密告
「……ただいま。」
そう言って僕が恐る恐る家に帰るとワカバさんがいつも通り出迎えてくれた。
「ユージーン坊っちゃま、お帰りなさいませ! 明日から夏休みですわね。ちゃんと勉強しないと駄目ですわよ! 」
ワカバさんがこれまたいつも通り僕にお節介なことを言ってきた。普段ならちょっと耳障りなワカバさんの言葉が今日は妙に心地良い。良かった、コイチとその父親からの魔の手はまだマイヤー家までは及んでいないらしい。僕は安堵の溜息をついた。するとワカバさんが続けて言った。
「そうそう、奥様がお呼びです。帰ったらダイニングルームにいらして下さいとのことです。」
母さんが? 何だろ? ひょっとしてコイチの家から既に何か嫌がらせでも受けているのだろうか!? 僕は急いで母さんのところへ向かった。
「母さん、何? どうかしたの? 」
僕が慌てて部屋に入ると母さんはテーブルに一人で座っていた。心なしか表情が強張っているように見える。僕は何かまずいことが起こっているのをその母さんの表情で確信した。
「ユーちゃん、そこへ座りなさい。」
母さんが静かにそう言った。いつもの口調ではない。僕は言われるがままに母さんの対面の席に座った。何だろう? おそらくコイチ達が何か因縁をつけてきたのだろうけど。くそっ、あのバカ親子め!
「ユーちゃん、落ち着いて聞いてね。」
「何? 早く言ってよ! 」
僕は早口でそう返した。あのタンケーダ家の馬鹿共が何をやってきたのか早く知りたいのに母さんがゆったり話すのでイライラしたのだ。あいつらめ! 本当に腹が立つ!
「ユーちゃん、ルカ先生から連絡があってルカ先生は家庭教師を辞めるそうです。」
「えっ!? 」
ルカ先生は大学の試験があるってことでここ数日あっていない。予定通りなら明日からまた家に来てくれる筈なのだ。全く予期せぬ母さんの台詞に僕の心は大きく動揺した。何言ってるんだよ? 嘘だろ!? コイチの話じゃなかったのかよ!? 僕がそう言いかけると母さんは話を続けた。
「あなた、この前ルカ先生と食事に言った時、お酒を飲んだでしょう? 」
ルカ先生とステーキ屋のおばちゃんしか知らない筈のことを何で母さんが知っているのだ!? 僕はそのことにもかなり驚かされてしまった。何と答えていいのか分からない僕は黙っているしかない。だがそんな僕の動揺をおそらく見透かしていたであろう母さんは僕の態度にお構いなく話を更に続けた。
「それを見ていた誰かがお父さん宛に匿名の手紙を出したの。おたくの息子さんが女の子を連れてお酒を飲んでるってね。しかも写真付きで。」
誰だ!? そんな余計なことしやがったのは? 僕は一瞬怒りでテーブルを殴りそうになったがそれをグッと堪えて母さんに言い返した。
「……母さん、確かにその通りです。僕はワインを飲みました。でも飲んだのは一杯だけです! それだけだ! しかも僕の意志で飲んだし! そのことで何故ルカ先生が家庭教師を辞めなきゃいけないのか、僕には理解出来ない! 」
僕は思わず激昂して立ち上がっていた。確かに現在のヘフナー王国では子供に飲酒をさせないという風潮が強くなってきているが法の上では何も規制されていない。僕らは法律を犯した訳ではないのだ。僕が母さんに詰め寄ろうとすると母さんはこう言った。
「父さんはたまに家であなたにお酒を勧めることがあるわよね? その時父さんはよくなんて言ってる? 」
「……。」
僕が黙っていると母さんは言い聞かせるように言った。
「家の中ではいくら酔っ払ってもいいけど外では飲むな、でしょ? 」
「……。」
確かに父さんがその台詞を口にしているのはよく耳にする。僕は何も言い返せなかった。
「お父さんもお母さんもあなたの飲酒の件はルカ先生に確認したわ。そうしたらルカ先生はあなたの飲酒の事実を認めて泣きながら謝ってきたの。軽率な行動を取って申し訳ございません、てね。」
僕は怒りで顔がピクピクしているのが自分でも分かった。僕は母さんに叫んだ。
「僕はルカ先生に飲まされたんじゃない! 自分の意思で飲んだんだ! ルカ先生は何も悪くない! 」
僕の言葉を聞くと母さんはすこし俯きながらこう言った。
「ユージーン、一応マイヤー家は貴族の家柄だから世間体というものがあるでしょ? 監督する立場の家庭教師の先生がその場にいながら息子が飲酒していたというのは問題があるわ。でもね、お父さんもお母さんもルカ先生が素直にその事実を認めて謝ってくれたから辞めて下さいとは言わなかったのよ。」
「じゃあ何でルカ先生は辞めるんだよ!? 」
僕はすこし涙声になっていた。
「はっきりしたことは分からないの。ルカ先生が来てくれてからあなたは変わったわ。成績は急上昇したし何より本当にポジティブになった。お父さんもお母さんも本当にルカ先生には感謝していたの。だから先生には謝ってくれたしもうこのことはなかったことにしましょうと言って、これからも今まで通り家庭教師をお願いしますってことになってたんだけど……。それから三日ほど経った時にやっぱり迷惑をかけたから辞めさして頂きますって先生が言ってきたわ。お母さんは必死に止めたのだけれど『私はユージーン君には相応しくない』の一点張りでね。」
母さんの話を聞いていると僕の目から涙が溢れかけた。
「……先生が本当にそう言ったのかい? 」
僕がそう尋ねると母さんは黙って頷いた。僕はもうじっとしていられなくなってダイニングルームを飛び出した。
「何処へ行くの!? 」
「何処でもいいだろ! 」
背後で叫ぶ母さんに適当な返事をしながら僕は家を飛び出していた。このままここにいても何の解決にもならない。こうなったらルカ先生に直接会うしかないと僕は思ったのだ。もう先生に会えないなんて考えられない! 僕はルカ先生の家を目指して脇目も振らず走りだした。




