長い日の朝
それはとある行事があり、朝の練習が休みになった日だった。
乗り気ではないダンスも歌も乗り気のジャズも。生まれ持った才能と集中的な努力である程度形になってきて、人に見せてもよさそうと思える程度になってきたその日。芸能事務所フルブロッサムに所属するアイドルたちは第一階層農業地帯にある葡萄畑の前に、黒いジャージ姿でそこにいた。
小さい実をたくさん付ける葡萄の房。それが両手を広げても手と手が届かない大きさの桶の中に溢れんばかりに入れられたものが複数個、横並びになって置かれている。何かと物知りな花子はそれが葡萄酒を作るための工程の中の一つ、葡萄踏みのためのものということを理解していた。こんな悠長なことをしている暇があるのかと不満げな顔をしながら。
「明後日本番なのわかってるの?」
「君たちの輝きは十分に皆に届いてくれるさ…技術ではない、その熱意…ハートが伝わるはずだからね…!」
「アンタ自分でやらないからって適当言ってんじゃないでしょうね」
「まさか、僕は芸術に対してはいつだって真剣だよ…マイエンジェル…!」
今日は武器も防具もない。まるっきり丸腰であることに落ち着かない様子で花子は両腕を組み、刺々しい口調で自分の隣に立つピエール吉田と会話しながら、ガラスのボトルの中の水で足を洗い、葡萄が敷き詰められた桶の中に足を入れていく他のアイドルたちの様子を眺める。
「しかし男ってバカよね。少し可愛いぐらいの女の子が踏んで作った葡萄酒ともなれば、味そっちのけで高いお金払うんだから。お酒の味なんてわからないけど」
「ふふ…悲しいかな、それが男と言う生き物の性なのさ…。でも一つ間違いがある…僕の葡萄酒は極上品…さ、マイエンジェルも踏んでおくれ…モグモグカンパニーのために…!」
「なんでそこでモグモグカンパニーが出てくるのよ」
「君が踏んだ葡萄で作る葡萄酒はすべて売約済みということさ…」
「あぁ、納得いったわ。隠し味に殺鼠剤でも混ぜてあげようかしら」
乗り気ではない花子は嫌々と言った雰囲気を出すが、靴を脱ぎ、靴下を脱いでズボンの裾を腿のあたりまで上げ、足を水で洗ってから葡萄の敷き詰められた桶の中に足を踏み入れる。文句を言いはするものの、よっぽど変な要求でない限り結局言うことを聞いてくれる。芸能事務所フルブロッサムにおける花子の認識はそんな形で固まりつつあった。
「っ…結構大変ね…」
素足で潰す葡萄の実。グチュッと音を立てて潰れるその感覚が足の裏を通して伝わってくる。花子は足元に気を付け、視線をやりながら、両脚を交互に動かして葡萄を潰していく。他の桶は複数人で潰しているが、自分だけ一人なのはオルガの注文のせいなのだろうと考えるとなんだか腹立たしく思える。
「力に物言わせてでっかい棍棒でも持って一気に潰してしまえばどんなに楽か…」
潰れた葡萄で結構な深さの沼の中を歩いているかのような感覚を足に感じつつ、花子は呟く。
「ノンノン…ゲームの中とはいえ手間をかけることによってより味わい深いものとなるのだよ…」
「付加価値をつけるという意味では今の工程においてこのやり方が一番良いのかもしれないわね。味が実際変わるのか知らないけど。というかアンタお金稼ぎにあんまり興味ないって聞いたわよ。なんでお酒造りには精力的なのよ」
「アイドル活動も葡萄酒造りも…僕にとっては芸術…ロマン…矜持…この世界の最初、僕とマロンちゃんの原風景を思い出させてくれる…」
「なんか何もしてないアンタ見てるとムカついてくるわ。ちょっとこれ終わるまで走ってなさいよ」
「それはできない…君との思い出の一ページ…余すところなくこの目に焼き付けておく使命が僕にはある…」
ピエール吉田はそこで両腕を花子の方へと向けて伸ばし、人差し指を対の手の親指の先に、親指を対の手の人差し指に合わせて四角を作り、その指の縁の中に葡萄を踏む花子の姿を入れて、写真でも撮るかのように片目を閉じる。
「人ってのは何かしら才能を持っているものなのね。アンタの場合人をムカつかせる才能に関しては天下一品よ」
花子は冷めた様子で言う。踏めども踏めどもなかなか葡萄の量は減らない。足を上げれば黒紫の果汁が足から滴り落ち、少しでも動きを止めると潰された果肉と果汁が体温で温くなる。それはあんまり気持ちがいいとは言えない感覚だ。
「オラオラオラーっ!」
「ちょっと、果汁飛んで来たのだけれどッ!」
「いいじゃんいいじゃん、どうせコレ終わったら風呂入るしさ」
「そういう問題じゃ…あっ、またっ…! マロン先輩!」
花子の隣の桶にはシルバーカリスと柘榴、マロンが葡萄を踏む桶があり、暴れるマロンとその被害を被る柘榴とで何やら言い争いが起きている。シルバーカリスはそんなことお構いなしに集中した面持ちで足元を見て、葡萄を着実に踏み潰していっている。空気入りの包装ビニールを潰すような楽しみを感じているかのように。それはもう黙々と。
今まで早くゲームをクリアせねばという強迫観念にも似た使命感と死と隣り合わせの戦い。ベウセットがいたから大して危険は感じなかったものの、安心していられたかと言えばそういうわけでもない日々。ここに来てなんだか穏やかな時間を感じる花子は、真の意味での安心をその心に感じながら口元に手をやり、大きく欠伸をした。
「平和ね」
欠伸をし、その目元にそれによって出た涙を浮かべながら花子は遠い目をしながら呟く。
「ライブ後も芸能事務所フルブロッサムに居てくれるならその平和はゲームが終わるまで続くだろう…!」
「ここでやる様な歌と踊りを人前でやらなくちゃならないっていう以上の恐怖や脅威を生まれてこの方感じた試しがないわ」
そこで花子は空を見上げてぼんやり考える。ピエール吉田に借りを返した後のことを。最前線に戻る前に自分を牢獄に入れるきっかけを作った暗殺ギルドのその背後に居る何者かに、メンツを潰してくれたことに対するちょっとしたお礼参りをしたいと思ってはいるが、ライブ本番を明後日に控えたこの日、花子はまだそれの手掛かりを掴めないでいた。まぁ、それを調べる暇もなかったのだから当然であるが。
「シルバーカリスは明後日のライブが終わったらどうするのよ」
花子に声を掛けられ、シルバーカリスは自分の足元に向けていた視線を上げて、隣の桶の中葡萄を踏む花子の方へ視線を向ける。
だが、彼女はすぐにはすぐには言葉を発することなく、顎に手を当てて少しばかり考えた風にした。このままフルブロッサムに居ればいい暮らしが出来るだろうにと考える花子はその間に意外そうにする。
「花ちゃん面倒見てくださいよ。僕が捕まった原因を止めることのできる立場で見過ごしたんですから」
言葉こそ恨みがましい物ではあるが、シルバーカリスは害意や悪意の一切ない爽やかな笑顔と雰囲気で笑いかけてくる。身体は大きいし、初期ステータスでもスタミナをうまいこと管理してレッスンに付いて来れていた。そのことから素の身体能力は高そうであるし一緒に戦う仲間として迎え入れてもいいかもしれないと花子は考える。
「ならライブが終わって落ち着いたら戦闘訓練しないとね。覚悟しときなさいよ」
「任せてくださいよ。これでも中学に上がるまで格闘技やってたんですから」
花子とシルバーカリスはお互いの顔を見合わせ、静かに微笑を浮かべる。しかし、それを傍から見ていたマロンと柘榴はそれになんだか不満げな様子だ。
「えぇ~、お前らここまでやってフルブロッサム止めんのかよ~」
マロンは脚を交互に動かしながら唇を尖らせる。そう長い間一緒にいたわけではないが、仲間同士であるという認識は互いに共有できている。故にその反応は花子にとって意外でもなんでもない。だからと言ってフルブロッサムに居残るつもりもないが。
「単純に性に合わないのよ。アンタみたいに割り切って強かにやっていけるのならそれもアリなのかもしれないけど…私は自分の好きな自分で居たいの」
「ちぇっ、花子の気取り屋」
「ふふん、それが私なのよ」
「頑固者ー」
ああだこうだ言うマロンを軽くいなし、花子は再び足を交互に動かして葡萄を踏みつぶし始める。葡萄はまだまだ残っていて、時間はかかりそうだ。果たして午前中で何とかなるのだろうかと思えるほどには。
「ん? なんだあの怪しい連中」
しばらく葡萄を潰していると大きな葡萄畑の向こう側から顔を布で覆った三人組の男がこちらに向かってやってくるのが見えた。それにマロンは反応し、そちらの方へと目をやる。金属鎧とは違って動きやすそうなハイドアーマーに不釣り合いな取って付けたような綺麗な布の覆面。どう考えてもこれから何かしでかそうというなりだ。花子はその手に葡萄の房を二つ持ち、やや早歩きで近寄ってくるそれらを静かに見据える。
「何か用ですか?」
まず、その三人組の方にピエール吉田が問いかけた。すると三人は各々の顔を見合わせた後、腰にある剣を取ろうとし始めたが…
「っ!」
葡萄踏みをする女の子たちを警戒していなかったためか、花子が投げた二房の葡萄がそのうちの二人の頭部に命中した。そこで何となく相手が戦い慣れしていないことを花子は察する。前回NPCを襲った連中とは別口だと。花子は葡萄をもう二房その手に持ち、裸足のまま桶から飛び出した。
「避けろー!」
花子の咄嗟の声もむなしく、葡萄を頭にくらっていない男は間も無く剣を抜き放ち、葡萄を投げた花子の方へ振り返り、状況が読み込めていない様子のピエール吉田を深く斬りつけた。畑は都市属性であるため、彼は死にはしないものの、気絶という形で力なくその場に崩れ落ち始める。
「おいっ、行くぞ!」
「あっ…あぁ!」
比較的に若く感じる声の男たちは短く会話を交わすとそのぐったりするピエール吉田を担ぎ、その場から離れようと走り始める。それに迫ろうとする花子の目の前に殿として残った一人のやせ形の男が剣を片手に立ちふさがる。
「邪魔っ!」
花子はそれに向かって葡萄を二つ時間をおいて投げる。食べ物を粗末に扱うのは本意ではないのだが、ここはゲームの世界。大して抵抗はない。
「うおっ…!」
殿に立った男は自分の顔めがけて飛んでくる一つ目のそれを内から外へと腕を動かし剣を振って叩き落とし、二つ目を身を僅かに引いて躱す。気が付けば目の前には迫る花子の姿があり、身を引いたことによって引けた腰のまま、外から内へと剣を花子に向けて横降りに振る。だがそれはジャージ姿の花子の身体を捉える前に剣を握る手を左手の甲で受けられたことによって止まり、その直後に花子の飛び膝蹴りがその男の腹部に刺さった。
「ぐぅっ!」
苦しそうな絞り出すような声をあげ、男は仰向けになって地面へと倒れ、そのまま花子がその上に馬乗りになって反撃の隙を与えることなく、眉間に深い皺を作り、歯を食いしばって無言のまま、その顔面に拳を何度も叩きつける。彼の仲間はそれを気にしたように走りながらも何度か振り返ったが、結局助けに来ることなく、そのままピエール吉田を担いで広大な葡萄畑の一角に姿を消した。それらの出来事はマロンやその他が助けに入る間もないほんの一瞬の出来事だった。
「…まあいいわ。手掛かりは抑えた」
花子は自分の下で気絶した覆面姿の男に視線をやり、その手に握られていた剣を取ると対の手で男の覆面を掴み、勢いよく引きはがす。その下にあったのは花子よりやや年上ぐらいの少年の顔。当然ながら見覚えはない。明るいブロンドのショートレイヤーの髪型の目元がスッキリしたそこそこいい顔ではあるが、人攫いを計画し、実行するような度胸があるようには思えないものだ。
「花子、お前やるなぁ」
騒動が収まった後、花子の元までマロンが歩み寄り、その奮闘を称えながら襲撃者の少年の顔を見下ろす。
「へぇ、結構いい顔してんな。こいつ。でも見るからに下っ端って感じだな。進んで人を攻撃できるような気性と度胸があるとは思えねぇ」
「犯人の目星は?」
「ありすぎて見当がつかねえな。水商売やってるギルドからしちゃあたしたちの存在は面白くねえ。明後日のライブで盛大に滑ってくれたらいいなって思ってるやつは幾らでも居る」
「僻みや妬み…お金のために他人の足を引っ張る…か。いやね、ドロドロしてて」
「ようこそ本当の一階層へ。自分らを高めてシェアを広げるんじゃなく、ライバルの足を蹴っ飛ばしてシェアを奪う。それがこの街の真の姿だぜ」
花子はその手に持った剣を少年の手が届かなく、自分の手がすぐ届くところへ突き立て、両手を組みながら少年の装備や顔、所持品等を見るマロンと話しながら少年の身体の上に乗ったまま、その細く白い指や手を這わせ、所持品を漁る。少し多めに思える回復用のポーションや頼りない重さの財布。変わった物は持ってはいないが、その性格を分析するには十分だった。
「結構ポーション持ってんな。あれば安心はできるけどよ。戦ってる最中にこんな沢山使えねえよな」
「常に仲間と一緒に行動していたのかも」
花子は荷物を調べ終えた後、彼が持っていた水晶に触れてそのパラメータをパネルとして出力する。レベルは24と先ほど見せたお粗末な戦闘能力の割にはそこそこ高く、ステータスの振り方は武器スキル等にはポイントを振らない、フィジカル重視のもので、特に生命力に厚めにポイントが振られていて、プレイヤーネームはリックとある。レベルは戦闘で上げたのではないことを花子はここでなんとなく察する。
パネルを閉じた後、ぐったりするその少年リックの腰に手をやり、カチャカチャと金具から音を立ててベルトを外してそれを手に取る。マロンはそれになんだか如何わしい雰囲気を感じて微かに頬を染め、目の遣り場所に困った様子だったが、花子は気にした様子無く立ち上がり、仰向けに寝るリックの肩の下に足を差し込み、蹴っ飛ばして俯せにし、その手にあるベルトを使ってリックの両手を後ろ手に拘束する。
「話は家の中でたっぷりと聞かせて貰いましょ。とにかく今は帰って準備するわよ」
花子は地面に突き立てられた抜身の剣を手に取り、それを片手に葡萄の果汁まみれになった足を近場にあるボトルの中にある水で洗い流して靴下と靴を履く。足は濡れていて気持ちは悪いが、事態は一刻を争う。
「みんな、話は聞いてたな。葡萄は…あぁ、いいや。全部置いてっちまえ。どうせ明後日のライブが出来りゃ酒で得られる金と比べ物にならねえ量の金が手に入る。とにかく戻るぞ!」
アイドルというよりか山賊の女首領のようなことを言いながら、芸能事務所フルブロッサムのアイドルたちを纏めるマロンの傍らで、花子は両手を後ろ手に拘束されたリックの膝の下に剣を逆手に持った左手を、肩に右手を回し、抱き上げる形でその身体を持つ。その身体の身長は170センチほどで花子より大きいが、レベルの高い花子にとってむしろ軽くすら感じる。
間も無く全員の準備が整い、マロンを先頭に芸能事務所フルブロッサムのアイドルたちは自分たちの家へと戻り始める。まずは敵がなんであるかを見極めるため、そして何よりも各々の武器と防具を取りに行くため。いつもと変わらぬうららかな陽射しの一階層の空の下、花子の長い一日が今、始まろうとしていた。
葡萄酒に用いられる種の葡萄は美味しくない(確信)