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19.葛藤2

 ……なんでか、最近、よく夢を見る。

 十六歳の自分として、夢の中にいることをどこかで自覚しながらも、子どもの頃の自分のままに、裕也くんと瑞希ちゃんの姿を見ていた。


「裕也くんと、瑞希ちゃんは、恋人同士になったの?」

 知り合ってから、一年くらい経った頃。

 この前、瑞希ちゃんがくれた本が、恋に関するものだったから、この前までは、隣にいるだけだったのに、二人が今日は手をつないでいたから、なんとなく聞いてみた。

「えっ!?」

 瑞希ちゃんの頬がポッと赤くなった。

 つないだ手を、瑞希ちゃんが離そうとして、裕也くんが追っかけてつかんだ。

「よく分かったね」

「やだ、裕也くんてば」

「隠すようなことじゃ、ないだろ?」

 仲のいい二人を見るのが大好きだった。

 年が三つも違うからか、リードするのは、いつも裕也くん。

「瑞希ちゃんと裕也くんは、結婚するの?」

 まだ七歳の子どもの無邪気な質問。

 結婚ってことの本当の意味も、よく分かっていなかった。

 瑞希ちゃんは、困った顔をしたけど、裕也くんは笑顔で答えてくれた。

「ボクが一人前の医者になったらね」

「え!? ……ウソ」

 眼を丸くして、瑞希ちゃんは驚いたように裕也くんを見て、片手で口を押さえた。

「なにがウソなの? 本気だよ」

 裕也くんは涼しい笑顔を浮かべて、瑞希ちゃんの顔をのぞき込んだ。

 幸せそうで、心がほっこりした。

 まだ、恋なんて知らなかった。

 その頃は、まだ、「好き」って感情の意味も分かっていなかった。


 今、わたしにはカナがいる。

 結婚なんて考えてもいないけど、わたしの隣には、いつも、カナがいる。

 ……誰よりも大切な人。

「……カナ」


 夢うつつで、その名を呼ぶと、

「ここにいるよ」

 そんな声が返ってきた。

 夢の中の裕也くんと瑞希ちゃんが遠ざかり、カナの姿に変わった。

 手のひらにぬくもりを感じながら、髪を優しくなでる手を感じながら、小さく、

「……好き」

 とつぶやきながら、手のひらのぬくもりを握り返した。

「ハル、オレもハルが大好きだよ」

 耳元に優しい吐息を感じて、不思議なくらい満たされた気分で、わたしの意識は、また夢の世界へと取り込まれていった。



 次に目が覚めると、十時過ぎだった。

 二時間目の真っ最中。当然のようにカナはいない。

 いないのだけど、ついさっきまで側にいてくれていたような気がして、きっと握っていてくれただろう左手を思わず、じーっと見つめてしまった。

 ぼんやりしながら、保健室のやけに鼻につく消毒薬の匂いに、何となく裕也くんの顔を思い出した。

 ママでもなく、おじいちゃんでもなく、なんで裕也くんだったのかな?

 ……わたしの中では、まだまだ、白衣の裕也くんが見慣れぬ異質な存在だからかも知れない。もしかしたら、ただ単に、久しぶりに会って、印象が深かっただけかも知れないけど……。

 初めて会った時、わたしは六歳の小学一年生。裕也くんは高校二年生だった。

 小さなわたしからしたら、大きな大きな裕也くんは、まるで大人みたいなものだった。だけど、うっかり、瑞希ちゃんが呼ぶように「裕也くん」って言ってしまって、何かおかしいなって、どう呼べばいいんだろうと思っていたら、裕也くんは「それで、いいよ」って言ってくれた。

 それから、ずっと「裕也くん」って呼んでいる。

 あの頃、受験生になって、その後、医大生になった裕也くん。受験生でも医学生でも、どちらにしても忙しかったと思うのに、瑞希ちゃんが入院すると、ほとんど毎日、病院に来ていた裕也くん。

 面会時間終了後でも、コッソリと瑞希ちゃんの部屋に忍び込んで、よく怒られていた。

瑞希ちゃんと出会う前のわたしは、一人がつまらなくて、小児科のプレイルームに行っては、疎外感を感じて、居心地の悪さに、部屋に戻る毎日だった。

「特室の子」

 って呼ばれて、いつも特別扱い。

 小児科の大部屋に入院することはなくて、わたしは、いつも特別室だったから。

 診療科が違うママや医院長のおじいちゃんが、時間を見つけては出入りするし、パパも面会時間を気にせずに、わたしに会いに来たいからって、わたしを大部屋に入れようなんて、誰も考えもしてなかった。

「意地悪したら、病院から追い出されるんだぜ」

「医院長の孫だもんな」

「オレたちの病気、治してもらえなかったりして」

「うわ、カンベンッ!」

 一ヶ月、二ヶ月と入院する子も多くて、わたしの家のことを知ってる子も多くて、そんな言葉も耳にした。

 そんなわけない。

 ママもおじいちゃんも、そんなことしないよ?

 幼い頃は、お腹にモヤモヤを溜めるだけで、何も言い返せなかった。なぜか、言い返していいのだと思ったこともなかった。ただ、悲しかった。

 少し大きくなってからも、反論できるような日は来なかった。

 結局、そういうのは、わたしに向かって直接言われる言葉ではないのだから、言い返す場がなかった……。

 そして、もう少し大きくなってからは、気がついたんだ。

 あの子たちも、いつ終わるともしれない病との戦いに疲れていたんだって。どこかで、鬱憤を晴らしたかったんだって。誰かの悪口を言ったり、何かをけなすことで、ストレスを発散していただけなんだって。

 別に実害があったわけじゃない。だから、気にしないことにした。

 実際、わたしは医院長であるおじいちゃんの孫で、次期医院長と言われるママの娘で、院内のお医者様や看護師さんはもちろん、薬剤師さんや事務の人までもが、わたしには優しい。

 もしかしたら、どんなワガママでも言えば通ってしまうんじゃないかと思うと怖くなる。

 何も頼んでいないのに、誰もが気にかけてくれる。少しでも具合が悪そうだと見ると、「様子を見ようね」とか、そんなのなしに、先生が呼び出される。

 だから、わたしにできるのは、誰にも迷惑をかけないように、おじいちゃんやママに迷惑をかけないように、ありがとうや、お願いしますの言葉を忘れないことと、ただ、笑顔で、にこにこと笑って過ごすことくらいで……。

 家族も、カナも、いつだって、わたしにはとても優しかったから、笑顔で過ごすのは、難しいことではなかった。

 それでも、やっぱり……、同じように入院している子どもたちが、仲良くおしゃべりをしているところを見ると、一人でいる自分が、たまらなく寂しかった。

 毎日、カナがお見舞いに来てくれたけど、それだけでは埋められない感情が、確かに存在していた。

 瑞希ちゃんと出会ってから、少しずつ、他の子とも話すようになった。

一番好きなのは、もちろん瑞希ちゃんだったけど、瑞希ちゃんがいなくても話せる子が出てきた。

 裕也くんが声をかけてくれたおかげで、瑞希ちゃんと出会えたおかげで、寂しかったわたしの入院生活は、随分と明るく様変わりした。


「陽菜ちゃん、いらっしゃい!」

 背中の真ん中まであるサラサラの髪の毛。

 色白でほっそりした瑞希ちゃん。とても整ったキレイな顔をした瑞希ちゃん。

 瑞希ちゃんは、ベッドの上から、わたしを手招きした。

「瑞希ちゃん、具合、悪いの? 大丈夫?」

 ぶら下がる三つの点滴。横たわる瑞希ちゃん。

「少し、ね」

 手を伸ばして、瑞希ちゃんの手を握ると、瑞希ちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。

「はるな、いない方がいい?」

 気分が悪くて、誰にも邪魔されず、一人で眠りたい日もある。同じ病気を持つわたしには、幼くても、それはよく分かった。

「ううん。大丈夫だから、ここに、いて欲しいな」

「うん」

 その時のわたしは、検査入院。少しくらい出歩いても怒られないからって、よく瑞希ちゃんの病室に遊びに行った。

「苦しい?」

「大丈夫よ。ほら、酸素してないでしょう?」

「……うん」

 本当に心臓の動きが悪くなったら、全身に酸素が回らなくなってしまう。そうなると、必ず酸素吸入をさせられる。病院にいてしていないのなら、瑞希ちゃんが言う通り、大丈夫だからに違いない。

 だから、瑞希ちゃんに勧められるまま、パイプイスに座っておしゃべりをした。

 病室に限らずプレイルームや大部屋で、瑞希ちゃんは、いつも優しいキレイな声で、たくさんの絵本を読んでくれた。

 わたしだけじゃない。瑞希ちゃんの周りには、いつも、たくさんの子どもたちがいた。

 折り紙も教えてもらった。工作も手芸も、教えてもらった。瑞希ちゃんのベッドに遊びに行くと、いつも作りかけの小物があった。

 わたしの手芸好きは、間違いなく、瑞希ちゃんの影響だ。

 瑞希ちゃんとは、七つも離れていた。

 瑞希ちゃんにとっては、わたしは、きっと、年の離れた妹のようなもので、わたしにとって、瑞希ちゃんは優しくてステキなお姉さんだった。

 いつでも、同じ時期に入院していたわけではない。

 わたしの入院中に瑞希ちゃんが外来に来たら、お見舞いに寄ってくれた。逆に、瑞希ちゃんが入院している日は、わたしがお見舞いに寄った。土曜日の外来で会うこともあった。すれ違いが続くと、瑞希ちゃんは手紙をくれた。


 ある時、瑞希ちゃんは言った。

「ねえ、陽菜ちゃん」

「なあに?」

「……負けちゃ、ダメだよ」

「なにに?」

 わたしが首を傾げて不思議そうにすると、瑞希ちゃんは、ベッドで身体を起こしていたわたしをギュッと抱きしめてくれた。

 その時は、わたしが入院してた。

「たくさんの悪意に」

 瑞希ちゃんは話してくれた。

 瑞希ちゃんの心臓は、赤ちゃんの時の手術で上手く治っていて、中学生になるまで、ずっと普通に生活できていたって。運動制限もなかったから、瑞希ちゃんは走ったり泳いだりもできたんだって。

 わたしには考えられないことだった。そんなこともあるんだと、驚いた。

 瑞希ちゃんは、中学一年生の時に倒れて、心肥大がひどいことが分かって、大きな手術をして、でも完全に治すことはできなかった。

 走れないし、ムリできない身体になって、瑞希ちゃんは、いじめられた。

 当時、意味が分からなかったけど、今なら分かる。

「うちの中学、すごく荒れてたんだ」

 その言葉。

 みんな、誰かをターゲットにしたかったんだって。

 学校を休みがちな瑞希ちゃん。

 キレイで、可愛くて、優しい瑞希ちゃん。

 わたしも同じ病気だったから、しかも、瑞希ちゃんと違って、生まれてすぐの手術では命をつなぐしかできなくて、運動制限が外れたことはなかったから……。だから、わたしも、きっと、いつか同じ目に遭うのだと、瑞希ちゃんは思ったのだろう。

 そして、

「負けちゃダメだよ」

 瑞希ちゃんは、わたしを抱きしめた。

 わたしを抱きしめながら、きっと、自分に言い聞かせていたのだと思う……。


 そんないじめの話は、他の子たちからも聞いた。

「信じられないよね!? なんで、わざわざ人の病気のことあげつらって、いじめようとするかな?」

 怒りながら泣いている子。

「わかるわかる! みんな一緒だよ」

 その子の肩を抱いて、慰める子。

「わたしだってさ……」

 って、体験談が始まる。

 わたしにも、いつか降りかかってくると思っていたのに、覚悟していたのに、いつまで経っても、わたしのところにその試練は訪れなかった。

 それが、カナのおかげだと気づいたのは、いつだっただろうか?

 カナがいつも隣にいるわけではない。だから、いつかは降りかかってくるだろうと思っていた。覚悟していた。

 毎年、考えていた。

 今年は、カナと離れるかな。

 別のクラスになったら、友だち、ちゃんとできるかな。

 でも、毎年、カナとは同じクラスだった。

「腐れ縁だな!」

 とカナが明るく笑うから、まさか、カナがウソをついているなんて、思いもしなかった。

 ……ああ。そうか。

 そうだったんだ。

 ……わたし、後ろめたいんだ。

 わたしだけ、……わたしだけ、ズルをして、みんながツライ思いをしている時に、ひとりだけ守られて、ぬくぬくと過ごしていたことが、わたし、後ろめたいんだ。



「負けないでね」

 瑞希ちゃんの声を、その腕のぬくもりを感じながら、目が覚めた。

 目が覚めたことで、自分がいつの間にか眠っていたことに気がついた。

 全身に汗をかいていた。

 やけに心臓が煽っていた。

 時計を見ると、まださっき起きてから、三十分しか経っていなかった。


 ずっと、引っかかっていた。

 カナの優しさが、パパの気持ちが、どうして、こんなに重いのか……。

 どうして、笑顔で「ありがとう」と言えないのか……。

 カナの事故で、悩みはどこかに飛んでいってしまった気がしてた。でも同時に、どこかで消えずにくすぶっているのは、気がついていた。

 もしバレたらどうするの……とか、色んな理由をこじつけてもみた。

 でも違う。本当は違ってた。

 そんなんじゃ、ない。そんなことじゃ、なかった。


 やけに息苦しかった。

 手のひらがじっとりと濡れていた。

 心臓の鼓動が、ドクンドクンとうるさいくらいだった。

 負けないでねって、言われたけど……瑞希ちゃん、わたしに意地悪する人、いないんだよ。

 ごめんね。

 わたしだけ。ごめんね。

 涙が頬を伝った。

 そうして、わたしは泣きながら再び眠りについた。

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