って、その中から小分けにして土地を転売しているギルドがあるって話は聞いた時があるわ。それに付随して地上げ屋とか、土地転がししてる連中も出てきてるとかも。柴犬チャームから買うよりは安く済むんじゃない?」
「30階層の土地はこれからどんどん高くなるだろうし、そういう連中は出てくるだろうな。…そう考えると多少懐が痛んでも早いうちに土地買っちまったほうがいいかぁ」
マロンはその手に持った雑誌のページをペラペラと捲り、めぼしい物件が書かれたページを見つけてはそのページの上角に折り目を付けていっている。それらの物件に見られる特徴としては交通の便を意識してか海に面していること、そしてそこそこ広いこと。50人ほどいるフルブロッサムのアイドルたちの事を考えると妥当な物件選び。値段は土地だけで億単位のものばかりだ。当然マロン個人がそんな金を持っているわけはないし、芸能事務所フルブロッサムとしての買い物であることが推測できる。
「なんにせよ仕事何日間か休んで物件探しに時間割いた方が良いと思うわ。雑誌に書かれていない情報なんかも現地にはあるでしょうし」
「そーだな。…おい、花子。明日ちょっと付き合えよ。どーせ明日も30階層で遊ぶんだろ?」
マロンは姿勢を戻して両手を組み、それを頭の上に上げて背伸びをすると、さんざっぱら散らかしたベッドの上にある雑誌を己の方へと集めて纏め始める。その間に彼女が掛けた花子への問いかけ。それへの返事はなかなか返って来ず、聞き流されたのではと片眉吊り上げて気に入らなそうな顔をし、マロンは花子の方へと目をやった。
そこには白く燃え尽きたような顔をし、口元に寂し気な笑みを浮かべ、遠い瞳で絨毯へ視線を落とす花子の姿。…どうしちまったんだ? そう思いながら不機嫌そうな表情をやや困惑させたものにして、マロンが花子を見ていると彼女は瞳を閉じ、静かに口を開いた。
「ふふ…遊ぶことはできないの。もう私の全財産は200ゴールドぐらいしかないのだから…」
寂し気に言う花子の雰囲気はどこか涙の湿っぽさを感じさせるものだ。演技にしては迫真過ぎる。しかし、彼女が持っていたであろう金は一か月やそこらで散財できるような安いものではない。少なくとも柴犬チャームと取引した時の金、そして、一階層であったモグモグカンパニーの依頼を受けて行ったライブの報酬。それらを彼女は受け取ったはずなのだ。故に半信半疑といった様子で、マロンは花子の顔を訝し気に見る。
「何をどうやったらそこまで綺麗さっぱりこの短期間で消し飛ばせんだ? その感じからすると何か価値のある物と引き換えたってわけでもねえよな?」
「ふっ…強いて言えば思い出を買った…と言うところかしら」
花子の返答はどうも回りくどく、匂わせぶりなだけで要領を得ない。マロンは瞳を上へと向け、思考を巡らせる。思い出…良い思い出を作ってくれるような高額なサービス…ホストクラブで男にでも入れ込んで散財? 思い付きだけで思考を巡らせ、安易な結論に行き着く。しかし、当然その説は花子を良く知るマロンの中でありえないと否定される。花子は金で買った嘘や偽物で喜び、満足するような安い女ではないし、そんな虚しいことで自分を慰めるような可愛そうな奴でもない。有力な説が頭に浮かばないマロンが花子の方へ再度視線をやった時、前を向いたままの花子の口は静かに開かれた。
「――今日、博打でスッたのよ。貯金のほぼほぼすべてを…でも…最後負けるまでは4000万ゴールドもあったの…! あの勝負勝ってさえいれば…!」
語り始めは静かに。心地よい声色で。しかし言葉が紡がれるごとに声は震えていき、涙の潤いを感じさせるものとなる。言葉を言い切る時には歯を食いしばり、それは悔しそうな顔をしながら彼女は涙を流していた。見てくれこそ可憐な少女の告白の一場面。一つの絵になりそうなものであるが…まあ、言っていることは欲に翻弄されて身を滅ぼしたクズの戯言だ。同情の気持ちすら湧かないような。マロンはそれに苦笑を禁じ得ない。だが、そのしょうもない人間臭さ。4000万ゴールドを得るまでに張ったであろう勇気。無謀だったかもしれないそれは、マロンが花子を好く一つの要素。心の片隅ではマロンは花子へ敬愛の念を感じていた。
「……普通全財産突っ張って殴り合うか? もうちょっと負けた時の事とか考えねえ?」
だが、ダメなやつを目の前にした気持ちの方が遥かに強い。マロンはその目を座らせてジト目で花子の顔を見据えながら、思ったことをそのまま口に出す。呆れた風に。それに対する花子はとても感情的な様子で過敏な反応を示し、その表情に怒り混ざらせ彼女の方へと勢いよく振り返った。
「うっさい! フルハウスよフルハウス! 6のスリーカードにクイーンのワンペア! 負けるなんて思うわけないじゃない! あそこで勝負しない奴は一生地べたを這いつくばる奴よ!」
自棄。今の花子の状態はまさにそれ。手のつけようのない状態だ。しかし、彼女の言葉はどうも突っ込みたくなるような魅力的なもの。マロンは一瞬迷ったように視線を左右に動かしたが、誘惑に負けたようで太々しく、あざ笑うような笑みをその顔に浮かべた。
「ほんで…天辺から滑り落ちた後の地べたの味はどうだよ? 花子ちゃん」
茶目っ気を含んだ笑み。皮肉たっぷりな突き刺さる問いかけ。それは花子の心へクリーンヒットし、暴挙を誘発させるには十分なダメージとなる。花子は腹の虫がおさまらない様子でベッドから立つと、マロンの前に立った。
「今のはかなりムカついたわ! その横っ面引っ叩かせなさいよッ!」
「やなこった」
マロンを見下し怒った花子。その様子が可笑しいのかマロンはケタケタと笑い声を上げるだけ。その笑い声は今とても感情的になっていて、脆くなっている花子の堪忍袋の緒をやすやすと掠り切り、その左手を振り上げさせる。
「――うおっ…マジでやんのかよッ」
マロンの方へと振り下ろされる花子の平手打ち。しかしそれはマロンの右手の甲によって防がれ、彼女の頬を叩くことはなかったが、マロンは本気だとは思っていなかったようで酷く驚いたような顔をしている。その目を丸くして。
「喧嘩売ってきたのはそっちよッ! その締まりのない横っ面に張り手で紅葉マーク作ってやるわッ!」
「わっわっ! 待て待てッ! 悪かったってば!」
「問答無用ッ! 覚悟なさい!」
怒る花子と宥め、今更許しを請うマロン。そろそろ誰もが寝静まるであろう時間。今日という日の終わりに騒ぎ始める二人。だが、幸いしっかりとした作りの白い宮殿の部屋は他の部屋にその物音を届かせることはなく、他の者たちの眠りを妨げはしない。故に止めに入るような者は現れる気配すらない。室内に響く拳と拳を交えるような音はベッドの上に重いものを落としたような音と共に止み、取っ組み合いでもするかのような音に変わる。未だに熱気の冷めぬ夜。それはもう少しだけ長続きしそうであった。
バカやってしくじった思い出もそれはそれで味わい深いものだと思うの。完璧な物にはない趣き…ワビサビ!