8.意識不明1
最近、眠れない。
おじさまに、カナと同じクラスにするよう頼まないでってお願いした後も、やっぱり不安だったのかな? 眠れない日が続いた。
カナにバレて、カナとケンカした後も、うまく寝付けない日があった。
カナに怒鳴られたこと、やっぱり、ショックだった。
そして、パパがやったことに気がついてからは……。
寝付けないし、眠りも浅くなっているし、食欲も落ちている。
だからかな。今日の検査の結果は散々だった。
土曜日。二週間に一度の診察の日。
先生は真顔でわたしに告げた。
「陽菜ちゃん、今日は帰してあげるけどね。これ以上、悪くなったら入院させるよ」
半分は脅しだと分かったけど、続く言葉に、赤ちゃんの頃から診てくれている先生には、全部お見通しなのかもしれないって思った。
「眠れないなら睡眠導入剤出しておくから。後、食べられないなら点滴してもらいなさい。お母さんに伝えておくから」
「……はい」
「それと、少しでも調子が悪かったら、学校は休まなきゃダメだよ。分かってると思うけど、ムリは禁物。しばらくは土日も出かけたりしないで、ゆっくり身体を休めて」
土日外出禁止令まで発令。
しばらくっていつまでだろう? 次の検診日、二週間後までかな?
言わなきゃバレないってものでもない。
うちの場合、先生から直通で、この病院で働いているママのところに情報が流れちゃうから。
「……はい」
カナ、デートに誘ってくれたよね。
最近、どうもカナとの間がギクシャクしている。だからか、
「今度、休みの日にどっか遊びに行こう!」
って、誘ってくれた。
「ハル、どこ行きたい?」
って、嬉しそうにガイドブックを持ってきてくれた。
ごめんね、カナ。……診察がない日も、しばらく、どこにも行けそうもないよ。
そんなことを考えながら、絵本と折り紙の入った手提げ袋を持つと、
「小児病棟も、子どもたちは喜ぶだろうけど控えめにね」
と、先生が言った。
小児科の病室で、子どもたちに絵本を読む。一緒に折り紙を折る。工作をしたり手芸を教えたりする。なんてことはない。ただ一緒に遊ぶんだ。
もう何年も前からの、わたしの楽しみ。
でも、それもダメなんだ。
「……はい」
わたしの表情が硬くなったのを感じてか、先生はふうっと息を吐いて、仕方ないなと苦笑いした。
「薬は後で届けるようにするから、薬局寄らずに行っておいで。その分だけ、ゆっくりできるだろ?」
と、子どもの頃と同じに、わたしの頭をくしゃっとなでて、にこっと笑ってくれた。
それから、付け足すように言った。
「来週、また診せにおいで。その前に具合が悪くなるようだったら、すぐに来ること。いいね?」
調子が良ければ、検診は月に一回。少しでも良くないと二週間に一回。自宅療養や入院手前だと週に一回。
「……はい」
告げられた内容に、心が少し重くなった。
ハル。
入院病棟へ向かって歩いている時、呼ばれた気がして振り返った。
「カナ?」
空耳?
カナ、今日は迎えに来てくれると言っていたから、早く着いたのかなと思ったのだけど、視界のどこにもカナはいなかった。
そのまま、ぼんやりとカナのことを想う。
カナ。ごめんね。最近、ぜんぜん、うまく笑えない。
カナが気にしていること、分かってる。
いつまでも、終わったことをウジウジ考えたくはない。
だけど、忘れられない。
来年、もう一度、クラス替えがある。その時も、カナはわたしと同じクラスを望むのだろうか? 来年は、おじさまに頼むのだろうか? それとも、パパに?
今さら、言ってもムダだと分かってる。だから、もう、カナには何も言っていない。
だけど、忘れたわけではない。
そこまで、こだわるようなことじゃない。どうでも良いことだって、分かってるはずなのに、どうして、割り切ることができないんだろう?
「陽菜ちゃん!」
「陽菜ちゃんだー!」
「絵本読んで~!」
「折り紙しようよ!」
大部屋に入ると、子どもたちが一斉に集まってきた。
動けない子はベッドの上で笑顔を見せてくれる。動ける子たちは、抱きついてくる。隣の部屋の子を呼びに行く子どももいる。ここは小さい子中心の大部屋。
お見舞いに来ているお母さんもいたので、ぺこりと頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちは。いつもありがとう」
まだ若いお母さん、嬉しそうに小さな女の子の頭をなでた。
「この子も、陽菜ちゃんが来るの、すごく楽しみにしていたのよ」
その子の頭には、部屋の中なのにニット帽。抗がん剤治療で、髪の毛が抜けてしまったんだ。まだ、七歳なのに。女の子なのに。
……元気になりますように。
「今日の絵本、何!?」
「何だと思う?」
わたしの手提げ袋を覗き込むのは、点滴を付けて歩く男の子。
新しく見る顔もいる。それでも、春休み中は検診日以外も来ていたから、大体知っている顔ぶれ。
新しい子も、わたしのこと、聞いていたのかな? もじもじしながらも、笑いかけると笑顔を返してくれた。
ベッドから動けない子の周りに、自然と子どもたちが集まる。わたしが、そちらの方に絵本を向けるのを知っているから。
今日は、ベッドから降りられない子は一人だ。
交通事故で足と肋骨を骨折して、まだ自由には動けない男の子。この前に来たときよりは、随分顔が明るい。
よかったね。
「最初はね……」
と、大きな絵本を取り出すと、
「あ! 妖怪ひとつ目くんだ!」
と、この話を知っている子が声を上げた。
わたしはニッコリ微笑んで、スウッと息を吸ってから読み始める。
「むかーしむかし、ほんの少し昔、こーんな変わった妖怪がいました」
いつも何となくザワザワした空気の漂う病室に、わたしの本を読む声だけが響く。
でも、それはほんの一瞬の静寂で、子どもたちは物語に夢中なだけで、お話が大きく動くと、吹き出すし、笑うし、手を叩いて喜んでくれる。
「うそーーっ」
「何で、そんなこと、するんだよ!」
「さーて、何ででしょう?」
わたしはニッコリ笑って、じらすように、ゆっくりとページをめくる。
待ちきれないよ、とキラキラ輝く子どもたちの瞳。
ほっこり心が暖まる。
世の中には、悲しい絵本も考えさせられる絵本も、たくさんある。
そんなお話もわたしは、好きだった。自分では、そんな絵本も読んだし、悲しい物語も好きだ。思う存分涙を流すと、心が不思議とスッキリとするんだ。
だけど、わたしがここで読むのは楽しい絵本、幸せな気持ちになれる絵本。
現実世界は楽しいことばかりじゃない。そんなこと、わざわざ絵本から教えてもらわなくても、きっと、この子たちは知っている。
ここは完全看護だから、よほどのことがないと夜には家族は帰ってしまう。ツライ治療がある子もいる。数ヶ月に渡る長い病院暮らしをする子もいる。退院して、また戻ってくる子も……。突然、同室にいた子がいなくなる……、長くいるとそういう恐怖も味わう。
だから、楽しくて明るい絵本。
絵本を読んでもらう間くらい忘れたっていいじゃない? ツライ現実なんて……。
「……と言うわけで、三人は末永く、幸せに暮らしました」
最後の言葉を読み終えて、パタンと絵本を閉じると、子どもたちの小さな手による、可愛らしい拍手が病室に響いた。
「陽菜」
二冊読み終わったところで、病室の入り口の方から、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
見ると、そこにはママが立っていた。
……え? なんで?
白衣を身に着け、ポケットには聴診器、胸にはネームプレート。完全にお医者さんスタイルのママに、手招きされて立ち上がる。
ママのところに向かおうとすると、思い直したように、ママがわたしの方にやってきた。そうして、ママはわたしが持っていた絵本をそっと袋に戻すと、袋をそのまま手に持った。
「……ママ?」
「ちょっと、一緒に来て」
「え? なぁに?」
戸惑うわたしへの返事は後回しにして、ママは病室の子どもたちに言った。
「ごめんね。お姉ちゃん、急用だから今日はここまでね」
え? 急用って?
何が起こっているのか分からず、呆然としている間に、ママに軽く背中を押されて病室の外に連れ出された。
いつもは、終わりにしようとしても、
「もっと遊んで」
「帰っちゃやだ」
って、わたしにしがみついて、なかなか帰らせてくれない子どもたちだけど、白衣を着たママ……お医者さまの言葉には逆らわなかった。
絵本を二冊読んだだけで、他には何もできなかったけど、子どもたちは、
「陽菜ちゃん、バイバイ!」
「陽菜ちゃん、また来てね!」
と、手を振ってくれた。
子どもたちの声に、かろうじて振り返り小さく手を振った。
もしかして、先生は言わなかったけど、検査の結果がとてつもなく悪かったんだろうかとも思ったけど、そんな雰囲気でもない。
「ママ? お仕事は?」
横を歩く、わたしより十センチほど背の高いママの顔を見上げた。
「大丈夫。仕事中だから」
ママは真顔で言った。
……仕事中? なのに何が大丈夫?
ママはそれ以上は何も言わず、そのまま少し歩くと、わたしをナースステーションの側のベンチに座らせた。
それで分かった。
……イヤな話だ。きっと、とてつもなくイヤな話が始まるんだ。
わたしが倒れるんじゃないかって、ママが心配するような、尋常ではない話が……。
「陽菜、落ち着いて聞いてね」
ママが話し始める前から、鼓動が早くなる。
おじいちゃんか、おばあちゃんに何かあった?
……もしかして、パパ?
まさか、お兄ちゃん?
ドクン、ドクンと、心臓が脈打つ音が聞こえる気がした。
「叶太くんがね、」
……え? カナ?
思いもかけない名前を耳にして、周りに聞こえていたあらゆる音が遠くなった。
だって、今から話すのは悪いニュースなんでしょう?
……なんで、カナが?
心臓の拍動が、一気に強くなった。
ぞくりと、嫌な感触が背中に走った。
「少し前に、交通事故で救急に運ばれてきて」
カナ!
思わず立ち上がろうとしたら、ママに肩を押さえられ、もう一度、座らされた。
「意識がないから、」
その言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引き、目の前が真っ暗になった。