9.意識不明2
「陽菜!」
ママに支えられて、差し出されたママの腕にしがみついて、ようやく、わたしはイスの上に留まっていた。
ママの腕を掴んでいるのに、手のひらに掴んでいるはずの白衣の感触はなくて、ママの声は確かに聞こえているのに、言葉としては認識されなくて、ようやく戻った視界も、まるで夢の中で見るような現実味のない世界で……。
「陽菜、落ち着いて」
……どうやって?
落ち着くって、なに?
「大丈夫だから。頭は打ってるけど、CTの結果、出血も骨折もなかったから。脳震盪だと思うんだけどね」
ママがわたしの顔を覗き込んで、一言一言、丁寧に告げる。
「ただ、意識がなかなか戻らないから、」
ママはわたしの手をそっと握った。そのまま顔をしかめて、両手で包み込む。
わたしの手は、多分今、驚くほど冷たい。
「陽菜についていてもらおうと思って、呼びに来たの。陽菜、ちょうど院内にいたし。叶太くんの家族、みんな出かけていて到着まで時間がかかりそうで」
そこまで言って、ママはわたしの頬にそっと手を移した。
「それに、病室で一人寝かしておくより、陽菜が声をかけてくれた方が意識の戻りがいいかなと思って。一緒に来てくれる?」
こくりと頷くと、ママはスッと立ち上がって手を差し出してくれた。
大丈夫と言われた。
ママは脳外科のドクターだから、きっとそれは本当で……。
だけど、ママは最初に「大丈夫」って言わなかった。だから、その診察は絶対ではない。
人の身体ってのは、けっして教科書通りにはいかないもので……。だから、何が起るかなんて誰にも分からない。
過去、何度もの入院中に見てきた思いもかけない結末。
……つい前日まで元気だった人に、突然、訪れる別れ。
……幼い子どもの、早すぎる死。
イヤな記憶ばかりが頭をよぎる。
脳震盪って、本当はとても怖いのだって聞いたことがある。
ママに手を引かれて歩く廊下が、やけに長く感じられた。
ピピピピピッ
不意に、ママのポケットで、院内PHSが音を立てた。
「はい。牧村です」
呼び出しだ。
「……はい。分かりました。すぐ行きます」
ママは電話を切ると、わたしに向き直った。
「ごめん、陽菜。急患。行かなきゃ」
「うん」
「……っと、誰か、」
と、ママは周りを見回した。
わたしが、病室さえ教えてもらえたら、自分で行けるし大丈夫だと伝えようとしたところで、ママは声を上げた。
「ちょうど良いところに来た。浅木くん!」
浅木?
ママの視線の先を見ると、そこには真新しい白衣を着た若い男の先生がいた。
「はい?」
「悪いけど、この子を特室Aに連れてって、しばらく一緒に様子見て」
と、ママは絵本が入った手提げ袋を押しつけるように渡した。
「え? あの、……先生?」
ママから、わたしの手提げ袋を押しつけられて、戸惑う先生。
……ママったら。通りすがりの先生に渡したりしないで、わたしに、返してくれたらいいのに。
「じゃ、頼むね! 陽菜、説明してあげて」
「え? マ、ママ!?」
ママはわたしの肩をポンと叩くと、そのまま勢いよく走り出した。
……本当に急患なんだ。
病棟なのか外来なのか、それとも救急車?
「……陽菜ちゃん?」
みるみる遠ざかるママの背中を見送っていると、思いがけず名前を呼ばれ、先生の顔を見る。
「久しぶり」
目の前の先生は……あの頃とは違ってすっかり大人になった、白衣を着てお医者さんの格好をした裕也くんは、にっこりと懐かしい笑顔を見せてくれた。
「……裕也くん」
春休みに、この春からここで働くって手紙をもらった。
春と言えば、三~五月。でも、いつからとは書かれていなかったし、休暇を楽しんでいるところだって書かれていたから、こんなに早く会えるとは思ってもいなかった。
「ちょうどよかった。探してたんだ」
「わたしを?」
「そう。ほら、薬」
裕也くんは白いビニール袋を掲げて見せた。
主治医の先生が、後で届けると言ってくれた薬だった。
「届けるように言われて、大部屋に行ったんだけど、もう帰ったって言うから焦ったよ」
「あの、……ありがとう」
……そう。
思いがけず早くに、ママが呼びに来て、大部屋から連れ出されたから。
カナが事故にあったって言われて、わたしに付いていて欲しいからって言われて……。
「叶太くんがね、少し前に、交通事故で救急に運ばれてきて、意識がないから」
ゾクリと、身体が震えた。
思いがけない再会に、一瞬でも、この状況を忘れていた自分をなじりたくなる。
カナ!!
早く……早く行かなきゃ。
「……あの、あのね、わたし、今、ちょっと急いでいて」
「そうだった。特室Aって言ったっけ? ……今日、入院じゃないよね?」
「わ、わたしじゃなくて、……カナが、」
「え? ……叶太?」
子どもの頃から、いつだって、わたしの病室に入り浸りだったカナ。カナのことは、裕也くんも知っている。
男同士だからか、裕也くんは、わたしは「ちゃん」付けだけど、カナのことは呼び捨てにしていた。
何年も前の話なのに、裕也くんはちゃんと覚えていた。
「カナが事故にあって……意識がないから。……だから、側についていてって、ママが、」
声が震える。
手も足も、まるで自分のものではないみたいで、温度を感じない。
カナ。
行かなきゃ。
早く……行かなきゃ。
焦る気持ちとは裏腹に、足がまるで前に出なかった。
「行こう」
裕也くんはスッと真顔になって、力強く、わたしの手を引いた。
着いたのは、わたしがいつも使う特別室。
裕也くんが形だけのノックをすると、ドアを横に引いた。
ドアをくぐると、いつもは、わたしが寝ているベッドの上に、カナの姿が見えた。
意識がなくて、点滴を打たれていて、頭には包帯が巻かれていて……。
ただでさえ壊れかけの心臓が、ドクンと跳ねるように、大きく脈打って、一瞬、目の前が暗くなる。
「……カナ」
気がつくと、涙が溢れ出していた。
ピピピピピッ
「はい。浅木です」
裕也くんの声が耳を素通りしていく。
「牧村先生? 電話してて、大丈夫なんですか? ……あ、なるほど。……え? はい。本当に、心配ないんですね? ……はい。了解しました」
ドアのところで、床に貼り付けられたように動けずにいると、裕也くんがそっとわたしの肩を抱いた。
「陽菜ちゃん」
足がすくむ。
だけど、促されるままに一歩一歩、前に進み、そのまま、カナの枕元まで連れて行かれた。
両手の甲に大きなガーゼ、頭に包帯。パッと見て、他にはケガはない。
顔色も悪くなかった。
点滴は、もしもの時のためにつないでいるだけの生理食塩水。
でも、意識のない……カナ。
……こんなに、怖いんだ。
こんなにも、怖いものだったんだ。
裕也くんがイスを持って来て、そこにわたしを座らせた。まるで操り人形のように、わたしはされるがままで……。
「……カナ」
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、流れ落ちる涙をぬぐうこともできずに、わたしは、ようやくカナに手を伸ばした。
「カナ」
そっと、カナの手を握り、意識のないカナに呼びかける。
カナの手はとても暖かくて、そのぬくもりにホッとして、また涙があふれ出す。
「カナ。……起きて」
カナの手を自分の頬に当てる。
大切な人の呼びかけは、意識を戻すには一番だなんて、ウソかな?
わたし、手術の後とか、危篤に陥った時とか、ママやパパやカナの声で何度も呼び戻された。
だから、わたしが呼んだら、もしかしたら、カナはスッと目を開けてくれるかもしれないって思ってた。けど、何度名前を呼んでも、カナは目を覚ましてはくれなかった。
カナ。
カナ。
カナ。
きっと、目覚める。
分かってる。ちゃんと、分かってる。
命に別状があるようなケガじゃない。そんなこと、分かってる。
だけど、こんなにも怖い。
もしも、目覚めなかったらって、考えたくもないのに、そんな言葉が、どこからともなくわき上がってきて、怖くて仕方がない。
胸がつぶれそうに痛い。
「……カナ」
あふれる涙が、わたしが握るカナの手を濡らす。
手の甲に当てられたガーゼまで濡らしたことに気がついて、慌てて、わたしは涙をぬぐった。
だけど、ぬぐってもぬぐっても、枯れることなく、涙はポロポロとあふれ続けた。
待っていれば、よかったのかもしれない。
でも、ただ待つなんてできなくて。
不安で、不安で、不安で……。
苦しくてたまらなくて……。
怖くて、怖くて、たまらなくて、わたしは、カナの名を呼び続けた。
「ねえ、カナ。……起きてよ」
最初はポロポロとこぼれ落ちていた涙が、少しずつ量を増し……。
「……カナ。……カ…ナ」
いつしか、わたしはカナの手をにぎりしめたまま、泣きじゃくっていた。
裕也くんがわたしの背中をそっとなでた。
イヤだ。
イヤだ。
こんなのイヤだ。
カナ。ねえ、起きてよ。
大丈夫だよって笑ってよ。
「カナ!」
しゃくり上げながら、わたしが泣き続けるのを見て、裕也くん、困っている。
そんな空気を感じながらも、涙は止まらなかった。
「陽菜ちゃん、大丈夫だから」
裕也くんの言葉に、ささやくように聞き返す。
「ど……して、そんな、こと、分かる…の?」
「いや、さっき、牧村先生が電話で心配ないって」
裕也くん、困ってる。何も知らされず、突然、押しつけられた雑用。わたしやカナと面識があるからって、状況が分かるわけじゃない。
裕也くんを責めるなんて、お門違いだ。ママが大丈夫だって言ったのを、わたし、ちゃんと聞いている。
「……それ、……わたしも、聞いた……から」
「そっか」
裕也くんも、それ以上は何も言わなかった。ただ、ポンポンと、わたしの頭を優しくなでた。
どれくらい経っただろう?
わたしには永遠にも近い時間に感じられたけど、多分、それは、そんなに長い時間ではない。
「……カナ」
わたしは、他にどうすることもできず、ただ、ひたすらに、カナの名を呼び続けた。
でも、カナの意識はまるで戻らなかった。
ピピピピピッ
また呼び出し音が鳴り、裕也くんがポケットの中から院内PHSを取り出した。
「はい、浅木です」
呼び出しだ。そうだよね。心配のない患者の元に、いつまでもはいられない。
「すみません。……はい。すぐ行きます」
裕也くんは電話を切ると、
「陽菜ちゃん」
と、わたしを呼んだ。
裕也くんの方を見て話を聞かないと、と思うのに、カナから目を離せなかった。
「ごめんね。そろそろ、行かなくちゃ」
「うん」
「一人で、ここにいられる?」
「うん」
「じゃあ、目が覚めたら、ナースコールしてね」
裕也くんがにっこり笑うのが、視界の端に見えた。
その笑顔があまりに自然だったから、カナは本当に大丈夫で、きっと、もうすぐ目を覚ますんだと感じられて、また少しホッとした。
裕也くんは、涙でくしゃくしゃのわたしの顔を見ると、ポケットから取り出したハンカチでわたしの涙をそっと拭いた。
それから、わたしの頭の上から顔を出すと、カナの耳元で、やたらと大きな声で、
「こら! 叶太! おまえが陽菜ちゃんを泣かして、どうするっ!? さっさと起きろ!!」
と怒鳴った。
その声のあまりの大きさに、思わず涙が止まる。
裕也くんは、
「きっと、すぐ起きるよ」
と、もう一度、笑いながらわたしの頭をなでて、病室を出るためにドアに向かおうとした。
その時、ずっと握っていたカナの手がピクリと震えた。
「カナッ!!」
思わず、カナの手をギュッと握りしめて、ケガしてるから、強く握っちゃいけないんじゃないかなんて、気づかう余裕すらなく、わたしは、
「カナッ!! カナ! カナ!」
カナの名を何度も呼んだ。
「陽菜ちゃん?」
病室から出ていくところだった裕也くんが、慌てて戻って来た。
「……ん、」
カナが身じろぎした。
それから、ゆっくりと目を開けて、不思議そうな顔でわたしを見て、そうして、カナは……。
「……ハル?」
その瞬間、わたしの涙腺はまた決壊した。
「カナ! カナッ!!」
気がついたら、イスから立ち上がって、目を覚ましたカナに、しがみついて泣いていた。
「え? ……ハル?」
間の抜けたカナの声が、もう大丈夫だって言っているみたいで、ホッとして身体中から力が抜けて、また涙が止まらなくなった。