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20.葛藤3

「……ハル、……ハル」

 カナの声が聞こえ、手のひらには、カナのぬくもりを感じていた。

「……ん」

 小さく返事はしたものの、まぶたは重くて、目を開けることはできない。

「ハル、大丈夫?」

 冷たいタオルでカナが汗を拭いてくれた。

 額、頬、首元……気持ちいい。

「……ごめ…、ねむ……」

「ん。いいよ。眠いなら、好きなだけ眠ればいいから」

「……りが…と」

 ずっと思い出すことのなかった瑞希ちゃんとの会話を夢に見て、自分の心の奥底を覗き込みながら、カナの優しさを感じた。

 同時に、自分の無力さも……。



 気がつくと、また眠っていた。

 ガラガラッと保健室のドアが開く音を聞き、自分が眠っていたことに気がついた。

 聴覚だけが先に目を覚まし、身体は未だ眠ったままだった。

 ……カナ?

 でも、続いて耳に届いた足音は複数だし、近づいてくるのは、カナとは違う声。

 保健室なんだから、誰かが入ってきてもおかしくない。そう思いながらも、どこかで感じる違和感。

 身体は眠ったままで、ただ意識だけが急激に覚醒した。

 まるで金縛りだった。

 息苦しくて仕方なかった。

 近くにけっして、好意的ではない視線と人の気配が感じられた。

「ふーん。顔は、まずまずなのね。でも、顔色悪すぎ」

「具合悪くて保健室で寝てるんだ。仕方ないだろ?」

「だからって、同情引くのはズルイいわ」

「……同情じゃないと思うし、ズルで具合悪くなってるんじゃ、」

「うるさいわね。あんた」

「うるさいって、こんなとこまで連れてこさせておいて」

「あんただって、この二人が分かれた方がいいんでしょ!?」

「そりゃあ」

「じゃあ、少しは協力しなさいよ!」

 ……なに?

 どこかで聞いたことがあるような、ないような、甲高い女の子の声と、耳に馴染んだ男の子の声。

 ……一ヶ谷くん?

 まるで鉄でできた布団をかぶっているかのように、身体が重くて仕方なかった。指一本動かせない。それでも歯を食いしばってグッと力を込めると、ようやく、まぶたを押し開くことができた。

 思った以上の至近距離に、見たことがない女の子の顔。あまりに近すぎて、面食らう。わたしの顔から五十センチも離れていなかった。

 驚いて、反射的に後ろに下がろうとしたけど、ベッドに横になっていたのだから、下がる場所などどこにもない。

「あら、起きたの?」

 慌てるわたしを見て、その女の子は身体をまっすぐに起こしながら、そう言った。

 うちの学校の制服を着ている。でも、まったく見覚えがない女の子だった。

 彼女の斜め後ろには、一ヶ谷くんが立っていた。目が合うと、ばつの悪そうな顔をして、一ヶ谷くんは視線をそらせた。

「時間もないし、単刀直入に言うわ」

 ……なにを?

 その女の子は、婉然とほほ笑んだ。

 どちらかと言えば美人の部類に入る人。甲高い声が、大人びた容姿と少し合っていない……なんて、どうでもいいことを考えていると、その子は、冷たく言い放った。

「叶太くんと別れてちょうだい」

 ……………え?

 あまりに思いがけない言葉に、まだ起き抜けの頭はまったくついていけなかった。

 半分夢の中で聞いた、保健室に入ってきてすぐの一ヶ谷くんとこの子の会話……。

 何を話していた?

 はっきり覚えてはいない。

 でも、けっして好意的ではなかった。と言うより、悪意すら感じられた気がした。

「聞こえてる? 叶太くんと別れてって言ったんだけど」

 まるで、そうすることが当然かのように、その子は言った。

 わたしは何を言われたのか、聞き返すこともできず、ベッドに横になったまま、ぽかんと彼女の顔を見るしかできなかった。

「ねえ、聞いてるの?」

 どれくらいの時間、呆然としていたんだろう?

 その子は、呆れたように言ってきた。

「………聞こえ…ました」

 そう応えるだけで、精一杯だった。

 あまりに威圧的な物言いに、年上なのか分からなかったけど、思わず丁寧語で返事をしていた。

「そう。……で?」

「え?」

「聞こえてたんでしょう?」

 またしても、人をバカにしたような言いよう。

 彼女は数秒の後、呆れたようにわたしを見て、ふうっとため息を吐いた。

「だから、叶太くんと別れてって言ったの」

 ……カナと? わたしが?

 ……………なんで?

 一体、この人は何を言ってるんだろう?

 大体、この人は誰?

 なんで、突然、寝込みをおそうようにやって来て、そんなことを要求してくるの?

 頭の中を様々な疑問が渦巻いた。

 後ろにいる一ヶ谷くんに視線を向けても、気まずそうに、目をそらすばかりだった。

 渦巻く疑問にわたしが答えを出す前に、彼女は続く言葉を語り出した。

「聞くとあなたって、完全に叶太くんの重荷じゃない」

 わたしが言い返せずにいる間に、その子は好きなように、思うままに言葉を綴った。

 胸をえぐるような言葉だった。

「あなたみたいな子が、なんで叶太くんの彼女なのか、分からない」

「いくら幼なじみだからって、甘えすぎじゃないの?」

「一方的に、頼るだけの関係って、カレカノの関係じゃないよね?」

「あなたって、大切にしてもらうばっかりじゃない」

「あなたとつき合ったって、叶太くんに良いことなんて、何一つないでしょ?」

 わたしが反論しないのを良いことに、彼女は、わざとらしいため息までも吐いた。

「あーあ。叶太くん、かわいそう」

 その子の口から出た、

「叶太くん、かわいそう」

 という言葉に、吐き捨てるように言われた言葉に、去年の苦い思い出が、一気に身体中に蘇った。


 わたしと話すために、わざわざカナのいない時間を選んで、ここ……保健室にやって来た田尻さん。その姿を見た時、背筋が凍った。

 わたしを呼び出す冷たい笑顔が脳裏に浮かぶ。

 笑顔なのに、笑っていない目。

 呼び出された校舎裏。

 空は青く澄み、輝くような緑に縁取られていた。


 自分が、今、どこにいるのかを忘れそうになる。

 違う。

 あれは、過去のこと。

 あれは、一年も前のこと。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。


「ごめんね」

 硬い表情で、謝りに来た田尻さんを思い浮かべる。

「……心配してるの、これでも、一応」

 そう言った田尻さんの、ぶっきらぼうな横顔を思い浮かべる。


 ようやく、意識が目の前の彼女にまで戻ってきた。

 だけど、ホッとして握りしめた拳をゆるめた瞬間、わたしの動揺をじっくり観察していたらしい彼女は、意地の悪い笑みを浮かべて、さっきよりもゆっくりと、一語一語区切るように、同じ言葉を繰り返した。

「叶太くん、かわいそう」

 やめて! やめてよ!!

 そんな言葉、聞きたくない!!

 ……どうして? どうして、わざわざ人の弱みをついてくるの!?

 今すぐ、この場から立ち去りたかった。言い争ってまで、何かを押し通そうとなんて思わない。

 自分勝手に、言いたいことを言っているだけだって、分かっているから、真面目に取り合う必要なんてないって、分かっているから、ただ、この声を聞かずに済む場所に、行きたかった。

 だけど、わたしには走って逃げる術がない。追いかけられたら、逃げようがない。

 息が苦しくて仕方なかった。

 それが、精神的に追いつめられているせいだと気づいて、ゆっくりと時間をかけて息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 上から見下ろされている姿勢。それが不快で、ようやく、ゆっくりとベッドに身体を起こした。

 向き合って、彼女の目を見返す。そうすることで、やっと、対等な場に立てた気がした。

 その子は、何事かという顔をして、ほんの少しだけ身を引いた。一ヶ谷くんの戸惑った顔が、視界の中に入ってくる。

 心が痛い。

 胃がキリキリと音を立ててきしんでいるようだった。

 悔しい。

 それ以外に、この感情につける名前を見つけられなかった。

 言い返す言葉を持たない自分が悔しかった。

 ふつふつと、ふつふつと、そしてゆっくりと、次第に心の奥の方から、怒りがわき上がってきた。

「……にして」

うつむいて、手を固く握りしめ、噛みしめるように言ったわたしの言葉に、その子は傲然と返してきた。

「は? なに?」

 顔を上げ、その子をまっすぐと見据えて、繰り返した。

「いい加減にして!!」

 憤りと怒りに、握りしめた手が震えていた。

 こんな暗い気持ちに蝕まれたのは、初めての経験で、この感情をどう処理していいのか、検討もつかなかった。

 熟考することなく、言葉が身体の奥底からわき上がって、独りでに飛び出していった。

 思わぬ事態に興奮したのか、心拍数が一気に跳ね上がった。

 息苦しい。

 続けて、何か言わなきゃと思うのに、それ以上の言葉は何も出てこなかった。

 わたしに、かまわないで。

 ほうっておいてよ。

 そう言いたかったけど、何か違う気がしてならなくて……。

 息が上がってしまい、肩が大きく揺れる。

「な、なによ!!」

 彼女は、今にもわたしに掴みかからんばかりの形相。でも、わたしは、彼女をじっと見返すしかできなかった。

「言いたいことがあるのなら、言いなさいよ! 言えるのなら、ねっ!!」

 あくまで強気な発言を繰り返すその子。


 わたしには、何も言えないのだと決めつける、その子。

 どうして、そんなに強気なの?

 なんで、わたしは言い返さないと思うの?

 大体、カナが好きなのなら、なんで、カナに直接言わないの!?

 なんで、わたしに言ってくるの!?

 聞きたいのに、声にならなかった。

 出て行って!

 そう言いたいのに、ここは保健室で、本当は誰が来てもいい場所だから、言えなかった。

 心の中をぐるぐると、どす黒くて嫌な感情が飛び交う。

 その感情は、彼女がわたしにぶつけてくる言葉と同じように、わたしを蝕む。わたしの精神を蝕んでいく。

 誰とも、争いたくなんてないのに。

 誰とも、ケンカなんてしたくないのに。

 ただ、静かに暮らせるだけで十分なのに。

 わたしは、ただ、カナと一緒に笑って過ごしたいだけなのに。

 カナとの時間を大切にしたいだけなのに……。

 こんな黒い感情はいらない。

 誰かを恨んだりなんてしたくない。誰かを嫌ったりなんてしたくない。

 ただ、この場から逃げ出したいだけだった。

 なのに、目の前の彼女は、意地の悪い笑みを浮かべて、ほら、何も言えないでしょうとばかりに、わたしをにらみつけてきた。

「叶太くんと別れてちょうだい」

 起き抜けの頭に飛び込んできた冷たい声が、再び脳裏に蘇ってきた。

 彼女の要求を受け入れるなんて、考えられない。彼女の言葉は、けっして受け入れられるようなものじゃない。

 続く言葉も、次々に脳裏に浮かんでは消えていった。


「聞くとあなたって、完全に叶太くんの重荷じゃない」

「あなたみたいな子が、なんで叶太くんの彼女なのか、分からない」

「いくら幼なじみだからって、甘えすぎじゃないの?」

「一方的に、頼るだけの関係って、カレカノの関係じゃないよね?」

「あなたって、大切にしてもらうばっかりじゃない」

「あなたとつき合ったって、叶太くんに良いことなんて、何一つないでしょ?」


 わたしの胸をえぐるような言葉。

 でも、ぜんぶ……ぜんぶ、この子がそう思っているってだけだ。

 カナがどう思っているかなんて、カナにしか分からない。

 わたしは、カナと別れたくない。そう、わたしはただ、自分の気持ちだけを考えればいい。

 後に続く、彼女の主張に答えるのは、それは、カナの仕事……。

 もし、本当にカナが、わたしを重荷に思っていて、わたしと別れたいと思うのなら……。……その時、別れれば良い。

 考えただけで、心が切り裂かれるような気がした。

 想像しただけで、目が潤み出すのがわかった。

 だけど、カナがわたしと別れたいと思うはずなんてない、そこだけは確信があった。

 そして、こんなところまで来て、カナと別れろって言う彼女が、わたしが断ったくらいで諦めるはずがない……なぜか、そんな確信もあった。

 この子とカナの間に何があったかなんて、わたしは知らない。

 そして、わたしが何を言ったって、カナから直接言われたんじゃなきゃ、この子は絶対に諦めない。

 ……カナじゃなきゃ、断れない。

 でも、カナと話す気なんて、この子にはない。そうでなきゃ、わたしにカナと別れろなんて言わない。カナに、わたしと別れてって言って、カナがOKすれば、それで済む話なのに、カナではなくわたしに言いに来たんだから……。

 こんな思いは二度としたくない。

 今日で、今で、終わりにしたい。

 もし、この子が逃げたら追いかけられない。わたしには、彼女を引き止める術がない。

 反射的に、わたしは枕元に手を伸ばした。

 手に触れた携帯電話のボタンを二つ、何も言わずに、後ろ手に押した。

 そんなことが、そんな小細工が、自分に出来るなんて思ったこともなかった。

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