てめえ、ぶちのめしてやる!
「おい! やめろっ! 」
僕はそう言うとコイチの前に立ちはだかった。目の前で女の子が暴力を振るわれるのを止めない訳にはいかない。するとコイチは一旦動きを止めて物凄い形相で僕を睨みつけてきた。
「格好つけやがって! この貧乏人が! 」
コイチはそう言うと両手を上げてボクサーのようなファイティングポーズをとった。どうやら僕を殴るつもりらしい。でも僕ももう引けなかった。10人程だけどクラスの皆が見てるし何よりミールを守らなければならない。ここで逃げればもう男じゃないのだ。僕もコイチと同じようにファイティングポーズをとった。
「お!? お前やるのか? この俺と! あぁ!? 」
僕は何も答えなかった。無言でコイチの拳だけを見つめていた。もうこうなってしまった以上喧嘩は避けられない。最初の一撃を叩き込めれば有利になる筈だ。僕はその機会を逃さないようにしなければ!
「生意気だな、ボコボコにしてやる! 」
コイチはそう言ってすこし間合いを詰めてきた。今日のコイチはいつも以上によく吠える。だが見てやがれ、あと一歩近ずいたらその顔に強烈なパンチを叩き込んでやる! 僕はずっとランニングや筋トレを続けて身体を鍛えてきたのだ。ヤコーさんに格闘技をすこし教えてもらったこともある。ゴブリンや巨人とも戦った僕はもう昔のなよなよした僕ではない。かかってきな! コイチ!
「この野郎、シュ! シュ! 」
コイチがそう言って左手で二回ジャブを打つような振りをした。どうやら格好つけて見よう見まねのボクサーの真似をしたようだ。だがその瞬間コイチの左手のガードが下がった。僕はその瞬間を逃さず一歩踏み込んで右の拳をコイチの左頬に叩き込んだ。
「バシッ! 」
そう乾いた音が響き僕の右ストレートが綺麗に決まった。コイチはひょっとしたら僕が先制攻撃をしてくるなんて思っていなかったのかもしれない。それぐらいコイチは隙だらけだった。そして次の瞬間コイチは後ろによろけて倒れ込んだ。
「ガラガラ! ガターン! 」
大きな音がしてコイチと共に背後にあった机や椅子がいくつかひっくり返った。そのひっくり返った机と椅子の間に埋もれるように倒れ込んだコイチだがおそらくすぐに立ち上がって反撃してくるだろう。このまま馬乗りになってボコボコにしてやる! そう思った僕はファイティングポーズを取ったまま倒れているコイチに近ずいてコイチの顔を上から覗きこんだ。ところがコイチは既に半泣きになっているではないか!
「うっ、うっ、うわぁーん! 」
するとコイチはまるで幼稚園児のように突然大声で泣き始めた。僕を睨むように見上げながらもコイチはワンワンと泣いている。僕は思わず背後にいたミールと顔を見合わせて目をパチクリさせた。コイチがこんな無様な姿を呆気なく晒すなんて思っていなかったからだ。コイチは暫く泣き続けた後ヨロヨロと立ち上がって涙ながらにまた吠え始めた。
「お、お前、絶対仕返ししてやる! 今日俺に楯突いたことを必ず後悔させてやる! 」
そう叫ぶコイチの憎しみの表情は尋常ではなかった。真っ赤に腫らした目は怒りで釣り上がり全身がぷるぷると震えている。その姿はまるで憎悪の塊となった悪魔のようだ。人間が悪魔に変身する瞬間を見てしまったようで僕はコイチにぞっとするものを感じた。
「もう、帰ろ。」
僕の背後からミールが小さな声でそう言った。ミールもかなり怯えている様子だ。もう勉強だなんだと言っている雰囲気ではない。僕はミールを背後に従えて睨み続けるコイチと目を合わせたまま後退りしながら教室を出た。目に涙を溜めて恐怖で小さく震えているミールを一人にすることは出来ず僕はそのまま彼女を家まで送っていった。だがその間は二人とも俯いて歩くだけで会話は一切なかった。
「さ〜てと。今日の授業はこれでお終い! 今日もよく頑張ったわね、ユージーン! 」
コイチとの喧嘩の所為で何となくモヤモヤした一日だったけど今日はルカ先生の家庭教師の日だ。夜から僕は頭を切り替えて勉強に集中すること二時間、ようやくその授業が終わった。
「最近は凡ミスもしなくなったしこの調子よ、ユージーン! 」
「は、はい。」
授業が終わる時間になるとワカバさんがお茶を出してくれて先生はいつもちょこっと僕とお喋りをしてから帰る。最初の頃はお茶を出されてもすぐ飲みほしてそそくさと帰っていた先生だけど最近はちょっとゆっくりしてから帰るのだ。勿論それはほんの十分ぐらいのことだけど。でも僕はこの十分が大好きだった。
「確か今週の木曜日に歴史の試験があるんだよね? 」
「はい。」
「じゃあ次の授業はその試験対策ね。試験範囲はどの辺りなの? 」
「近代史です。」
「あら、あなたのお得意の分野ね! これは期待出来るわね! ふふ。」
そう言って笑う先生は本当に可愛い。先生は確か僕より三つ年上なのだけど綺麗というより可愛いという言葉の方が当てはまる。あぁ、「先生のこと、好きです。」って一言言いたい! でもそれってやっぱり物凄く勇気のいることなのだ! ふられて気まずくなって先生がもし家庭教師を辞めるなんて言ったらそれこそ僕は落ち込んで再起不能になってしまいそうだし。そういえば二人での食事はいつ行くのかな? 僕が聞くと催促してるみたいだしな。そんなことをあれこれ考えているうちに十分はあっという間に過ぎ去ってしまった。
「じゃあ、そろそろ帰るわね。」
先生はそう言うと荷物を鞄に入れて立ち上がった。あ〜あ、もう先生との時間はお終いか。照れてあんまり喋れないくせに先生が帰るとなるともっと喋ればよかったっていつも思うんだよな。僕って駄目な奴だよ、全く! だが僕が心の中でそう呟いた次の瞬間だった。先生は衝撃的な言葉を投げかけてきた。
「射撃競技も結果は最高だったし勉強もいい感じ。この調子ならあたしはもう必要なくなるんじゃない? 」
部屋を出る時に先生がふと冗談ぽくそう言ったのだ。その言葉を聞いて僕はそれまで色々と考えていた頭の中が真っ白になり全身が凍りついて時間が止まったように思えた。
「先生が必要ないってことはもう先生が僕の家に来てくれなくなるってこと? 」
僕が導き出したその結論が凍りついた僕の頭の中を何度もぐるぐると回っている気がした。そして気が付くと僕は自分でも驚くぐらい素早く先生の腕を掴んではっきりとこう言っていた。
「僕には先生が必要です。」
ドアを開けようとしていた先生は背後から僕に急に腕を掴まれたのでちょっと驚いた様子で僕の方を振り返った。僕と目が合う。先生は笑顔で何か言おうとしたけれどいつになく真剣な表情の僕を見ると先生の顔から笑みが消えた。先生は僕の顔を暫く見つめた後また笑顔に戻って言った。
「ふふっ、冗談よ。これからもビシバシ鍛えてあげるからそのつもりでね。」
先生は僕の目から視線を逸らすとすこし小さな声で言葉を続けた。
「……じゃあ次の試験が終わったら御飯行こうか? 」
「え? 」
「この前射撃競技の時に言ったじゃない。忘れたの? 」
「い、いえ。覚えています。」
「美味しいお肉屋さん知ってるから案内してあげるわ。でも次の試験が八十点未満ならこの話はなかったことにするわよ! ふふ、じゃあ頑張ってね。」
そう言い残して先生は帰っていった。普段はルカ先生が帰ってしまうと淋しいのだけれど今日は違う。先生と二人っきりの食事がいよいよ現実のものとなると思うと改めてドキドキするがそれ以上に僕の心は喜びで満ち溢れた。僕は先生が帰った後も近代史の勉強を張り切って深夜二時まで続けてしまった。




