愛と正義の間で
「離せっ! 」
僕はそう叫ぶと背後から締め上げていた男の腕を振り払った。物凄い力で僕の首と右腕にかけられていた太い腕のロックがいとも簡単に外れる。次の瞬間僕は背後の男の方に振り返ると右足で思いっきりその男の腹に蹴りを入れた。
「ぎゃあ〜! 」
その男は悲鳴を上げながら倒れ込んだ。だがその悲鳴は勿論僕に蹴られたことによって発せられたものではない。その悲鳴には何か別の要因があるのだ。一体何があったのだろう? ミールを背中に隠しファイティングポーズを取って呼吸を整えながら僕はその地面に倒れ込んだ男の顔を覗き込んだ。
「えっ!? 」
「……ユ、ユージーン君。」
僕は驚きの声を上げた。ミールも小さく震えるような声で僕の名を呼んでいる。僕らの目の前には血まみれになった顔を両手で押さえて痛がっている筋肉ムキムキの大男が倒れていた。何故その大男の顔が血まみれになっているのだろう? ミールも僕の背後から不思議そうににその大男を見つめている。暫く僕達は呆然としていた。だが次の瞬間僕はふと気が付いた、その大男のすぐそばにシェリルがいることを。
「シ、シェリル……? 」
僕は思わずそう呼んでいた。シェリルは威嚇するようにその大男を睨みつけていたがその右前足は血で真っ赤だった。そしてその右前足の先端には驚くほど鋭利な爪が三本突き出ている。その爪と爪の間には肉片らしきものがこびりついていてまだ血が滴り落ちていた。おそらくシェリルが窮地に陥った僕を救う為にその鋭い爪で大男の顔を切り裂いたのだ。僕はシェリルが自分のことを助けてくれるなんて思ってもいなかったしそんな攻撃能力を持っていることも今まで想像したことすらなかった。
「と、とにかく今のうちに逃げましょう! 」
「う、うん。シェリル、行こう! 」
暫く呆気に取られていた僕だが先に我に返ったミールの一言で僕達はその場から走り出した。川沿いの曲がりくねった道を無我夢中で駆け抜ける。すると僕の肩にシェリルがぴょんと飛び乗ってきた。僕はシェリルを肩に乗せたまま暫くミールと二人で走り続けた。
「はぁ、はぁ、ふぅ! 」
十五分ぐらい走っただろうか? 僕とミールはいつの間にか人気のない森の中で立ち止まり息を弾ませながら大きな一本の木に二人並んでもたれかかっていた。呼吸を落ち着かせ周囲に人の気配がないかどうかを窺う。暫く耳を澄ますがどうやら大丈夫なようだ。追っ手はいない。僕は立ったまま両膝の上に両手を乗せ身体をくの字に曲げると大きく深呼吸をした。するとミールも僕と同じように呼吸を整えながら聞いてきた。
「も、もう大丈夫かしら? 」
「あぁ、多分ね。」
僕はそう答えながらリュックを降ろすと中からタオルを取り出し額の汗を拭った。ミールも汗びっしょりのようでしきりにハンカチで首の辺りを拭いている。暫く二人とも無言で危機を脱したとはいえ何となく落ち着かない雰囲気だ。だがその時シェリルが鳴いた。
「クゥーン! 」
シェリルは嬉しそうにしている。そのシェリルの鳴き声で場の雰囲気が一気に和んだ。僕はしゃがみこむとシェリルの頭を優しく撫でながら言った。
「お前は強いんだな、あんな切れ味鋭い爪を持っているなんて。助かったよ、ありがとう、シェリル。」
するとシェリルは僕の肩に飛び移ってきて顔をペロペロと舐めた。そこへミールもシェリルに感謝の言葉を述べた。
「本当に賢いパンダちゃんね、まるでユージーン君が何を考えているのか全て分かっているみたい。」
ミールもそう言ってシェリルの頭を撫でた。シェリルは気持ちよさそうにしている。ようやく全員が落ち着いたところで僕はミールに話を切り出した。
「ミール、さっきのことだけど……。」
僕がそう言うとミールはまた寂しげな表情になったが今度は涙はなかった。彼女はゆっくりと喋り始めた。
「あなたが大変な目に遭っていたということはよく分かったわ。コイチ君の家の人達は本当に酷いことをするわね。でもあたしはコイチ君の家のことを悪く言えないわ。だってあたしのお父さんもその一味なんですもの。」
そう辛そうな表情を浮かべて喋るミールを僕はじっと見つめていた。
「あなたは自分の両親を助け出さなければならないわ。その為にあなたはあたしやコイチ君のお父さんの悪事を世間に暴露することになるかもしれない。でもそれも仕方ないわ、事実なんだから。」
彼女はシェリルの頭を優しく撫でながら言葉を続けた。
「……あたしの家の離れに蔵があるの。あたしやお父さんは物置小屋って呼んでいるけどね。そこへ来たらいいわ。そこにおそらくあなたの望むものがある筈よ。」
「……ミール。」
僕は何と答えていいのか分からなかった。彼女は自分の父親の秘密を僕に打ち明けることによって自分達家族がどうなってしまうかをある程度理解している筈なのだ。その上で僕に父親の素性を話す彼女というのはやはり正義感が強く曲がったことが許せない質なのだろう。普通の女の子に出来ることではない。僕は彼女に頭を下げた。
「僕がこれからすることが、結果的に君と君の家族にとって良いことになると僕は信じています。ありがとう、ミール。」
「……ユージーン。」
涙はなくとも悲しげな表情を浮かべる彼女は僕の胸に顔を埋めてきた。愛してはいるもののその行いが許せない父親への彼女の複雑な胸中を察すると僕はそれ以上何も言えなかった。
「……これをあなたに渡しておくわ。」
暫くすると彼女はそう言ってポケットから一つの鍵を取り出した。
「その鍵は? 」
「……蔵の鍵よ。入り口は一ヶ所しかないの。その鍵を使えば簡単に中へ入れるわ。あなたにもし会うことがあれば渡そうと思って肌身離さず持ち歩いていたの。」
「……。」
「あたしのお父さんを正しい方向に導いてあげて。」
「……分かった。」
彼女はそう答えると寄りかかっていた身体を僕から引き離しよろよろと家に向かって歩いていった。僕はそんな痛々しい彼女の後ろ姿をただ見つめることしか出来なかった。




