24.最期の願い2
心の中に、ぽっかりと空洞ができたような、どうにも空虚な気持ちのままに、目が覚めた。
夢の中でポロポロと流れ落ちていた涙は、目が覚めても、やっぱりあふれ出していた。
うっすらと光る非常灯。
ピッピッと音を立てる心電図モニター。
かすかに見える点滴の袋。
……病院。
カーテンが閉められている。夜だった。
自分がいる場所は分かるのに、どうしてここにいるのかが、すぐには思い出せなかった。
頭にもやがかかったようで、まともに思考が回らなかった。
熱い。のどを通る空気が熱くて仕方ない……。
息苦しい。
……お水。お水、飲みたい。
ああ、そうか。熱があるんだ。
ナースコールを押すのもおっくうで、そのまま、また目を閉じた。
そうして、ようやく思い出した。
保健室で寝ていたら、カナのことを好きだという女の子と一ヶ谷くんが来て……。
女の子が帰っていった後、一ヶ谷くんと話をしていて……。
それから、話している最中に急に気分が悪くなって、我慢できなくて……。
一度は失われた意識も、繰り返し名前を呼ばれ、何度も浮き沈みを繰り返した。
気がつくと、いつもカナが手を握ってくれていた。
それだけで、なぜか大丈夫だという気がした。
……カナ。
あるはずがないと思いながらも、その手を探した。
やっぱり見つからず、分かっていたにも関わらず、何だかとても寂しかった。
わたしはどれくらい、意識を失っていたんだろう?
今が、金曜日の夜なのか、土曜日の夜なのかさえ分からなかった。
最後の記憶は、救急車の中だった。
「ハル、後少しで病院つくからな。早く楽にしてもらおうな」
カナの声は優しく落ち着いていて、思い出すと、なぜか悲しくなった。
たまらなく、カナに会いたかった。
息苦しい。
熱い。
……我慢するくらいしか、わたしにできることはなかったから、また目をつむった。
次に目が覚めた時には、少しでも楽になっていたらいいな、とそう思いながら。
だけど、身体には耐えがたい程に熱がこもり、酸素マスクをつけていてもなお息苦しくて、のどはカラカラに渇いていて……。
目をつむっても眠れずにいると、ふいにドアが開く音がした。
薄く目を開けると、廊下の薄明かりが病室内に差し込むのが見えた。
いつもの見回りだと思って、そのまま目を閉じる。
足音が静かに近づいて来た。
「陽菜ちゃん、氷まくらかえようね」
聞き覚えのある声が耳に入ると同時に、頭を持ち上げられた。
そっと下ろされた頭の後ろに、冷たい氷まくらの感触。
気持ちいい。
ふうっと思わず吐息がもれた。
「あれ? 陽菜ちゃん、意識ある? ……陽菜ちゃん!」
枕元の電灯がつけられた。
返事をする元気なんかなかったけど、呼ばれたので仕方なく、うっすらと目を開けると、裕也くんの心配そうな顔が目に飛び込んできた。
「陽菜ちゃん。陽菜ちゃん、分かる?」
「……ゆ、や……く」
のどがカラカラで、まともに声が出なかった。
いざ、人の顔を見たら、なぜ今まで我慢できたのか不思議なくらいで、飛び出す言葉は一つだった。
「……ず、ほし…」
「ん?」
「お……み、ず」
「水? ちょっと待ってね」
バタバタと慌ただしい足音の後、「お待たせ」と差し出された吸い飲みから、ゆっくりと水を飲む。
ただの水が、冷えてもいない室温の水が、とてつもなくおいしかった。
慌てて飲んでむせたりしないよう、ゆっくりと飲み干して、ようやく人心地ついた。
「ごちそう、さま」
ようやく、しっかり目を開けて裕也くんの顔を見る。
空になった吸い飲みを受け取りながら、裕也くんはわたしのおでこに手を当てた。その仕草がお医者さまっぽくなくて、白衣とのギャップがどこか不思議だった。
「おかわりは?」
「も、いい」
吸い飲みをサイドテーブルに置き、裕也くんはポケットから聴診器を取り出した。
胸に当てた聴診器をゆっくりと丁寧に、裕也くんは動かしていく。
「雑音、聞こえた?」
そう聞くと、裕也くんは苦笑いを浮かべた。
数年前、まだ中学生だった頃。国家試験に受かった裕也くんは、研修に入る前にと、家まで会いに来てくれた。
そして、ひとしきりおしゃべりをした後、聴診をさせて欲しいと頼まれた。
裕也くんは、真顔でゆっくりと、とても丁寧に聴診器を動かした。
聴診器がわたしの身体から離れたところで、
「雑音、聞こえた?」
そう聞くと、裕也くんは、
「……多分」
と自信なさげに答えた。
瑞希ちゃんのために医者を目指した裕也くん。
瑞希ちゃんがいなくなってから、医者になった裕也くん。
本当は、瑞希ちゃんにこうしたかったんだろうな、と思った。
「次に会う時には、ちゃんと診察できるようになってるから、待ってて」
裕也くんは、真面目な顔でそう言った。
今、裕也くんは約束通りに白衣を着て、病室にいた。
「雑音、聞こえた?」
そうして、あの時と同じ質問に真顔で答えてくれた。
「盛大に。……陽菜ちゃん、つらいだろ?」
「ん? 大丈夫」
「これで大丈夫なら、逆に問題だよ」
裕也くんは顔をしかめた。
確かに、熱いし息苦しいし、イヤな動悸もある。
身体は重くて、ベッドの上に起きあがるのもムリだと思うくらいだけど、それでも発作の時の苦しさからしたら、むしろ天国だとすら思う。
「……氷まくら、気持ちいいよ。ありがとう」
脈絡もなく、そう言うと、裕也くんは心配そうにわたしの頭をなでた。
「そう? それはよかった。じゃあ、脇も冷やそうか」
氷まくらの準備は、いつもなら看護師さんがしてくれる。
「なんで裕也くんが?」
「ああ。ナースの皆さん、忙しそうだったからね。陽菜ちゃんの様子も見たかったし、ついでに。……待ってて。用意してくるから」
そう言うと、裕也くんは足早に病室を後にした。
再会してから今日まで、裕也くんから瑞希ちゃんの名を聞くことは一度もなかった。
不自然なくらいに、一度も話題にならなかった。
裕也くんだけじゃなく、カナだって、忘れているはずはないと思うのに、瑞希ちゃんのことは話さない。
……瑞希ちゃんは、もういない。
裕也くんが出て行った後の病室で、目をつむると、やはり思い出すのは瑞希ちゃんだった。
だけど、楽しかったエピソードはどこかに飛んでいってしまったのか、思い出すのは、瑞希ちゃんがいなくなってからの寂寥感ばかり。
……瑞希ちゃんは、もうどこにもいない。
一人でいると、寂しさに胸がちぎれそうになる。
忘れていいよ。
幸せになって。
ふいに、空から降るように、瑞希ちゃんの最期の言葉が脳裏に浮かび上がり、消えていった。弱々しくて小さくて、でもどこか凛とした声が……。
「お待たせ」
裕也くんがそっと病室に入って来た。
声を出したら、泣いてしまいそうな気がして、何も言わずにいると、裕也くんは、
「陽菜ちゃん? 寝ちゃった?」
そう言いながら、そっと脇の下に熱冷ましのための氷のパックを挟んでくれた。
気持ちいい。
思わず、また吐息が出る。
「陽菜ちゃん? 大丈夫?」
裕也くんが気遣わしそうに、わたしの頬に手を当てた。
「……忘れられた?」
思わず、本当に、思わず、ポロリとこぼれ落ちた言葉。
しまったと思ったけど、取り消す元気もなかった。
何を言っているのか通じなければいいのに、そう思ったのに、裕也くんはすぐに答えをくれた。
「忘れられるわけないでしょ」
寂しそうだけど淡々と落ち着いた声に、少しだけホッとした。
「……そうだよね」
わたしだって忘れられないんだ。ましてや、裕也くんが忘れられるはずがない。
分かっていたのに、答えなんて分かり切っていたのに、だけど、思わず聞いてしまった。
重なるんだ。
……カナ。
カナもわたしが死んだら、きっと泣くんだろうな。
わたしが何も言えずにいると、裕也くんが穏やかに続けた。
「だけどね、陽菜ちゃん。いつか、もし、心から愛せる人ができたら、ちゃんと好きになるよ」
裕也くんが優しく、ひたすらに優しく、ゆっくりとわたしの頭をなでた。
「まあ、瑞希以上に想える人が、そう簡単に現れるはずないのは、仕方ないよね?」
「……裕也くん」
「心配してくれて、ありがとう。ボクは大丈夫だよ」
「……うん」
……瑞希ちゃんは、何を願ったんだろう?
「忘れて欲しい」ではなく、「忘れていいよ」だったから、忘れることに罪悪感を持つことはないよ、きっと、そう言いたかったのだと思う。
裕也くんは瑞希ちゃんを忘れてはいない。
だけど、ちゃんと気持ちは未来を向いている。
寂しいなんて思わなかった。
裕也くんの言葉に、ただホッとした。
わたしがいなくなった後のカナが、嘆き悲しむ姿なんて想像もしたくなかった。
少しは仕方ない。少しの間は、きっと悲しんだって仕方ない。
だけど、いつかはちゃんと思い出にして欲しい。
裕也くんの中で、瑞希ちゃんの存在はまだ大きい。でも、いつでも思い出になる準備はできている。
ホッとしたら気が抜けたのか、急に強い眠気に襲われた。
「裕也……くん」
「ん? どうした?」
話しながら、ベッドの上にいるはずの身体がどこまでも沈み込み、ずぶずぶと闇の中に入り込んでいくような錯覚におちいる。
「……のね、お願いが……あるの」
今、話さなきゃいけない気がしてならないのに、何だかろれつが回らなくなってきていた。
「ん? なに?」
「……たしが、……だ……と」
裕也くんが、額の汗をやさしくぬぐってくれた。
わたしが死んだ後、カナの話、聞いてあげて。
カナの力になってあげて。
そう言いたかったのだけど、もう、ちゃんと声が出ていたのかも分からなかった。
こんなこと、裕也くんにしか頼めない。
裕也くんが、何か言っているのは聞こえたけど、それが、「もう一回言って」なのか「分かった」なのか、「おやすみ」なのかも、もう分からなかった。
意味の取れない裕也くんの言葉を聞きながら、ゆっくりと、わたしの意識は闇に沈み、やがてプツリと途切れた。




