14.心の内側1
今日も空は青く澄んでいた。
グランドの隅には、すっかり葉っぱだけになってしまった桜並木。あの木立の向こうには、大学の校舎。
カナのお兄さん、晃太くんはそこに通っている。
制服を脱いだカナと自分が、大学に続く道を歩く姿を想像しようとしたけど、なぜか何も思い浮かばなかった。
「何、考えてるの?」
隣からの声に、慌てて、そっちに視線を向けた。
月曜日の午前中。体育の授業。
わたしはいつものように見学で、校庭の端っこにある大きな木の下、花壇のブロックに腰掛けていた。
隣には、同じく見学組の田尻さん。偶然にも、今年も田尻さんとは隣のクラスで、体育が一緒だった。
去年は、いろいろあった。
思い出すのが辛くて、頭の片隅に追いやられたその記憶は、本当に、わたしにとっては、いろいろとしか言いようがなくて……。
でも、一時期、怖くて仕方なかった田尻さんは、今ではもう仲の良い友だちの一人。
「何? わたし、変なこと聞いてないよね? ……大丈夫?」
田尻さんの方を見たのに、返事をしないまま、ぼんやりしていたら、田尻さんが心配そうに、わたしの顔をのぞき込んだ。
「牧村さん?」
肩に手を押かれて、ようやく、わたしはハッと意識を目の前の田尻さんに戻した。
「ご、ごめんっ」
「別にいいけど」
慌てて謝ると、田尻さんは、ちょっと怖い顔で肩をすくめた。
今では、この怖い顔が、わたしを心配してくれていた印だとちゃんと分かる。
去年、わたしに詰め寄った時とは、ぜんぜん違う表情。
「ぼーっとしてたのは、叶太くんが休みだから?」
「え?」
「違うの?」
「じゃあ、……一年生の横恋慕くんのせい?」
「よ、横恋慕くん!?」
「あれ? それも違うの?」
田尻さんが不思議そうに首を傾げた。
答えにくくて、思わず話題を変えてしまった。
「……田尻さんは、なんで見学なの?」
「ん? 足首。また、やっちゃった」
言われて見ると、右の足首に分厚くテーピングが巻かれていた。
「クセになっちゃってるみたいで、しばらくは部活も体育も見学して、しっかり治せって。イヤんなっちゃう」
「痛い?」
「そりゃ、ま、痛いよ。普通に」
「そっか」
「あ、もしかして、牧村さん、捻挫ってしたことない?」
「うん」
わたしは走れないから、足首をひねるようなこともない。
「そりゃいいね。うらやましいわ」
不機嫌そうな、その声に、
「ごめんね」
と、思わず謝ると、
「って、なんで、あんたが謝るの。こんなの、ただの八つ当たりじゃん。……ホント相変わらずだね」
そう、呆れたように言われた。
何て返したらいいのか分からずに、困ったように、田尻さんを見返すと、田尻さんは真顔で言った。
「あのさ、牧村さんさ、たかが捻挫なんかより、ずっと、しんどい思いしてるんでしょ?」
「……え、っと」
「言っとくけど、怒ってるんじゃないからね」
「う、うん」
「牧村さん、もう少し厚かましくなりなよ」
「……厚かましく?」
「そう。……だって、今までに何回も、胸を切り開いて心臓の手術をしたんでしょ?」
「う、うん」
「そっちのが、ただの捻挫なんかより、ずっと痛いじゃん?」
「そうかな」
「そう! 絶対、そう! こんくらいの捻挫なら、一週間もすれば治るんだからさ」
「そっか。よかった」
わたしが笑顔を見せると、毒気を抜かれたみたいに一瞬真顔になり、それから田尻さんも、ふわっと笑顔を浮かべた。
「お人好し」
わたしが何度も、心臓の開胸手術をしているということ、学校に、そんなことまで知ってる人はほとんどいない。
じゃあ、なぜ、そんなことを田尻さんが知っているのかというと、以前、同じように体育で並んで見学中に聞かれて答えたからだ。
その時も、田尻さんは足首を捻挫していた。
ちょうど半年ほど前。高校一年生の秋。
まだ、肌寒い程ではなく、夏の盛りのうだるような暑さは終わったという、過ごしやすい季節だった。
その日も、今と同じ場所で、足首を捻挫したという田尻さんと、並んで座っていた。その頃には、顔を合わせれば、笑顔であいさつを交わすくらいにはなっていた。
田尻さんは、「体育好きなのになー」なんてぼやいていたかと思うと、突然、わたしの方を見ると、真顔でこう言った。
「ねえ。心臓悪いって、どんな感じ?」
「……え?」
あまりに唐突、しかもザックリした質問。
驚いて、ポカンと田尻さんを見返してしまった。
「……あの、どうして?」
「どうしてって、わたしにはまったく縁のない世界だから、どんな風かなって思っただけなんだけど」
それから、田尻さんは、
「言いたくないなら、別にいいよ」
と、プイッと視線を外した。
その声と仕草が、ちょっと怖くて、慌てて、答えた。
本当は怖くなんてないって、もう知っていた。でも、まだ、その頃は身体が、過去の恐怖を忘れていなかった。
「ううん。聞いてもらって、大丈夫だよ」
「いいの?」
「うん。何が知りたいの?」
「何がって、さっき言ったじゃん。心臓が悪いって、どんな感じ?」
そう繰り返されて、わたしは答えに詰まってしまった。
こんな話、誰ともしたことがない。
カナは、昔からずっと側にいて、わたしの身体のことは、よく知っている。今さら、こんなことは聞いてこない。わたしも話したことはない。
そして、しーちゃん始め、仲の良い子たちだって、遠慮しているのか、誰もそんなことは聞いてこないんだ。
普段のおしゃべり以外に、病気のことで言われるのは、「大丈夫?」とか、「ムリしないでいいんだよ」とかの労りの言葉、そして、長く休んだ後なんかにかけられる、「元気になってよかった」とか、「心配したんだよ」とかの思いやりの言葉。
大体、わたしがどこか悪いらしいと知っている人は多いけど、心臓病だと知っている人は少ない。ううん。少なかった。
春のカナからの告白の後、何となく、わたしの病気が心臓らしいってのは、広く知られるようになった。
「……あのね」
「うん」
「わたし、生まれつき、心臓が悪いの」
「……前に聞いた」
ちょっとイラついた田尻さんの声。
その声に、また心臓がドクンと波打つ。
「だ、だからね。心臓が悪くないって状況になったことがなくて、この身体が普通の状態だから、なんて答えたらいいのか……」
そう。わたしには、分からないんだ。『健康』ってのが、どんなものなのか。
「……あ、そっか」
田尻さんが、わたしをマジマジと見た。
「まいった。……イヤな顔して、ごめん」
田尻さんは、眉を寄せると、わたしから視線を外して、スッと自分の髪の毛をかき上げた。
少しの間の後、もう一度、わたしの方を見て、田尻さんは、真面目な顔をして言った。
「これでも、反省してるんだ、わたし」
「反省?」
「そう。……牧村さんが、わたしのせいで、死にかけたって聞いてから」
その言葉に、呼び起こされる苦い記憶。
四月の終わり、田尻さんに呼び出された。
気持ちよく晴れ上がった青い空の下。
彼女から告げられた言葉で、わたしの心は凍り付いた。
「叶太くんを解放してあげて!」
「いつまで、縛り付けるの!?」
「叶太くんが、なんで、あなたのことを、あんなに世話を焼いていると思ってるの!?」
「叶太くんが、なんで、あなたに優しいと思ってるの!」
「あなたの身体のこと、責任を感じているんじゃない!!」
あの時に投げつけられた、田尻さんの言葉が、脳裏に浮かんでは消える。
誤解だったって分かってる。
もう終わったことだって、分かってる。
だけど、思い出すと、胸が締め付けられるように、苦しかった。
すうーっと、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
カナの笑顔を思い浮かべる。
わたしを抱きしめてくれる、その腕の感触を思い出す。
「ハル、大好きだよ」
って、そう言ってくれるカナの声を思い出す。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
「……らね、二度と同じことをしないように、……って、聞いてる?」
田尻さんが「人がせっかく真面目に話してるのに」ってふくれっ面で言った。
だから、わたしは、ムリヤリ作った笑顔を浮かべて、
「ごめんね、聞いてるよ」
って、答えた。本当は、あまり耳に入っていなかったけど、そう答えた。
それから、聞かれるままに、わたしの心臓が、健康な人とどう違うのかとか、今までに、どれだけ手術してきたのかとか、発作って、どんな感じなのかとか、いろんな話をした。
田尻さんとは、幼稚部から一緒だったから、今までに何度か、同じクラスになったこともある。だから、
「ああ、そういうことだったんだ」
とか、妙に納得してくれる時もあり、なんだか、すごく不思議な感じだった。
カナとも、他の誰とも話したことがないような話をして、一気に、田尻さんとの距離が縮まった気がした。
それから何度か、田尻さんと話をした。
決まって、体育の時間の見学の時。
カナは未だに、田尻さんがわたしに近寄ってくると、警戒するし、しーちゃんもムリヤリ、話に割って入る。
去年、散々心配をかけたから、二人のそんな反応も仕方ないと思っている。だから、話ができるのは、体育の時間くらいだった。