17.退院と不安2
「叶太」
夜中、ベッドに寝っ転がって雑誌を読んでいるとドアがノックされて、開いた隙間から兄貴が顔を出した。
「ん? なに?」
「いや。……今日、例のおまえが助けたって女の子とその親、来たんだって?」
「……ああ。らしいね?」
オレも帰宅後、お袋から、手土産にもらったというお菓子の詰め合わせとやらを見せられた。
「あれ? おまえ、家にいなかったの?」
「ん。ハルんとこにいた」
「え? 夕飯時に来たんだろ?」
「オレ、ハルんちで、ハルと食べてきたから」
「……退院の日くらい、家で食えよ」
「それを言うなら、兄貴だって、かわいい弟の退院の日くらい家にいろよ」
兄貴も今日は、用事とやらで夕飯は外食。オレの言葉に兄貴は頭をかいた。
「いや、オレもつきあいってもんが……」
苦笑する兄貴。こりゃ、彼女とデートだな。
そうでもなきゃ、「かわいい弟」で、絶対に突っ込みが来るはずだ。
「たまには、いいじゃん? お袋だって、親父と水入らずで」
軽く言うと、兄貴がオレに冷たい視線を向けた。
「おまえな、親に心配かけて、その言いぐさはないぞ?」
兄貴、説教モード?
……でも、まあ、そうだよな。笑い事じゃなかったんだよな、最初は、きっと。
兄貴が病室に飛び込んできた時の、切迫した声が脳裏に浮かぶ。
「……ごめん」
すぐには帰れない遠方で、息子の事故を知らされたオレの両親。いくらCTの結果、異常がないって言われたって、意識がないって言われたら……。そりゃ、相当、驚いただろうし心配したよな?
「でもさ、今回の事故では、ハルが一番、ダメージ受けてるから」
オレの言葉に、兄貴は、
「……あ、そっか」
と、虚を突かれたような顔をした。
「ハルちゃんだけ、意識がないおまえに会ってるんだよな」
「そう」
「だけど、元気そうじゃなかった?」
……兄貴は、泣きじゃくるハルを見てないから。
泣きじゃくるハルどころか、オレに抱きしめられて、赤い顔してたハルしか見てないから。
間が悪く、兄貴がオレを心配して病室に飛び込んできた瞬間、ハルは、意識が戻ったオレに抱きしめられていた。困ったような恥ずかしそうな顔をしたハルは、確かに、いつものハルと変わらないように見えたに違いない。
だけど、あの日から、ハルは不安定だ。
事故の後も翌日の日曜日も、ハルはオレから離れようとしなかった。土日、ハルが起きてる時は、ほとんどずっと手をつないでいた気がする。
今日、教室で会った時はやけに冷静だったから、あれは一時的なものだったのかと思ったら、二人きりになってからは、一転して涙腺緩みまくりだし。
きっと、あれは不安な気持ちの裏返し……。
今日も、ハルがあんまりぴったりくっついてくるから、最初は単純に、オレ、嬉しかった。だけど、夕飯時、家に帰ろうとした辺りになって、それは、やっぱり不安から来てるんだって分かっちゃって……。
ハルの目にはすぐに涙が浮かぶし、不安だから、すぐ側にいるのに、オレの存在を確かめるようにオレの手を探すんだって、分かっちゃって……。
「ハル、オレ、大丈夫だよ?」
オレが安心させようと、そう言っても、
「……ん。分かってるよ?」
ハルは、ただ静かにほほ笑みを返す。
最初、夕飯はもちろん家に帰って食べるつもりだった。だけど、相変わらず、おばさんもおじさんも帰りは遅くて、ハルは一人。給仕は沙代さんがするから、実際は一人ではないし会話もある。だけど、お手伝いの沙代さんはハルと共に食事をとることはない。
だから、やっぱり実質、ハルは一人でいるようなもんだし、夕飯だって一人で食べるのとあまり変わらない。
ハルは、それに対して文句一つ言ったことはなかった。ハルの兄さんが、大学に合格して家を出ることが決まった時も、「おめでとう」と嬉しそうに笑っていた。
今日もハルは笑顔を見せてくれた。
こんな時ですら、ハルは、「帰らないで」とは言わなかったけど、だけど、
「また明日ね」
そう言うハルの目が、潤んでいるのに気づいてしまったから……。
「ハルちゃん、そんなにショック受けてるの?」
兄貴の言葉に、オレは珍しく、慎重に言葉を選ぶ。
「……情緒不安定って、言うのかな」
「情緒不安定って、……どんな風に?」
「すぐ、泣く」
「ハルちゃんが?」
兄貴のみならず、お袋や親父にとっても、多分、ハルのイメージは『笑顔』だろう。ハルは体調が悪い時すら、努めて、笑顔を見せようとする。
多分、ハルとオレの家族から見たら、どんな時も笑顔を絶やさない、いつもニコニコ笑ってる優しい子、ハルはそんなイメージだ。
兄貴は、まじまじとオレの顔を見た。
「それが本当なら……そりゃ、重傷だな」
「だろ?」
「大丈夫なの?」
「……多分」
「多分って、何だよ」
「いや、なんかオレ、泊まってこようかと思ったくらいだったんだけどね、」
「そりゃ、ダメでしょ。いくら何でも」
兄貴の苦笑いに、オレも苦笑いで応じた。
「分かってるよ。だから、帰ってきたじゃん。おばさんが戻るの待ってさ」
「あ、そういうこと」
誰にも何も言わないハル。
ハルがあんまり、いつも笑ってるから、おばさんもおじさんも、ハルが寂しい思いをしてるなんて、思ってもいないんじゃないかな?
オレにできるのは、側にいるくらいだけど、それだけでも、誰もいないより、ずっといいだろ?
いつだってハルの側にいて、ハルがオレを求める時には、抱きしめてやりたい。
何より、今回は、そんな不安定な精神状態にさせたのがオレなんだから。そう思うと、もう正直、いても立ってもいられないくらいで……。
「ってか、兄貴、何か用だったんじゃないの?」
「ん? ああ! そうそう。例のおまえが助けたっていう女の子の話」
兄貴が、ぽんと手を打った。
「何かあった?」
「お袋が、やけに積極的なお嬢さんね……なんて言うから、」
「は?」
「おまえの学校とか、年とか……は、まあともかく、趣味とか、部活は何かとか、あれこれ聞きまくってたらしいぜ?」
「……なんだそりゃ」
オレが眉をひそめると、兄貴は真顔で言った。
「一番聞きたかったのは、彼女がいるかどうか、だろうね」
「はあ?」
いるに決まってるだろ?
日曜日、見舞いに来てくれた時だって、ハルは片時も離れず、オレの隣にいたんだから。……ハル、爆睡してたけど。
「はっきりは聞かなかったらしいけどな」
「何なの、一体」
「そりゃ、おまえに惚れたんだろ?」
「……は?」
「命の恩人だし?」
「大げさな」
「いや、状況聞いてたら、本気で命の恩人だろ? おまえがいなかったら、その子のとこに直撃だったみたいじゃん?」
「まあ、そうかもね。でも、命に別状があるかなんて分からないじゃん」
「そりゃそうだけどさ。あやうく事故に遭いかけて、身を挺して助けてくれたのは年の近い男の子で、しかも、結構カッコよくて、病院に見舞いに行ったら特別室で、家にお詫びに行ったら豪邸で……」
と、兄貴が皮肉な笑いを浮かべた。
「……って、超打算的じゃん」
うんざりして、思わずため息。
「おまえのこと、王子様みたいに見えるんじゃない?」
「オレが、そんなキャラかよ」
「まあ、お袋も、どうかと思ったみたいで、息子には許嫁がいますからとか、言ってやったってよ」
えっ!? 許嫁!? マジッ!?
許嫁っていったら、ハルしかいないよな!?
お袋っ! ありがとう!!
にまにま笑ってると、兄貴が笑った。
「おいおい。ただの口実だろ?」
兄貴の呆れ顔に、浮かれた気持ちが急激にしぼんだ。
「……まあ、そうだよな」
つまんないこと、突っ込むなよ、兄貴。
いいんだよ。オレがハルしか見てないこと、どうせ、みんな知ってんだからさ。
不機嫌に口をとがらせたオレを見て、兄貴は苦笑い。それから、真顔で一言。
「一応、気をつけろよ?」
「何を?」
「家も名前も割れてるから」
「……はあ? 何があるって言うの?」
「いや、熱烈アプローチが始まるかもよ?」
オレをからかうように、にやにや笑う兄貴。
「カンベンしてよ。オレさ、そういう面倒なの、正直、うっとうしいとしか思えない。ハルのことだけで、頭いっぱい。も、ハルのこと以外、考えられないし」
オレの言葉に、兄貴は吹き出した。
「そうだな。おまえが誰かに誘惑されるなんて、考えるだけ無駄だな」
「そう。オレ、ハル一筋だから」
兄貴はまた面白そうに笑った。