29.本当の言葉2
「……ちゃん、……陽菜ちゃん! ……大丈夫?」
ハッとして顔を上げると、目の前に心配そうな表情の一ヶ谷くん。
知らず知らずの内に、自分の思考に浸っていた。最近、こういうことが多い。
もっと、しっかりしなきゃ、とギュッと拳を握りしめた。
「……大丈夫。ごめんね」
「いや、オレはいいんだけど。もし、気分悪いんだったら、」
「違うの。……あの、いろいろ思い出して、考えちゃって」
「なら、いいんだけど。でも、ムリしないでね」
「ありがとう。……続き、聞かせて」
一ヶ谷くんは、わたしの目をじっと見て、わたしが笑顔を浮かべると、ようやくホッとしたように続きを話し出した。
「それでね、入学式の日、裏口で陽菜ちゃんを見つけた時、オレ、運命だって思ったんだ」
「……え? 運命?」
「運命って言うか、……そう、運命の神様がオレにチャンスをくれたって感じかな」
その時の興奮を思い出したのか、一ヶ谷くんはどこか嬉しそうだった。
「同じ学校に通って、遠くから見るだけでもいいって思ってた。もし声が聞けたら、きっと、すごく嬉しいだろうなって思ってた。それだけで、きっと幸せだと思ってたんだ。でも、実際に入学式の前に、あんなところで会ったら、もうダメだった。運命の神様に、はなから諦めるんじゃなくって、ダメ元でガンバってみろって言われた気がしたんだ」
一ヶ谷くんは、ふうっとまた長く息を吐いた。
「ごめんね。初対面のフリして」
「……ううん」
「もうね、ムリなんだってのは、よく分かった。ちゃんと諦めるよ。だけど本当は、陽菜ちゃんの顔が気に入ったとか、一目惚れとか、そんなんじゃないんだって……それだけは、言いたかった」
そこまで話すと、一ヶ谷くんはようやくホッとしたように笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
そう言うと、一ヶ谷くんは苦笑した。
「陽菜ちゃん、お礼言うの早すぎ」
「え?」
「って言うか、何にお礼言ってるの?」
「……話してくれて、ありがとう、かな」
「好きになってくれて、ありがとう、じゃないの?」
その言葉に絶句していると、一ヶ谷くんはクスリと笑った。
「冗談冗談。困った顔しないで」
それから、一ヶ谷くんは小さくため息を吐いた。
「って、そんな話をしてる場合じゃないね」
急に真顔になった一ヶ谷くん。
その「そんな話をしてる場合じゃない」という言葉が、ふと頭に残った。
「……あ!」
「え? 何? どうしたの?」
「一ヶ谷くん、学校は!?」
そう。一ヶ谷くんも制服を着ていた。
カナが遅刻しないように出た後に来た一ヶ谷くん。
少し前に、始業時間を過ぎてしまった。
「あはは。何かと思った。大丈夫。学校、電話しといたし」
「……なんて?」
「登校途中に腹が痛くなったから、トイレ寄って行きます。遅れるけど心配しないで下さい」
「……トイレ、って」
「これならダメって言えないでしょ?」
真顔で言われたその言葉がおかしくて、思わず声を上げて笑ってしまった。
ひとしきり笑った後、一ヶ谷くんはボソリと言った。
「……こっからのが、正直、話しにくいんだけどさ」
「もしかして、あの女の子の話?」
一ヶ谷くんはゆっくりとうなずき、顔を上げると、意を決したように話し始めた。
「あの子、篠塚繭子って言うんだけど、オレが中学の時のクラブのマネージャーだった先輩」
「マネージャー?」
「うん。野球部のマネージャー。一つ上だから、陽菜ちゃんと同じ高二だね」
大人っぽく見えたけど、同い年だったんだ。
と、そこも気になったけど、野球部のマネージャーと言うのも、どうにもしっくり来なかった。みんながみんなそうという訳じゃないだろうと思いつつも、運動部のマネージャーなんて言うと、お世話好きなしっかり者というイメージがある。あの時の彼女からは想像しがたい。
「やっぱり、違和感ある?」
わたし、変な顔してたのかな?
うなずくと、一ヶ谷くんは「だよなぁ」と笑った。
「野球部にカッコいい先輩がいてね、篠塚先輩、その人目当てにマネージャーやってたの」
「……なるほど」
「ははは。納得した?」
一ヶ谷くんはうなずくわたしを見て、面白そうに笑った。
「で、高校もその先輩を追いかけて行ったんだけどね、先輩にはもう彼女ができててさ」
そこで、一ヶ谷くんはいきなり話を変えた。
「篠塚先輩、広瀬……先輩に命を助けてもらったんだって?」
「え? ……うん。命までかは、分からないけど」
「篠塚先輩、運命だって言うんだよね。これは運命の出会いだって」
心なしか、苦々しい表情の一ヶ谷くん。
申し訳なさそうにわたしを見て、それから自嘲気味に笑った。
「ごめんね。運命の押し売りなんて、いらないよね。て言うか、迷惑だよね」
……迷惑?
申し訳ないけど、正直なところ迷惑だと思った。けど、言えなかった。
偶然の再会をチャンスだと捉えた一ヶ谷くんと、ムリヤリ他校に忍び込んで、保健室にまで寝込みを襲いに来た篠塚さん。
篠塚さんのは、きっと運命の押し売りだ。でも、一ヶ谷くんのは少し違う気がした。
「あのね? 聞いていい?」
「うん」
「何であんなことしたの?」
篠塚さんと知り合いなのは分かった。だけど、知り合いだからって、わざわざ他校の生徒を学校に入れるような手引きをする? 見つかったら大問題だと思うんだけど……。
いくら、わたしのことが好きだからって、カナが邪魔だからって、一ヶ谷くんがそこまでする人とも思えなかった。
「えっとね……」
一ヶ谷くんは言いにくそうに視線をさまよわせた。
「オレの兄貴なの。篠塚先輩が好きだった人」
「……え? お兄さん?」
「二歳上の兄貴。オレがいたからってのもあって、高校行っても、兄貴、試合なんかは応援に来てくれてた。だから、篠塚先輩もマネージャ続けてたんだと思う。兄貴のこと、あれこれ、ホントいろいろ聞かれたし」
二つ上のお兄さん、篠塚さん、一ヶ谷くん。
お兄さんが高校三年生、篠塚さんが二年生、一ヶ谷くんが一年生。
「でも、兄貴、高校で彼女ができたんだ。オレ、兄貴に彼女できたの知ってたけど、……そんなのイチイチ報告したりしないよね? 篠塚先輩が、部活引退してからだったしさ」
一ヶ谷くんはため息を吐いた。
「あの人、結構強引なんだよ。この前、突然、電話かかってきたと思ったら呼び出されて。仕方なしに行ったら、あんたが彼女のことを教えてくれてたら、わたしは時間をあんなに無駄にしなかったし、別の高校に行っていたかも知れないのに……って詰め寄られて。それ、もう一年も前のことですよって言ったらさ、ようやく次の運命の人を見つけたから、協力しろって言うんだよ」
一ヶ谷くんは、膝の上で拳をギュッと握りしめた。
「篠塚先輩、周到でさ、うちの学校に進学した知り合いから、広瀬先輩の情報、しっかり仕入れててさ。オレが陽菜ちゃんに片思い中で、壮絶なバトルが繰り広げられてるってのも、知ってたんだ」
一ヶ谷くんは今にも泣き出しそうな顔で、わたしを見た。
「……悪魔のささやきって、本当にあるんだね。二人が別れたら、陽菜ちゃんが手に入るかも知れないって言われて、オレ………」
それから、一ヶ谷くんは静かに立ち上がって、ゆっくりと、そして深々と頭を下げた。
「陽菜ちゃん、ごめんなさい」
「……一ヶ谷くん」
一ヶ谷くんは頭を下げたままに話し始めた。
「オレ、陽菜ちゃんの身体が、そんなに悪いなんて知らなかった」
え? そこ? 篠塚さんに荷担してごめんってことかと思ったら……。
わたしの予想はことごとく外れる。
そのせいか妙に頭はクリアで、一ヶ谷くんに対して腹が立つとか、憤るとか、そんな気持ちにはまったくならなかった。
「陽菜ちゃんが身体弱いらしいってのは知ってた。でも、病院にボランティアに来てるくらいだし、そんなに悪いなんて思いもしなかったんだ。入学式の日にも倒れたの目の当たりにしてたのに、身体弱いって言うならなおのこと、貧血なら良くあることだろうって思って……」
入学式の日、一ヶ谷くんに手を引かれて、校舎裏を歩いた。
まだ一ヶ月も経たないのに、もう遠い昔のような気がしてならない。
「金曜日だって、陽菜ちゃん、あんなに調子悪そうで顔色悪かったのに。保健室で寝ていたのに寝込みを襲うようなことして、なのにオレ、陽菜ちゃんの顔すら、しっかり見てなくて……」
堅く握りしめられた拳に血管が浮いているのが見えた。
「話の途中で陽菜ちゃん、苦しそうな顔して真っ青になって、広瀬先輩に支えられて陽菜ちゃん、ひどく戻して…………それから、意識をなくして、救急車来て……」
一ヶ谷くんの声が震えた。
「オレ、……………死ぬほど後悔した」
「ご、ごめんね」
未だに頭を下げたままの一ヶ谷くんの肩が震えているのを見て、気がつくと、そう言っていた。
その言葉に、一ヶ谷くんは驚いたように顔を上げた。
「なんで陽菜ちゃんがあやまるの!?」
「え? 驚かせちゃったし」
正直、何の知識もない人が、わたしが倒れるところに行き会ったら、トラウマになるんじゃないかとすら思う。
顔色は極限まで悪くなり、息一つまともにできていない。さっきまで隣で普通に話していた知人が、突然、苦しみはじめて死にそうな状態になったら、そりゃ驚くと思う。
「違うでしょ!? あやまってるの、オレだから!」
「……あ、うん。でも、わたしも申し訳なかったし」
「陽菜ちゃんは何も悪くないって!」
「でも、」
「でも、じゃなくって!!」
あんまり大きな声で言われて、思わず、身を縮めると、一ヶ谷くんはまた「ごめん」とあやまった。
それから、少し怖い声で続けた。
「陽菜ちゃん、優しいのも大概にしなきゃ」
「……え?」
一ヶ谷くんの厳しい表情と怖い声。
少し怯えて一ヶ谷くんを見上げると、彼は大きく、大きくため息を吐いた。
「……諦められなくなるでしょ」
「え?」
「諦めようと思って、話しに来たのに」
「……あ」
その言葉の意味するところがようやく理解できた。
戸惑っていると、しばらくして、一ヶ谷くんは吹っ切れたように笑顔を見せた。
「ごめん。勝手に好きになっておいて、好きになってくれないなら冷たくしろなんて、ムチャ言ってるよな。大体オレ、陽菜ちゃんが、こういう優しい人だから好きになったのにね」
「……あのね」
「うん?」
「わたし、別に優しいわけじゃ……」
「優しいよ」
「でも」
「優しい」
「えっとね」
しばらくの押し問答の後に、一ヶ谷くんは深々とため息を吐いて、少し遠い目をした。
「……ごめん。オレ、何やってるんだろ? 陽菜ちゃんを困らせに来たんじゃないのにね」
それから一ヶ谷くんは、わたしを見て、優しく笑った。
「……元気になってくれて、本当に良かった。陽菜ちゃんの顔見れて、声聞けて、話ができて、本当に良かった」
一ヶ谷くんの穏やかな表情に、気持ちがすうっと軽くなった。
気がかりだったこと、何でこんなことになってるんだろうと思っていたこと、色んなことが、今日分かった。
いろんな意味で、本当にスッキリした。
「わたしの方こそ、話が聞けて良かった。わざわざ来てくれて、ありがとう」
わたしの「ありがとう」にまた何か思ったみたいだったけど、一ヶ谷くんは今度は苦笑いするだけで、何も言わなかった。
「もう、邪魔しないから」
邪魔? カナとのことだよね?
「……うん」
「陽菜ちゃん、倒れた時、オレは棒立ちなのに、広瀬先輩、ムチャクチャ的確に動いてて、少しも動揺してなくて……。正直、叶わないって思った」
「……あ、カナは慣れてるから」
「幼なじみなんだよね」
「うん」
その時、一ヶ谷くんのポケットで電話がブルブルっと震えた。
「ごめん。……はい、一ヶ谷です」
電話に出た後、一ヶ谷くんはわたしを見て、ニッコリ笑った。
「すみません。まだ、ちょっと駅のトイレです。二回途中下車したんですけど、どうも調子悪くて。……大丈夫です。遅れますけど、ちゃんと行きますから。……はい。ありがとうございます」
一ヶ谷くんが電話を切ってポケットに入れるのを合図に、目を合わせて、二人でクスクス笑った。
「担任。……そろそろ行かなきゃダメかな?」
「そうだね」
時計を見ると、一ヶ谷くんが来てから、随分と時間が経っていた。
「来るのが遅くなって、ごめんね。土日は面会謝絶って出てたし、その上、いつ来ても、広瀬先輩いるし……。病院には何回も来たんだよ」
「ごめんね」
カナがいたら話しにくいよね、きっと。篠塚さんの話はともかく、わたしとの出会いのことなんて。
「だから、陽菜ちゃんが謝ることじゃないでしょって。オレが勝手に来てるだけなんだから」
一ヶ谷くんは、また苦笑いした。
「でさ、二人きりで話せる時間、もう平日の朝しかないと思って、学校に行く前に来たのに、またいるんだもん、焦ったよ」
「え? ……あ、もしかして、朝のノック」
「うん。それ、多分、オレ。こんな時間にいるなんて、反則じゃない?」
一ヶ谷くんはぼやく。
一歩間違ったら、わたしが返事をして、カナと鉢合わせをしていた。そうしたら、どうなっていただろう?
「それじゃあ、オレ、行くね」
「うん」
と答えてから、思い出す。
「あ! 待って!」
「どうしたの?」
慌てるわたしとは対照的に、一ヶ谷くんは落ち着いていた。
「あのね、篠塚さんって、もう、こんなことしない?」
「え?」
「カナのこと、諦めた?」
ああ、と一ヶ谷くんが笑った。
「もう大丈夫だと思う。あれだけハッキリ言われて、これ以上、あがく勇気はないんじゃないかな」
「本当に?」
「陽菜ちゃん、怖いの?」
意外そうに、一ヶ谷くんがわたしを見た。
「大丈夫だと思うよ。オレが言うのもなんだけど、広瀬先輩、陽菜ちゃん一筋で、篠塚先輩になんて見向きもしないと思うけど」
「え? 違うの。……あの、そうじゃなくて」
怖いのは、広瀬のおじさまとお兄ちゃん。どれだけ事を大きくされないとも限らない。
「……一ヶ谷くん、もうしないって保証できる?」
「保証!?」
「やっぱり、ムリ……よね」
わたしがはぁと小さく息を吐くと、一ヶ谷くんは慌てて言った。
「保証はムリだけど、二度とするなって言うくらいなら……」
「言ってくれる?」
「それくらいなら、もちろん」
「約束よ?」
そう言うと、一ヶ谷くんは神妙な顔でうなずいてくれた。




