6.戻った日常
言いたいことは言い切った。
ちゃんと通じたか、正直自信はない。けど、もうこれで良い。これでも何かしてくるなら、後はもう明兄の仕事だ。
「でも……じゃあ、どうすれば」
一ヶ谷の兄貴が戸惑ったように、そう言った。
正直、一ヶ谷悟の兄とは思えないくらい、しっかりした、至極真っ当な人だった。巻き込まれたこの人には、ただ気の毒だという感想しかない。
「別に何もしなくていいよ」
オレはそう言うと、隣の篠塚に視線を移した。
「ただ、あんたには、二度とハルに近づいて欲しくない」
ハルは何も言わない。
誰かを悪く言うところなんて、見たこともない。
今回のことでも、恨んだり文句を言ったり、報復を考えたりしたっておかしくないのに、ハルはむしろ、二人を庇っていた。
昨年、ハルを生死の境にまで追いやった田尻とすら、ハルは仲良くしている。
否定はしない。
正直、苦々しい想いはあるけど、ハルが傷つかないなら、ハルが幸せなら、ハルがそうしたいのなら、オレは見守るだけだ。
けど、この女は相手から寄ってこない限り、接点はない。
十分や二十分話したくらいで、改心するような人間には見えない。
改心させるために時間を取る気もない。
オレは、自由になるすべての時間をハルと過ごしたい。
そうして、オレは明兄が頼んでくれたらしいアイスコーヒーを飲み干すと、席を立った。
「じゃあ」
一言いって軽く手を上げ、その場を離れた。
パーティションの裏側で、明兄と合流。
長居は無用だ。
「お待たせ」
そう言いながら、伝票を取る。
「お疲れ」
と珍しく労われ、思わず、まじまじと明兄を見てしまった。
「何だよ」
「いや、何も」
「……大丈夫だ。これ以上、何もしない」
別にそこは心配してない。
明兄も、ハルを悲しませるようなことは絶対にしないんだ。
「あの女が、バカな気を起こさなきゃな」
オレは思わず苦笑いをもらした。
「さすがに、もうしないんじゃない?」
防犯カメラの映像に、校長の話、それから、篠塚がオレとハルの悪評を広めようとした事実……を押さえた報告書。
そう言えば、証拠の品々は一ヶ谷兄弟には見せたけど、篠塚には見せていない。
本当に大丈夫……だよな、と思っていると、明兄が黒い笑みを浮かべた。
「まあ、大丈夫だろうな。レポートや写真のコピー、あの女の家に発送しておいたから」
思わず絶句。
続いて、思わず拍手をしていた。
「お見事! さすが明兄、抜かりない~」
☆ ☆ ☆
今日も、おばさんもおじさんも仕事の牧村家。
出かけていた明兄がオレを伴って帰宅し、昼食に同席すると知って、ハルはとても喜んでいた。
「今日は食が進みますね」
と、沙代さんに言われるくらい、ハルは元気だったけど、食後、リビングに移動しておしゃべりをしている内に、ソファでうとうとし始めた。
「ハル、ベッドで寝よう」
「陽菜、風邪引くから、ベッドに行こう」
明兄の声にハルがうっすら目を開けてにこおっと微笑んだ。
だから、ハル、なんで実の兄貴にそんなとろけるような笑顔を見せるんだよ。
思わず嫉妬心丸出しで、眉間にしわを寄せると、明兄が隣でプッと吹き出した。
悔しいから、明兄に取られない内に、ハルをすっと抱き上げた。
「ハル、部屋行くよ」
今度は目を瞑ったまま、ハルはにこりと微笑んでくれた。
小さく唇が動く。
囁かれたのがオレの名で、更に笑顔が明兄と遜色なかったのでオレは溜飲りゅういんを下げた。
「ニヤけるな、バカ」
明兄がハルに届かないよう、小さな声で言った。
ハルをベッドに寝かせて、リビングに戻ると、明兄がソファで新聞を読んでいた。
日曜日の昼下がり。
午前中にあんな物騒な会合があったとは思えない、静かな時間が流れる。
明兄はハルが目覚めたら、夕飯を一緒に食べてから下宿先に戻るという。
下宿先と言っても、おじさんが上京する時に利用するために買った、立派なマンションだという話。一日置きにヘルパーさんが入るから、食事や掃除に惑わされることなく、勉学に勤しめるらしい。さすがリッチだ。
ハルはさっき、夕飯も明兄が一緒と聞いて、やはりとろけるような笑顔を見せていた。オレは夕飯前に家に戻る予定。夕方にはおじさんもおばさんも帰宅するらしいから、今日の牧村家は久しぶりに家族四人で晩餐だろう。
オレは勝手知ったる何とやらでキッチンに行き、沙代さんからお茶を受け取ると、明兄の向かいに座った。
それから、気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、明兄、興信所使ったんだよね?」
「ん? ああ。自分で調べる時間もないしな」
「おじさんに頼んで?」
「いや」
「じゃあ、うちの親父?」
親父なら、喜んで子飼いの探偵を差し出しそうだ。
「いや。協力は申し入れてくれたけど、まずは自分で動くからって断った」
「え、じゃあ、じいちゃん?」
そりゃ、じいちゃんならハルのために何でもやってくれそうだけど……。
「バカ。なんで、こんなくらいでじいさんを使うんだ」
「だよね~」
じゃあ、一体誰が……と思っていると、明兄はサラリと言った。
「オレが自分で頼んで、自分で払った」
「……って、そんな安くないよね?」
「百万はいかなかったな」
「げ」
明兄はサラリと言うけど、オレは軽くは受け止められない。
だって、百万って大金だろ!? どこにそんな金が……。
おじさんは気前はいいけど、学生にそんな大金を持たせるようなタイプではない。そして、明兄は虎の子を切り崩してという雰囲気でもない。
オレの疑問は明兄に筒抜けだったようで、聞く前に教えてくれた。
「金のなる木を育ててる」
「はあ!?」
金のなる木を育ててるって、弱みを握って誰かを脅してたりとか……。
待て待て待て待て、それは犯罪だよ、明兄!!
「……お前、今、何考えた?」
「え?」
ゆすりとか。
今回だって、どこからともなく校長室を調達してるし。
「バカ」
明兄はオレの考えを読んだらしく、呆れた声と視線をよこした。
「犯罪に手を染めるかよ」
「……だよねぇ」
ホッとして息を吐くと、明兄も小さくため息を吐いた。
「投資だよ、投資」
「とうし?」
「株とか不動産とか先物とか、色々あるだろ。あれだ」
「ああ、投資ね。……でも、元手は?」
「貯金で小さく初めて、行けそうだと踏んだから、じいさんとこ行ってプレゼンした」
「え、じゃあ、借りたんじゃなく、」
「そ、出資してもらった」
「利回りは?」
「企業秘密」
「えっと、……儲けてるんだよね?」
「じいさんが出資金を増やしたがるくらいには」
「幾らくらいから始めたの?」
明兄は開いたままだった新聞を閉じ、オレの顔をまじまじと見た。
「やけに真剣だな」
「うん。教えて!」
気合いを入れて頷くと、明兄は眉根を潜めてオレの顔を見た。
「まずは自分で勉強しろ。試験に合格したら教えてやる」
「ええ!? 試験って、何!? 投資するのって資格いるの!?」
「いらない。試験は面接。面接官はオレ」
呆気にとられて、まじまじと明兄を見ると、明兄は面白そうに笑った。
「金のなる木を育てるのが、そんなに簡単なわけないだろ? それに、そう簡単に教えると思うか?」
「だよね~」
「だから、まず自分なりに勉強しろ。話はそれからだ」
「了解っ」
明兄はそのまま、読みかけの新聞を再度開き、目を落とした。
「……あ、そうだ!」
数分も待たずに、ねえねえ、と話しかけると、うるさいなぁとばかりに、明兄は新聞から目を離さないまま返事をした。
「今度は何?」
「あのさ、どうやって校長室、借りたの?」
「ああ、将棋仲間なんだ」
オレの疑問ももっともと思ったか、こちらはすぐに教えてくれた。
「は?」
「桐谷先生だろ。中等部の時の将棋部の顧問だった」
「え!? 校長って、中等部にいたの!?」
「お前が入学する前にな」
なるほど。そういう繋がりなら、多少の無理が通るのも分かる。
「そっか~、明兄、将棋部だったんだ」
ハルのじいちゃんが将棋好きで、その影響で明兄も子どもの頃から将棋を指す。オレもハルと一緒に教えてもらったけど、腕は全く上がらなかった。
ハルはどうだろう? オレとはしないけど、もしかしたら、じいちゃんに付き合って、たまには指しているのかも知れない。
「明兄、将棋強いもんな~」
「普通だろ?」
明兄は笑う。
え? もしかして、オレが弱いだけ?
いやいや。この何事においても完璧主義者の明兄が弱いわけない。
「将棋部って地味だろ? 入る気なかったんだけど見学会で誘われて一局打って、その後、口説かれまくって、そのまま入部。オレのおかげで、三年間部員集めに苦労しなかったって、喜んでくれてね。今でも帰省すると会うし、将棋も指すし、桐谷先生があっちに来ると飲んだりする仲」
明兄はもうオレとの雑談に付き合う気はないらしく、視線を落とすと新聞のページをめくった。
オレはお茶の入ったコップを片手に、ハルの部屋に移動した。
セミダブルのベッドでは、淡い色の小花模様の掛け布団に包まれて、ハルがすやすやと眠っていた。
顔色は悪くない、呼吸も正常。つい、そんなところを確認してしまう。
そっとハルの頬に手を触れてから、ハルの枕元にイスを持って来て座る。
倒れて二週間、退院して一週間。
ハルの入院は、自分ちの病院という事もあって割と日常茶飯事だけど、一週間もと言うとやはりそうはない。
一番気候がの良い季節の一週間のロス。ハルは何も言わないけど、本当は嫌だっただろうな。
ハルの柔らかい髪にそっと手を触れる。
そのまま、頭をなでて、頬をなでて、そっと頬にキスをした。
「……ん」
ハルが身じろぎしたので、慌てて唇を離した。
せっかく気持ち良く眠ってるんだ、起こしたくない。
布団の端から見えるハルの手首は、折れそうに細い。二週間前の入院騒動で減った体重が、ようやく戻り始めたところだ。来たるべく夏に備えて、体力はできる限り戻しておきたい。
ゴメンね、ハル。オレが一緒にいたのに、入院するような事態になっちゃって。
ハルはそんな言葉、喜ばない。
だから言わないけど、オレはやっぱり、ちゃんと守れなかったことを後悔しているんだ。
「………ナ…」
「ん? どうした?」
ハルの声に驚いて、伏せていた顔を上げるけどハルは眠ったままだった。
ただ、何の夢を見ているのか、目を閉じたまま幸せそうに、にこぉっと笑った。
「ハール」
嬉しくて、ささやくように小さな声で思わず、ハルを呼んでみる。
ハルが起きる気配はやはりなかった。
オレは少しだけ大胆になり、そっとハルの手を取り頰にあてた。細っそりとした指先は、相変わらず冷たい。
しばらく両手で包み込んだ後、そっとハルの手を戻すと、今度は柔らかく広がる髪に手を触れた。
ゆるい曲線を描く髪の毛に覆われるのは、整った白い顔。驚くほどに長いまつげの下には、こぼれ落ちそうに大きな瞳が隠されている。
小ぶりな赤い唇からあふれ出すのは、いつだって優しくて暖かい言葉ばかり。
ハルの寝顔を見つめていると、心の中が愛しさでいっぱいになる。
「ハル、大好きだよ」
声に出しすと更に愛しさが溢れ出して、オレの身体のすべてがハルへの想いで満たされるような気がした。
「ずっと、……ずっと一緒にいようね」
思わずハルの耳元で囁いてみると、夢の中でオレの声が届いたのか、ハルがまたふっと頰を緩めた。
窓から入る風が、かすかに頬をなでていく。
午後の日差しが、レースのカーテン越しに部屋にゆるやかな陰影を作る。
ようやく、今度こそ、ようやく落ち着いた日々が戻ってくる気がした。
オレはハルが目覚めるまでの小一時間、幸福感に満たされ、飽きることなくハルの寝顔を眺め続けた。
《 完 》
これで「13年目のやさしい願い」は全編終了となります。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
明日から続編の「14年目の永遠の誓い」も連載しますので、よかったら読んでやって下さいませ。




