侵入者への挨拶、侵入者からの挨拶
ご存知ですか? ポーク●ッツって商品名なんですよ…?
真っ白い。
己の手足の間隔はなく、この白が目を通して見えて居る物なのかも定かではない。
ただ、目的意識ははっきりとしていた。名前と姿。自分と言うものの定義、決定。自我すらもおぼろげな…夢の世界の様な中で。
自由はない。流れゆく意識の中で目的は思い描かれ、形作られる。
心の中のキャンバスに描かれる荒唐無稽が具現化する魔術。現実世界に確かにある、未知の力を発動。解き放つかのように。
白昼夢とも言えない何もかもが微睡む中、唯一はっきりしていた目的意識の決定は、溶ける微睡みの中に確かな変化を齎す。
時間の前後すら危うい中、それは形作られていく。徐々に…早く、遅く。確かに近付く。
…元在った自我へと。
◆◇◆◇◆◇
強い光。瞼越しにも解る明るさと熱。
微睡む意識はより覚醒へと歩み寄り、やがてその瞼を開かせる。
真面に目を開けては居られないほどの、眩む様な光。
直後に見えるは突き抜けるような青い空とそれを白く彩る大きな入道雲。空の青に浮かぶ昼下がりの暖かな太陽。柔らかな風が頬を撫で、意識は完全に自我を認識。覚醒へとさらに歩み寄る。
四肢に血の通う感覚。肌に感じる熱。確かに己の身体がそこにある実感、命を感じ身体を起こす。
ゲームとは思えぬそれらに若干の困惑を覚えながら、寝起きの様なやや微睡む意識を引きずって花子はあたりを見回す。
灰色の石畳。その向こう側に立ち並ぶ並ぶ三角錐、円錐のカラフルな尖がり屋根が窺える石造り、レンガ造りの街並み。一際目立つのは時計塔。短針は1を、長針は12を指している。近世の終わり際と言えそうな風景がそこにはあった。
石畳の上には光の上に包まれ、次々と姿を現す人間。男女の偏りは若干は見られる物の…その大多数は見栄えのいいもの。
所謂美少女、美少年。はたまた美女美男。中にはふざけて作られたのであろう、異形としか形容しえない姿の者も雑ざる。自分と同じく鎖帷子姿で、腰にショートソードと小物入れを取り付けているそれらは、自分と同じくこの世界に遊びに来たプレイヤーであることは直ぐに理解できた。
起き上がり、行動を開始するそれらと同じく花子も立ち上がる。ハッキリと自我を認識できる、覚醒した意識の中で。
「…これが私の身体…ね」
真っ先に気が付く変化は視界の端に映った男の様な己の手。高い視点。違和感に漏れる声は聞き覚えのない男…いや、少年のもの。
デバイスを装着し、意識を失う前に漠然と考えていた姿と何となくイメージの近い…地味な顔つきの、中肉中背のその身体について呟くと花子は歩き出す。このゲーム自体に対して興味がない故に、大して己の姿、声などにも興味を持った様子無く。
鎖帷子と腰に下がったショートソードの収まった鞘。横長の革製の小物入れ。それらから成る金具の音を小さく立てて。
先ず探すのは現実世界において己の身を守るために召喚された使い魔たち。ベウセット、小春。そしてこの世界に自分を招いた張本人であるオルガの3人。どんな姿で居るかも定かではないそれらを見つけるべく、進んでいく。
だが、周囲の様子を余裕をもって見られたのもほんのわずかの間だった。あちこちで起き上がるプレイヤー達と思しきそれらが動き始めたことにより、視界は埋まり、途端に歩きづらくなる。
…彼ら彼女らはきっと自分が思い描いていた何者かになれて、嬉しいのだろう。それがたとえ表面上だとしても。
手や足を見、声を発し…普段の自分とは違う自分を確認するかのような素振りを見せるものが散見出来、それらは広場に面する建物へと集まっていた。
――窓ガラスで自分の顔でも見てるのかしら。
花子は彼ら彼女らの行動についてそう適当に分析。それらを後目に人込みから離れるべく広場の外を目指す。
自分の使い魔たちとの合流は、その後で良いと考えて。
けれど進めど進めど人込みは途切れない。広場から別れた道には休日の繁華街のような人の波。大賑わい。NPCと思しき者たちが出す店の入り口などにもプレイヤーは溜まり、淀む。人の流れは。歩みは亀の如く。
リアルでは日本一の軍需企業を経営する父を持つお嬢様。己の専属の護衛である使い魔を召喚するまでは送迎は当たり前。人込みなどとは無縁であった人生故に…新鮮さは感じたが、すぐに辟易。拒否反応が出る。イラつきと言う形で…揺れるばかりで進まぬ人込みに。
ふと…そんな時、花子の視界の端に路地裏の入り口が見えた。建物と建物の間の…暗いそこが。
向く。視線と爪先が。進む。足が。
息の詰まりそうな人込みから逃れるべく。
大部分のプレイヤー達がショッピング。この世界での理想の自分を堪能する最中、わざわざ路地裏に立ち入ろうとする者はそういないようで、そこへと入ってからは嘘のように静かな物であった。
背後の入り口から対面の出口まではそこそこ遠く、左右に別れる十字路が1つと建物の裏口が幾つか見えるその場所は。
「…息が詰まるかと思ったわ」
路地裏を進みながら花子は呟く。明るい空により、薄暗さの映える路地裏に散見出来る、樽や木箱を蹴飛ばさぬよう気を付けつつ。特に考えがあるわけでもなく、今見える路地裏の中心点。十字路へと向かいながら。
ふと、周りが静かになり、落ち着いたことによって花子の思考は自分自身の方へと向く。
今の自分の所持品。このゲームの仕組み。相変わらずこの世界に余り興味はなかったが、調べて置いて損はないだろう。そう思い、花子は十字路に隣接した、壁際に置かれた手ごろな木箱へと歩み寄り、そこへと据わって持ち物を調べ出した。
まず手に取るのは腰の鞘に収まったショートソード。柄を逆手で持ち、鞘から半分だけ抜いて切り裂くのではなく叩き切る事しかできないであろう鈍の刃を瞳に映す。
「剣…か…。あぁ、やあね。野蛮で。文明人の武器じゃないわ。ライフルとかないのかしら」
このゲームへの事前情報を一切持っていない花子は呟く。この世界の在り方を完全否定した物言いで。
そして鞘へと再度ショートソードを納め直すと、次はベルトに取り付けてある横長の、革で出来た小物入れのボタンへと手を伸ばし、中指の指先で弾いて開く。
上蓋の開かれた柔らかい革製の仕切りが立てられた小物入れの中はスカスカであったが、中に何もないわけでもなかった。
頼りないサイズの金属の重みを感じる布袋。数える程度のページしかない、小さく、ペラペラの薄い本。最後に半透明の小さなクリスタル…と。それだけではあったが。
「お財布と…説明書と…何かしらこれ。宝石? …石ころ?」
花子はそれらを手に取り、自分の隣に並べていく。
半透明なクリスタルが妙に思えたが、それが気になるのは一瞬。とりあえず情報が欲しい花子が手に取ったのは本…説明書だった。
きっとこの世界の在り方…ルールなどが書いてあるのであろう説明書。安っぽい作りのそれを捲り始めた花子の直ぐ傍…路地裏の十字路。そこを曲がったあたりから…ふと、石畳を靴底が叩く音が響く。
けれどそれは路地裏の出入り口から入り込む喧噪によって大部分がかき消され、気にならない程度のもの。花子が警戒するにはあまりにも小さい。
それは迫る。花子の元へと。次第に大きくなる足音と共に。
そして――
「センパイッ! ごっつぁんです!」
十字路から不意に現れたそれは…花子の姿を一目見ると、Uターンした。プレイヤーとは服装も違う…棘の様に纏まる髪質、黄味の強い橙色の髪、切れ長の吊り目。黄色い瞳。麻色の衣服の男が、弾けんばかりの笑顔を浮かべて。
花子が妙な物を見るかのようにそれが顔を出した辺りを見ていたのも一瞬。すぐに気が付く。粗末な布袋に入ったこの世界での全財産が…己の座る木箱の上から忽然と姿を消していることに。
立つ。本とクリスタルを小物入れに放り込んで。
「ッ、待てオラーッ! 両手首切り落とされる覚悟出来てんでしょうねーッ!」
駆けだした花子は十字路に飛び出し、90度ターン。真っ先に右手を腰にあるショートソードの柄へと持っていき、それを握って抜き放つ。
ショートソードの刀身は、右手によって振り上げられてわずかではあるが鈍く光を反射させ…風を切る。吼え、石畳を強く蹴る…地味な男の姿と化した花子と共に。その瞳に映るは、己に背を向け一生懸命走る不届き者の後姿だ。
「片脚炸裂させてやるわッ!」
心の中に思い描くは地を這い、不届き者に伸びる赤い稲妻。現実世界に確かに存在する…己が使用できる固有の魔術を。
――だが、それは発動する気配は微塵もなかった。余りにも現実に酷似しているが…ゲームの世界なのだから。
「お兄さぁん! そんな重そうな鎖帷子着た状態でッ…追いつけますかァー? 追い付かずに片脚、吹っ飛ばせますかァ? だぁいじょぉぶでぇすかァー?」
「クヒーッ! ムカつくッ…顔覚えたから覚悟しなさいよ! 逃げられたとしても地の果てまで追い詰めて…私の意地と名誉に掛けてボコボコにしてやるわッ!」
魔術が使えず拍子抜けした様子の花子を男は煽る。口角を上げて振り返り、必死に追いかけてくる花子の姿を後目に映し。
花子は上目遣いで睨み、走る。魔法が…魔術が使えない歯がゆさを感じ、鎖帷子の重さを全身に感じながら。
「へぇいッ!」
横切れば短い路地裏も、十字路を縦に進めば長い道となる。日の当たる通りには犇めくプレイヤー。故に退路は路地裏にしか見いだせないのだろう。花子が追う男は真直ぐ進む。路地裏にある樽を蹴っ飛ばし、横倒しにして。
「あぶなっ…!」
花子はそれを咄嗟に飛び越える。リアルよりも動かしやすい身体で。
けれど…重たい重たい鎖帷子を着けてだ。疲労は蓄積…呼吸は苦しく、息が上がる。
――だが折れない。心は。止まらない。前へと繰り出される足は。疲れと、次々と倒される障害物を前にしても。
「降参して取った物を返してくれるなら許してあげるわ。貴方のお母さんも悲しむわよッ!」
限界が見える花子が見出す活路は懐柔路線。
腹の底から出たその声は…当然前を走る男の心には響かない。圧倒的に有利なのは自分自身である。そう…理解しているから。
「そんなの関係なぁい! 今日はこの金で豪勢な夕飯食べちゃおっかなァ! フゥー! お兄さんの分まで俺、楽しんじゃおっかなぁー!」
「ムッキー!」
負け惜しみにしか聞こえない花子の言葉は心地いいのだろう。奪った彼女の財布を手に、男は燥ぐ。これでもかと煽って。
それは花子の堪忍袋の緒を切り裂き、発狂させた後に強く歯を食いしばらせる。目元には微かに悔し涙を浮かばせながら、彼女は振り上げる。ショートソードを握った右手を。
「――死ねぇッ!」
これでもかと引いた右腕。振り下ろされた右手から放られるは殺意の籠ったショートソード。それは前を行く男の頬を掠め、緩やかなカーブを描く路地裏の道を真直ぐ飛び…突き破る。窓ガラスを。けたたましい音とともに。
だが、それだけでは花子は止まらない。裏路地の木箱。樽。それらの上に置いてある空瓶や樽の蓋。投げられそうなありとあらゆるものを通り過ぎ様に手に取って投げる。余裕のない表情で、呼吸を荒げながら。
「うおっ…お兄さん滅茶苦茶やるねぇ、うはっ――ヘブッ!」
進行方向上。その直線上に存在する建物に分け隔てなく損害、ダメージを与えていく花子の投げた投擲物は、前を行く財布泥棒の顔に引き攣った笑みを浮かべさせ…その横っ面に、今瓶底がぶち込まれる。
財布泥棒の顔は歪む。横っ面をぶん殴られた瞬間のように。唇を横に狭く、縦に大きく開いて。
「っしゃオラー! どうじゃオラー!」
この世界に来て初めて出会った男。その小憎たらしい横っ面に一撃を与えられた花子は思わずガッツポーズ。腫れた左頬を両手で押え、走る財布泥棒へと迫る。
その時――花子の進行方向上にある建物の裏口。その扉のドアノブが…回った。
「ブッ!」
「くぉらー! 誰だァー! もの投げて来たバァカ野郎はー!」
それは勢いよく開け放たれて、今丁度通りかかろうとしていた花子を跳ね飛ばす。開け放たれた扉のドアノブを握るのは、唇をムカついたように歪め、こめかみに青筋を浮かべる頭にバンダナを巻いたピンク色のエプロン姿の厳ついおっさんだ。
「っ…くああーッ!」
跳ね飛ばされ、地面に落ちた花子は吼える。痛みに。石畳の上にて両手を額に当てて転がりながら。だが、それも長くは続かず…彼女の目は這い蹲り、見据える。額を摩りながらも、涙目で笑う財布泥棒の姿を。
頭に過るは敗北の二文字。拒絶するかのように息を吸い込み…花子は口を開いた。
「ボスッ、先生ッ…オルガーッ! 聞けッ、我が魂の叫――いたッ!」
「なあに訳解んねえ事言ってんだ! 窓ガラス割ったのお前だろォ! 弁償しろぉ! オラぁー!」
眉間に深い皺を作り、悔し涙を流しながらの…己を守る使い魔たちへの魂の叫び。紡ぎ出される呼び声は、怒り吼えるエプロンのおっさんに頭を引っ叩かれたことによって途切れ、言い切られることはなかった。
だが、発された言葉は路地裏に確かに木霊し…今十字路に差し掛からんとする財布泥棒の背中へと向けられる。
彼は逃げ切れると踏んだのであろうが、幸せそうににやつきながら、けれど左頬に手を添えつつ、顔を横に向けて花子を後目に映している。
――そろそろ十字路に差し掛かるところだろうか。そう思えた時、十字路の曲がり角。勝利を確信する財布泥棒の死角からそれは現れた。
「ぎゃぁッ! うごッ! 腰うったぁッ…あぁ~ッ…いったぁい…!」
斜め上に跳ね飛ばされ、身体ごと建物の角に激突。身体を弓なりに捩り、痛みに堪えるように悶絶。腰に両手を当てる財布泥棒。
その傍に立つのは…半身で踏み込んでからの左スマッシュを放ったのであろう、鎖帷子姿の人物。頭に被さる鎖帷子のフードを外したベウセットは、黒く艶めく長い髪を背にそこにいた。
「ボスッ! このエプロンのおっさんも何とかしてッ!」
「てめえもこの悪戯坊主の仲間かァッ! 来いッ! お前も畳んでやらァ!」
這い蹲る花子の背に片膝をついて押さえつけていたエプロンのおっさんは立つ。拳と拳を突き合わせ、怒りのままに。言葉を発さず悠然と迫る黒髪の美女の方へと。
視線は交差。対峙する2人は拳を構える。そして踏み込む。互いの懐へと。
新しい世界でのひと時は窃盗被害と言う形で始まり、器物損壊罪と続く…そんなろくでもないスタート。
ゲームにしては出来過ぎた世界の中。最初の1日。ろくでもない昼下がりの物語にもう1ページ物語は紡がれる。
何の罪もないエプロンのおっさん…左手に作った握りこぶしをベウセットに伸ばしかけた彼が、それに合わせて放たれたベウセットのクロスカウンターを、顎下に貰ったことにより鳴り響く鈍い音と共に、白目を剥き崩れ去るその姿が。
◆◇◆◇◆◇
青い空に昇る太陽。それがさらに傾き、やや黄味を強める時間。
昼寝をするにはもってこいな麗らかな陽射しが届かぬ路地裏にて…地味な男の姿となった花子の姿は在った。
――正座を強いられる罪のないエプロンのおっさんと…同じく正座し、ハート柄のピンク色のトランクス一丁に引ん剝かれた、頭に三段ぐらいのたんこぶが窺える…橙色の髪のチャラい雰囲気の財布泥棒を前にて。
現実の姿と寸分変わらない姿のベウセットと共に。
「ボス、よく呼びかけに応えてくれたわ。やっぱり解る物なのね…召喚者の危機と言う奴が――」
「いや、人混みを避けようと路地裏に入ったらたまたま…な」
なんだか感動した風にする花子の目の前でベウセットは小物入れから小さく細い、紙の棒を取り出してそれを口に咥えた。花子の読みを否定する言葉を吐きながら。
その後に花子はなんだか微妙な顔をし、悲しそうに眉尻を下げていたが…ベウセットはそんな変化に構いはしない。
「すまねえ。さっきは頭に血が上っちまってたんだ。でもよ、そこの坊主がウチの店のガラスを割ったのは事実で――」
殴り倒され気絶を経て、ピンク色のエプロンのおっさんは冷静になったのだろう。
タイミングを見計らい、訴える。小物入れからバードアイマッチを1本取り出すベウセットに。己の正当性を。正座したまま見上げて。
しかし――
「あっつ!」
ベウセットは擦る。ピンク色のエプロンのおっさんの…短く硬い顎髭が生えるそこに、バードアイマッチの先端を押し付けて。
灯る。マッチの炎が。
その間ベウセットは言葉を一言も発することなく、淡々とした表情のまま口に咥えた紙タバコの先端に火を灯し…火を着いたマッチを人差し指で爪弾き、捨てる。
大凡周りの街並み。近世のシロモノには見えはしない、色鮮やかでモダンなピンク色、ハート柄のトランクスを履く…財布泥棒の男の股間へと。眉一つ動かすことなく。
「あら…燃えてるわよ? 消さなくて大丈夫?」
「わっわっ…あっ…ヤバッ!」
「プークスクスクス…アッハッハッハッハ!」
「あっ…あぁっ! あちっ、あぢぢっ! 焼きソーセージになっちゃうッ!」
人差し指で弾かれたマッチ棒はトランクスの隙間に止まり、燃え…その炎が全てを焼き尽くす前に財布泥棒は叩く。
自由に行動することを許可されていないのであろう。正座したまま股間を。マッチに付く火を消化すべく。
片手で腹を、対の手で指を指し…心底楽しそうに笑う花子の前で。
「見栄張るんじゃねぇや。どうせポーク●ッツだろう。お前のは」
「臨戦態勢になれば通常サイズのウィンナーぐらいにはなりますよぉ! あっ…やった、消えた!」
そんな慌ただしい財布泥棒を見、頬を摩るエプロンのおっさんは突っ込み…騒ぐ彼を隣に、再度、ベウセットを見上げる。
彼女はタバコの煙を吸ったは良かったものの、思っていた物とは違ったようで、しかめっ面でタバコを横目に映した後、今やっとトランクスに付いた炎を鎮火した財布泥棒へと今度は火の付いたタバコを爪弾いた。
それは落ちる。ピンポイントに。トランクスの隙間へと。
「わっ…あつっ、またッ…目玉も焼き出来ちゃう! あつつァッ! あっついんッ!」
「それで…エプロンの方の要求は金だな。幾らだ」
再び己の股間を一生懸命叩き始める財布泥棒の叫び声とそれに伴う花子の笑い声をバックに、ベウセットはエプロンのおっさんに問い掛ける。
大凡謝る気があるとは思えぬ、淡々とした顔で、見下しながら。
エプロンのおっさんの顔は明るくなる。漸く建設的な話が出来ると思って。
「50ゴールド。プラス慰謝料で20ゴール――」
「負けろ」
エプロンのおっさんが声を発せたのはほんの一瞬。ベウセットの声と共に腿を踏まれ、凄まれ威圧され見下され…言葉は詰まる。その表情を固まらせて。
だがそんなエプロンのおっさんの反応などベウセットは意に介さない。さも当然のように、眉1つ動かすことなく口を開く。
「5ゴールドと2ゴールドの7ゴールドだ」
「えぇ…」
ベウセットはエプロンのおっさんの桃の上に足を置いたまま、膝の上に腕を置き…一方的に話を進めるが――素振りは見せない。決して、財布を取り出すような素振りは。
次にベウセットはこれでもかと財布泥棒を笑い、煽る花子を一瞥。その視線に気が付いた花子へ目を向けたまましゃくる。石畳に脱ぎ捨てられた麻色の服の方を。
花子は笑って出た涙を手の甲で拭いながら、頷き…その麻色の服を人差し指と親指で、汚いものでも手に取るかのように摘まむ。
心の底から汚いものに触れねばならない時。触れるとき…大多数の人間は嫌な顔をするものであろうが、花子はニヤ付いていた。ムカついた人間の物を奪う。その事柄にこの上ない快感を感じた風に。
そして差し向ける。摘まんだ財布泥棒のズボンを…ものすごく訝し気で、正気を疑った風に花子を見るエプロンのおっさんへと。
「はい、布の服。買い取って頂戴」
今タバコの火を消した財布泥棒の隣で、エプロンのおっさんは思わず顔を背ける。
石畳の方へと…頭痛か何か感じているのかもしれない。眉間に深い皺を作りながら、目元に手をやって。
「…いやいや、待て待て待て。おかしい…おかしいよ。そんなきったない服…特にズボンに何の価値があるってんだ。むしろ処分代請求するぞ」
「しつれーな! 汚くないッ! 汚くないよ! 俺のズボンは!」
「股にぶら下がってる生焼けのポーク●ッツを先端から引き割かれてたこさんウィンナーにしてほしくなけりゃ黙ってろ」
「火が通る前に消しましたよぉ。まだ全然生ですぅ」
目に見える疲労を仕草や表情に出すエプロンのおっさん。とうとう財布泥棒の謎のこだわりが見え隠れする返答に口を閉じた。
――どうして俺はこいつらに絡んじまったんだ…。あぁ…神様…。
心の中で懺悔し、後悔が窺える…悲しげな顔で。
だが、時間は止まらない。2人の前に立つ花子は、眉間に皺を寄せて気に入らなそうな顔をしていた。
「おかしいわね…私が知ってるゲームの住人は馬糞を1ゴールドで買ってくれるぐらいの器量の持ち主ばかりだったのだけれど。布の服ぐらいそこそこの値で買い取ってくれそうなものだけれど」
「そのゲームとやらでは布の服は幾らだった?」
「10ゴールド」
「となると…やれやれ、奴は軽んじている訳か。我々を。出し抜けると。いい度胸だ」
花子との会話を経て、ベウセットはエプロンのおっさんの腿に乗せた脚に体重を掛け、視線をそちらへ。
花子もその脇へと移動し、見下ろす。まるで凄むかのように。正当とは言えない敵意。勘違いから生じる憎しみ宿る瞳に…憔悴したエプロンのおっさんを映して。
「喧嘩を売るなら相手を良く見るべきだ。人は体裁の為なら、メンツの為なら…場合によっては殺しも厭わん場合がある」
「いいぞぉー! ボスー! もっと言ってやって!」
その間、ぐりぐりと踵で腿を押されるが…エプロンのおっさんには顔を背けるしかなかった。
腹の中に渦巻くは後悔。ヤバい奴に喧嘩を売ったこと…巻き込まれたこと…その運命に辟易し、だが呪う複雑な感情を味わいながら。心構えはただ嵐が通り過ぎるのを待つ木の如く。
けれどその中で見える。新しい選択肢が。この理不尽な状況を切り抜ける方法が。
エプロンのおっさんは縋る。訳の分からない人間たちが溢れ出る異常事態に治安部隊の活動は期待できない事を理解しているからこそ。たとえそれが安寧なれど…己の本心を捻じ曲げるものだとしても。
「いや…そのッ……そうです。スンマセン。足元見てました。20ゴールドで買わせてください」
「お利口だ。さぁ、持っていけ」
「あっ、ハイ、窓ガラスの代金と慰謝料とを差し引いた13ゴールドです」
そこでベウセットはエプロンのおっさんの腿から足を退け、半笑いの彼が取り出した13枚の金貨を花子が乱暴に分捕った。
心を殺したエプロンのおっさんが立ち上がり、難癖付けられない様に財布泥棒の衣類を雑に丸めて小脇に抱える。
その姿を見、納得いかなさそうにするのは…財布泥棒。彼のその目つきは鋭くなる。異議を申し立てるかのように。
「おっさん、困るよ! 手で前押さえてなきゃ捕まっちまう軽く焼けたパンツ一丁で街の中歩けってのか!?」
だが、エプロンのおっさんは言葉を返さない。ただ、哀れな者を見るような目で…寂し気な笑みを口元に、財布泥棒を見るだけ。
そして彼は去る。そそくさと…割れた窓ガラスが取り付けられた建物の…裏口の向こうへと。
「花子、行くぞ。オルガのバカと先生を探しに行こう」
「えぇ。と言うか私もうこのゲーム辞めたいのだけれど。この短時間で会ったのが引ったくりと足元見まくるアコギな商人ってだけでモチベーションだだ下がりよ」
「ならオルガに文句を言ってからにしたほうがいいな。奴はたぶん直ぐには帰ってこないぞ」
花子は受け取ったゴールドを取り返した己の財布に。
ベウセットは財布泥棒が持っていたプレイヤーのそれよりもさらに小さな膨らみの、布袋を上方に投げ、キャッチしながら進み出す。
まるで、財布泥棒の事など気に掛けた様子もなく。
そんな2人の背後にて…財布泥棒は立ち上がる。長時間の星座により痺れた脚で…生まれたての小鹿の様な足取りで。
「待てー! やっていいことと悪いことがあるぞー! せめて服の代わりになる物ぐらいは寄越せー!」
ベウセットはその抗議の声など無いかのように歩を進めていたが…その隣の花子は足を止め、前者もそれに合わせて足を止める。
花子は振り返る。ベウセットにアイコンタクトをした後で。歩み寄る。痺れた脚に感覚が戻り掛け、立って居られなくなって生まれたての小鹿のようになる財布泥棒の元へと。
その脚に向かい…花子は脚を突き出した。にやつきながら。
「ヘーイ!」
「アァッ! やめてッ…今足痺れてるの!」
「ヘイヘーイ!」
「ちょっとッ! うあぁっ! ホントにぃッ…!」
1人で居た時よりも活き活きとした顔で、花子は嬲る。財布泥棒の痺れた脚を、爪先で突いて。
財布泥棒は悶絶。身を捩る。股間に両手を当てながら、衛生的とは言えない路地裏の石畳の上をほぼ裸で転がって。
けれど――その花子の至福のひと時も長続きはしなかった。急に目の前を覆う謎の光に包まれて。
財布泥棒が気が付けば、路地裏には誰も居なくなっていた。いるのは前の焼けたハート柄のトランクス一丁の己のみ。衣服も有り金も一切合切強奪された成れの果て。もうパンツしかない男の姿だけであった。
そんな彼の頭上。建物と建物に長四角く切り取られた昼の空は…夕焼けとは違う赤に染まりだす。見ているだけで不安になる様な…不吉な赤に。
だが…時は流れる。依然変わることなく。外からやってきた者とそうでない者と…平等に。
ポーク●ッツはウインナーの一種なんだそうです。小さいウインナーと言うとこの名が浮かびますよね。アレな比喩表現に使われるほどとなったポーク●ッツですが…伊藤●ムさんはどう感じているのでしょうか。