第三話 夜中の敗者(エクソシスト)とその後
「……最近、多くなったな」
一件のトラブルを解決した帰り道。優太郎は環商近くの自販機で水が入ったペットボトルを買い、途中の裏道で、警官が立ちブルーシートに覆われ、黄色のテープで規制しているのを見つけ、その周りで人々が集まっているのを確認した。周りの人に質問してみると、猟奇的な通り魔殺人が起きたのだと恐る恐る答えた。世界的に安全だとされる日本でも、一日数件は誰かによって殺されている、ということを改めて思い知らされた優太郎は若干憂鬱になるも、知り合いのおじさんからタバコを一箱購入。銘柄はいつものやつ。それをポケットに入れ、同時に邪魔だと感じたペットボトルをカバンに詰め込みながら、優太郎は家路につく。
裏道へと吹き抜ける山からの風は、夏の到来を予期させるもの。
優太郎が高校生になってから、二度目の夏。それなりに上手くやれているはずだ、優太郎は思う。
数少ない友人と多大な憎悪と普通らしい人生を送りながら、何とか続けられている。
八年前からすれば想像もつかない、今の自分の姿。
でも高校生活に馴染んできた日々とは裏腹に、この街は何かしらの悪意によって誰かが被害を受けている。
そもそも山々に囲まれた自然豊かな地方・久世市は、中央の未影川を境界線に古くから町並みと工業地帯が多い北部の「徳山町」と近代的に発達しビル群がそびえ立つ「御芳町」の二つが合併して生まれた新興都市だ。
ゆえに治安が他の地方自治体と比べてもあまり良くなく、尚且つ十年に一度の間隔で、河川の氾濫や大規模の地震などが起きる広域災害危険地区に日本政府が分類しているため、精神面での不安感を強く抱きやすい。
それでも都市として人口が増え続けているのは、ここに住む人間が強いからに他ならないだろう。
ふと夜空を見上げると、均一の音を出しながら飛んでいく機銃を搭載させた警察のヘリコプター。それは昔と何一つ変わらない光景。マスコミはしきりに過剰な装備強化の危険性について警告するけれど、本当は、心配する問題ではないのかもしれない。まあ、自分たちがその影響から遠いので楽観視しているだけかもだろうけど。
そんなことを考えつつ歩いていた優太郎は、今日のニュースを見ていないことを思い出し、コンビニに立ち寄ることにした。やる気のない店員がいるだけで、全紙面を熟読しても文句を言われそうにない雰囲気の店内。新聞が自宅に投函されない優太郎に取っては、良い店である。紙面を埋め尽くすのは、相変わらず凶悪な事件が大半だった。福祉介護施設に忍び込み入居者を次々に実家の蔵にあった猟銃で撃ち殺した元・介護福祉士の二十代男性。注意を無視したという理由で、小学生を刺し殺した六十代の女性。五歳以下の児童を誘拐して腹部を切開し、取り出した内蔵を違法薬物と一緒に料理へと混ぜ込んだ飲食店の店主。組同士の抗争に巻き込まれ死んだ遺族が、駅構内でナイフを持ち無差別殺人を行ったなど。
と、その中に一際異彩を放つ記事があった。
最近、多発するようになった奇っ怪な原因不明の失踪事件について。
必ず夜中で一人出歩いている者だけが、所在がわからなくなるのだ。無論、三日程度なら無断外泊、家出など何でもないことのように思えるかもしれない。事実、事件発生当初の警察、世間の認識がまさにそれだった。だが、事件が重なるにつれ、失踪する人間の年齢に大人、それも青年中年を問わず幾人の人間が行方をくらますとなれば、いくら二十に届かぬ数と言えど嫌な汗が流れ、危機感を募らせてしまう。
ただ一つだけ、性別年齢を問わず姿をくらますこの怪事件は、今ではこの街で知らない人がいないほど巷を騒がせていた。
このようにあまりにも凄惨な最近の世相に、優太郎が思わず「神様っているのかな?」と聞くと、生真面目な若手武僧の和正は独自の解釈を交えてこう答えた。
「何だその質問は? どうしてそんなことを聞くのかと言いたいが、雑談として話してなさそうだから気にしないでおこう。……まあ、個人的な意見としてはいるんじゃないか? いるからこそ、まだ『この程度』で済んでいるんだ。でなければ生と死が入り混じる常世となっているはずだ」
長々と喋りすぎだと思うが、意見そのものには感心する。
ならば神様は、もう限界に近づいているかもしれない。
だからあのとき、地獄がこの世に生まれてしまったのか。
優太郎は気分が重くなるのを感じて、新聞を戻すとコンビニを出た。途端に吹きつける風を受けながら、裏道を過ぎ、自宅マンションがある徳山町へと繋がる久世大橋を渡っていく。
視線の先では薄墨を滲ませたような常闇が広がり、真夜中に包まれた街を歩く人影はまばらだ。
「……ん?」
ふと、優太郎は微かな違和感に首を傾げた。時刻はまだ夜の七時半。
まばらどころか、久世大橋を通ってから誰ともすれ違っていないと気づく。いつもならある程度の人を見かけるものだ。
白いブレザーから伸びるうなじがちりりと逆立って、妙に嫌な予感がした。
……言っても、こういうのは気のせいだろうな。
優太郎は、半ば強引に嫌悪感を振り払う。
それでも急な喉の渇きを覚え、カバンからペットボトルを取り出した。そのまま口を潤すと、手持ち無沙汰な右手でペットボトルを弄びながら、先を進んだ。
やがて、優太郎の目の前にいつも通るマンション近くの住宅地区が現れた。
夜深き道路。鈴蘭のように下を向いた街灯に白い光が灯る。普段は住民の声に満ちているのだが、今日は一つも声がしない。
いつもと違って道路には異様な空気が立ち込めており、優太郎は足を踏め入れるのに躊躇いを覚えた。
迂回して行こうかと、思案し始めたとき、
「こ、このっ!」
少女らしき必死な声が、優太郎の鼓膜を揺らす。
緊迫をはらみ、鈴のように響き危機的な状況だと理解。同様に鼓膜から伝わる既視感。優太郎は深呼吸して異様さを感じる住宅街の中へと、警戒しながら踏み込んでいく覚悟を決めた。
「低級の魔憑生物のくせにっ!」
声は、誰かーーあるいは何かに向かって、叫んでいる。しかし声には怯えの色は薄い。
にしても、魔憑生物って何だ?
どこかの暗号の類なのだろうか?
優太郎は声の正体と共に、謎の言葉について疑問する考えが頭に浮かぶ。
すると、青白い火花が優太郎のもとへ襲いかかった。
突然のことに驚きつつも、優太郎は反射的に回避するため足に力を入れるが、途中で足の力を緩め体を庇うように両手で覆う。
バチリ! という音は一瞬遅れて聞こえたあと、小さな稲妻が直撃し弾ける。
微弱ではあるものの優太郎は体の痺れと自分の体が吹っ飛ぶのを感じた。
「……ぐぅっ」
あまりの衝撃の大きさに、優太郎は意識が飛びかけ一メートルばかり体が後方へと引き下がる。
そしてそのすぐ直後、周囲に飛び散った電気は道路を伝わって、家の壁や街灯に放電していく。さらに副次的な効果として白煙が舞い上がっていった。
「…………」
常軌を逸した先ほどの稲妻の直撃を受けた優太郎は体が痺れて、しばらく動かない。
だが、その一連のことを思い返しながら、優太郎は逡巡する。
今のは少しやばかったーーと。
もし避けてたら他の家々に被害が拡大したのかもしれないな、と。
だから、うまく回避しなくてよかった、と安堵した。
そんなことを真剣に考えながら、優太郎は全身に感覚がきちんと戻るのを、ほんのわずかの間だけ待つ。
続いて手足などの体の部位を動かしてみる。
……別段、問題はないようだ。
しかしーーどのような目的での使用なのか、と優太郎は推測してみる。
そして、優太郎個人が考えれる範囲で解に辿り着いた。
どうやらあの青白い火花は、相手の進行を妨害し視界を奪う、もしくは意識を途切れさせる罠だったらしい。
「ふざけるなっつうの! 誰かが怪我したら、どうするつもりだったんだんだよ……」
優太郎は憤りを覚えながら、さらに突き進む。
すると視線の先に、あり得ないものが目に入った。
「っ!? な、何だあれは」
優太郎は思わず目を擦った。
瞬きを数回繰り返しても、景色はまったく変わらない。
「嘘だろ……」
刺すような嫌悪感が優太郎の背筋を駆け巡る。
常闇に染まる景色の中、昏い黒色のものが蠢く。固まりかけた液体のように捕らえどころがなく、暗渠にも似た底知れぬ威圧感を放っている。
絶対に何かよくないものだと、優太郎の本能が警鐘を鳴らす。
しかし一定の輪郭を持たないそれは、触手のようなものを少女の首に絡みつき、ギュルギュルと音を立てながら締め上げていく。
緊張で熱くなった頭に、夜風は冷たい。得体の知れない異形を前に優太郎の心臓がどくどくと鼓動を速める。
それでも、
「このっ!」
優太郎はカバンからペットボトルを取り出すと思いっきり投げつけ、少女の元へと駆け寄る。
その間にもペットボトルは鮮やかな放物線を描き、黒い何かに迫る。現実からかけ離れた存在なのですり抜けてしまうか? と優太郎は危惧したが、鈍い音と共にペットボトルが命中し、キャップが遠くへ飛んだ。
中の水が細やかな粒となって、それに降りかかる。
「■■■■■■■!」
悲鳴だろうか、言語とは違う耳障りな音が聞く者の脳髄を揺さぶる。水しぶきのかかった部分は、塩酸をかけたようにどろりと溶け、灰色の煙が立ちのぼる。
「おい、大丈夫か?」
それが怯んでいる隙に、優太郎は地面にぱたりと倒れた少女の元へと辿り着く。
まず目に入ったのは、彼女の黒髪。
カラスの羽根のように街灯の光に反射して輝きながら、地面にふわりと広がっていた。
それから見たこともない服装。
なんの飾り気もない白い半袖には三本の赤いラインが入っている。
そこから伸びたあまりに白く細い首から血を流して、力なく地面に横たわっていた。
その様子に気づいた優太郎は、安否を確認するために近づくと彼女は薄紅色の唇を少し開いたまま、目を閉じている。
歳は同じくらいだろうか。
優太郎はしゃがんで彼女の薄い方に触れると、触れたところから彼女の燃えるような熱が伝わってきた。
よく見ると、開いた口から懸命に呼吸を繰り返している。
まるで初めて風邪に罹った子供のようだ。
さらに全体へと目をやった優太郎は、手に持っていたモノの異常さに気づく。
鈍い銀色の光沢をちらつかせる長い刃、日本刀だ。
「……何で、こんなモノがここに?」
その奇妙さに疑問を抱きつつも、優太郎はやや強引にを持ち上げると左右の手を回して彼女の太ももを探った。
右腕に右脚を、左腕に左脚をかけるようにして、一度飛び上がり、彼女を背中に勢いをつけて乗せる。
半分嫌になりながらも、優太郎は彼女の所持品である日本刀もカバンの持ち手に通して、持って行くことにした。
ただ、この学校を他人に見られたら、どう思われるのかが恐ろしい。
例えば誘拐、例えば銃刀法違反、例えば強盗、例えば婦女暴行。
こんな状態でも、頭が安定さを維持していることに優太郎は驚きを感じつつも、この場から離れようとした瞬間。
黒い何かが不気味な気配を膨らませて、すぐさま二人を追跡にかかった。
「もうこっちに来るか、なら一度逃げた方が最適かな?」
まるで戯けるように優太郎は呟き、この裏路地を抜けるまでの距離を見る。
残り十メートルと二十センチ弱程度。
「おや、逃げることを考えているのですか? でも無駄です。アナタは生きて帰れませんから」
先ほどまで人語も話せなかった黒い何かはそう優太郎に言った。
黒い何かの威圧感が優太郎に突き刺さる。早く逃げろと脳が危険信号を発したが、足は何故が震え出し根を張ったように動かなかった。いや、動けなくなっていた。
異常。
恐怖。
死。
幾重もの負の単語が浮かび、ようやく優太郎は己の足に命令を下す。
ビビってないで、さっさと動けよ!
まるで今までの勇猛さが嘘のように、脱兎の如く無様に逃げ出した。
体中から冷や汗が噴き出しているのがわかる。心臓は狂ったように早鐘を打ち、気を抜くと膝から崩れ落ちそうだった。
なんだこれは。一体どうなっている。
様々な思考が優太郎の脳裏をよぎっては消えていく。
「とりあえず、ちょこまかと動くのを止めて貰いましょうか」
黒い何かが言った。それは嫌な予感を抱き、優太郎は走る速度を上げる。なのだが十メートルしかない距離がまるで縮まらない。
「おや、何しているのですか少年」
嘲弄するような声が高速で移動し、一瞬のうちに優太郎の前方に回り込んで退路を塞いだ。
「なっ……?」
あり得ないはずの現象の数々が、何故かこの空間では当たり前のように感じてしまう。
それでも優太郎は黒い何かから距離を取るため瞬時に二歩後退した。
この咄嗟の判断は正しかったようで、ズドン! という地響きと共に鳴り、先ほどの数秒で巨大化させたであろう触手が地面にめり込んでいた。まさに間一髪のところで優太郎は触手による粉砕を回避することに成功したのだ。
でも、この直感頼りの動きは単なる偶然だ、と優太郎は理解する。奇跡と呼んでもいい。つまり、二度目は絶対に起きない。
なら、どうするか?
優太郎は決意を固めると、必死の形相で足に力を入れ地面を踏み込むと、黒い何かの巨大な触手を潜り抜け、拳を放った。
巨大化した触手と相対すれば確かに死ぬ可能性が高い。しかし、完全に接触しなければ勝算はあると優太郎は見込んでの行動である。
「いやはや、無謀ですね~」
黒い何かは笑いながら、優太郎の手首に細い触手を巻きつけ拳の威力を押し殺した。
そしてそのまま、触れた全てを飲み込んでしまいそうな本体が近づき、楕円形に揺らめく黒い液体は優太郎の倍はあろうかという大きさに変貌する。
「……くそっ」
ぬめぬめと街灯の光を反射する黒い触手は、優太郎と優太郎が抱えている奇妙な彼女の両足や、腹部を締め上げて自由を奪っていく。
迫る異形に、優太郎が感じたことは氷柱が背筋に突き刺ささったような悪寒と、灼熱と表現できるほどの怒り。
「ふざけんな」
優太郎は短く息を吐き、鋭い視線で異形を睨みつける。
頭ではこんなことが何の足しになるとは到底思えない。しかも何もしないよりマシという程度の浅薄な行動だと、わかっていても抗わずにはいられない。
なんと複数の触手が巻きついた拳を、優太郎は力尽くで引き剥がし始めたのだ。
グジュグジュ、と気味が悪い醜音が耳に届こうが、抗うのを優太郎は止めないまま、黒い何かに向けて告げた。
「この程度で諦めると思うなよ。バケモノ野郎」
瞬間、言葉と共に優太郎の拳からまばゆい光が生まれる。
その光が発現したことが原因か、優太郎に絡みついていた触手は内部から、膨れ上がり周囲へと飛び散っていく。
突然、拳を輝かせた謎の光は蒼い焔のように揺らめき、悪夢を払う救世の如き。
未知の力を起こした優太郎だが、一切の反応を見せることなく拳を黒い何かに向かってそのまま突き出した。
「ふむ、自身の霊力を発現させましたか。やはり遊び感覚で捕らえるのは舐めすぎましたかねェ。ま、再開時にはもう少し真面目に相手してあげますよ」
黒い何かの下部分が崩れ、支えを失った上部分は勢いを殺せずに宙を踊り砕けていく。
だが、その喋っていた人語は、やたら楽しげに笑う。
黒いペンキをぶちまけたかのように優太郎の視界を異形の液体が埋め尽くし、バシャバシャと派手な水音を響かせる。その異音に混じって人語の薄ら笑いが狭い路地道に反射した。
「では運命が我と繋がっていたらまた会いましょう、勇気ある少年よ」
言うが早いか、黒い何かの上下がその輪郭をどろりと歪ませ、奇妙な液体からの血ように真っ赤に変わる。一瞬あとにはその血も蒸発するように大気に融けていく。優太郎や奇妙な少女に付着していた返り血も霧散し、その異形がそこにいた跡は完全に消失した。
同時に、優太郎の拳に点された光も消滅していった。まるで蝋燭を火を吹き消したかのように。
◆
ヤバいよな、これ……。
黒い何かがいなくなったいつもの路地に少女を抱え、優太郎は暑さと重さと妙な恥ずかしさと、それから彼女には本当に申し訳ないが、後ろめたい感情がごちゃ混ぜになっていた。
何しろ、気絶しているらしい彼女の吐息が耳元にすうすうとかかるし、抱えている太ももは、女の子特有のやわらかさであり、手にふにゅふにゅとめり込んでくるのだ。
そんな状態で自分はというと、先ほど嫌な汗を飛び散らせながら体を動かしたせいで汗だくである。
彼女が起きたら、汗臭くて悲鳴を上げられてもおかしくない。
だから路地の横へ歩いて近づいただけで、優太郎の胸中は安堵感でいっぱいになっていく。
少し姿勢をかがめて背を向け、彼女を滑るように下ろすと、思わず息をついた。
「はぁ、緊張した……」
安心を感じていた優太郎は、ふと腕に巻いている時計を見て驚く。
「あ、ヤバッ! もう八時を過ぎてる!」
優太郎が時間に対して危惧しているのは、警察官による補導だけではない。三つ離れた義理の妹による説教だ。
「う~ん、下手な言い訳するよりは事実を話すべき、だよな」
よし、と両の頬を掌で叩いて説教を受ける気構えを整える。距離にして自宅まで、あと少しといったところ。
それでも道路に仰向けに寝転がった彼女の姿を優太郎は見た。
「う……う……」
睫毛が微かに震え苦しげにあえいでいる。
「起きた……のか?」
優太郎は彼女に近づき、声をかけた。
「……さ、ん」
うわ言のように何かを呟いている。
「ねえ……さん……」
「姉さん?」
言葉を理解しようと、優太郎は彼女に顔を近づける。
「行かないで、戻ってきてよ……」
急に彼女の手が動いて、優太郎の白いブレザーの袖を掴んだ。
「え、あっ、ちょっと」
試しに優太郎は引っ張ってみるが、しっかりと握られていて離れない。
彼女の目の端から透明な水滴がふわっと浮き上がってきた後、それが横へと筋を引いて流れ落ちる。
「姉さん……行かないで……」
はぁ、と優太郎の口からため息がもれた。
この状態で彼女の手を振り払ったらあまりにも後味が悪いな、と優太郎はつい考えてしまう。
「こうなったらもう十分も、三十分も同じだな」
半ば諦めながら肩を竦ませると、優太郎はもう一度彼女を見下ろした。
目は閉じているため、おぼろげな印象だが、起きていればかなり可愛い子だと思う。
黒髪は梳かれたばかりのサラサラで、額にかかった前髪の黒さと反比例して、肌は生まれたてのように白い。
少し丸みを帯びた鼻先と、その下の小さな口は幼い印象をもたらしている。
おそらく、子供の頃からさほど顔立ちは変わっていないのだろう。
そのとき、優太郎はさっきまで背負っていた彼女の感触を思い出し、思わず背筋をぴんと伸ばした。
「いやいやいや、何考えてんだよ」
優太郎は一人呟いて、頭を振る。
微かに背中に感じていたやわらかい感触も、腕にめり込んでいた太ももも、今は脳裏から締め出しておいた方が賢明だろう。
優太郎は彼女の横に座り込む。
警察を呼んでおきたかったが、彼女の不審さとブレザーを掴まれているため、それはできなかった。
「……姉さん……か」
姉と喧嘩でもしたのだろうか。
それなら、できるだけ早く仲直りするに超したことはない。
自分のように元の家族と二度と会えないわけじゃないなら。
修復できることと、できないことがあるのを、優太郎は身をもって知っていた。
物思いに耽っていた優太郎は、ふいに掴んでいる手が緩んだのを感じて顔を上げた。
道路に横たわっている彼女の睫毛が微かに震えている。
と、突然、彼女の両目がぱっちりと開いた。
覗き込んでいた優太郎を捉えると、少女の体がバネのように素早く起き上がる。
「誰なのっ!?」
言いながら、少女は道路上で膝立ちになり、優太郎の前に右手を突き出し、左手を右手に添えた。
「な、何してんの……それ……」
優太郎も道路から立ち上がり、その妙な行動に目を留めたまま、一歩後ずさる。
「気功?」
それにしては、あまりにも重々しい雰囲気をしている。
向けられた手先は白く細いが、その弱々しさとは裏腹に、彼女の鋭く光る眼差しは殺意を感じさせた。
突きつけられた腕を前に、優太郎はただ茫然とそれを見ているだけだった。
優太郎が硬直していると、少女はようやく頭がはっきりしてきたのか、目を瞬かせた。
「わたしの日本刀はどこ?」
問われて、優太郎はなんとか答える。
「それなら自分のカバンに、ほら」
刀を通していたカバンを少女に見せつけるように、優太郎は持ち上げる。
「どうしてそこにあるの?」
「どうしてって……」
右手はぴくりとも動かず、優太郎の胸元に固定されていたが、あまりに馬鹿らしい現状に、優太郎は徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。
わけもわからず、なぜか突然、助けた少女が右手を突き出しているのだ。
危機感が湧かなくても仕方ない。
それに伴って、苛立ちが募ってきた。
あの黒い何かと戦い、心配して門限過ぎてまで付き添ったのに、いきなりーーポーズだけに違いないがーー気功か何かの武術をお見舞いくれようと言うのだ。
腹が立っても、仕方ないだろう。
「目の前で黒いバケモノに襲われてたから、ここに寝かして起きるの待ってたんだけど」
嫌味を込めて優太郎が言うと、少女がそれを聞いて眉をひそめた。
「あなたが魔障生物を追い払ったの?」
何度も変な言動に答える気にもなれず、優太郎は突き出された右手を無視して、彼女に背を向けた。
どうせポーズだけなのだから、心臓へ打撃を打ち込まれても、さほど痛くはないはずだ。
「何かしらの怪我は負ってるはずだから、あんまり無理して動かさない方がいいよ。警察に連絡してくる」
優太郎が離れようとすると、少女はその場で立ち上がり、追って来ようとした。
「待って!」
だか、起きたばかりの体は言うことを聞かず、体勢を崩してしまう。
「あ……っ」
彼女の驚いた声に振り返った優太郎は、咄嗟に両腕を差し出した。
「……っ、危ない!」
しかし、その腕にすがりついた彼女の勢いを止めるも、道路に躓き優太郎までよろけてしまう。
「きゃあっ」
「このっ」
少女をなんとか受け止めようとした優太郎もバランスを崩して、一緒に転んでしまった。
瞬間、頬をさらりとなめらかな糸のようなものが掠めて、優太郎の唇に生暖かいものがぎゅっと押し付けられた。
妙な感触に、目を瞠る。
今まで久しく忘れていた質感だった。
しばらく押し付けられたそれは、腕の中に落ちてきた少女が、優太郎の胸に手をついて体を起こすと離れていった。
激しく瞬きしながら、優太郎はどうしてこうなったのかを確認しようとした。
「……あ……えと……」
まだ胸についている少女が、目の前でぶるぶる震えている。
お互いに何があったのかを把握するのに、大分時間がかかった。
先に行動に移したのは、彼女だった。
「イヤァッッッ!」
少女は突如、大声を上げた。
そして、右腕を突き出し優太郎に向けると、ぶっ放した。
あまりに突然のことだったので、優太郎には青く輝く閃光にしか見えなかった。
しかもそれが、自分の額に炸裂する瞬間、体が重力を忘れたかのように宙に飛び、続いて地面を擦らせながら後退する。
「……うう゛っ……」
息が詰まって、呼吸ができない。
道路の中ほどまで飛ばされ、地面を擦りながら後ろに下がる。
ーー痛ってぇ……。何なんだよ、これ。
優太郎が痛みと、何が起こったのかわからない混乱でいっぱいになっているのに対して、少女は完全にパニックを起こしていた。
彼女は震える手で、優太郎に右手を突き出したまま膝立ちになっている。
がくがくと震えている自分の右手を左手で押さえつけ、優太郎から離れないよう、彼女はまだ向けていた。
少女の頭の中は白いブレザーから薫った優太郎の汗の匂い、そして唇に残っている信じがたい感触のみてある。
それ以外の思考は、真っ白。何もかもが忘却の彼方。天の遥か果てまですっ飛んでいた。
優太郎はしばらく吹き飛ばされた状態で身動きできず、痛みをこらえていたが、やがて頭を振るうと、少女を見た。
彼女はまだ必死に閃光を放った右手を自分に向けている。
なぜそんな常人ではあり得ない芸当ができるのか、異様な空間だったこの路地に入るとき受けた稲妻のことと関係あるのか、優太郎は一瞬のうちに考えを巡らせたが、それ以上に目の前の情景があまりに想定外で、痛みと相まって頭が冴えてきた。
「なぁ」
優太郎が声をかけた。しかし、少女は黙っている。
「今、電撃が飛んできたよな? その右手から。なのにさ」
優太郎は自分の額に手をやった。
「ここ、あんまり痛くないんだ。なんでだ?」
本物の稲妻なら、重傷か死んでいる場所だ。少女はまだ右手を向けて、優太郎を睨んでいる。
「今のは完全に事故だろ。お互いに忘れるのがよくないかな。空想の出来事にしてさ」
そこでようやく、少女が口を開いた。
「そ、そんなこと言って……いやらしいこと考えてるンでしょ。これ以上、わたしには近づかせないから!」
口を尖らせて、怒った猫のように肩を上げている。
優太郎はぱちぱちと目を瞬かせた。
「いやらしいこと? いや、全ぜ……ん」
だか、否定しつつ、彼女がそんなことを言うので、つい感触を思い出してしまう。
「何よ、なんで口ごもるのよ!」
「いや、その……ごめん」
素直に謝ってみるも、彼女は怒りぶるぶる肩を震わせている。
「最低! やっぱり考えていたんだ!」
体を左右にぶんぶん動かして、優太郎に怒り続けている。
「仕方ないだろ。こんな状況でしたのは初めてなんだから」
優太郎は癇癪を起こしている少女から後ずさりつつ言った。
すると、少女はようやく暴れていた体を止め、怪訝そうに聞き返してきた。
「……初めてなの?」
「そうなる、かな」
優太郎はやや言葉を濁しながら頷く。
まだ優太郎に対して疑心暗鬼になっているようだが、少女はゆっくり右手を下ろした。
そして、しょんぼりしたようにうな垂れて呟く。
「……そ、そう……わたしも……初めて……」
小声で囁くように告げなくていいプライベート情報を言ったあと、少女の頬は怒りで興奮したせいではなく、恥ずかしさで真っ赤になった。
その照れた表情に、優太郎も気まずい感情を共有していく。
「よ、よし! お互いに今のはなかったことにしよう」
優太郎の提案に、少女も力強く首を縦に振る。
「そうね。その方がいいわ。うんうん」
なんていうか、運がないというのか……あるというべきか
内心で自分の体質に愚痴を言いつつも、優太郎は優しげな笑みを取り繕ってみる。
たった一言で、一連のトラブルについてこう締めくくった。
変わらぬ日々の平穏が崩れ去ったことを嘆くように。
「本当に、普通から遠ざかっていくな。おれは」
そして、時計の針は夜中の八時半を指し示す。
雲に隠れた満月が浮かぶ五月の夜。
これが、全ての始まり。
『エリート退魔師の電撃少女』と『正義の味方を目指す少年』の邂逅だった。
まずい、少女の名前謎のままじゃないか(;・д・)
次話に名前を言い合う会話を挟んでおきます(^_^;)