借りを返すべき相手
それは突然やってきた。
外は暗く、酷い雷雨。今日、この一階層で外を出歩くプレイヤー、NPCすらいないであろうその日の夕方。激しい雷の音とありとあらゆるものを叩き続ける激しい雨の音。それに紛れて微かにだが、複数人の駆け足の音が聞こえ、それらがこの建物の周辺に着た辺りでその音は止む。
カウンターテーブルの傍にあるノッポの古時計の短針は4と5の丁度中間を指している。とても店内は静かで、立つ物音は時計の秒針が進む音と雨と風に叩かれる窓の音だけ。
花子は音を立てずに席から立つと、店内の中でも最も暗いダイニングの隅で、その真っ黒いフードを深く被り、白いグラディウスを左手で抜いてその黒いマントの中にそれを隠し、腰のベルトに取り付けておいた盾に右腕を通す。
間も無く静かに開けられる出入り口の扉。硬い靴底がフローリングを踏む音が複数、連続して聞こえ、いつか見た革の軽装鎧に身を包んだフード姿の男たちがその中に入ってくる。人数は五人。今不意打ちをかければ二人はやれるだろうが、彼らは戦いに慣れている。レベルが高いとはいえ、三人同時に相手するのは分の良い賭けとは言えない。前回の襲撃の傾向、そして己が思う彼らの背後に居る人物の目的。それらから花子は自分が攻撃されないと踏み、ただ静かにその様子を見据える。
中に入ってきた男たちは軽く店内を見回し、その先頭に立っている一人が腰後ろの大振りなダガーに手をかけ、それを抜き放った。それにより騒めき始める店内のNPC達。カウンターテーブルの向こうに立っているこの店の店主である老婆は目を見開き、ダガーを手に近付いてくる男を驚いたように見据えている。
老婆に向かって放たれる鋭い突き。やけにランタンの揺らめく明かりをその刀身に映すそれは、老婆の足元から突き立った氷の槍によって阻まれ、老婆の身体に届くことはなかった。やっぱり一階層目のボスだったのだろうか? その様子を冷静に眺めながら花子は思う。
「逃げろッ!」
「誰か助けてくれぇッ!」
「衛兵を…!」
そんな冷静な花子とは裏腹に、老婆への攻撃をきっかけに、NPC達はパニックになって店の中を駆け回り、店内から出ていくものが続出する。しかし、革の軽装鎧の男たちはそれらに気すら留めない。前回酒場で起こした襲撃事件同様に。ただアイテムを販売するNPCを標的にしたものだということがそこから分かる。
店内は狭い。老婆が飛べるほどの高さはなく、ベウセットと自分を苦しめた思い出すだけでもムカついてくる、絶対的な安全圏からの攻撃を繰り返す戦法は使えない。花子は揺らぐ。ここであの老婆を外へと逃がし、衛兵隊が駆け付けるまで時間を稼ぐか、それともこのまま見殺すか。前者が上手く行けばこの襲撃者の何人かを捕らえることが出来るかもしれない。後者は安全ではあるが、今彼らを見ていて得られた情報までしか得られない。
外へ出て入り口を抑え込み、時間を稼ぐ…というのもありな様な気がするが、おそらく外にも仲間は居るだろう。そうである場合あまり賢い選択とも言えない。
「ほりゃっ! ほりゃぁッ!」
そうこう花子が考えているうちに老婆はカウンターテーブル越しに氷の槍を放って応戦し始めた。ボスとして自分とベウセットと戦った時より遥かに必死な様子で。革の軽装鎧の男たちのうち、四人は老婆の方へと向き、次々と飛ばされてくる氷の槍をダガーで弾く。まるで逃げ惑うNPC達を守るかのように。
残りの一人、ただ一人だけは花子の方を見ている。フードの奥から覗く吊り上がった切れ長の目。やけに良く見えるその深緑色の瞳には花子は見覚えがあった。以前自分を酒場のカウンターテーブルの上に押し倒した男だ。
「お嬢ちゃん、ちょっとだけお利口にしていておくれよ」
その男は右手の人差し指を自分の己の鼻の前に立て、静かに言う。暗くて見えないが、なんとなく微笑をしているような気がした。一応こいつにも借りがあったっけ。花子はクスッと笑うと盾を腰のベルトに掛け、右手をマントの中に忍ばせた直後、胡椒がたくさん入った小袋を一つその男の顔面目掛けて投げ、そのままその男の方へ向けて床を蹴った。
「相変わらずの御転婆だことッ」
男は花子が向かってくることを想定していたようで、投げられたそれを弾こうとダガーを振るい、それを切り裂いた。暗く視界が効かない店内で投げられたものがなんだか見定められなかったこともあって、弾かれると思ったそれが粉末と共に散ったことに一瞬男は動揺し、舞った胡椒により鼻腔が擽られる。花子はその隙を見逃さず、内から外へとグラディウスを振ってその男の腹部を狙う。
「くっ…!」
ムズムズする鼻が気になりつつも、花子の攻撃を咄嗟に男はその手に持ったダガーで身を引きつつ受けたが、レベル50になった花子の攻撃だ。力に相当な差があるようで、ダガーは弾かれ飛んでいき、近くの壁に突き刺さる。
花子は外から内へと振る返しの刃でその男の身体を斬りつけたが、男が身を引いていたことと踏み込みが浅かったためか、革鎧に守られた腹部をグラディウスの先で浅く裂いた程度に手応えしかなく、男はすぐにバックステップして態勢を立て直し、右手に二本目のダガーを握った。
その間、花子はその男を追撃することなく、背後の方で物音が立ったことを気にして振り返りかけた男の仲間の背をそのグラディウスで深々と刺し、その傍にいるもう一人の敵にグラディウスを振り上げ、振り下ろす。
「うッ…!」
それはダガーで受けられた。しかし、力に差があるため、グラディウスは止まらず、ダガーを持つ敵の首元へと速やかに進んでいく。首元に迫りくる刃と成す術のない恐怖。敵はそれに声をあげ、すぐに首元をグラディウスの刃先で押し斬られた。すぐそばには迫りくる深緑色の瞳の男。花子は崩れゆく敵の身体を盾にするように回り込み――
「ハイッ!」
軽快な声をあげ、深緑色の瞳の男の方へと敵の身体を蹴っ飛ばし、男がそれを避けようと隙が出来たところで距離を取るべくバックステップをした。
「ふぅっ…」
花子は廊下を背にして右手に盾を握り、一息つく。彼らの狙いはここの宿主。自分にそう注力できないであろうことは分かっている。全力で排除しに来るようなら廊下へ逃げて、1対1の状況を作り出そう。花子はそう思いつつ、敵の出方を伺う。男は花子の方へ向き、身構えたまま、他二人は老婆を始末しようとカウンターテーブルの向こう側へと乗り込んでいく。
「…やるな。お嬢ちゃん」
「アンタもね。その辺の雑魚だったら最初ので終わりだったんだけど」
「嬉しいこと言ってくれるね。…わざわざなんでこんなところに? 誰かに雇われてるのか?」
「アンタとその後ろに居る奴のせいでいろいろ酷い目にあってね。借りを返したいと思っていただけよ」
「それで張り込んでいたわけか…執念深い女ってのは怖いね」
「ふふっ…今ならその横っ面引っ叩くだけで許してあげてもいいわよ?」
「そりゃお優しい。お嬢ちゃん可愛いし、オフの時だったら金払ってでもお願いしたいぐらいだよ」
深緑色の瞳の男は暗いフードの奥から花子を真直ぐ見て、身構えている。花子がその短い会話が時間稼ぎであったことに気が付いたときには、カウンターテーブルの向こう側から、間も無く老婆のものと思われる断末魔が聞こえ、それを合図に花子の目の前の男が指笛を鳴らし、外に居たのであろう彼の仲間たちが店内に入ってきて、倒れた二人の仲間を担いだ。
…人数が多すぎる。囲まれるダイニングで戦えばまず負ける。故に廊下を背にした今この場所から動くことはできない。花子は己の立場を理解し、敗北を感じつつも口元に強がったような笑みを作ると双眸と閉じて一息つく。
「悪いね。今回も俺たちの勝ちだ」
「私に捕まった時後悔しないように今その横っ面引っ叩かれておいた方がいいわよ?」
「可愛い女の子に追っ掛け回されるってのも悪くない。実に男冥利に尽きる」
「…アンタいい性格してるわね」
「よく言われる。今日は楽しかったよ。また会ったらよろしく」
倒れた仲間の回収が終わり、少しすると深緑色の瞳の男はダガーを鞘へと納め、深く被ったフードと暗い店内のお陰でその顔は拝めないものの楽しそうな抑揚で、ある種の清々しさが伺える雰囲気で爽やかに言うと軽く手を振り、複数の仲間と共に店の外へと出ていった。
花子はそこで漸く緊張を解き、左手に持ったグラディウスを鞘に納めるとダイニングへと歩を進める。薄暗いランタンの明かりが照らすダイニングには誰一人おらず、カウンターテーブルの向こう側には、腹部を一突きされて動かなくなった老婆の姿。花子はそれにロクな目に合わなかったようだ、とあっさりとした感想を心中で述べて、店内の壁に突き刺さったままのダガーの方へと歩み寄り、それを抜く。あの暗殺ギルドのプレイヤーが使っていた大振りで幅広の片刃のダガー。サイドアームが丁度欲しかった花子はそれを左手に、雨の降りしきる外へと出る。
先ほどの戦いでより自分の中にある説が確信へと近づいた。その関係者に接触して話を聞いてみるのもありだろう。楽しくなってきたことによる高揚感で攻撃的な笑みを口元に作り、そしてそんな光の宿る炯眼をギラつかせながら、花子は一階層の街の中心へと向かう。まだまだ止むことのなさそうな雨と稲光の中で。
*
屋台通り。夕暮れ時になると屋台をやっているプレイヤーたちが集まってきて、賑やかになるその場所。いつも通りの天気であればそろそろ集まってくる時間帯であるが、雷雨のお陰で今日に限ってその姿を見ることはできない。
適当な武器屋で作ってもらった黒革の鞘に奪ったダガーを納め、それを腰後ろに取り付けた花子は、それが取り出しやすい位置に来るよう調整しながら、屋台通りに面した酒場の扉を押し、その中へと足を踏み入れた。
暖色の明かりに照らされた赤い木材を基調として作られた店内には、同色の艶めくテーブルや椅子が置かれており、店の隅のテーブルの上に置かれた蓄音機にはレコードがかけられていて、店内には軽快なスウィングジャズが流れている。
この時間帯、天候が雷雨であることもあって全然客はいないが、それでもこの店を贔屓にしているのであろうプレイヤーがちらほらと目に付く。特に特徴的なのが、カウンターテーブルの前の丸椅子に腰かける、頭の長く天然パーマのフォーマルな服装に身を包んだ男の背中。花子はそれをその碧い瞳に映す。
酒とタバコを嗜むためのその店に踏み入れるには若すぎる来客。様々な酒が並ぶ酒棚を背にし、カウンターテーブルの向こう側に居る灰色のチェックのウェイターベスト姿の背の高い坊主頭のマスターは、グラスを磨きながらその来客に静かで落ち着き払った視線を向ける。
花子は店内を見回しながらカウンターテーブルの前へと歩いてくると、天然パーマの男の隣の丸椅子を引いてそれに腰かけ、フードを外してテーブルの上に両肘を突き、その上の手に形の良い顎を乗せてカウンターテーブルの向こう側のマスターへと視線をやった。
「いらっしゃいませ」
若すぎる客にも丁寧な接客態度でマスターは出迎え、アルコール類などが載っていない食事用のメニューを置いた。
「君は僕にもう用はないはずだろう? マイエンジェル…」
隣に腰かけた意外な少女の姿にピエール吉田は落ち着いた様子で語りかけ、自分の前に置いてある葡萄酒の入ったグラスを手に取り、それに口を付けた。なんだか燃え尽きてしまっている。彼はそんな雰囲気だ。
「幾つか聞きたいことがあるの。誼みで協力してもらえないかしら?」
花子は酒棚の方をぼんやり眺めたまま、カウンターテーブルの下で両足をブラブラさせながら問いかけ、それからグラスを磨くマスターと目を合わせた後、メニューを指さしてミルクと苺のシャーベットを注文し、マスターは頷いた。
「いいだろう。答えてあげよう」
マロンや花子の中に光る何かを見出したその慧眼には花子がこれから話す内容が見えているのかもしれない。落ち着いては居るが、どこか腹を決めたような態度でピエール吉田はカウンターテーブルの向こう側をぼんやりと見据えながら静かに言う。
「NPCがやっていたお店がなくなると…そこの店に通っていたNPCってどうなると思う?」
「プレイヤーの店を利用するようになるだろうね」
「ふぅん。そうなると結構得する勢力が出て来そうね。直接的…ではないけれど」
花子の瞳が動き、横目でピエール吉田の横顔を捉える。ピエール吉田の反応を観察するかのようなその瞳が。
「続けてくれて構わないよ。マイエンジェル…」
ピエール吉田は微動だにしない。見かけによらずタフなやつだ。今ここが土壇場であることを理解しているだろうに。
「一階の商店の店主たちが協力してそうした…っていうのは利益が分散し過ぎて説得力はないのよね」
「良い読みだね。君は本当に聡明だよ」
お互い腹の中が見透かされているであろうことを察しながらも、花子は少しずつ少しずつそれを言葉にしていき、茶番と分かつつも野暮な口出しはせず、ピエール吉田はそれに付き合う。
「話を変えましょう」
核心となるところにはタッチせず、寸止めの状態で置き、花子は話を切り替える。ピエール吉田はその一言に、その手にあるグラスを口元に運び、葡萄酒を飲んで口の中を湿らせた。
「前回梅酒愛好会からライブの依頼を受けたと聞いたわ。アイドルの皆一人当たりの報酬はどれぐらいだったか…わかる?」
ピエール吉田は流し目でカウンターテーブルの向こう側を見る花子の横顔を見、何を聞こうとしているのか再認識し、ふうっと鼻から息を吐き出した。
「おおよそ50万ゴールド。皆一律ね」
柘榴が前回のライブを経て受け取った報酬と同じぐらい。花子とピエール吉田はカウンターテーブルの向こう側を眺めながら、会話を続ける。
「50万ゴールドもする装備ってある? 一階層に詳しいアンタなら何か知ってると思うんだけど」
「芸術品としての付加価値だとか、ユニークスキル付きのもの…希少価値…そう言ったものがついてない限りまずありえないだろう。後者はまず出回らない」
花子の目の前にミルクの入ったグラスと、ガラスの皿に載ったピンク色のシャーベットがスプーンを添えられて置かれる。花子はグラスを手に取り、それに入ったミルクを一口飲んで、口の中を潤わせた。
「暗殺ギルドの接触方法に心当たりは?」
外堀を埋めていくかのように、花子はコロコロ切り口を変える。花子との会話が嫌いではないピエール吉田は、そのじれったさも楽しんだ風に静かに口元に笑みを作るとその手に持ったワイングラスを揺らした。
「僕は知っているよ。でも誰かに話したりしたことはないし、これからもするつもりはない」
ワイングラスを揺らしていたその手を止めて、ピエール吉田は再度それに口を付け、一気に残りのワインを呷った。
「ありがとう。良い話だったわ」
花子にとってはもう十分だった。聞くべきことは聞いた。もうこれ以上語ることはない。花子はミルクを飲み干し、苺のシャーベットをピエール吉田の前へスライドさせておくと、ミルクとシャーベットの代金をカウンターテーブルの上に置いて椅子から降り、踵を返す。
「マイエンジェル…いや、花子ちゃん。君は自分に正直な時が一番輝いているね。眩しく思えるほどに…」
ピエール吉田は呟く。ただその呟きに返事はなく、代わりに出入り口の扉か開閉する音が聞こえるだけ。今までいい扱いをされていたとは言い難かったが、自分をそれなりに気に入ってくれていたのだ。花子がくれた苺のシャーベット。その意味を、酔いのまわった頭の中でぼんやり考えてその口元に笑みを作る。自分の人を見る目は間違いではなかったと。とても満足したような表情で。
花言葉って面白いが…誰があれ考えたんですかね。