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30.本当の言葉3

 一ヶ谷くんが帰るのをベッドの上から見送ると、急に身体が重さを増した。

 肘をついて、ゆっくりと横になると吐息がもれた。

 ……疲れた。

 まだ朝なのに、もう一日の終わりのような気がしてならない。

 でも、疲労感は強かったけど、隠れていた色んなことが見えたおかげで心の中は随分とスッキリした。

 一ヶ谷くんがわたしに執着していたのは、一目惚れではなくて、去年の秋からの想いがあったから。

 大きな手のひらの上に乗っていたドングリは、虹色。回したときにキレイに見えるようにと思って、レインボーカラーのストライプに塗ったんだ。

 五つあった見本のコマの中から、迷わず、それを選んだ一ヶ谷くんを思い出す。

 コマを手に取り、はにかみながら、

「ありがとう」

 と言ってくれた一ヶ谷くんを思い出す。

 別の日にも一言、二言、話をした。

 けど、どんな言葉を交わしたかは覚えていない。

 会う度にケガは少しずつ良くなっていて、ある日、病室に行くといなくなっていた。

 最後まで、整形に行かずに小児科にいた一ヶ谷くん。もしかしたら、「ここでいい」って言ったのかも知れない。

 篠塚さんは一ヶ谷くんのお兄さんに、何年も片想いをして、高校まで追いかけていった。

 お兄さんに彼女ができていたと知った時、どう思ったんだろう?

 カナに助けられた後、どうしてカナを好きになったんだろう?

 随分と偉そうな人だと思った。

 ひどい言葉をたくさん浴びせかけられた。

 冷たい人だと思った。

 でも、きっと、それが篠塚さんのすべてっていう訳じゃない。

 この学校にいるお友だちからの情報収集。一ヶ谷くんをムリヤリ動かすパワー。その行動力には目を見張るものがあった。

 もしかしたら、一ヶ谷くんのお兄さんには、何のアプローチも取っていなかったのかも知れない。

 ……後悔したのかな?

 ああ、そうだ。

 カナとお兄ちゃんに、もう篠塚さんのことは大丈夫だって言わなきゃ。

 だから、何もしないでって、言わなきゃ。

 そう思って、携帯電話を手に取ったけど、二人とも授業中だと思い出す。

 取りあえず、メールで……と思って、新規作成ボタンを押したところまでは覚えている。

 何て書こうかと思い悩んでいる内に、気がついたら、わたしはまた眠りに落ちていた。



「……るな。……陽菜」

 誰かに呼ばれた気がして、ゆっくりと目を開けた。まだ寝ていたかったのに、そう思いながら。

 ぼんやりとした視界の中で笑っていたのは、白衣を着たママだった。

「お昼ご飯よ」

 そう言いながら、ママはわたしの昼食の横に、お弁当箱の入った袋をトンと置いた。

 寝ぼけた頭で、ぼんやりママを見る。

 白衣を着ている勤務時間中のママ。こんな風に、時間ができると、病室を覗きに来てくれる。

「……ご飯?」

「そう。一緒に食べましょう」

 もう……お昼?

 時計を見ると、十二時半。

 朝の回診もまったく記憶になかった。

 何の夢も見なかった。

 ……こんなに熟睡したのは、本当に久しぶりだった。

「陽菜? 大丈夫?」

 ぼーっとしていると、ママに顔をのぞき込まれる。

 小さくうなずいたけど、頭は中々動き出さない。

「陽菜?」

 ママはまたわたしを呼ぶ。

 朝、カナが来て、その後、一ヶ谷くんが来て……。

 あれって、今日だよね?

 寝る前と、起きた後で、身体の感覚も記憶も断絶している感じがする。

「大丈夫? 気分悪い?」

「あ……ううん。大丈夫」

 目を何度も瞬かせた。

 深く深く息を吸う。

 それから、ママを見て、ようやく笑顔を見せることができた。

「ごめんね。……なんか、すごくよく寝たみたいで、頭が回らなくて」

「ああ」

 ママも笑った。

 そういうこと、あるよねって。そう言いながら、リモコンを手に取り、ベッドの背を起こしてくれる。

「さあ、食べるわよ!」

 いつ呼び出されないとも限らない。

 まだ寝ぼけているわたしを尻目に、ママは気合い十分、お弁当の包みを開いた。

「あ。今日のお弁当、畑野はたのさんだ」

 お弁当の蓋を開けて、ママが顔をしかめた。

 畑野さんは沙代さんの他、もう一人いる若いお手伝いさん。何年も前から通って来ているけど、お料理の腕は、沙代さんの方が上で、ママは断然、沙代さんのお料理が好きだ。

「沙代さんのご飯のが美味しいわよね?」

「……畑野さんだって十分上手よ?」

 思わず、そう言うと、ママはしまったと言うかのように肩をすくめた。

「はい。……感謝していただきます」

 別に叱ったわけでも、たしなめたわけでもないのに、と思わずクスッと笑ってしまう。

 お料理もお裁縫もお掃除も、いわゆる家事と呼ばれるようなものは全般的に、ママは苦手だ。

「……沙代さんのお料理は、プロ級だし、確かに絶品だものね」

 思わず助け船を出すと、ママはそうよねと嬉しそうに笑う。

 それから、ふと真顔になった。

「ねえ、……一体誰の教育? 陽菜、あなた、人間が出来過ぎよ」

「え?」

「出されたものは感謝していただく……まあ、基本だと思うんだけどね。その伝え方なんかも押しつけがましくないし、フォローも絶妙。他にも、どんな時にも、ありがとうを忘れない、すぐに、ごめんなさいって謝れる」

 いきなり何の話かと、わたしはポカンとママを見る。

「昔から物欲はないし、ワガママ言って、周りを困らせることもない。どんなツライ検査でも、文句一つ言わない。どんなに身体がツラくても、愚痴一つ言わない。出来過ぎでしょ!?」

 ママは一気にまくし立てて、それから、ハーッと息を吸うと、ごくごくとお茶を一気飲みした。

 動作のすべてが豪快で、素早くて、ついて行けない。これが、すべてにおいてスローペースのわたしのママって言うんだから、不思議なくらいだ。

 わたしから返事が返ってこないのは気にせず、ママは大きなおにぎりをほおばりながら、首を傾げた。

「……誰の影響かしら?」

 しゃべりながらも、ママのお弁当はみるみる内に減っていく。反対にわたしの昼食は、なかなか減らない。寝てばかりだから、お腹なんて減りようがない。

 ママは相変わらず、不思議そうにわたしを見る。

 確かに、わたしとママの性格は正反対というくらいに、まるで違う。

「おばあちゃんかしら?」

「……ああ、お義母かあさん」

 ママの手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 隣の家に住むおばあちゃんは、凜とした空気をまとった、いかにも貴婦人という感じの人。

 おじいちゃんとおばあちゃんの家にもお手伝いさんはいるけど、おばあちゃんはお料理もお掃除もするし、おじいちゃんの身の回りのお世話ももちろんしている。お仕事はしていない。

 だから、小さな頃、体調を崩すと、よくわたしはおばあちゃんに預けられた。

 おばあちゃんは、いつだって優しかったけど、ダメなものはダメだと、人としてこうあるべきだと、丁寧にくり返し教えてくれた。

「なるほど。……お義母さんかぁ」

 ママは顔をしかめる。

 どうにも、おばあちゃんに苦手意識があるらしい。

 仲は良い。でも、あまりに違い過ぎる二人。お互いがお互いを認めていながらも、密かにお互いを敬遠している。二人の間にはそんな空気が感じられる。

「あのさ、陽菜」

 そう言うママのお弁当は、既に空っぽになっていた。

 ママは、冷蔵庫から素早く取ってきた栄養ドリンクのフタを開けながら、軽い口調で言った。

「ワガママ言ってもいいのよ?」

「え?」

「そんなにいい子でいなくて、いいのよ?」

「ママ?」

「そんなにストイックに自分を律する必要はないと思うんだけど」

「……一体、どうしたの?」

 突然の話に、ろくに進んでいなかった食事が完全に止まる。

「普通、もう少しワガママよ、あなたくらいの年の子って」

「そうかしら?」

「世界は自分を中心に回ってるくらいに思ってるでしょ?」

 壮大な例えに、思わずクスリと笑う。世界がわたしを中心に回ってるはずがないじゃない、って。

「笑うところじゃないし」

 ママは肩をすくめた。

 だって、ママ、……わたし、今だって、十分にみんなに迷惑も心配もかけているもの。

 いっぱい心配かけて、それから、山ほど愛してもらって大切にしてもらってる。

 その上、これ以上、ワガママを言う?

 ムリ。そんなの、絶対、ムリ。

 大体、パパだってママだって、わたしが何かをしたいと言った時、反対することなんてほとんどない。

 反対する時だって、どれもわたしのためを思ってのことだって、分かってる。

 それに欲しいものは、多分、すべて与えてもらっている。

「まあ。陽菜に限って、ある日突然プツンとキレて非行に走る……なんてことはないと思うけどね」

「ひ、非行!?」

 ママ、飛躍しすぎ。

 目を丸くしていると、ママはふっと笑顔を浮かべた。

「何でもいいけど、とにかく、自分の感情に素直にね。我慢しないで、何でも、取りあえず言ってみなさい」

 突然の話に、かえってママの真意が気になる。

 だけど、何でそんな話をしたのって聞く前に、ママは腕時計を見て、慌てて言った。

「行かなきゃ!」

 お医者さんのママは、とにかく多忙。もちろん、お昼休みは一時間なんて取れない。

 これを、もちろんと言って良いのか分からないけど、未だかつて、そんなにゆっくり休んでいたママを見たことはない。

 ママは残った栄養ドリンクをぐいっと飲み干すと、

「じゃあねっ!」

 と、空っぽのお弁当箱の入った袋を手に取り、軽く手を上げ、足早に病室を後にした。

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