15
あのあと、ビビちゃんの部屋から(人間の尊厳的な意味で)命からがら逃げ出してきた私。
廊下を少し歩いたところで、ピナちゃんと再会した。
「ああ、七嶋さん。ビビの部屋に行っていたのですよね? 大丈夫でしたか?」
「え? あ、うん。別に大丈夫だった……と思うよ」
2人の女の子から「早く舐めて」と迫られる事態を、「大丈夫」と言っていいのかどうかについては深く考えないことにするとして……。少なくとも、ビビちゃんと私が傷つけ合うようなことにはならなかったという意味で、私はそう答える。
「先ほどは七嶋さんの気持ちを尊重しようと、幹部に会いに行くことを許してしまいましたが……。別れてから私の中で不安な気持ちが募って、居てもたってもいられなくなって、追いかけてきてしまいました。あまり、お一人で無茶なことをされないで下さいね? 七嶋さんに何かあったりしたら、私はアカネ様に合わす顔がありませんよ……」
ピナちゃんは、幹部のみんなに会いに行った私のことを心配してくれていたようだ。そんな風に顔を曇らせていた。
「あの幹部たちは、今のところはまだ大人しくしていますが、いつ本性を現すか分かりません。どうしても彼女たちに会う必要があるのでしたら、今度からは、私かアカネ様が一緒のときにして下さい。我々の前では、彼女たちもあまり大胆な行動は出来ないようですから」
「う、うん、ありがとう。じゃあ次は、ピナちゃんにも付き添ってもらおうかな」
「ええ、その方が良いでしょうね」
「実は私、あと1人、話したい娘がいて……」
「あと1人……。先ほどはアウーシャとビビに会っていたようですから、次はコルナですか? 分かりました、彼女の部屋にご一緒しましょう。あの娘も、幼いとはいえ何を考えているか分からないところがありますし」
「あ、違うよ」
「え?」
私の言葉を誤解したらしいピナちゃんに、私は訂正を入れる。
コルナちゃんには、昨日のお風呂で話せているから、もう充分だったんだ。それよりも……。
「あと1人、私が会いに行きたい人はね。コルナちゃんじゃなくって……」
※
次の日、私とピナちゃんは、馬車に揺られて移動していた。
私が昨日ピナちゃんに会いたいと言った人は、今くらいの季節は、アカネのお屋敷から馬車で1日くらい離れた草原に住んでいるらしい。私たちはそんな彼女に会うために、朝早くからお屋敷を出発していたんだ。
私が会いたかった人……それは、『前の管理者』さんが手紙を送った人たちの内、私がまだ会っていない最後の1人。幹部の誘いに対して、断りの手紙を送ってきた人だった。
「彼女の名前は、メルキア・ノンズデール。『風の民』と呼ばれる、放浪の民の代表者の女です」
昨日あれから、ピナちゃんは彼女のことを簡単に教えてくれた。
「『風の民』は自由と奔放を何よりも重視する、無秩序と混沌の世界の住人です。一か所に定住することはせず、植物や資源の肥沃な土地を転々としながら、そこで牧畜をしたり、旅人を襲って金品を巻き上げて生計をたて、また別の場所へと移動していく。私たちからすると野蛮で未発達とも思えるその暮らしぶりは、かつては差別の対象となった時代もあったそうですが……。近年、急速に発達してきた科学や魔法の技術についていけない者や、都市の規律に生きづらさを感じ始めた者たちの中には、そんな自由な生き方に魅力を感じ、それまで持っていた資産や人間関係を全て捨てて、『風の民』に加わる者たちも現れ始めているそうです」
ちなみに、メルキアさんは20代後半くらいのなかなかの美人らしい。ピナちゃんたちは彼女をミスコンの候補者としても勧誘したらしいんだけど、それも、彼女はあっさりと断ってしまったんだそうだ。(私が初めてミスコンの話を聞いた時にピナちゃんが言っていた、「ミスコンを断った」っていう人が、実はメルキアさんのことだったんだ)
確かに、彼女が自由を愛するっていう『風の民』の代表者だとしたら、幹部の件もミスコンの件にも、興味を惹かれないのは理解できないことじゃない。だって、なんていうかそういうのって、ある程度ルールがあった上で初めて成立するものだし。無秩序と混沌なんて言われている人たちからしてみたら、そんなのめんどくさいだけだろうから。
……それあとも、私はピナちゃんからいろいろとメルキアさんと『風の民』の人たちのことを聞いた気がするけど……。でも、申し訳ないけど、正直私は、その時の話をほとんど覚えていなかった。だって、人づてでどれだけ事前に話を聞いていたって、結局これから実際に会うんだから、そっちの方が断然早いじゃん? むしろ、下手に先入観とか持たないで、直接本人を目の前にして分かったことを信じたいし。
それは、これまでに幹部のみんなとかと会って、自然と私の中に出来上がっていた感覚だった。
そんなわけで、あんまり難しいことは考えずに、メルキアさんが住んでいるという『風の民』の宿営地に向かっていた私。出発するときに、アカネから「ミスコンまでには帰って来てねえー」なんて言われちゃったから、明後日までには帰らなくちゃだけど(いや、わざと帰らないで、ミスコンに出ないっていう選択肢も……)。まあ、馬車で片道1日の道のりだから、多分間に合うだろう(残念なことに……)。
どこまでもどこまで続くような平坦な道を、特にアクシデントもなく、馬車はのんびりと進んでいく。
2日前にアカネと一緒にお屋敷に来るために乗ったときには気付かなかったけど、この『亜世界』の馬車は、操縦を荷台部分にあるハンドルのような装置を介して行うことが出来る上に、基本的には馬とそのハンドルに魔法をかければ後は半自動操縦で目的地まで連れて行ってくれるっていう、なかなかハイテクなシステムになっていた。だから、今この馬車に乗っているのは私とピナちゃんだけで、御者はいない。
私的には、「せっかく2人きりなんだし、この機会にピナちゃんといろいろとガールズトークしちゃお!」とか、思ったんだけど……。当のピナちゃんが、「すいません……。昨日も、アカネ様の手伝いの書類作成などで、夜遅くまで仕事をして……」と言って早々に眠りについてしまったので、それは叶わなかった。
仕方ないから、馬車の外から見える景色をみたり……。寝息を立てているピナちゃんの寝顔を間近で覗き込んで、その美しさにため息をもらしたり……。紫のチュニックからこぼれる健康的な太ももを覗き見て、ドキドキしたり……。我に返って、変態ちっくなことをしている自分に気付いて、死ぬほど後悔したり……。
そんなことをしているうちに、辺りは次第に薄暗くなっていって……気づいたら私も、眠りに落ちていた。
辺りは、暗い闇に支配される。まぶたを閉じているからそれは当たり前だけど、でも、もしかしたらただの闇よりももっと暗いかもしれない。そんな、意味不明なイメージ。
ふと、その闇が一際暗い部分から、光りが飛び出して来るような気がした。黒が一周回って、光りになって世界を照らし始めたような。
失われていった意識が、だんだんと取り戻されていく。それは元通りになるわけではなく、むしろ、全く違う物に作り替えられているような感覚……。私は、夢を見ていたんだ。それはまるで、映画のワンシーンを見ているように意識を保ったまま映し出される明晰夢……でも、だからこそ、どこか他人事のように思えるような奇妙な光景だった。
辺りは真っ暗で、何も見えない。ただ、私は1人じゃなくて、すぐ近くに、誰かがいるみたいだった……。
「うう……」
泣きそうな声。空気を通して伝わってくる、「彼女」の体の震え……。
「ううぅ……」
「大丈夫だよ……」
「私」が、「彼女」の手を握って言う。
「私がいるから、怖がらなくていいんだよ……」
ここは、どこだろう?
そう思っているのは、この夢を見ている私だ。
夢の中で、「彼女」の手を握っている「私」は、そんなことは考えていない。夢の中の「私」は、とても落ち着いている。きっと、自分がおかれている今の状況が、分かっているのだろう。
それに当然、目の前にいる「彼女」のことも……。
「……ちゃんのことは、私が守ってあげるから……」
ああ、そうだ……。知っている……。
私も、「彼女」のことを知っているんだ……。
「彼女」は……。
そこで私は、目を覚ましてしまった。
目を覚ました途端に、夢の中で考えていたことは雲のようにつかみどころがなくなって、ばらばらになって消えてしまった。ただ、どこか暖かくて、懐かしくて、喜ばしいような気持ちだけが、残り香のように残っているだけ。
それは、なんだか不思議な夢だった。
ふと、自分の体に毛布のような物が掛けられていることに気付く。それと同時に、
「おはようございます。よく眠れましたか?」
ピナちゃんの、そんな気持ちのいい目覚めの挨拶が聞こえてきた。
私は挨拶を返して、体を起こして馬車の窓にかかったカーテンをめくって外を見てみる。すると、沈んだはずの太陽がまた昇り始めているのが分かった。どうやら、私はあのまま一晩眠りについてしまったらしい。
「もうすぐ到着ですよ」
大地に茂る植物が発する水蒸気だろうか。まるでさっきとは別の夢を見ているかのように、輪郭のぼやけた白みを帯びた風景が、周囲に広がっている。その遥か向こうに目をこらすと、無数の白い塊があるのが見えた。
それは、『風の民』の集落に建てられた、移動式のテントの群れだった。




