第一話
音のない世界、一日目。
とある日の、とある朝。
日も昇らぬうちに目を覚ました少女が真っ先に確認したのは、物音がするかどうかだった。
秒針、鼓動、風声。
一つ一つ、失われていることを指折り数えて把握する。
最後に、身を起こした際の衣擦れの音が聞こえなかったこと確認して、ようやく世界から音が消えたのだと確信した。
何故とか、どうしてとか、そんな些事には興味がない。
少女はいつものように、着替えもせずにベランダへ出た。
夏でも涼やかな早朝の風が、短く切りそろえた髪を揺らす。
街を見下ろす高層ビルの最上階からは、遠く遠くの山際さえもよく見える。
太陽が地平線の下から世界を照らす、薄明の時間。
夜の冷たさを覚えた空気を肺一杯に吸い込んで、少女は歌い出した。
誰も知らない音色。誰も知らない歌詞。
音の消えた世界に観客はいない。歌っている少女にすら届かない。
誰にも聞こえない歌は、夢のごとく消えていく。
そう夢、夢なのだ。
夢だからこそ、自由に歌うことができる。
少女は、その華奢な体躯を抜け出して思い奏でる。
静寂の世界に溶け込んで同化する。
楽譜には書ききれない音色を、この世には存在しないメロディを。
イデアの歌を心に刻め。
しじまが僕らを飲み込む前に。
やがて、儚き夢のアルペジオが歌の終わりを告げる。
少女はベランダから部屋へと戻ると、満足そうに背伸びをした。
浮かんだ汗を温かいシャワーで流し、水を一杯飲んでからベッドに潜り込む。
薄明が終わる頃には、再び深い眠りについた。
無音の世界が続く限り、少女の夢が覚めることはない。