7.交差点
「んー!! いい汗かいた~!!」
自転車に荷物を積み終わり、両手を空に突き上げて伸びをしていると、
「叶太、何か食ってかない?」
と、空手仲間の谷村淳が声をかけてきた。
こいつとは、小学生の頃から一緒だ。道場に通い出したのは、確かオレが一年からで、こいつが二年から。
土曜日。今日はハルは通院日で、オレは空手の日。
早朝から顔を出して、基礎練習、型や組み手。ほどよい汗をかいた後、後半は小学生の練習相手。それも終わって、今は昼前。
「悪い。オレ、寄るとこあるから」
ハルがまだ病院にいるだろうから、迎えに行くんだ。
「病院?」
つきあいが長いそいつは、オレの彼女が病弱で、しょっちゅう入院してるのを知っている。
「ああ。でも、今日は通院。終わった後、病棟に寄ってるはずだから迎えに行くんだ」
「絵本の読み聞かせだったっけ?」
「そ。後、よく折り紙折ったり、工作したりしてる」
ハルは小さい子が好きだ。入院中でも調子がいい時は、よく小児科の大部屋やプレイルームで、子どもたちと遊ぶ。あと通院が終わった後とか、長期の休みの時とかにも、病棟に顔を出すんだ。
そういうボランティアもあるらしいけど、ハルは多分、ボランティアだと思っていない。小さい頃、同じように、優しいお姉さんに遊んでもらってすごく嬉しかったから、自分もやるんだって言う。
「陽菜ちゃんだっけ。いい子だよな~」
「だろ?」
思わず顔がゆるむのを見て、淳は笑う。
オレは子どもの頃から、いつだってハルのことばっかりだったから、以前はよくからかわれていた。会わせろ会わせろって、あんまりうるさいから、去年一度会わせたら、それからはからかわれなくなった。
「じゃ、また来週!」
「ああ! またな!」
オレは淳に手を振ると、ペダルをグッと踏み込んだ。
ハルとは相変わらず、どこかぎこちない。だけど去年のように、オレを避けたり、黙り込んでしまうようなことはない。
ハルがオレを置いて三十分も早く行ってしまった次の日、オレが一時間も早くに家を出て、裏口で待ち伏せしたからか、その翌日からは、いつもの時間に登校するようになった。
でも、ハルが物思いにふける時間が増えた気がする。
会話もあまり弾まない。
例のオレの所行については、言っても今さらどうにもならないと分かっているからか、ハルはオレを責めるようなことは言わない。だけど、そう簡単に割り切れないのかも知れない。
ただでさえ、そんな不安定な状況なのに、ハルに横恋慕中の一ヶ谷は連日、ハルの元を訪れる。
もう、カンベンしてくれよ! って思いつつ、オレはハルについて一ヶ谷を追い払いに行く。
朝は待ち伏せで、
「陽菜ちゃん、おはよう!」
だし、昼休みにもほぼ毎日やって来て、
「牧村先輩、お願いします!」
と元気に呼び出し、
ハルが行くと、「牧村先輩」ではなく「陽菜ちゃん」と呼ぶ。
ハルに一体どういうことか聞いても、
「入学式の日の朝に会ったの」
としか言わない。
オレがおいてけぼりを食ったあの日、ハルが貧血を起こして倒れたあの日。
教室に初めて来た時の「ごめんね」は何? って聞いたら、
「裏口に迷い込んでいたから、クラス発表の場所に案内しようとしたの」
とハルは言う。そこへ向かう途中で貧血を起こしたらしい。
保健室へ運んでくれたのは羽鳥先輩だと聞いたから、そこを突っ込むと、具合を悪くしてしゃがみ込んだハルに、イチ早く気づいて飛んできてくれたのが、羽鳥先輩だというだけだと言う。
「そんだけで、何でいきなり告白されてんの!?」
と聞くと、途方に暮れたような顔で、ハル、オレの顔を見た。
「……わたしにも、分からないよ」
オレが怒っていると思ったのか、ハルはそのまま黙ってしまい、会話は途切れた。
しまった。と思ったけど、後の祭り。
ハルは可愛い。正直、惚れた欲目とかそんなんじゃなく、可愛い。
抜けるような白い肌に、黒目がちな大きな目、ふわふわと色素の薄い柔らかそうな長い髪。学年でも一、二を争う可愛い顔立ちをしている。その上、穏やかで優しくて性格はピカイチ。
……そう。
これまで、誰も手を出そうとしなかったことの方が、不思議なのかもしれない。
小学生の頃から、オレたちは学校公認カップルだと言われていた。
正式に付き合い始めた去年……高等部一年の六月。未だに、「世紀の大告白」と話題に上るような告白をして、OKをもらったオレ。
だから、ハルに手を出そうなんてヤツは、去年は一人も現れなかった。
だけど、一ヶ谷は新入生だ。しかも、別の中学から入ってきた外部生。
アオチはオレとハルが、どれほどの絆で結ばれているかを知らないのだ。
花の蜜に寄ってくる虫を追い払うかのように、オレは一ヶ谷を追い払う。なのに、アイツは執拗に、諦めることなくやってくる。
「あのね。どれだけ来てもらっても、わたし、一ヶ谷くんとはつきあえない」
「もう、つきあっている人がいるから」
「……別れないよ」
昨日、ハルが一ヶ谷に言った。
ハルが一ヶ谷相手に、しっかりと断りを入れたのが嬉しくて、オレはもうハルと仲直りしたような気持ちになる。
けど、別に何も変わっていない。
入学式の日からハルに笑顔がない。
ハルに笑っていて欲しいのに。ハルを幸せにしたいのに。
とにかく、二人きりの時間を増やしたかった。
天気も良いし、気候も良い。今日は迎えの車は頼まず、自転車に二人乗りで帰る予定だ。
ハルは自転車に乗れない。だからか、初めて後ろに乗せた去年の秋、ハルはスゴく喜んでくれた。
「自転車って、お尻、痛いんだね」
なんて言いながらも、赤く上気した頬が、キラキラと輝く瞳が、本当に楽しそうで。ハルの笑顔が眩しくて、オレは本当に幸せだった。
目の前に見える、スクランブルの交差点を越えたら、もう病院は目の前だ。
その大きな交差点で、信号待ちをしていると、
「……っ!」
隣から、息をのむような声が聞こえてきた。
その歩行者のおじさんの視線の先を見ると、一台の青い乗用車。
……………おいっ!
その車は、交差点に向かって突進中だった。
オレのところには、来ない。
だけど!
その進路の先には、オレとは逆の歩行者信号を待って、明後日の方向を向いて立っている制服姿の女の子がいて!!
オレは、考えるより先に、自転車を放り出して、駆け出していた。
間に合う。
そう踏んで、その子の腕を引いた。
危ないと叫ぶ間もなく、力いっぱい引いた。
そのままの軌跡だったら、車は、オレの方には来ないはずだった。
……なのに、
なんで、こっちにハンドル切るんだよっ!!
「クソッ!」
オレは、女の子を引く力を強くした。
反対の腕で、その子の背を力いっぱい、突き飛ばした。
どこかで、甲高い悲鳴が聞こえた。
キキキィィッ!!
今更ながら、急ブレーキをかける音が鳴り響いた。
目の前に車の青いボディが見えた。
衝突の衝撃はうまく受け流せた気がする。きっと、長く格闘技をやってきたおかげだ。
だけど、まともに車にぶつかったオレの身体は宙を舞い、とっさに頭をかばったにも関わらず、オレは後頭部をアスファルトに強打した。
血相を変えてかけ寄る人たちの姿が、かすむ視界のすみに入ってきた。
先頭は隣に立っていたおじさんか。
こんな状況なのに、オレはやけに冷静で、音はなく、スローモーションで動く世界は、まるで映画か何かのようで……。
ふと、脳裏にハルの顔が思い浮かんだ。
大好きな笑顔ではなくて、今にも泣き出しそうな……哀しげなハルの顔が。
ハル、ごめん。
……オレ、なんか、迎えに行けなさそう。
そのまま、オレの意識は暗転した。