4.叱責
「篠塚さん」
「……え? 衛…先輩?」
一ヶ谷衛、オレの兄貴はオレたちのテーブルに近づいてくると、篠塚先輩に声をかけた。
その声は、ひどく硬質だった。
「あ、あ、あの……これは!!」
兄貴がどこまで聞いているのか計っているのだろうか?
先輩は何か言い訳をしようと口を開きながらも、兄貴の顔色を伺い、続きを口にしなかった。
「言い訳はいらない」
その一言で、兄貴は初手から篠塚先輩の次の言葉を封じた。
「で、でも……あの、違うんです!」
何が? と思ったのは、兄貴も同じだったみたいだ。
「何が違う? 君が学校をズル休みして他校に忍び込んで、体調が悪くて寝込んでいる、何の罪もない女の子を襲撃したこと?」
「そ、それは……学校は確かに休みましたけど、さ、悟くんの学校になんて……」
「君に制服を貸した子からも話を聞いたよ」
「……え?」
「洗い替えの制服を借りたんだってね」
「……あいつ!」
篠塚先輩の顔が悔しげに歪んだ。
「一回しか着てないのに、ちゃんとクリーニングして返したんだって? マメだね」
兄貴は反論を許さず、そのまま次の攻撃に移った。
「それから、うちの弟を利用したね?」
「だけど、それは!」
「そうだね、確かにコイツも悪い。そそのかされて乗ったのはコイツだ」
と兄貴はオレの方をチラリと見た。
オレは思わずうな垂れる。
そう。悪魔の誘惑に負けたのはオレだ。悪魔もろくでなしだけど、オレだってダメ人間に違いはない。
「けどね、それ以前にも君はコイツをまるで自分のパシリのように使っていたじゃない? こんなバカをしでかすヤツでも、オレには可愛い弟だ。その弟をアゴで使われたら、良い気はしない」
兄貴は手を伸ばすとオレの頭をくしゃりとなでた。
兄貴は先輩を真っ直ぐに見つめた。
「君はオレのことが好きだったらしいね」
「……え?」
瞬間、先輩の顔から怒りや苛立ちなどの醜い感情が、見事なほどにスッと消えた。
随分久しぶりに見る素の表情。
こんなにも厳しく追及されているのに、広瀬先輩を次の恋だと言っていたのに、未だに篠塚先輩の心には兄貴がどっしりと居座っているらしい。
篠塚先輩は、兄貴が好きで好きで、かなり頑張って二ランクもレベルの高い高校まで追いかけて行った。なのに、高校に行ったら、兄貴にはもう彼女ができていた。
高校生になったら、今度こそ告白するんだ、もしかしたら想いが通じるかも知れない、そんな先輩の期待は、入学早々に破れてしまった。
兄貴に彼女ができたことを教えなかった……、そのことを責め立てて、先輩はオレに言うことを聞かせたんだ。
それは、昨日、広瀬先輩立ち会いのもと、兄貴に告白させられた。
「その辺りの事情を利用して、悟に言うことを聞かせたとか?」
兄貴はかなり厳しい顔で言い募る。
大元の原因が自分だと言うのを、相当苦々しく感じているみたいだった。
中学でも高校でも、部活で主将を務めた兄貴は、真面目で責任感と正義感が人一倍強い。
昨日初めてしたこの話。
倒れた陽菜ちゃんがそのまま入院までしたという事実は、相当堪えたらしい。話を聞き終えた後、顔を歪めて頭を抱えんばかりに苦悩する兄貴に、オレは思わず、「ごめん」と謝っていた。
兄貴に責められても、篠塚先輩は何も反論しなかった。
できないらしかった。
何とか言い訳しようと「でも」とか「だけど」を繰り返していた、先ほどの勢いはどこかへ行ってしまったようだった。
昔から、先輩は兄貴の前でだけ、こんな感じでしおらしい。その姿は、恋する乙女そのもので、いつもの全身に張り巡らされた棘のようなものが取れて、結構可愛い。
好きとか、好みとか、そんなのではないけど、素の先輩は嫌いではなかった。
「君は確かに整った可愛い顔をしているかもしれない」
兄貴は静かに語り出した。
「部員たちにも人気があったし、マネージャーの仕事も頑張ってくれていたね」
兄貴は硬い表情を崩さないまま、文字にしたら、まるで篠塚先輩を褒めているように聞こえる言葉を続けた。
篠塚先輩は、兄貴の強張った声と、声に合わない褒め言葉のギャップに、どう反応して良いのか戸惑っていた。
その戸惑いは、結果的に正しかった。次に兄貴の口から出てきたのは、篠塚先輩をどん底に突き落とす言葉だったから。
「だけどね、ボクは君にはまるで魅力を感じなかったよ」
篠塚先輩の顔が歪んだ。
ぎゅっと唇を噛んだのが見えた。
「君が、ボクに気があるのは分かっていた。いつだってボクばかりをひいきしようとしたね。あれは、いい気がしないよ、正直。君は部のマネージャーだったのにね」
そう。篠塚先輩は明らかに、いつも兄貴を優遇していた。
兄貴が主将だったからと言っても、それは明らかに行き過ぎだった。
なのに当時、兄貴はまるで気付いていなくて、なんて察しが悪いんだと思っていたけど、そうか、敢えて無視していたんだ。
あまりに兄貴に伝わらなさすぎて、そのえこひいきは他の部員から大きな反発を喰らうこともなく、逆に篠塚先輩を気の毒な目で見る人も出るくらいだった。
だからこそ、そんな状態でも、部員同士で揉めたり、空中分解したりはしなかった。
兄貴は、鈍感過ぎだとか、残念なイケメンとか密かに言われて、誰からも妬まれるようなことなく慕われ、卒業していった。
そうか、あれはワザとだったのか……。
目から鱗というか、驚きすぎて目が点というか……。
大体、人の心の機微に敏感なくせに、どうして色恋が絡むと、ああも武骨なのかと思ったら……。
だよな。あれだけの露骨なアピール、気付かないわけないよな……。
ガラガラ崩れる兄貴のイメージ。
だが、兄貴はよっぽど腹に据えかねたのか、一切手を抜くことなく、篠塚先輩を追い詰めていく。
「ほんの少しばかり、顔の作りが恵まれていたからって、それが何なんだ? 外側の作りが若干良かったとしても、中身が腐っていたら魅力がないどころか、ただの生ゴミだ」
……生ゴミって、兄貴。
気持ちは分かるけど、さすがに先輩が気の毒になった。
兄貴は先輩をしかと睨みつけた。
「人が築き上げた幸せを盗もうとするな」
先輩の表情は石のように固く、顔色は青ざめていた。
「自分から何の行動もせず、なんの言葉も口にせず、思わせぶりな態度だけ取り、何かが起こるのを待つのが悪いとは言わない。その気持ちが偽物だとも言わない。だけど、それを言い訳に使ったら終わりだろ」
次々に容赦なく繰り出される糾弾の言葉に、わなわなと震えはじめる先輩。
兄貴のお説教は、至極真っ当なことばかりだった。
だけど、兄貴は従来、一触即発の危険な空気も機転の効いた一言でおさめ、場の空気を明るくさせるような穏健派。だから、こんな厳しく人を責め立てる、追い詰めるところなんて初めて見た。
こんな言い方もできるんだ。正直、今日は驚かされてばかりだ。
「人に好かれたかったら、まず自分を磨け。外見じゃなく、内面を磨け」
兄貴はそこで一息つくと、おもむろにオレの方を見た。
「お前もだぞ」
思わずビクリと肩をすくめる。
「行動するのが悪いとは言わない。だがな、好きになった子を困らせたり、傷つけたりするようなことは二度とするな」
そのまま兄貴はオレたちを睥睨した。
兄貴の眼は座っていた。
「お前ら、牧村さんとこに行って、土下座して謝ってこい」
「ええっ!?」
予想外のその言葉に、オレと先輩の声がハモった。
ついでに、パーティションの向こうからも、「マジで!?」とか何とか驚愕の声が漏れ聞こえてきた。
「ちょっと、兄貴!?」
「衛先輩!?」
オレたちの反応を見ても、兄貴は一歩も引く気はないらしかった。
「手土産……いや、お詫びの品を買って、今から行くぞ!」
その判断の速さは、確かに兄貴の良いところだ。
けど、陽菜ちゃんは、それ、喜ばないと思う……ってかむしろ嫌がるんじゃないかと。
「いや、あの、兄貴……」
でもオレの言葉は、兄貴のひと睨みで飲み込まれて闇に消えた。
先輩は、初めて見る兄貴の凄まじい怒りのオーラに、既にお腹いっぱいという様子。
「悟!」
「はいっ!」
兄貴の声に思わず、背筋を正した。
子どもの頃から、兄貴はできた兄ちゃんだった。優しいし、カッコいいし、頭も良い。
勉強も野球も面倒がらずに教えてくれる。二歳しか離れていないのに、体感年齢では四〜五歳離れている気がしていた。
そんな理想の兄に、オレは今、服従させられた気分を初めて味わっていた。
「牧村さんは、どんなものが好き? お菓子で大丈夫そう? 和菓子か洋菓子か? 洋菓子ならケーキが良いのか、焼き菓子が良いのか分かる? あー、それより、ここらに気が利いた店があったかの方が問題か?」
兄貴は一人でどんどん話を進めて行く。
この間、兄貴はずっと立ったままだ。
正直、かなり目立つ……かと思いきや、店の奥まった一画、壁際の席なので意外なことに注目は集めていない。
「篠塚さん。君なら知ってるよね? この駅周辺で、手土産になりそうな美味しいお菓子を売ってる店はどこ?」
篠塚先輩は呆気にとられながらも、店名を幾つか挙げていく。
おい、本気で土下座しに行く気か!?
いや、先輩もきっとオレと同じだ。ただ単に、兄貴の迫力に飲まれて、聞かれるままに答えてるんだ。
「じゃあ、行くか!」
と兄貴が言ったところで、隣から困った顔をした広瀬先輩がやって来た。
「お兄さん、ちょっと待った」
「広瀬くん、ちょうど良いところに来てくれた!」
兄貴は満面の笑みで広瀬先輩を迎えた。
反対に篠塚先輩の表情は凍った。
なぜコイツがここに……って思いと、だからオレがこんな会合を企画したんだと言うのを悟ったと思う。
兄貴と一緒に話が聞こえる場に待機していたことも察しただろう。
ただ、先輩も更にもう一人、陽菜ちゃんのお兄さんが待機しているのは気付いていない。あの人が登場したら、きっとこんな可愛らしい話じゃ済まないという確信があった。
杜蔵の校長から篠塚先輩とこの校長に厳重抗議が行く……くらいが、多分一番軽いお仕置きだ。場合によっては、あの人は弁護士立てて訴えて来るだろう。
「牧村さんのところに、今から謝罪に行こうと思うんだけど、何が好きかな? お詫びも兼ねてお菓子でも用意したくて」
「あーえーと、気持ちは嬉しいんだけど、それは良いですから」
篠塚先輩は表情こそ凍っているけど、兄貴と広瀬先輩の話し合いを大人しく聞いていた。
そうだ、それでいい。
篠塚先輩、そのまま大人しくしてろよ。自分のためにも、騒ぎを大きくするな。
オレがそんなことを考えている間にも、広瀬先輩と兄貴は押し問答を繰り広げていた。
「だけど、それくらいはさせなきゃ申し訳が立たない」
「や、逆がハルが気に病むから、むしろ勘弁して欲しい」
「いや、でも、きちんと謝らないと」
「えっと、一ヶ谷くんには既に謝罪してもらっていて、ハルも納得してるんで」
「じゃあ、篠塚さんだけでも」
「いや、むしろ会いたくないだろうっていうか……」
その言葉に、兄貴はハッとして広瀬先輩を見返した。
「牧村さん……相当、怒ってる、よね」
「いえ、別に怒ってないですよ。ハルはホント、普段からほとんど怒ったりとかしないんで。ただ、やっぱり、もうそっとしておいて欲しいとは思ってるはずだから。正直、これ以上、煩わせないで欲しい」
「それは、広瀬くんの意見?」
「……まあ、そうですね」
その時、篠塚先輩がボソッとつぶやいた。
「……過保護」
って一言。
わあああっ! バカ! 聞こえたらどうするんだ!!
小声だったから聞こえなかった……と信じたかったけど、瞬時に広瀬先輩の顔が強張った。
それから、広瀬先輩はおもむろに篠塚先輩の方に視線を向けた。
「あのさ。何も知らないで、勝手なこと言わないでくれるかな?」




