18.葛藤1
火曜日も、水曜日も、そして今日、木曜日も……、毎日欠かさず、一ヶ谷くんはやってきた。
教室のドアの前に元気な笑顔を見る朝、「今日もか」と思ってしまった。
わたしを呼ぶ声を聞く昼休みには、「お昼もか」って……。
そんな風に思ったら失礼だよって、そう思いながらも、思ってしまった。
そして今日こそ、しっかり断ろうと思うのに、わたしが何かを話す間もなく、カナが撃退。
……撃退って言葉をみんなが使うのを聞いて、最初はそんなヒドイ言葉を使わなくてもいいのにって思った。けど、今では、本当に撃退だなって思う。
何を言っても、「待ってるから」って返される。だからもう、わたしにはこれ以上、言える言葉がない。
カナの隣に立っているだけの時間、みんなみたいに面白がれる立場じゃないわたしには、もう苦痛でしかなかった。
疲れた。
……なんか、すごく疲れちゃったな。
求めていないのに寄せられる好意が、こんなにも重いなんて知らなかった。
他の男の子のことなんて、考えられない。考える元気もない。
……カナのことだけを考えていたい。
……カナだけを見ていたい。
毎日の生活だけで、もういっぱいいっぱいなのに、相手が好意だけに、これ以上、どう押し返して良いのかが分からなかった。
「……ら。……牧村」
「ハルちゃん」
後ろの席の子に、背中をツンツンとつつかれて、ハッとして、慌てて伏せた顔を上げる。
「なあに?」
振り向くと、
「違う違う! 前、前! 当てられてるよ」
と、小声で教えられた。
「………あ。ごめんなさい」
慌ただしく今度は前を向き、先生の方を見た。
教卓に立っているのは、数学の先生。
「大丈夫か?」
先生の目には、怒りはなかった。むしろ、その目の中に心配がかいま見えて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。授業中にボーッとしていたのだから、叱られたっておかしくないのに……。
「大丈夫です。……あの、ごめんなさい、聞いてなくて。何番でしょうか?」
聞くと、隣の席の男の子が、自分の教科書をわたしの方に寄せて、指さしで教えてくれた。
わたしが開いていたページから、五ページも進んでいた。
ノートも真っ白。
だけど、……よかった。予習してある。
答えると、先生は笑顔で「正解」と言ってくれた。
授業が終わると、カナが飛んできた。
「ハル、大丈夫?」
「何が?」
笑顔で応えたのに、カナは心配そうに言った。
「さっき、当てられた時、授業、聞いてなかったんだろ? ハル……疲れた顔してるぞ」
つきあいの長いカナには、ぜんぶお見通しだ。
困った顔をしていると、カナはそっと頬に触れた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「保健室行くか? それか、後一時間だし、早退する?」
わたしの「大丈夫」は、カナの耳には届いていない。
「……後、一時間だから、授業受けるよ?」
「ホントに大丈夫?」
こくりと頷いて、机に上半身を伏せた。
……疲れた。
そっか、顔にも出ちゃってるんだ。
「ハル!?」
「……次の授業まで、休憩」
「休憩って!? 保健室で寝よう?」
「イヤ」
カナが困ったように、わたしの背に手を置いた。
「ハル」
だって、もう動きたくない。
授業だって、休んでばっかりもイヤなんだよ……。
……疲れたな。
身体がって言うより、心が疲れた。
早く家のベッドで休みたいな。
翌日の金曜日も、朝からやけに身体が重かった。
それでも、目覚まし時計の音だけで起きることができたし、休んだ方が良いんじゃないって、心の声をはねのけて登校した。
それなのに、裏口でわたしの顔を見ると、カナは眉をひそめ、
「……どうして、誰も止めないんだよ」
と、憤ったようにつぶやいた。
ママは夜勤から帰ってなくて、パパはまた出張中。
沙代さんには、休んだ方がいいんじゃないかって言われた。
それでも、後一日だからと、しんどかったら帰ってくるからと言うと、「ムリしないでくださいね」と心配そうに送り出してくれた。
カナの言葉にチクリと胸が痛んだ。
できるだけ学校に行けなんて言う人は、家には誰もいない。
ぜんぶ、わたしのワガママだって、分かってる。だから、みんなを悪く言わないでって思うのに、カナの気持ちも痛いくらいに分かるから、そんなことは言えるはずもなかった。
過ぎたムリは止められるけど、境界線にあるのなら、家族はみんな、わたしの好きにさせてくれる。でも、カナはそれより、もっと手前でわたしを止めようとする。
「ハル。今日は帰った方がいい。しんどいだろ?」
カナが心配そうに、わたしの顔をのぞき込み、頬に触れる。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないって。オレの前ではムリするなよ……ってか、誰の前でもムリは禁止」
「……カナ」
「車、呼び戻してやるから」
「せっかく来たのに」
「せっかくも何も、こんな疲れた顔して、何言ってんだよ」
「出席日数も……」
「まだ四月だろ?」
知ってるくせに。わたしは暑さにも寒さにも弱いから、春・秋以外はまともに登校できる日が激減するって。
今なら、まだムリもできる。けど夏の暑さが始まったら、ムリしようにも身体はまったく動かなくなる。
「ハル、考査の成績は良いし、レポート書けば間に合うよ」
「それでも。……授業受けたいよ、ちゃんと」
カナは、ふうっと息を吐くと、仕方ないなと、わたしの頭をなでた。
「取りあえず、保健室に行こう? そこで何時間か寝て、元気が出たら教室に行こう。な?」
金曜日だし、ムリを押し通したい気持ちもあったけど、本気でわたしを案じるカナにそれ以上は言えず、わたしは諦めて頷いた。
通い慣れた保健室。鍵は開いていたけど、先生はいなかった。
『本日、一日出張。急用の際は、内線:○○○○(職員室)へ』
そんな貼り紙を見て、
「……よりによって」
カナはボヤきながら、わたしの方を見た。
「帰らない、よな?」
頷くと、カナは諦めたように、保健室のドアを開けた。
窓枠に縁取られた緑の木々が、まるで絵のように目に飛び込んできた。薄暗い廊下から入ると、大きな窓と光に満ちた保健室は、楽しい場所じゃないはずなのに、やけに明るく居心地よく感じられた。
ベッドに横になると、カナが布団をかけてくれた。
そのまま慣れた様子で、タオルを棚から出してきて、洗面器を枕元に移動して……。カナはいつも以上に、わたしの世話を焼く。
仕上げに、わたしの携帯電話を枕元に置くと、まだ時間があるからって、カナは丸イスを持って来て、ベッドサイドにドカッと座った。
「ハル、具合が悪くなったら、絶対に電話すること。授業中でもだぞ。……いい?」
「ん」
「遠慮するなよ? 職員室じゃなくて、オレに電話かけろよ?」
「…………分かった」
カナが、わたしの手を取った。
「ハル。オレ、その間が心配。ホント頼むよ?」
「……ん」
「ってか、やっぱり、帰るか? 先生いないのって、不安すぎだろ?」
「カナの心配性」
「……心配されるような、顔色してるの」
「空いてる先生が、たまに見に来てくれるよ」
「……たまに、だろ?」
「寝てるだけだもん、十分だよ」
急に具合悪くなった時、間に合わないだろ……そんな事を言いながら、カナがわたしのおでこに手を当てた。
「熱? ないよ?」
「ん。ないな。……あったら、すぐに帰せるのにな」
「カナ、ヒドイ」
「……ごめん。冗談」
本気だったくせに。
そう口をとがらせると、「ごめんってば」と謝りながら唇を合わせることで、カナは続く言葉を封じ込めた。
唇を離すとカナは、優しく笑って言った。
「ハル、目、つむって」
「……ん?」
それでも、目を瞑らずにカナを見ていたら、カナの大きな手のひらがどんどん大きくなって、わたしの目をふさいだ。
「ギリギリまで、ここにいるから、ハルは寝な」
わたしの目をふさぎながら、反対の手でカナは、優しく頭をなでる。
カナの手は、大きくて、硬くて、がっしりしていて……そして、とても暖かかった。
「休み時間ごとに来るから」
「……ありがとう」
「ずっと、側にいられたら、いいんだけどな」
「……ん…」
わたしがウトウトし始めたのに気づいてか、目をふさぐカナの手が離れていった。
寂しいな……と思う間もなく、代わりに、手のひらにカナのぬくもりを感じた。
「ハル、大好きだよ」
それから、おでこにカナの唇を感じながら、ゆっくりと沈み込むように、わたしの意識は闇に飲まれていった。