28.本当の言葉1
「じゃあ、ハル、また夕方来るね」
思いもかけず、目が覚めたらカナがいた。
朝一番からカナがいて、カナの声が聞けて、カナに触れられて……。
それが、こんなに幸せだなんて、思ってもみなかった。
「うん。待ってるね」
心の底からの笑顔でそう言うと、カナはわたしをギュッと抱きしめ、耳元で、
「次に会う時は、今よりもっと元気になってるかな」
とささやき、頬にキスをした。
「気をつけてね」
「ハルもね」
その言葉に、病院で一体何に気をつけるのかしら、と思っていると、カナは笑顔で手を振り、ドアの向こうにいなくなった。
その時は、まさか本当に最後の嵐がやってくるなんて思ってもみなかった。
カナが行ってしまってから、十五分くらい後。
トントン。
ノックの音に、「はい、どうぞ」と答えた。朝の回診にしては、早くないかしらって思いながら。
ゆっくりとドアが開き、おずおずと……としか言いようがない様子で入ってきたのは、思いがけない人物だった。
「……一ヶ谷くん」
一ヶ谷くんは、やたらと神妙な顔でぺこりと頭を下げた。でも、そのまま入り口から動かない。そして、何も言わない。
その表情から、言わないんじゃなくて、言えないんだろうなと感じた。
わたしが何か声をかけなきゃ、きっと、彼は何も言えない。そう思って、ゆっくりと身体を起こした。
最初から少しベッドを上げてあったので、楽に起きられる。でも、ドアのところまで迎えに行ってあげる元気はない。
と言うか、これから何が起こるか分からなくて、よけいな体力は使えない気分だった。
「一ヶ谷くん」
もう一度、声をかけて、手招きする。
わたしが笑顔を見せると、一ヶ谷くんはホッとしたような顔をして、ようやくゆっくりと歩き出した。
「……陽菜ちゃん、ごめんなさい」
一ヶ谷くんは、随分と長い沈黙の後、静かにそう言って深々と頭を下げた。
素直に謝られると、反射的に「いいよ」と言いそうになる。でも、「ごめんなさい」だけじゃ、一ヶ谷くんが何に対して謝ったのかが分からない。
きっと、例の女の子のことだとは思う。お兄ちゃんがわざわざ来るようなことじゃないのにね……って言ったら、カナが教えてくれた。
よその学校の子が忍び込んだんだよね?
あの時、あの子と一緒にいた一ヶ谷くんは、しきりに、わたしから目を反らしていた。
「何に、謝っているの?」
さすがに憤りを感じていたけど、それでも努めて優しく問いかけると、一ヶ谷くんはゆっくりと下げた頭を元に戻した。それでも、まだ目は合わせてくれなかった。
そんなにも後ろめたい?
そう思っていると、一ヶ谷くんはようやく重い口を開いた。
「……つきまとって、困らせたこと、に」
「……え?」
謝られるなら、あの女の子のことしかないと思い込んでいた。
思いがけない答えに、続く言葉が出てこなかった。
「……え、っと。ここ、座って?」
長くなりそうな予感がして、さっきまでカナが座っていたイスを示した。
一ヶ谷くんは、ためらいながらも、わたしがもう一度笑いかけると、ようやく座ってくれた。
「あ。何か飲む? 冷蔵庫にいろいろ入ってるよ」
わたしは飲まないけど、カナがジュースを入れてたり、ママが栄養ドリンクを置いていったりで、冷蔵庫の中身はなかなかバラエティに富んでいるはずだ。
一ヶ谷くんはわたしをジーッと見つめた。
何だろうと小首を傾げて見つめ返すと、一ヶ谷くんはふーっと大きく息を吐いた。
「陽菜ちゃん、怒ってないの?」
「怒るようなこと、したの?」
「したかと思った」
「……例えば、どんなこと?」
わたしが聞くと、一ヶ谷くんは静かに答えた。
「彼氏いるのに、毎日会いに行ったりして困らせたよね」
「……うん」
「あ、否定しないんだ」
「だって、本当に困ってたもの」
そう言って口をとがらせると、一ヶ谷くんはようやく笑った。苦笑いだったけど。
それから、少しの沈黙の後、一ヶ谷くんは静かに語り出した。
「一目惚れって言ったけどさ。オレ、本当は、陽菜ちゃんのこと、もっと前から知ってた」
「……え?」
わたしのこと、もっと前から知ってた、って言った?
もっと前って、入学式より前ってこと?
「オレ、去年、事故にあって骨折して入院したんだけど、その時、陽菜ちゃんが小さい子に絵本読みに来てて……」
去年? 入院? ……この病院に?
思わず、一ヶ谷くんの顔をマジマジと見てしまった。
一ヶ谷くんは困ったような顔をして、また視線を逸らした。
「覚えてないと思うけどさ。オレ、もう絵本を読んでもらうような年じゃなかったし。整形で良かったはずが、ベッドの空きがないからって、小児科の、しかもチビばっかの部屋に放り込まれて、オレ、正直腐ってた。そんな時に、陽菜ちゃんに会ったんだ」
訥々と語る一ヶ谷くんの声が、静かな病室に響く。
「うるさくしてゴメンね。早く良くなるといいねって、笑いかけてくれた。子どもたち、みんな懐いてて、絵本を読む声がホント優しくて、陽菜ちゃん、文句なしに可愛いくて……。でもね、それより何より、心がキレイな人だなって思ったよ」
ずっとうつむいて話していた一ヶ谷くん、ふいに顔を上げてわたしの方を見た。
にこって笑ってくれたけど、どこか笑顔がつらそうで……。
彼の好意が分かっているだけに、何も言えなかった。
「陽菜ちゃん、オレの入院中に三回来たんだ。そのたびに、違う絵本を読んでて、いつも本当に楽しそうで。子どもたちと折り紙も折ってたよね。秋だったからかな? ドングリで工作とかもしてたよね」
一ヶ谷くんが、ポケットから、何かを取り出した。
開いた手のひらの上にあったのは、ドングリで作った小さなコマだった。
☆ ☆ ☆
「今日はね、ドングリ拾ってきたの。みんなで、コマ作ろうか?」
絵本を読み終わった後に、わたしがそう言うと、子どもたちは大きな歓声をあげた。
「ねえ、陽菜ちゃん、これ、もうコマになってるよ?」
一人の子が、素早くわたしの持っていた袋を覗いて、不満げに言った。
「うん。ここで爪楊枝刺すと危ないから、家でやってきたの」
「えー。それじゃあ、コマ作りじゃないでしょー?」
そう言われて、笑いながら、手提げ袋からカラーマジックを取り出した。
「ジャーン。このコマに色塗りするんだよ?」
「え!? 色塗り!?」
お絵描きが大好きな子どもたちは、その言葉に目を輝かせた。
新聞紙と色とりどりのカラーマジックを配ると、子どもたちは早速、色を塗り始めた。
見本に作って来たコマを真似する子、オリジナリティあふれる作品を作る子。
ストライプに水玉模様。
ドングリにお顔を描く子もいる。
大騒ぎだった病室に訪れた、ほんの少しの静寂の時。でも、静かなのは一瞬で、すぐに、
「キャー! はみ出しちゃった!」
「よーっし! できたー!!」
「陽菜ちゃん、もっと作りたーい!」
なんて、元気な声が飛び交った。
そんな騒がしい大部屋に一人だけいた中学生の男の子。足にはギブス、手には包帯、ほっぺにはガーゼという痛々しい姿。
「うるさくしてゴメンね」
そう言うと、小さく横に首を振った。
「早く治るといいね」
笑いかけると、その男の子も恥ずかしそうに笑い返してくれた。
そこに年長さんの女の子がやって来た。
「陽菜ちゃん、見て~!! できた~!!」
その子が持つ小さなコマには、カラフルなお花の模様が可愛らしく描かれていた。
「わあ、可愛い~! 上手にできたね!」
そう言うと、その子はうふふと笑って、それから、そこにいた中学生の男の子にも見せたんだ。
「お兄ちゃん、見て! どう?」
「うん。可愛いね」
「お兄ちゃんも欲しい?」
「……そうだな。くれる?」
男の子がそう言うと、女の子は困った顔をした。
男の子は本気で言っているわけじゃなかった。ただ、小さな子に合わせてくれただけ。
だから、何か助け船を出そうと思っていると、女の子は突然、ニッコリと満面の笑みを見せて言った。
「陽菜ちゃんのをもらうといいよ! この中で、いーーーっちばん上手だよ!」
☆ ☆ ☆
「これ、わたしが作った……」
「そう。思い出した?」
一ヶ谷くんは手のひらの上で、ドングリで作った素朴なコマを転がした。
あの時の一ヶ谷くんは、坊主頭で、もっとずっと幼い雰囲気だった。今とは随分イメージが違う。
「陽菜ちゃんが、院長先生の孫だって聞いて、杜蔵学園に通ってるって聞いて、オレ、本当はね、陽菜ちゃんを追いかけてきたんだよ」
わたしの目を真っ直ぐに見つめて、一ヶ谷くんが言った。
「相思相愛の幼なじみの恋人がいるってのも、聞いてた。看護師さんにさりげなく聞いたらさ、笑って、陽菜ちゃんはムリよって言うんだもんな」
一ヶ谷くんの口もとが、自嘲気味にゆがんだ。
「……あ、じゃあ、入学式の日は、」
わたしが小さく呟くと、一ヶ谷くんは首を横に振った。
「違う。あれは偶然。……オレの親、杜蔵学園大学の先生やってんの」
「大学の?」
「そう。だから入学式の日、車寄せがある裏口に下ろしてってくれたんだ。駐車場使えるからって車で来たんだけど、大学の駐車場から高等部まで戻るより楽だろうって」
「……そうだったんだ」
あまりに唐突だった一ヶ谷くんの告白。
わたしの手を迷うことなく取った一ヶ谷くんの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
「オレ、一目惚れしたみたい!」
「陽菜ちゃん、オレと付き合って!」
無邪気に見えた一ヶ谷くんの笑顔。
その裏に、他の何かが隠されているなんて、思いもしなかった。
カナがパパにクラス分けのことを頼んだと知った翌日。
カナに会いたくなくて、三十分も早く登校して……。
満開の桜の下で、わたしはあふれ出しそうな涙をこらえていた。
あの時はまだ、カナやパパの心配は痛いほど分かるのに、どうして、それがこんなにイヤなのかが分からなかった。
わたしの頭の中は、自分のことだけでいっぱいだった。
同じ時、わたしを密かに想っていたという一ヶ谷くんは、わたしを見つけた。
わたしを好きになって、高校まで追いかけてきてくれたという一ヶ谷くん。
恋人がいるって知っていたのに、わたしに告白した。
わたしは……、一ヶ谷くんの顔を見ても、名前を聞いても、彼を思い出すことはなかった。




