23.最期の願い1
例の女の子。カナが助けたという子。
カナに彼女と直接話してもらわない限り、何も解決しないと思った。
見ているだけでも気持ちの良い終わり方じゃなかったけど、そちらは、とにかく片がついた。
同じように、一ヶ谷くんにも自分の口から話さないと、何も変わらないと思った。カナが一ヶ谷くんを追い払っているだけじゃ、いつまで経っても、何も変わらないから。
……なのに、結局、最後まで話せなかった。
「ハル!? 大丈夫か?」
カナが背中をさすってくれる。
気持ち悪い。
心臓がイヤな感じに拍動を打つ。
また不整脈。
また……と思った。最近、以前より不整脈が出やすくなっている。
息苦しい。
なんで私は、いつも、こうなんだろう。
ああ、でも、最後までは聞いてあげられなかったけど、言わなきゃいけないことは言えたんだ。
そう思うと、少しだけホッとした。
「斎藤、先生呼んできて」
「了解!」
「志穂、救急車!」
「分かった!」
いいよ。大丈夫だから。
……と思うのは気持ちだけで、実際には、ぜんぜん大丈夫じゃなかった。
気持ち悪い。……吐く。
目尻から涙がこぼれ落ちた。
「ハル、我慢しないでいいから、吐いて」
支えられ、背中をさすってもらいながら、絞り出すように、胃の中身をぜんぶ戻した。
苦しくて、ただ苦しくて。
ごめんね、いつもこんなことばっかりで、ごめんね、
そう思いながら、わたしの意識はゆっくりと暗転した。
夢を見た。
ずっとずっと、忘れていた。
忘れたふりをして、心の奥にしまい込んでいた、悲しい記憶。
思い出したくない。忘れていたかったのに……。
そう思いながら、わたしは、また子どもになって、瑞希ちゃんの病室にいた。
「瑞希ちゃん、大丈夫?」
「……ん。ちょっと、なんか……動悸が、」
珍しく、二人同じ時期に入院していた。
食事の後、おしゃべりしている時、顔色が急激に悪くなり、瑞希ちゃんはそのまま丸くなり、苦しそうに胸を押さえた。
「瑞希ちゃん!!」
わたしは、慌ててナースコールを押した。
すぐに、慌ただしく看護師さんが入ってきて、やがて、先生たちも駆け込んできた。
「外に出ていなさい」
そう言われて、後ろ髪を引かれながらも、病室の外に出た。
自分にできることなど何もないと分かっていても、その場を離れられなかった。どうすれば良いか分からなくて、ドアの外、廊下で呆然と立ち尽くした九歳のわたし。
遠くでガラガラと音がしたと思ったら、病室に、見慣れた機械がいくつも運び込まれて行った。心電図モニターや酸素はまだしも、電気ショックの機械が運び込まれるというのが、どういうことか、小学生のわたしにも十分理解できた。
……瑞希ちゃん!
両手を組み合わせて、祈るくらいしか、わたしにできることはなかった。
どれほどの時間、そこで立ち尽くしただろう?
しばらく後、険しい表情で病室を出て来た看護師さんが、わたしの元にやってきた。
「瑞希ちゃんが、どうしても話したいって」
看護師さんに、躊躇いがちに声をかけられた。
まだほんの子どものわたしが、これから起こるかもしれない事態を理解しているのか、受け止められるのか、測っているのだと思った。
物心がついた頃から、病院はわたしにとって、第二の家と言えるくらいに、なじみの場所だった。
特別室という、少しだけ隔離された場所。だけど、総合病院に長く入院すれば、人の死には何度も出会う。
瑞希ちゃんは、今、死の淵にいる。
子どもだったわたしにも、それは、ひしひしと感じられた。
そして、瑞希ちゃんが、そこから戻ってこられるかは、わたしには分からなかった。
ただ、戻って来てと、心から願うしかできなかった。
今、瑞希ちゃんがどんな状態にしろ、会いたいと言ってくれているのなら、会わない理由はない。
迷うことなく、わたしは看護師さんの差し出した手を取った。
「瑞希ちゃん」
酸素マスクを、心電図計を、何本もの点滴をつけられて……瑞希ちゃんは、さっきまでと同じベッドに横たわっていた。
同じはずなのに、まるで別の部屋のようだった。
ピッピッピッピッ
機械の音が鳴り響く室内、瑞希ちゃんの枕元に、導かれた。
苦しそうに力なく横たわっていたけど、わたしを呼んでくれと言うだけあって、瑞希ちゃんの意識はしっかりしていた。わたしを見ると口元を緩めて、小さくほほ笑んでくれた。
ごめんね。
パパも、ママも、裕也くんも、間に合わないみたいで。
急だったから、手紙も残せなかった。
瑞希ちゃんは、ささやくように、途切れ途切れに、そんなことを話した。
考えたくもなかったけど、瑞希ちゃんの命の灯が消えかかっているのが、肌で感じられた。
まるで手のひらにすくった砂が、サラサラと指の間からこぼれるように、瑞希ちゃんの命が急激に流れ出しているのを感じた。
瑞希ちゃんは、とても息苦しそうで、しゃべらない方が良いよ……って、普通なら絶対に言うって状態なのに、お医者様も看護師さんも、誰一人として、瑞希ちゃんがしゃべるのを止めなかった。
裕也くんに、伝えてくれる?
わたしは、瑞希ちゃんの血の気のない手を握りしめて、「うん」と頷いた。
まるで氷のように冷たい手だった。
暖めてあげたくて、少しでも暖めてあげたくて、両手で包み込むように、瑞希ちゃんの手を握った。
なのに、わたしの手は小さくて、瑞希ちゃんの手を暖めるには、ぜんぜん足りなくて、自分の無力さを突きつけられた気がして、やるせない想いが胸に押し寄せた。
一瞬、まるで遠くを見るような目をして、それから瑞希ちゃんは言った。
忘れていいよ。
幸せになって。
そう言うと、瑞希ちゃんは一仕事終えたとでもいうような、どこかホッとしたような顔をした。
それから、瑞希ちゃんはわたしの目を見て言った。
こんなこと頼んで、ごめんね。
大好きだったよ、陽菜ちゃん。
「瑞希ちゃん!」
まるで最期の言葉。お別れの言葉だった。
だけど、瑞希ちゃんの命の灯は、その時には消えなかった。
瑞希ちゃんは、わたしに微笑むと、眠るように目をつむった。
瑞希ちゃんの意識が途絶えた後、わたしは病室から出された。
わたしと話した後は、一度も目覚めないまま、
瑞希ちゃんは、夕刻、ようやく駆けつけた両親と、裕也くんに見取られて、……天国に旅立った。高校二年生……まだ、十七歳だった。
翌朝、瑞希ちゃんが亡くなったことを知らされたわたしは、泣いて泣いて泣いて泣いて、目が溶けるんじゃないかってくらいに泣いて、入院中だったのにムリを言って、外泊許可を取って、パパにお通夜に連れて行ってもらった。
棺の中の瑞希ちゃんは、とても綺麗で、裕也くんは、赤い目をしていたけど、とても落ち着いた声でわたしに、
「来てくれて、ありがとう」
って言った。
言わなきゃって、思った。もう会えないかもしれないって、思ったから。
瑞希ちゃんの家は遠くて、病院に来る用事がなくなったら、もう会えない。
忘れていいよ。
幸せになって。
瑞希ちゃんの最期の言葉を継げると、裕也くんは、号泣した。
「忘れられるわけない! 瑞希なしに、幸せなんてっ」
「オレより、長生きするって、言ったじゃないか!」
「オレに診察させてやるってっ、早く一人前になれって……」
「こんなに早くに別れることになるのなら、もっと側にいればよかった」
裕也くんの囁くような小さな声。
嗚咽と共に絞り出される悲しい言葉。
周りの人は、号泣する裕也くんを見て、すすり泣いた。
遺影の中の瑞希ちゃんは、輝くような笑顔で。それは、いつか見せてもらった、裕也くんとのデートの時の写真。
瑞希ちゃんの隣には、本当は裕也くんがいたはずだったのに、つないでいた手は、ほどかれて、二度と戻らない……。
わたしは、ポロポロと涙をこぼし、ただ、立ち尽くすしかできなかった。
わたしの告げた言葉で、裕也くんが号泣する。その姿を目の当たりにしても、幼いわたしにできることは、何もなかった。




