親友へ
黒く厚い雲。降りやまぬ雨。風は強く、雷鳴が轟いて、時折暗い大地を稲光が鋭く照らす。厚い雲の上にあった日が沈んだ時刻。より暗く、より冷たく。誰もが今日という日、一階層の外へ出歩こうとはしないであろう街中を、真っ暗なその空の下よりもさらに暗い黒のマントと黒頭巾を身に着けた少女は歩いていた。
激しい雨でぼんやりとボケて見える街灯の明かり。綺麗に並べられた街路樹は風と強い横殴りの雨粒で音を立て、ざわめいている。嘗ては家路と呼んだそこ。高級住宅街のその道を黒頭巾の少女は行き、たった一週間だけ自分の家としていた白い宮殿を中心に置いた敷地へと続く、鉄格子の門の前に立つ。
正義とか悪だとかそんな高尚なものではない、ただの私怨。ただの独りよがり。気取り屋で格好つけの矜持にかけて、自分が好きな自分であるための意地を通さんと花子はそこに居た。
マントの中の左手で、黒革の鞘に収まったグラディウスを抜き、その左手を隠して一呼吸置くと正面の鉄格子の門を蹴破る。それにより鉄格子の門に掛けられた洒落たデザインの錠前は拉げ、派手な音を立てて門は開かれて、そこから花子は悠々とした歩みで敷地の中へと入っていく。降りやまぬ雨の中、遠目に見える白い宮殿を視界に捉えたまま、時折背後で光る稲光を背にして。
広大な敷地の中に立てられた時計。その短針はもう8を指している。探し出すのに時間がかかると思っていたピエール吉田が案外早く見つかったので、のんびり夕食を摂っていたためにこんな時刻になってしまった。だが、水を弾くマント越しに感じる雨水の冷たさに冷えた身体を十分に温めることが出来た。冷えて硬くなっていた身体の動きも少しはマシなものとなっていることを感じる。
花子は白い宮殿の出入り口の扉の前に立つ。鋼血騎士団とやりやったあの日の夜の会話。あの時確かに違和感を感じては居た。そしてその時からまたここに帰ってくるのではと。花子は感慨深そうに口元に笑みを浮かべた後、足を前へと突き出して、扉を蹴破った。
「――お帰りなさい。花子」
バキャッ、と派手な音を立てて勢いよく蹴破られた扉の向こう。広いエントランスホールの噴水の前に、爪を両腕に装着した赤と白のローブ姿の柘榴が立っている。花子が此処に来ることを見越していたかのような落ち着いた態度で、中へと入ってくる花子へ声を掛ける。今日に限ってエントランスホールの明かりは心細い程度の明るさで、暗く、人気もない。
「…私がここに来た理由は分かってそうね」
花子の碧い瞳と、柘榴の赤い瞳が視線を交差させる。お互い真直ぐ見たまま、視線は動かない。そこには憎しみや悪意、害意…敵意などは一切ない。強いて言えば対立しながらも、尊敬し合う友に向けられるものがそこにはあった。
「一週間前、貴女にいろいろ聞かされた後、もしやと思ってマロン先輩を問い詰めたらいろいろ話してくれたわ。全く。水臭いんだから。あの人」
柘榴は笑い、瞳を伏せた。これから始まるであろうことを察する人間とは思えぬほどのとても穏やかな表情で。
「そう。でもアンタには私と戦う理由なさそうだけど」
野暮だとは思いつつ、理屈、道理の観点からの意見を述べてみる。少し意地悪な笑みを浮かべて、静かな表情の柘榴の顔に目をやりながら。柘榴はそれにわかっているくせにとでも言いたげな笑みで返し、瞳を閉じて首を左右に振った。
「普段から自分を偽っているとね…貴女みたいにありのままで居る人がとても格好良く、眩しく見えて憧れるものなの。たった一週間だったけど…傍らで見ていて、いつの間にか私も格好を付けたくなってしまった」
長い刃の五本爪を装着した腕を、その小さな身体の前で柘榴は静かに交差させて瞳を閉じて語り始めた。聞き心地のよい、静かで、透き通った声で。今攻撃を仕掛ければ結構なアドバンテージが取れそうではあるが、花子はそんな無粋な真似をするような女ではない。嵐の前の静けさの中の余興。それを存分に楽しむことにする。
「仮にマロン先輩が貴女にやられたとしても、何かを奪われたりするわけではないことは分かっている。それでも私は…マロン先輩をトップとしたこの芸能事務所フルブロッサムの一員としての矜持から貴女と戦う。人には勝てないと分かっていても、意味がないと分かっていても…自分を貫き通すために戦わなくちゃいけない時だってある。貴女ならこの理屈、よくわかるでしょ?」
語り掛けながら、交差した腕をゆっくりと解き、ゆっくりと身構えていきながら、強い意志の宿る瞳で柘榴は花子を見据えた。
「えぇ、よくわかるわ」
花子は優しい目をして微笑むと、短く返事を返す。雰囲気が変わった柘榴の様子は余興は終わりを確かに花子に伝える。あとは剣を交えて語るのみ。花子は左手に隠した抜身のグラディウスを左に突き出し、マントを翻して外へと出すと、グラディウスと盾を構えた。
「行くわよ」
「いつでもいいわ」
花子と柘榴。その二人の間で言葉は短く交わされて、それを合図に二人は各々の方へと向かって地面を蹴った。
噴水から噴き出落ちる水が水面を叩く音のほかに軽快に石の床を踏む音と、間も無く、金属の爪が骨の盾を滑る音、骨の剣が爪を叩く音が室内に響き、追撃を恐れた柘榴は花子からバックステップして距離を取る。ライブでレベルが上がったのは花子だけではなく、レベルが低ければ低いほどレベルが上がりやすいゲームの仕様上、共に過ごした一週間で行った稽古よりもフェアになった戦い。しかし、まだレベル的な優位は花子にある。力で押し切られてしまう距離は良くない。柘榴はそう考えていた。
下がった柘榴を花子が追う。盾を前に構えて。柘榴は花子の右手側に回り込むようにして移動し、グラディウスがうまく扱えないであろう右側から、盾を下から捲り繰り上げるような動きで下から上へと左腕に装着された爪を突き出した。右腕は突き出されるであろう盾をガードするために遊ばせたまま。しかし――
「っ!?」
爪の先が盾の下へと潜込みかけえた時、花子は止まり、右腕を真横に開きつつ半歩ほど下がってその爪を躱し、その鋭いグラディウスの剣先を柘榴へと向けた。振り抜かれた爪の合間を狙うように、刃を縦方向に立てて。その時の花子はとても冷静な表情で、対照的に柘榴は躱されたことに目を見開き、驚いた様子で。そしてすぐに花子のグラディウスの剣先が柘榴へ向かって動き出す。
「――なっ…!」
半身になって身体を伸ばしたその突きは、伸びきった柘榴の爪と爪の間を通り、柘榴の身体へと一直線に進んでくる。柘榴は盾の突きを警戒して遊ばせていた右腕の爪を咄嗟に自分の身体の前へと持ってきて、その甲でグラディウスの先端をガードしたが、軌道を逸らしただけでそれは止まることなく、爪の甲を滑り、柘榴の薄い肩へと向かった。
「いっ…ああぁあっ!」
花子の白いグラディウスの先端は、何枚重ねかの身体が大きく見えるローブの厚い布と共に柘榴の右肩を貫いた。間も無く上がる甲高く悲痛な柘榴の声。眉間に深い皺を作って、強く瞳を閉じてそれは発せられるが、すぐに見開かれた目はまだ闘志を失った風ではなく、花子の碧い目をしっかりと見据えた。間も無くグラディウスが通された左腕の爪を彼女は引き、腰下に構えて突き出さんとする。それと同時に花子はグラディウスから手を離した。
間も無く突き出される柘榴の爪。痛みで揺れるそれを花子は盾で内から外へと反らし、腰後ろに持って行った左手で今日手に入れたばかりの大振りのダガーを抜くと逆手に握り、拳を突き出して柘榴の白く細い首の側面を横に軽く裂いた。
――訪れる少しの静寂。後ろに倒れかけた身体を戻すために踏ん張り、身体を前へと傾かせた柘榴は口元に攻撃的で、苦しそうな苦々しい笑みを浮かべると最後の力を振り絞って爪を前のめりに、当たるはずもないほどに遅いそれを花子の方へと突き出して、倒れ掛かるような形で崩れ落ちた。
花子はその爪の内側へと踏み込み、彼女の小さな身体を身体で抱きとめると左手に持ったダガーを腰後ろの鞘へと戻し、その手を彼女の背から後頭部へと回す。花子の身体に身を預ける柘榴は糸が切れた人形のようにぐったりとしていて、身動き一つすらしない。彼女の意地、矜持。それをまざまざと見せつけられた花子はその柘榴の身体を青い絨毯の上に仰向けに寝かせ、手で虚ろな瞳を閉じさせるとその背に回した腕を解いて、その右肩に刺さるグラディウスを抜いた。
「…柘榴。アンタ、格好良かったわよ」
花子は噴水を回り込むようにして移動し、噴水の向こう側にある階段へと進む。そしてその一段に脚を掛けた時、一階の廊下の方から駆けてくる複数の音が聞こえた。
振り返れば、かつてのアイドルの仲間たちの姿。戦闘用の装備に身を包み、その手に武器を持ったレベルだけが高い、大して戦闘経験もない少女たち。しかしきっと柘榴と同じ心境なのだろう。皆が皆、先ほどの彼女と同じような目をしている。
彼女たちは鋼血騎士団のメンバーと違って戦闘経験はほぼないに等しい。戦い方を考えれば倒せないこともないであろうそれらを見、花子は身体をそちらの方へと向けて、盾を構えつつ後ろ向きに階段を一段一段上がっていく。自分からは攻めない。囲まれれば袋叩きに合い、戦いにはならないのは目に見えているから。
「…皆ッ! 行くよッ!」
その手に持った片刃の剣を振り上げ、先頭に立っていた少女が吼える。それにより、花子の居る階段の方へと駆けあがってくる嘗ての仲間たち。戦いの前に感じる高揚感と口の中に広がる妙な味。それを感じながら花子は笑う。その口元から白い歯を覗かせて。
*
その中で響く武器と武器とを打ち合わせる音。それは場所を変え、白い宮殿の中で上がる。
長く建物の中を騒がせた少女たちの声と戦いの音、それらが止んだとき、花子は自分を追って来ていた最後の一人である少女の腹部に深々とグラディウスを突き立てていた。
「――奥で…マロンが待ってる…」
腹部を刺された少女は、花子の耳元で掠れた絞り出すような声で囁くと花子から自ら離れて仰向けに床へ倒れ、動かなくなった。敵であり、友人である者への敬意。動かなくなった少女と同様、花子もそれと同じ気持ちを抱いていた。
その少女を目の前にする荒い呼吸を整える花子の身体には、刃物や鈍器によって攻撃されたことを示す、光る攻撃を受けた痕がところどころにあり、彼女の視線の端に映るHPバーはもう押せば倒れるほどに心細いものだ。戦いに支障をきたすほどの深い傷を貰わなかったからこそ痛みに耐えられ、平静としていられる。
花子はこの白い宮殿の三階最奥区画を目指しつつ、小物入れの中に手をやった。いくつかあるポーションの小瓶が指に当たる。しかし、どれも中身が入った重さのものはない。フルブロッサムのアイドルたちとの戦いですべて使い切ってしまったことを花子はそこで理解すると、危機的な状況ではあるが、その状況すらも楽しんだ様子で口角を吊り上げる。
大きな宮殿の中を暫く歩き、宮殿と最奥区画を繋ぐ奥にも横にも広い橋へと行き着く。屋根のないそこからは湿った冷たい風が吹き付け、雨脚止むことない空を伺える。
花子がそこへと進みかけた時、轟音と共に稲光が閃いた。
その光により、橋の向こう側に立つ人影が見え、それは最奥区画の建物から橋の上を歩き、雨に濡れながら進む花子の方へと近づいて来る。暗がりに慣れた花子の目は、白革と金属の鎧に身を包んだライトアイボリーの髪の少女の姿をハッキリと捉えている。
――その顔には確かに、静かで穏やかな笑みが浮かんでいた。
橋の中心へと進む花子とその少女、マロンは橋の中心を挟む形で立ち止まる。花子もマロンも口元に柔らかい笑みを浮かべ、だが互いの瞳を強い意志宿る目で見据えている。降りしきる雨はそこでだんだんと勢いを弱めていき、何度か雷鳴をとどろかせた後、厚い雲が空から引き始める。
「お前なら来てくれると思ってたぜ」
マロンは剣を抜かず、己の腰の小物入れに手を入れると不透明の黄色い液体が入った小瓶を一本取り出し、それに口を付けて少し飲んで見せ――鞘にグラディウスを戻した花子の方へと放った。
「ふふっ…アンタのそういうところ好きよ」
花子はそれを左手でキャッチし、それに口を付けて一気に飲み干して橋の下に空になった瓶を放る。花子の視界にあった頼りない厚さのHPゲージはそれによって最大値になり、身体に感じていた痛みや疲労等はさっぱりなくなる。
「だろ? 自分でも結構気に入ってるぜ」
一週間ぶりに会う気の合う友人との会話。花子もマロンも楽しんだ風に、やや声を弾ませる。その間の表情は二人とも穏やかなものだ。雨脚は弱まったものの、今もなお降りしきっている。
「聞いてもいいかしら? なんでNPCの店を襲うように仕向けたの?」
「察しはついてんだろ? 聞く必要あんのか?」
「アンタの口から聞きたいのよ。この事件の全容をね」
「…そうだな。良いぜ。話してやんよ」
お互いの瞳を見据えたまま、花子とマロンは言葉を交わす。最初の挨拶の時にあったような柔らかい雰囲気は雲散霧消し、空気は次第に張り詰め始める。
――だが、嫌な緊張感ではない。お互いが好きな相手の己を貫かんとするありのままの姿。損も得も悪も善もないそれ、見ているだけでたまらない気持ちになっていくそれは、二人の心に言葉にするには難しい高揚感を与え、二人の瞳に危険な輝きを灯す。
「あたしの目的はNPCの店を殲滅し、NPCをプレイヤーの店に誘導することだった。NPCは数が多く、金を一定数使ってくれる。時間経過によって無限に金を生み出してくれる存在だ。その金が一階層のプレイヤーの店に流れれば、そいつらから仕事を貰う芸能界…あたしたちにとって利益に繋がる。まぁ、詰まるところあたしらんところにより良く金が来るように地ならししたってだけの話だな」
マロンは一度口を閉じ、双眸をゆっくりと閉じると小雨を降らせる黒い雲が覆う空を仰ぎ、再度双眸を開いて暗い空を見上げながら、どこか遠い目をしてさらに続ける。
「何かと世話になってる屋台通りのおっさん連中の商売敵を黙らせること、序でにあたしにくっ付いて来てくれる連中の懐も温められると思った。結局のところ…あたしはな、恩を返したかっただけなんだよ」
借りは借りでも花子のような報復ではなく、恩返し。マロンはそれに固執するタイプだったようだ。所謂義理。彼女の心の中に一本通るもの。ピエール吉田に協力していたのもこの優しい性分からであろうことが花子にはなんとなくわかる。
――そしてそれが、花子が憧れる優しさ。包容力。最も惹かれるマロンの好きな部分だった。
「薄利多売のギルド…ね。もしかしたら柴犬チャームは一度目の襲撃事件は自分たちを蹴落とすためにモグモグカンパニーがやったことだとでも思ったのかもしれないわね」
芸能事務所フルブロッサムでの一週間。確かに精神的に苦い思いをした一週間であったが、それを差し引いても楽しい日々だった。それらの日々を脳裏に思い浮かべつつ、花子はその口元を柔らかく綻ばせて何か伝えたげな意地悪い目でマロンの顔を見る。
「へっ、そうだったならおっちゃんが捕まった遠因はあたしかもな。でもおっちゃんが外交しくじってこじれたのは事実だし謝らねえ」
言葉にしなくとも言わんとしていることがさも当然のように伝わる。マロンは空の方へ視線を向けたまま、口元に白い歯を覗かせた。雨脚はさらに弱くなり、黒い雲の隙間からは青い光を纏う星々がその姿を覗かせ始めている。
「暗殺ギルドとどうやって接点を? 盗賊ギルドのお友達だったとか?」
花子は更に踏み込む。蟠りを残さないように。マロンもその気持ちは同じようで、嘘を付いたり、ごまかしたりする素振りは一切伺えぬ、真直ぐな瞳で花子の瞳を見返す。
「ナイトランナー経由で関わった時ある暗殺ギルドなんてのは、名ばかりの奴らばっかりだった。今回の件で仕事を任せた連中は全く知らねえ。一回目のライブが終わった時、向こうから接触してきたよ」
彼女の瞳は嘘を付いた風ではない。――だが、どうも腑に落ちない。金を持っているプレイヤーに手当たり次第に営業でもかけているのだろうか。今はマロンの仕事を請け負っているからほかに営業をかけていない? 花子はどうにも作為的なものを感じずには居られない。無論、その花子の目の前のマロンもそう思った雰囲気であるが、彼女にとって目的が達成できたかどうか。それだけが考えるべきことのようで、それ以上語ろうともしない。
「それで一回目のライブで手に入れたお金を全額使って襲撃事件を起こした…と」
「あぁ。柘榴が怪しんでたからお前もそこに気が行くんじゃねえかと思ってたけど…案の定か」
マロンは自分の過去の苦しい言い訳を苦々しく嘲笑し、瞳を閉じた。一週間前の送別会の後、柘榴にそこを突かれて自白する羽目になったのだろう。それを見る花子は小憎たらしい笑みを口元に浮かべた。
「アンタ嘘つくの下手なのよ。猫耳メイド学園で話振った時、少し考えたような顔してたでしょ? あれが決定的だったわ」
「泳がせてやがったのかよ。ちぇっ、なんか癪に障るなぁ」
マロンは閉じた瞳を開いて唇を尖らせる。気心知れた友人との会話。しかしお互い動かぬまま、ただ会話だけを交わす。
「アンタはいつ頃私の腹積もりに気が付いたのよ」
「確信を得たのは猫耳メイド学園の時だけど、その可能性を感じたのは最初に会った時だな。おっちゃんに借り作ったって言ってたろ? お前。初期装備のシルバーカリスいたし、地下牢獄から出てきたんじゃねえかなって思ってね」
「あら、最初も最初だったのね。まぁこれで…私がこの一連の出来事に巻き込まれたのは本当に偶然だったってわかってスッキリしたわ」
「――巡り合わせってのはおもしれえな」
「えぇ、そうね」
花子が相槌を打ったところで二人の会話は途切れ、ほんの少しの間、沈黙がその場を支配する。そして、その沈黙は黒革の中に納められたグラディウスが花子の左手に抜き放たれる音によって終わりを告げた――。
「マロン、決着を付けましょう」
花子は凛とした顔をしてマロンを真直ぐ見つめる。その透き通る声を目の前の友人へとかけて。
マロンはその反応に驚いた様子も、意外に思った風にもしない。ただ、静かに瞳を閉じて口元に笑みを浮かべるだけ。その空気を味わうような笑みを。自分が知る友人である花子ならそうするであろうことが分かっていたから。期待を裏切らないその反応にどうにもたまらない気持ちがマロンの心を満たしていき、それは彼女の双眸を開かせてその顔に静かではあるが、好戦的な笑みを浮かべさせる。
「そうだよな。ただ報復しに来ただけだよな。テメーの意地貫くためによ」
腰の左側に差された二本の曲剣にマロンは手をかけ、それを抜き放った。まだ雨は降りやまず、しかし、雲と雲の間から差し込む青白い星々の光は濡れた大地、建物、花子たちに降り注ぎ、水滴で濡れたそれらをキラキラと冷たく輝かせる。
――花子とマロンは同時に瞳を閉じ、深く深呼吸して瞳を開き、顔を前に傾け、眉間に深い皺を作りながら互いの顔を上目で睨む。敵を見る表情、危険な光の宿る炯眼で。そして各々口を大きく開いた。
「行くぞぉぉぉぉぉッ!」
「うおおおおおおおッ!」
間も無く響く二人の咆哮。マロンと花子は声を張り上げながら白い石材の床を蹴り、今最大の敵であり、友でもある互いの元へ駆けていって各々の得物を激しく打ち合わせた。それにより金属と石とでも打ち合わせたようなけたたましい音が鳴り響き、二人の視線はより近くで交差する。
――確かにその時の二人の顔は笑っていた。善も悪もないただ意地を通すためだけの、我を通すためだけの、因縁に決着をつけるための戦いの始まりに。
マロンの方がレベルは上。しかし、得物は力というより刃の当て方や引き方などが重要になる器用さ、技量で勝負する曲剣だ。華奢なそれはグラディウスよりも力が込め辛く、鍔迫り合いや打ち合いに向くものではない。剣の根元で受けることが出来るなら単純な力比べが出来るかもしれないが、武器の質は花子の方が上。曲剣の方が持たない。マロンはそれが理解できているため、剣を打ち合わせた直後に対の手に握る曲剣を身体が伸びない程度に軽く、牽制狙いで花子へと突き出した。
花子は身を低くしてそのマロンの突きを盾で逸らし、なおも前へと出てこようとしている。斬りつける事も出来はするが、グラディウスの真価は刺突だ。対して曲剣は斬りつける事に適しており、より深く刃を肉に潜り込ませるためには勢いをつけるだけの距離が必要。超接近戦になれば分が悪く、花子がそれを狙ってくるであろうことはマロンは理解していた。加減して伸ばした腕をそのままに、肩を引いて勢いをつけ、突き出される盾に対し、マロンが膝蹴りを放つ。
「――ぐッ!」
それにより花子の勢いが止まり、直後にマロンによる返しの刃が下から上へと向かってくる。花子はそれを思いっきり後ろに仰け反って躱し、背面回りで後転するとマロンから距離をとった。
――顔を上げれば半身になったマロンが振るう上段から振り下ろされる曲剣。花子はとっさに逆手に持ち替えたグラディウスでそれを受け、態勢が伸びたマロンはそれ以上の追撃は危険と踏んだようで、バックステップして距離を取った。彼女は態勢を元に戻した花子を攻撃的で楽しそうな笑みを口元に浮かべて眺めている。気持ちが抑えきれない様子で、胸がいっぱいといった様子で。
「ふふっ…クックックッ…花子ぉ。やっぱお前良いよ。最っ高にたまんねえ女だ。男が男に惚れるってあるよな。今あたしはお前にそんな感じだぜ。完っ全にイカれちまったよ」
マロンは今心にやってきている気持ちの高ぶりに目をギラつかせながら笑う。男だとか女だとかそういったものを抜きにした物。その生き様や考え方、精神的な部分とその強さ。それらに強く惹かれるそれ。心酔。マロンはそれを強く感じている風で、ある種の憧れを抱く人物、それが好敵手として自分と刃を交えているこの状況がたまらないようだ。
「ふっ…良い顔するわね。格好いいわ。私の次にね」
「相変わらず口の減らねえ女だな。そういう遠慮なくて生意気で…媚びねえところがあたしの心を躍らせやがる」
二人は武器を構え、広い橋の上を円の軌跡を描くように歩きながら飛び込める隙を伺う。虎視眈々と、互いのその危険な光の宿る炯眼を見据えつつ、口元に好戦的な、この戦いを楽しんだ様な笑みを浮かべて。
そして少しの間睨み合った後、花子がマロンの方へと踏み込み――
マロンは花子が盾を持つ右手側へと回り込んだ。
花子の左手のグラディウスが盾により自由に振れず、グラディウスとマロンの距離が最も遠くなるそこ。マロンは花子の持つグラディウスより長い右手に持った曲剣を操り、下から上へと刃を振った。
右手の一撃を盾を下げて受けた花子。しかし思っていたような衝撃は盾越しに伝わってこない。その牽制としか思えない力の入っていないそれに危機感を感じて目を見開き、すぐ頭上に迫っている左手の一撃をグラディウスで咄嗟にガードする。
――前に強引に突っ込んで肩当で攻撃を受けるべきだった。花子が後悔した時にはもう遅かった。
盾は下へと下がり、グラディウスを上に掲げたその不安定な態勢。力を入れずに振られたマロンの右手の曲剣はすぐに再度振られ、その花子のグラディウスを持つ左腕を内側から捉えた。それは縫い込まれた細い巨人の骨と硬い黒革を切り裂いて、花子の左腕の肉へと深く潜り込む。
「ッ!」
左腕に走る激痛。左手に握られたグラディウスは床へと落下し、だが、花子はその痛みをギリリと音を立て、思い切り歯を食いしばって一時的に堪え、右手に持った盾を次なる攻撃をしようと左手を動かすマロンへと突き出した。腕の半ばまで斬られたのに痛みを堪えて攻勢に出たこと、マロンにとってそれは想定外の動きだったようで、それはマロンの胸部を捉え、マロンの小さな体を後方へとよろめかせて、その衝撃は左手に持っていた曲剣を手放させる。
「…ッぐッあぁああッ!」
精神力だけで身体を動かした後、花子は腕から感じる痛みに唸るように絶叫する。骨まで達したマロンの一撃は今まで味わった時のないほどの痛みだ。身体か冷たい嫌な汗が噴き出してくるのが分かり、呼吸が浅く、より荒くなる。腕はもう引っ張ればとれてしまいそうなほどで、腕の半ばから何か重たいものがぶら下がっているような感覚が痛みと共に伝わる。
それに対するマロンは呼吸が出来ていないのか左手を胸元に当てて、そこに強く握った拳を押し当てている。歯を食いしばって眉間に深い皺を作りながら。牙を向く狼のように。
大きくダメージを負った二人ではあるが、視線は互いに向いたまま。その闘志の弱まった風のない瞳でお互いを見据えたままだ。
「…はぁ、はぁ…死ぬかと思ったぜ」
「うっ…ぐぅ…はぁっ、はぁ…はあっ…」
少しして呼吸が出来るようになったマロンは態勢を立て直し、花子は呼吸を浅くしながら歯を食いしばって身構える。盾を己の身体の前へと出して。
「――花子。これで勝負ありじゃねえか? 武器もねえ、片腕に深刻なダメージを食らってる…お前そのままだと辛えだろ」
痛々しい姿の花子。マロンは思いやり以外の何物でもない言葉を掛ける。奮闘した友への敬意を込めた優しい言葉を。しかし、花子はそれに首を横に振った。
「…まだだッ…まだ終わってない。私は…まだ、立っている…!」
手負いの獣のような雰囲気の花子の目はまだ死んではいない。確かに闘志を宿し、マロンを見据えている。マロンはその強情な花子の直向きな姿勢に目を細めて瞳を伏せ、口元に優しい微笑を浮かべた。絶対に折れない不屈の精神を見せる花子に敬愛と愛しさに似た感情を抱きながら。
「…わりい。あたしの悪い癖だな。オメーのこと情けなんて言うぬるま湯で侮辱するところだったよ」
何も持っていない左手を腰後ろにやり、マロンはその手にダガーを抜いて再度身構えた。いつもはヘラヘラしているその顔が引き締まった凛々しいものとなり、凛としたその目つきがより力強いものとなって、手負いの猛獣のような雰囲気の花子を真直ぐ見据える。
「――終わりにするぜ」
マロンは小さく言うと盾しかもっていない花子へと向かっていく。花子はそれに反応し、盾をマロンへと投げつけ、マロンはそれを右手に持った曲剣で外側へと弾き飛ばし、花子の身体に肉薄する。その左手あるダガーの刃を冷たく閃かせて。
花子はマントの中に右手を入れ、何かを取り出そうとしている。しかし、もう遅い。後は刺すだけ。間合いに入った花子の身体に向けて、マロンは左手に持ったナイフを突き出した。花子の胸部に接触するその直前、花子はそれに左肩から体当たりし、肩当に当たって逸れた剣先は花子の二の腕を深々と刺した。大きなダメージにはなるが、急所ではないそこを。
「ぬぅあああああああッ!」
痛みをかき消すかのように上がる花子の猛々しい咆哮。鬼気迫る表情。マロンはその行動に面食らったような顔をする。――肩当で攻撃を防御しようとしたのだろうが、次に繋がる行為なのか? ただ止めを刺されるのを遅らせただけでは? ただ意地がそうさせたのか? マロンにはその真意が分からない。
「――お前っ…!」
答えはすぐに出た。真っ黒いマントの中から現れる幅広で大振りのダガーの剣先が放つ鈍い輝きによって。
マロンはそれを目の当たりにして目を見開く。深く二の腕に刺さったダガーはすぐには抜けず、全身から噴き出る冷や汗の冷たさを感じ、戦慄に奥歯を噛みしめて――。
「うぐっ…!」
マロンが己の身を守ろうとした時にはもう何もかもが遅かった。見開かれたマロンの瞳に映るのは深刻なダメージを食らってもなお突っ込んでくる猛獣のような勢いの、確かな意志の宿る瞳を携えた花子。――泥臭くも作り出した最後のチャンス。彼女の手に握られたダガーの先端が、マロンの腹部を守る厚く硬い軽装鎧の白革を切り裂き、間も無く腹部に到達してドカッと音を立てて根元まで深々と突き立てられる。半ばから取れかけたまともに動かない左腕を彼女の背の回し、さらにダガーをより深く押し込んで。
――パラパラと降っていた雨が止んだ。空を覆っていた雲は消え失せて、見慣れた満天の星と月から成る空からの青い光が雨に濡れた花子とマロンの姿を照らし、水滴が爛々と青く柔らかな光を反射させる。
「…かはっ…っ……はっ…はっ…」
――致命傷だった。口を大きく開け、やや空を仰いだその顔は虚空を見つめ、目を大きく見開きながら。その一撃を受けたマロンは、花子の取れかけた腕の中で小さく苦しそうに息を漏らし、すぐにそれを弱弱しい物にしていき、重くなってくる瞼を下しながら瞳を曇らせ、虚ろなものとしていく。しかし右手に持った曲剣は固く握られたまま。その剣先が花子の膝下まで伸びた黒革の鎧のフォールドを弱く叩く。抵抗にもならぬ身じろぎをしているが、次第にそれも弱くなっていく。か細い灯が消えゆくように。
その彼女の瞳が曇りきる前に、双眸に花子の右手が被せられ、その瞳が閉じられたことによって戦いの終わりをマロンは知る。それによって彼女の小さな身体は糸の切れた人形のように脱力し、花子の身体へと力なく凭れ掛かった。
「……マロン、借りは返したわよ」
浅い呼吸を繰り返しながら、腕と肩にある意識が朦朧とするような痛みを感じつつ、花子は全身に冷たい汗をかいて、その動かなくなったマロンの耳元で囁く。その口元には、その小さな好敵手であり、親友でもある少女の奮闘を称える優しい笑みが浮かべられていた。友情と敬愛と勝利の喜び…それらをたまらなく感じながら、花子はそこに立ち尽くし、やがてマロンをその腕の中に抱いたまま、膝を床へと突き、座り込む。肩と腕にある深刻な裂傷からの出血ダメージ。それは花子の残り少ないHPを蝕んでいき、間も無くその意識をかき消した。
雷雨が過ぎ去った直後の澄んだ空、空気。意地のない利口で味気のない人間からしてみればほんの詰まらない、取るに足らない戦い。誰もが己の誇りにかけて戦い抜いたそこを、ただ静かに月明かりが照らす。聞こえるものと言えば吹き抜ける風の音だけ。その静けさは、二週間前から始まった花子の因縁の物語の幕を引く。ただ静かに。戦いの熱気を冷ますような涼やかな音で。
30話でちょうどいいと思ったんじゃが、あと1話だけエピローグ的なものが続くんじゃ。