2.突然の呼び出し
「一ヶ谷、早いな、こんな時間に学校来てんの?」
朝七時四十分。
人気の少ない教室でボンヤリ窓の外を見ていると、登校してきた前の席の男子、水森に声をかけられた。
「早いかな? 入学してから、ずっとこの時間だけど」
「あ、そっか。いつも牧村先輩んとこ行ってただけか」
その言葉に、ズキンと来るくらいには、オレの失恋の傷はまだ癒えていない。
「お前こそ早いじゃん」
陽菜ちゃんの話から話題を逸らしたくて、別の話題を振る。
「いつも駅までバスなんだけど、今日は車で送ってもらって、おかげで一本早い電車に乗れた」
「へえ、バス、電車なんだ。どれくらいかかんの?」
「一時間十五分くらいかな。一ヶ谷は?」
「オレは電車で三十分くらい」
「近いな」
「そうかな?」
入学してすぐにするような、世間話に毛が生えたような他愛もない話題。だけど、少し前まで、朝に昼に二年の教室に日参していたのもあり、今まで話したこともなかった。
「……で、さ。聞いてもいい?」
「ん? 何?」
「一ヶ谷って、牧村先輩に振られたの?」
……世間話のはずが、一気に恋バナ。しかも、嬉しくも楽しくもない振られ話の再燃。
話題を逸らしたつもりなのはオレだけで、実際にはまったく逸らせていなかったらしい。
思わず、その傷には触れないでくれとばかりに机に突っ伏すと、
「あー、悪い悪い」
と水森は、半分笑いながらまるで悪いと思っていない口調で言った。
更に傷口をえぐられた。
どうせ、他人の不幸は蜜の味さ。
「まあ、さ。広瀬先輩の熱愛は有名だし。あの人、何気に黒帯だし、ケガもなく終わって良かったじゃん?」
「ケガして陽菜ちゃんが手に入るなら、ケガくらい……」
「……てか、お前、全然諦めてないんだな」
水森は呆れるでもなく、むしろ尊敬の眼差しという目でオレを見た。
「いや……諦めたよ。……ちゃんと、諦めた。陽菜ちゃんを困らせたいわけじゃないし、ちゃんと振ってもらえたし」
小声でそう言うと、水森はポンとオレの肩を叩いた。
声にならないエールを感じる。良かったななのか、元気だせよなのか、人生いろいろ……なのか。
思えば入学からこの方、陽菜ちゃんしか見えていなかった。そんな状態だから、横恋慕に邁進するオレを面白がってちょっかいかけて来るヤツはいたけど、陽菜ちゃんへの気持ちを真摯に誰かと話したりする機会はなかった。
ようやく区切りを付けた気持ちを誰かに語りたいと思っているわけではない。でも遅ればせながら、これからは、もう少し他のことにも目を向けていこうと思ったのだった。
そんなこんなで、陽菜ちゃんに振られて一週間とちょっと。
すっかりクラスに馴染んだオレは、校長室に呼び出された。
「一ヶ谷、校長から伝言だ。昼休み、校長室に来いって。忘れるなよ」
朝のHRの後に伝えてくれたのは担任だった。
「え? 校長室!?」
驚いて聞き返すと、担任も詳しいことは何も聞いていないらしく、逆に
「何かやったのか?」
と聞き返された。
☆ ☆ ☆
昼休み、言われた通り、チャイムと同時に移動を開始。
早々に職員室の並びにある校長室のドアをノックをすると、
「どうぞ」
と、聞き覚えのある校長のダミ声……ではなく若々しく、少し低めの男性の声がした。
……誰だ?
そう思いつつも、数十人いる教師陣すべてを把握しているわけじゃないから、自分の知らない先生が同席しているのだろうと、そのままドアを開けた。
焦げ茶色を基調にした重厚きわまりないソファセット、執務机、壁際には大きな本棚、そしてどこやらの山の風景を描いた絵。
ソファの横に立っているのは、大学生くらいの男の人だった。
他に人はいない。
校長は?
そして、ただ一人ここにいる男性は、スーツを着ていれば、もしかしたら若手の教師だと思っただろう微妙な年齢。でも、デザインシャツにカジュアルなスラックスと軽装なため、教師には見えない。
……でも、大学生がなんで?
艶やかな黒髪に、眼鏡をかけても隠せない怖いくらいに整った容姿。細身で背が高く、だけど、なよなよした印象は一切ない。なよなよどころか、触れたら切れるんじゃないかとでも言うような鋭さを感じた。
「君が一ヶ谷悟くんかな? 初めまして」
その人は満面の笑みを浮かべた。
「え、と、……あの…」
一見百点満点の綺麗な笑みなのに、眼だけがその笑顔を裏切っていた。
射るような強い視線にまともに声が出せずに、言葉を失う。
「どうぞ、とにかく座ろうか」
ってか、オレ、校長に呼び出されたんだよな?
疑問詞が渦巻く中、勧められるままに席に着いた。
「あの……校長先生は?」
そう聞くと、男性は、ああ、と今思い出したとばかりに楽しげに笑った。
「来ないよ。今日は君と直接話したくてね、桐谷先生に部屋を貸してもらえるよう、頼んだんだ」
にこやかな笑顔で語られる内容に、思わず頰が引きつる。
桐谷とは、校長の名字。校長という敬称を付けずに呼ぶって、どんな関係だ!?
「そうそう。自己紹介がまだだったね。僕は牧村明仁」
笑顔で告げられる名前に、聞き覚えはない。が、どこかに引っかかりを覚える。
……牧村?
「こう言えば分かるかな? 牧村陽菜の兄だよ」
その言葉と同時に眼がガチリと合う。
にっこりと、そう呼ぶのだろうか、この冷たい笑いも。
目が合った瞬間、恐怖が背筋を駆け上がった。ぞわっと全身に鳥肌が立ったのを感じると同時に、本能に身を任せて、気がつくと座ったばかりのイスから立ち上がって腰を九十度に曲げて頭を下げていた。
「何に頭を下げてる?」
語調は穏やかなのに、静かな迫力に満ち溢れた声に十秒程の沈黙の後、ようやく答えらしきものを見つけ、
「陽菜ちゃんを患わせたことに……」
と答えた。
「……なるほど」
陽菜ちゃんのお兄さんという人は、その答えに納得していないのか、冷たい視線を外そうとしない。
顔を上げ、その視線に射すくめられ、思わず後ずさりそうになりつつも、逃げるな、と自分を叱咤激励する。
「篠塚先輩を手引きしたことに……」
と付け足すと、お兄さんは更に厳しい表情を見せた。
「何を聞いた?」
「は?」
「陽菜からなんと聞いた?」
「篠塚先輩に、二度とこんなことがないよう念を押して欲しいと……」
「なるほど」
その冷たい視線の意味にようやく思い至り、スッと全身の血の気が引いた。
「で?」
主語も述語も、目的語もない問い。でも、言いたいことは分かる。
自分はまだ何もしていなかった。できていなかった。
どう切り出したらいいのか分からなかったのだ。怒り狂う篠塚先輩にクギを刺すだなんて、正直、自分にできる気はしなかった。
けど、オレは陽菜ちゃんに約束した。あれだけ迷惑をかけたオレを、陽菜ちゃんは気持ちよく許してくれた。
篠塚先輩に二度とこんなことをしないように言質を取ると言うのは、その時に、陽菜ちゃんの口から出された、たった一つの希望。
……なにを悠長に失恋に浸ってた?
オレは……最低だ。
再度、目の前の男性に向かって頭を下げた。心の中では、陽菜ちゃんに。
きっと、この人は陽菜ちゃんの代理人だ。
春の陽射しのように穏やかな陽菜ちゃん。
お兄さんは陽菜ちゃんとは似ても似つかない人みたいだけど、彼はきっと不甲斐ない自分を、陽菜ちゃんの代わりに正しに来た……。
「何に頭を下げてる?」
「……約束を実行できていないことに」
お兄さんはようやく冷たい笑みを崩して、真顔になった。
「自分で責任を取れないようなことは二度とするな。約束は守れ」
「はい」
軽々しくは答えられない。
オレは精一杯真面目な顔で頷いた。
「じゃあ、早速、篠塚に電話してもらおうか」
「…………は?」
「ケータイは?」
言われて、その意味を考えることなく、ポケットからスマホを出してしまった。
「電話帳出して」
意味を考えるまでもなく、言われるままに電話帳を開く。
しまった、と思った時には、もう遅かった。お兄さんはオレの手からスッとスマホを取り上げると、慣れた様子で操作する。
何が起こっているのか分からない間に、気がつくとスマホを突き出されていた。
「出て?」
「え?」
「篠塚に電話かけたから」
「ええ!?」
と大声を上げたところで、スマホが繋がってしまった。
ああああ、なんでスマホ渡したんだよ、オレ!!
「何の用?」
電話の向こうに不機嫌な声。
まぎれもない聞きなれた篠塚先輩の声だった。
すっかりテンパっていたオレ。後は、お兄さんの言うなりだった。
横から囁かれる言葉をひたすら繰り返す。
気がつけば、日曜日の午前中、篠塚先輩と会う約束を取り付けていた。
ようやく電話を切り、脱力したオレは、勧められてもいないのに沈み込むようにソファに座った。
それを面白そうに見て、実に意地の悪い笑みを浮かべた後、お兄さんは思いもかけない言葉を言った。
「叶太」
……は? 今、なんとおっしゃいました?
思わず、勢いよく顔を上げると、執務机の向こうから、かつての恋敵、広瀬先輩が現れた。
「……なんで?」
呟くと、広瀬先輩は呆れたように言った。
「ハルが許しても、オレは正直、はらわた煮えくり返ってるんだ。せめて約束の行方くらい見届けさせてもらおうと思ってね」
うっ……と言葉に詰まっている間に、広瀬先輩は壁の時計を見て、お兄さんに話しかけた。
「明兄、そろそろ行くね。もうすぐ予鈴なるし」
あきにい。
そうか、陽菜ちゃんと広瀬先輩は幼なじみだ。お兄さんとも仲が良くてもおかしくないんだ。今更だけど、すごく追い討ちをかけられたような気分になった。
「ああ、後は頼むぞ」
「了解」
……あ、後って、何!?
質問する前に、広瀬先輩に頭を小突かれた。
「行くぞ」




