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衝撃的な「ミスコン立候補事変」(あまりにショッキングな出来事だったから、あえてそう呼ばせてもらうよ)から逃げるために。私はあれから、アカネの部屋を出てトイレに行った。
このお屋敷のトイレは、便座の形や水を流すシステムとかも含めて、私の世界のトイレと結構似たようなつくりをしている。といっても、広くて陽当たりのいい室内にはクラシックな趣のある絵画とか綺麗なお花が飾ってあって、下手したら住めそうなくらいに立派だったりして、私が普通にイメージするトイレのランクよりは数段上。さすが、『亜世界』で1番えらい『管理者』の住居だ。私の世界だと、海外の古城ホテルのバスルームとかだったら、こんな感じなのかもしれない。見たことないけど。
そんなトイレの個室に入って、私はどうやってミスコンのことを断ろうかと、思考を巡らせていた…………はずだったのに。どういうわけだか、気づいたときにはそれどころじゃない状況になってしまっていた。
「乱暴なことをしてしまって、すいません……」
顔と顔がくっつきそうなくらいに目の前で、「彼女」が囁く。メガネの奥の綺麗な瞳が、キョロキョロと周囲を警戒している。
さっき、私がトイレに入って扉を閉める直前に、アカネの部屋で一緒だったピナちゃんが、個室の中にすべり込んできたんだ。
「昨日のように、誰が聞いているとも限りませんので……」
まるで、映画とかに出てくる女スパイみたいに身を寄せて、抑えたトーンで話す彼女。ただ事じゃなさを感じた私の声も、おのずと小声になる。
「ど、どうしたの……?」
「実は、どうしても七嶋さんに、他の人間には聞かれたくない話がありまして……」
確かにこの『管理者』のお屋敷はどこもかしこも広くて大きくて、人が隠れる場所が多い。だから昨日みたく、「ちゃんと誰もいないことを確かめたのに、結局コルナちゃんが隠れていた」、なんてことだって起こってしまったわけだ。その経験を踏まえたピナちゃんは、今度はあんなことがないようにと、私がトイレにいくときを狙っていたらしい。
「ああ……七嶋さんは用を足しに来たのですよね? 話しをする前に、どうぞ、先に済ませてしまってください」
「いや、大丈夫だよ。それより話って何?」
「え? でもトイレに来たということは、当然そういうつもりだったわけですよね? でしたら、遠慮しないで……」
「あ、あの、そういうわけでもなくってさ……。単純に、ちょっと休憩したかったというか、気を落ち着けたかっただけなんだよ。ほら、さっきの件でさ。だから……」
「私のことを気にされているのでしたら、大丈夫ですよ? 七嶋さんでしたら、目の前でそういうことをされても私は全然気にしませんので。なんでしたら、私がお手伝いさせていただいても……」
「だから、もう大丈夫なんだってば!」
「そう……ですか……」
やけにしつこいな、ピナちゃん。思わず声を荒げちゃったよ。
え……まさかトイレに入ってきたのは、2人きりで話す以外にも理由があったとか、言わないでよね……?
考え始めるとものすごく怖くなっちゃいそうだったので、私はさっさと話を進めることにする。
「そ、それで? どうしてここまでして、2人きりで話さなきゃならなかったの? アカネの前じゃあ、話せない話ってこと?」
「はい。実は……」
彼女は、「我慢できなくなったときは、本当に『して』下さって大丈夫ですからね?」と補足してから(ホントにしつこい……)、やっとその話を始めてくれた。
「話というのは、さっきのミスコンの件なのですが……」
「え?」
「重ね重ねになりますが……私は七嶋さんに、ぜひとも立候補していただきたいと思っているのです」
ええ……またその話ぃ……?
せっかく落ち着いてきた私の気持ちは、また乱される。
「だからさあ……それについてはさっきも言ったけど、私……」
でもピナちゃんはいたって真面目な顔で、
「七嶋さんには、どうしてもミスコンに出てもらわなければならないのです。アカネ様を、守るために……」と言った。
「え……」
それから彼女が詳しく話したことは、こういうことだった。
さっき彼女とアカネは、ミスコンの立候補者が足りないって話をした。現在、立候補者は3人しかいないって。
実はその「立候補者の3人」って言うのが、何を隠そう、アカネの幹部の3人のことだったらしい。つまり、ビビちゃん、アウーシャちゃん、そしてコルナちゃんが、『ミス亜世界』の立候補者だったというわけだ。
まあ、これが普通のミスコンだったら、ピナちゃんだって別に気にしなかったと思う。彼女は「自己顕示欲がどうの」なんて言ってたくらいだし、誰が『ミス亜世界』に選ばれようが別にどうでもいいって、言ってたと思う。
でもこれは、普通のミスコンじゃない。このミスコンは、『承認』を使って投票する仕組みなんだ。つまり、あの3人の誰かに投票するってことは、その人に魔力を譲渡するってことを意味する……。
ピナちゃんは、それを恐れていたんだ。
「3日後の投票日には、多数の『承認』が立候補者に対して動くことになるでしょう。もしかしたら、現在の幹部たちが持っている魔力値が2倍近くに膨れ上がることも考えられる。それは、非常に危険なことです。あの3人の中に何かを企んでアカネ様に近づいている者がいるならば、行動を起こすのにこれ以上の好機はない……」
「だ、だから、それに対抗するために、私が立候補すべきだってこと……?」
「そうです」ピナちゃんは頷く。彼女のサラサラ髪が、私の頬をなでる。「私は何も、七嶋さんに優勝してほしいと言っているわけではありません。ただ、あの3人が獲得するはずの『承認』をなるべく削り取って、いざというときのリスクを少しでも少なくして欲しい。そのために、参加して欲しいと言っているのです……」
「なる、ほど……」
彼女の言いたいことは、理解できた。
ピナちゃんの話では、今のアカネ自身は、あの3人のことを完全に信頼しきっていて、彼女たちがミスコンに立候補していることも特に警戒はしていないらしい。むしろ、自分の考えたイベントを楽しんでくれているってことに、単純に喜んでいるくらいなんだそうだ。
それはそれで、問題はないと思う。
『管理者』としてたくさんの人の上に立っているアカネとしては、あんまりあの3幹部のことを露骨に疑って、お屋敷の雰囲気を悪くするべきじゃない。それよりかは、むしろ無条件に信じてしまうくらいの方が器が大きく見えて、集団としての結束力に繋がる気がする。幹部以外の他の人だって、そういうリーダーに着いていきたいって考えるだろうし。
だからこそ。
アカネが思いっきり信じる分、私やピナちゃんがあの3人のことを警戒しなくちゃいけない。アカネにはそのまま深く考えずにのんきにしておいてもらって、陰では私たちが、3人の中の「嘘つき」に対策しなくちゃいけないんだ。
っていうのが、昨日から引き続きのピナちゃんの主張。そのことについては、私は充分に理解出来た……つもりなんだけど。
「ねえ、ピナちゃん……」
実は私は、徐々に、彼女と違うことを考え始めてもいた。
「このお屋敷にいる『嘘つき』って、本当に、悪い人なのかなあ……」
「は?」
ピナちゃんは、怪訝な顔で私を見る。
「七嶋さん……何言ってるんですか?」
「だ、だって、だってさ」
突然バカなことを言い出したと思われたくなくて、私はすぐにフォローを入れる。
「う、嘘をつくってことは、何かを隠しているってことでしょ? でも、その『隠し事』に必ずしも悪意があるとは、限らないんじゃないのかな? もしかしたら、その人はその人で、何かしょうがない理由があって……」
「いや、ないですよ」
ピナちゃんは即座に答える。
「私たちが探している『嘘つき』は、わざわざ、『前管理者からの手紙』の『偽物』を作っているんですよ? しかも、その存在が私たちに露呈してしまった後も、その『偽物』を持ってきたのが自分であるということをずっと黙っている。それほどに嘘を重ねてまでアカネ様に近づいておいて、理由があるからしょうがない、では済まされないと思います」
「そ、そっか……」
はっきりとした断言。
それは、確かにその通りかもしれない。嘘をついて、真実を隠してアカネに近づいているんだから、悪い人……。でも……。
私の頭の中に、ティオを守るためにあえて敵対する振りをしていた、サラニアちゃんのことが思い出される。それから、妹ちゃんたちを守るために1人で隠れて重荷を背負っていた、エア様のことも。
……やっぱり、まだ分からないよ。
人づてにどれだけ話を聞いたって、本当のところは分からない。ちゃんと会って、腹を割って話をしてみなくちゃ、その人の本当のことなんて何も分からないんだ。ほら、だって昨日のコルナちゃんだって……。
私は体を寄せていたピナちゃんをゆっくりと引き剥がすと、笑顔でこう言った。
「私、これからあの幹部の娘たちと、ちょっと話してみるね」
「……はい?」
「誰が『嘘つき』か分かんないけど……分かんないからこそ、ちゃんと話してみた方がいいと思うんだ」
「は、はあ……」
ピナちゃんは呆れちゃったみたいだけど、すぐに気を取り直して、「別に、七嶋さんがそうしたいと言うのなら、私が止めることは出来ませんが……くれぐれも、気を付けて下さいね?」と気遣ってくれた。
「うん。ありがとう」
そうして私はそのトイレを出て、アカネの部屋には戻らずに、別の部屋に向かった。
去り際にピナちゃんが、「ところで七嶋さん、トイレの用の方は……?」なんて言った気がしたけど、聞かなかった振りをしたのは言うまでもない。
「彼女」の部屋は、お屋敷の2階の廊下の突き当りにあるらしい。昨日の夕食のときに、聞かれてもいないのに彼女自身で話していたから、私はそれを知っていた。
さっきはピナちゃんにあんなことを言ったけど……。
少しずつその部屋に近づいていくうちに、自分でも、今からやろうとしていることがとんでもない事なんじゃないかって気がしてきて、歩みが遅くなっていくのが分かった。言ってることと自分の気持ちが一致してないんだ、恥ずかしいことに。だって、もしかしたら「その娘」は、アカネをどうにかしようとしている本物のテロリストかもしれなくって……。
そんなことを考えながらも、私はようやくその部屋の前まで到着した。
そしてそこで、「彼女」の姿を目にした。
全開に開け放たれた部屋の扉の向こう側で、メイド服を脱ぎかけていたアウーシャちゃんを。
「は……え……?」
彼女と私の目が合う。
突然の出来事に、上手く事態を把握できない私。アウーシャちゃんも、何が起きているのか理解できていないようで、着替えていた手を止めて私のことを見ている。
ぱさ……。
茫然として手から力が抜けたせいか、彼女が脱ぎかけていたメイド服が、床に落ちる。白地に赤いハートのようなマークが入った可愛らしい上下の下着姿が、私の目に飛び込んでくる。申し訳程度のその布の下には、すべすべで柔らかそうで……何より、はちきれそうなほどに豊満な肉体が隠されていて……。
「あ、あ……」
連動するように、私と彼女の顔が同時に赤く染まっていく。
「あわ……あわわわ……」
その色が、何かのゲージを表現しているみたいに、ちょうど顔全体を塗りつぶして100%に到達したとき……。
「びゃええぇぇー!」
「ぎゃーっ! ご、ごめんなさーいっ!」
私たちは同時に、あらんかぎりの大声を上げた。
しゃがみこんで体を隠すアウーシャちゃんと、回れ右してしっかりと目をつぶる私。
「わ、わざとじゃないんだよ!? 着替え中だったなんて、私、知らなくって……」
「はうぅぅぅぅ! お、お見苦しいものをお見せしてしまって、す、すいませんでしたですぅぅうー! き、着替えますから、ちょっと待っててくださいですぅぅー!」
「う、うん! ホントごめんね! 私、外で待ってるからっ! ゆっくりでいいからねっ!?」
よくよく考えたら、部屋のドア全開で着替えなんかしてたアウーシャちゃんの方が、どう考えても悪いとは思うんだけど……。でも、あまりにもモロに見てしまったせいで罪悪感が半端なくて、私はついつい謝ってしまっていた。
そ、それにしても……。
目をつむった瞼の裏には、羨ましすぎる彼女の体が浮かび上がってくる。
メイド服着てるときから思ってたけど、アウーシャちゃんって、やっぱりエロい体してやがるなあ……。
胸の大きさとか、それぞれのパーツパーツでは、『妖精女の亜世界』のエア様の方が遥かにすごかった。でも、あの人は身長も高いし、顔も超絶美人過ぎたせいで、ハリウッドスターとか有名モデルと会ってるような気分になっちゃって……一庶民の私としては、いまいち現実感が湧いてなかったのが本音なんだ。
それに比べると、このアウーシャちゃんの場合はいい意味で親近感が持てる、「リアル」な美人さんだ。「近所に住んでる憧れのお姉さん」みたいな感じで、私にとっては、エア様よりもずっと身近に感じる存在。(見た目がすごく若々しくて、物腰も必要以上に低姿勢過ぎるから分かりにくいけど、多分、アウーシャちゃんは私よりも年上だ)
そして、そんな憧れのお姉さんの下着姿を、私はさっきうっかり見てしまったわけで……。身近な人のエロスという、フェチズムをくすぐる案件に、いやがおうにも興奮を隠しきれないわけで……。
って、なんでだよっ!?
女の私が、なんで女の下着姿見て興奮しなくちゃいけねーんだよっ!
私はそこで正気に戻って、自分で自分にツッコみを入れる。そして、さっきまでの自分がしていたよく分からない気持ちの悪い考察を死ぬほど自己嫌悪して、落ち込むことになった。
自分の胸の鼓動がいつもよりもずっと大きい気がするのは、瞼の裏で再生され続ける肌色の多い彼女の映像のせいじゃなく、単純に、驚いてしまったからだと信じたかった。
「す、すいませぇぇん……も、もう大丈夫ですぅぅぅ……」
しばらくすると部屋の中から、申し訳なさそうなアウーシャちゃんの声が聞こえてきた。私が振り返ると、部屋のドアはいつの間にかさっきよりも閉じていて、室内が見えないようになっていた。(いや、着替えるんだったら、ドアは完全に閉めておいてくれないかなあ……?)
「ひゃうぅぅぅ……。さ、さっきは、すいませんでしたぁぁぁ……」
一応彼女は着替え終わったみたいだけど、正直、私の方の気持ちはまだ完全には落ち着いていない。このままだと、服を着ている彼女の姿を見ても、またさっきの赤いハートの下着を思い出してしまいそうな気も……。
私はそんな意味不明な心配を払拭するために、わざとテンションを上げて言った。
「いやいや、こっちこそごめんねぇ―!? 私もまさか、ちょうど着替えてるところに出くわすなんて、思ってなかったからさー! でも、あれだよねー!? 前々から思ってたけど、アウーシャちゃんって結構エロい体してるよねー……」
変な気持ちなんかないってことをアピールするために、わざとらしくそんな事を言ってしまうのが痛々しい。
でもとにかく、私は躊躇なく思いっきりその部屋の扉を開いた。
すると、そこにいたのは……。
「は、はううぅぅぅ、お、お待たせしましたぁぁぁ……そ、それで、私に何か用が……あ、あれ? 七嶋アリサ様ぁ?」
そこにいたのは、今度は上下ピンクの下着に身を包んでいる、アウーシャちゃんだった。
は?
「ちょ、ちょっとっ! 全然大丈夫じゃないじゃんかよっ!? なんでまだそんな恰好なのよっ! 服着たんじゃなかったのっ!?」
っていうか、なんで、さっきと違う下着になってんのっ!? 下着から別の下着に着替えたってことっ!? それじゃあ意味ないからっ!
し、しかもしかも……。
よくよく見てみたら、そのピンクの下着! それって、昨日私がお風呂でなくしたヤツなんですけどっ! 何であんたが、今それを着てんのよっ! サイズが全然あってないから、窮屈過ぎてブラからちょっとはみ出しちゃってるくらいで…………あー、もおーうっ!
「え? あ、あれ……?」
自分でさっき着替えたくせに、まるでたった今気づいたみたいに、自分の恰好に目を落として驚いているアウーシャちゃん。
「え……? え……?」
次第に、わなわなと体を震わせ始めて。
最終的には……。
「きゃーっ! 七嶋アリサ様の、エッチーっ!」
そんな叫び声をあげて、私の頬に、力の入っていない平手を打った。
ぺちっ。
「あははは……」
頬を叩かれた私が思ったのは、怒りでも呆れでもない。
ただただ、あまりにもストレートで疑いようのない、「私、やっぱこの娘苦手だわー」という気持ちだけだった。




