アシュタリアのぶらり亜世界散歩
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
夜の街を走る、1人の少女がいる。
背の丈はおよそ100cm程度。その小柄なシルエットだけならば、幼い子供のようにも見える。だが、彼女が身に付けている衣服と呼べるものは、全身をすっぽりと覆うボロボロの布が1枚だけ。しかもその布から覗く顔や素足の肌は、まるでペンキで塗られたように真っ青なのだ。それが普通の人間の子供でないということは、どう見ても明らかだった。
彼女の名前は、アシュタリア。かつては、この『人間男の亜世界』に存在しなかった種族……モンスターと呼ばれる種類の生き物だ。
自分の『亜世界』を失い、一時はアカシニアの城に囚われてしまっていた彼女だったが、今からほんの数十分ほど前に、守衛の見せた一瞬の隙をついてその牢獄から抜け出すことに成功した。そして今は、追っ手から逃げ延びようと懸命に走っているところだった。
建物と建物の間の路地のようなところに飛び込み、そうっと自分の逃げてきた方を伺う。何も見えないし、聞こえない。街灯のない深夜の城下町には自分以外の生き物の気配はなく、完全な暗闇と静寂に支配されていた。
彼女がぼそりとつぶやく。
「難儀な世界じゃな、ここは……」
その言葉からすると、今の自分の置かれている状況を悲観しているか、あるいは嫌悪しているようにも聞こえる。
しかし、彼女はそうではなかった。
「面白いのう……」
微笑み。
かつて、『モンスター女の亜世界』で最強の地位を手にいれ、敵モンスターの放つどんな攻撃にも、かすり傷1つ負うことのなかった彼女。そんな、文字通りの無敵の力は『亜世界』同士の契約によって失われ、今や彼女は、人間の子供にも勝てないほどの最弱の存在へと成り果てていた。
ボロ布の下には、守衛やアカシニアの仕業と思われる無数の傷跡が残っている。更に、逃げる途中で小石やガラスの破片を踏んだせいで、青色の素足の裏側には真っ赤な血をにじませている。普通ならば、自分をこんな境遇に貶めている世界に対して何らかのネガティブな感情を抱いても不思議ではないはずだ。
それでも、彼女は笑っていたのだった。
そもそも、彼女はなぜあのとき、アリサに契約を許してしまったのだろうか? レベル100の、無敵の存在であった彼女ならば、どんなことがあってもレベル8のアリサなどに負けるはずはなかったのに。
その理由は、実はアシュタリア自身もよく分かっていなかった。ただ、彼女はあの決戦の時、自分に不思議な力が働くのを感じた。そのことが、彼女の気持ちに何らかの影響を与えたのは確かだった。
最初のきっかけとなったのは、アシュタリアがアリサを口車にのせて、チートを行っていたナーガを倒した後。2人が一時的に別れることになったときのことだ。あのとき、自分にない価値観を持っていたアリサのことを、アシュタリアは「好き」と表現した。その行動自体には特に深い意味はなく、ただの彼女の気まぐれに過ぎなかった。ただ、アリサがレベルアップの魔法を使うときの「呪文」を真似をしただけ。
しかしその言葉を口にした瞬間、彼女はまるで、自分自身にレベルアップの魔法がかけられたような、一時的に能力が強化されたような不思議な感覚を覚えたのだ。すぐに自分のステータスを確認してみたのだが、特に何も変わったところはなかった。まあ、上限であるレベル100に達している彼女が今更レベルアップ出来るはずがないのだからそれは当たり前で、彼女もそのときは気のせいかと考え、さっさと忘れてしまおうとした。
だがその後改めてアリサと出会い、自分が『亜世界』の『管理者』であるということをアリサに話したときにも、その不思議な感覚は現れた。『管理者』としての自分の役割をアリサに説明したあと、アリサがそのことを批判したとき、アシュタリアはまた、自分のステータスが変化してしまったような気分になったのだ。しかも、そのときは以前とは逆で、レベルは変わっていないはずなのに力がどんどん下がっていくような感覚に。
そして、決定的となったのは2人が衝突する直前。アシュタリアがまた気まぐれとして言った「大好き」という言葉に、アリサが「大嫌い」と返した時のことだった。
その瞬間の感覚を、彼女は今でも鮮明に思い返すことが出来る。それは本当に強烈で、強力で、最悪な感覚だった。電撃に打たれたときのように神経が痙攣し、氷水につけられたときのように体中がガタガタと震え、内臓を丸ごと吐き出してしまいそうなほどの耐えられないくらいの吐き気を感じた。レベルは常に上がるだけで、下がることなどなかったあの『亜世界』では、それは感じたことのない感覚だ。思わずアリサに襲い掛かっていたアシュタリアもその場にへたりこんでしまったほどだった。
結果として、その弱体化によって出来た隙をつかれる形でアシュタリアはアリサの百合魔法を受けることになってしまったわけであるが……それも、アシュタリアが抵抗すれば避けることは充分に可能だったはずだ。だから結局は、あのような事態になった直接の原因は、彼女の意思によるものでしかなかったということになるのだろう。
彼女は、あのとき感じた「不思議な力」の正体を知りたくなってしまったのだ。「好き」や「嫌い」と言ったり言われたりしただけで湧いてくる、不公平で自分勝手な力。そして、そんな公平さのかけらもない力をもたらした七嶋アリサが、『モンスター女の亜世界』を否定してまで選んだもの。それらを知りたくなってしまったのだ。
だから彼女はあのときアリサを受け入れ、アリサとキスをしたのだった。
「じゃが、このままでは時間の問題じゃのう……」
暗がりに潜みながら、あくまで余裕の表情のままのアシュタリアは呟く。
「ここまでは運よく逃げてこれたが、今の私の力では、このまま逃げ切るのは現実的ではないようじゃ。なんとか、せんと…………っ!」
そのとき、瞬時に何かを察知したアシュタリアが、体を丸めて素早く横転をした。次の刹那、さっきまで彼女がいた場所に向かって巨大な斧が振り下ろされ、深く深く地面にめり込んだ。それは、アシュタリアに対する明らかな殺意をもった攻撃だった。
体を起こし、その斧が来た方向に目を向けるアシュタリア。
やがてその視線の先、路地の奥の暗闇の中から、2人の男が現れた。
「っんだよ。外しちまったゼ」
「うわ、だっさー。奇襲かけといて攻撃外すとか……マジあり得ないんすけどー」
「うっせ。っつか、マトが小さすぎんだゼ。俺は今まで、こんなチビ野郎相手にしたことねえっつの」
「で、でたー! 自分の失敗を相手のせいにするヤツー」
「ああん? てめえ、俺にケンカ売ってんのか?」
男のうちの1人は、背が2mはありそうな大男だ。肩幅や胸板も厚く、全身をくまなく筋肉が覆っている。それらが飾りでないことを証明するかのように、彼は地面に突き刺さった巨大な斧を片手で楽々と引き抜いた。
「いやいやー。ケンカを売るなんて滅相もねえっすよー。ただ、俺だったら絶対今の一撃で決めてたなー、って話。あんたがミスったあいつを俺がラクショーで仕留めちゃったとしても、怒んないでねー?」
もう1人の男は、隣の大男と比べるとヒョロリと細長い体躯。背は、アシュタリアから見ると見上げるようだが、恐らくこの『亜世界』の成人男性としては一般的なものだろう。細長い剣を腕の力でくるくると回して遊んでいるように見えるが、その目は常に大男の様子をうかがっている。きっと、いざとなれば仲間であるはずの彼を裏切ることにも何の躊躇も持たないだろう。狐のような顔つきは、彼のそんな性格を体現しているようだった。
2人とも、それほど上等な物ではないが同じデザインの鎧を着ている。その鎧の左胸の部分に入っている刻印は、彼らが神聖アカシア帝国の兵士であることを表していた。
「んだとっ!? やっぱてめえ、ケンカ売ってるじゃねーかっ! 大体、こいつは俺が殺るってさっき言っただんだゼ!? てめえは黙って俺の仕事を見てればいいんだゼっ!」
「えー? でも俺らが命じられたのってー、『逃げ出したモンスターがいるから、生死を問わず捕まえろ』ってだけっしょー? 誰が殺れとかは決められてねーんすからー、実力がある方が殺るのがいいんじゃないっすかー? ……ま、それって結局俺のことっすけどー」
「は? 面白れえこと言うなお前? いいゼ。じゃあどっちが強いか、この場で試してみるか?」
「うっわー面倒くさいなー……。でもまあ、このモンスターを城に持ってきゃあ莫大な報酬ももらえる訳だし、合法的にそのライバルを減らせるってなら、悪くはないか……。いいっすよー。おっさんに先手取らせてやるから、そのバカみたいな斧でかかってきなよー」
「……ぶっ殺すゼ!」
そう言って、まるで木の棒でも振り回すように軽々と大斧を振りかざして襲い掛かる大男。狐顔の男の方も、「おっし、これで正当防衛成立」とつぶやきながら、細身の剣を構えた。
しばらくは様子をうかがっていたアシュタリアだったが、そんな風に内輪もめが始まったのを見ると、ゆっくりと2人から距離を取り始めた。逃げるなら今しかないと思ったのだ。
そして男たちから充分に遠ざかったところで、様子見をやめて走り出そうとする。しかし。
「ぐ……な、なんじゃ……?」
急に、彼女の全身が麻痺したように動かなくなってしまった。
「2人とも、何をしている? 獲物が逃げているぞ……」
男たちがやってきた闇の中から、聞き覚えのない3人目の声が響く。そのせいで、小競り合っていた2人もアシュタリアに気付き、争うのをやめて彼女のもとへと駆け寄ってきてしまった。隙を見て逃げるという彼女の作戦は、失敗に終わったのだった。
身動きのとれないアシュタリアと、それを取り囲む2人の男たち。やがてそこに、黒いローブに包まれた、いかにも魔法使いという風貌の男が現れる。アシュタリアの体が突然動かなくなったのは、彼の仕業だろう。彼のローブにも、2人と同じようにアカシア城の紋章が縫いこまれている。
「この馬鹿者どもが……」
ローブの男は、落ち着いた様子で2人を非難する。
「いくら『生死を問わない』というご命令とはいえ、獲物を問答無用で殺そうとするやつがあるか……。『生死を問わない』と言われたなら、生かしたまま連れて行くことこそが最適解。生殺与奪の権利も含めて陛下に献上した方が、もらえる謝礼も期待できるというものであろうが……」
ゆっくりと、アシュタリアのもとに近づいてくる男。その余裕ある素振りと、先の2人がアシュタリアに手を出さなくなったことを見ると、どうやら2人よりも格上の存在に当たるらしい。恐怖こそ感じなかったが、自分が逃げ延びられる可能性がかなり下がってしまったことを悟り、アシュタリアは軽く歯噛みをした。
「ちっ。んなこたあ、言われなくても分かってるゼ」
「そーそー。別に、そいつのことマジで殺そうとしてたわけじゃねっすよー? ただ、俺らはあんたみたいに金縛りの魔法とか使えねーからさー? 身動きできないように、ちょーっと痛めつけようとしただけだっつのー」
言いながら、2人はどこかから大きな布袋と縄を取り出す。それでアシュタリアを獣のように捕まえるつもりらしい。
「ま。とにかく、これでこの仕事は終了っすねー。報酬の取り分は、最初の話通り3等分ってことでー……」
「まあ、待て……」
しかしローブの男は、そんな2人のことも制止する。そしてアシュタリアの正面までやってくると、手を伸ばして彼女の顎をクイッと持ち上げた。
「これが、陛下が城の牢獄に閉じ込めていたという、例のモンスターの『管理者』か……。ふっ……なかなか、どうして……」そしてアシュタリアの顔を見ながら、口を下弦の三日月のような形にして気持ち悪い笑顔を作ると、「この体、この顔つき……なんとも可愛らしい生き物じゃないか……? せっかくこうしてお目にかかれたのだ……。少し、楽しませてもらおうではないか……」と言って、ねっとりと舌なめずりをしたのだった。
「げ……」「うぷっ」
彼のその顔を見たとき、常に自信に満ち溢れていた斧の大男が、さあっと顔を青ざめさせた。飄々とおどけていた狐顔の男も、吐き気を我慢するように口元を抑えた。
もともと、大男も狐顔も真っ当な人種ではなく、表沙汰に出来ないような後ろ暗い行為もこれまで平気で行ってきたような犯罪者崩れの男たちだ。そんな2人から見ても、そのローブの男がこれからしようとしている行為は耐えがたい嫌悪感を抱いてしまうものだったようだ。
「外道め……」「ど変態だ……」
「これの良さが分からないとは、かわいそうな連中だ……ふ、ふふ……」
ローブの男は気持ち悪く笑いながら、金縛りをかけたアシュタリアの体を上から下まで舐め回すように何度も見つめる。そして、彼女が羽織っているボロ布にゆっくりと手を伸ばした。
「これが、良いのではないか……これがな……」
しかし、次の瞬間。
「くらえっ!」
辛うじて動かすことの出来た口から、アシュタリアがそのローブ男に向かって黒いエネルギーの塊を吐き出した。それは、かつて『モンスター女の亜世界』でティオナナの心臓をえぐり、彼女を即死させたのと同じ闇の魔法だった。
その魔法はローブ男の顔に直撃し、ブラックホールのようなエネルギーの渦となって、彼の顔を包み込む。渦の中から、男の呻き声が漏れる。
「うあ、ああ……」
「こいつ、やりやがった!」
「おいおいー。油断したな、魔法使いのおっさーん!?」
慌てて駆け寄ってくる大男と狐顔。それより早く、この隙をついて逃げ出そうとするアシュタリア。
「く……」
だが、彼女の体にかけられた金縛りはいまだに解けておらず、それは叶わなかった。
そして……。
「あ、ああ……ああ………」
闇の渦の中から聞こえていたうめき声が、次第に、快感を感じているような喘ぎ声に代わる。ローブ男の顔を包み込んでいる闇が、暗雲が晴れるように徐々に薄らいでいく。
「ああ……。なんて……なんてことなんだ……。姿形だけでなく、魔法まで、こんなに可愛らしいなんて……ああ、あああ……」
やがてその雲も全て消えさり、最後には、恍惚で震えているローブ男の気持ちの悪い表情だけが残ったのだった。
「やはりだめ、か……」
アシュタリアの方も、初めからあまり期待はしていなかったようで、ため息まじりにそんな言葉をこぼした。
『亜世界』の結合によって、彼女の魔法の力もかなり弱体化されてしまった。『モンスター女の亜世界』時代にはブラックホール並みだった闇の玉も、今では攻撃力など皆無の、ただの煙玉のようなものでしかなかったのだ。
「そ、そんな可愛い事をしてくれたら……ああ……お前を陛下にお渡しするのが、惜しくなってしまうじゃないか……ああ、ああ……。や、やっぱり、殺してしまおうか……? 殺して、私だけの物に……あああ…ああああ…」
さっきより目を血走らせたローブの男が、汚らしく舌を出しながら、アシュタリアに顔を寄せてくる。
「むう。もはや、ここまでかのう……」
もうアシュタリアの目にも、この場を逃げることはできず、このまま目の前の男に凌辱されるのを待つしかないという今の状況は、疑いようのないものだったようだ。彼女は抵抗することをやめてしまう。
しかし、そのときの彼女には後悔の気持ちはなかった。
彼女は考えていた。
所詮、この結果は自分の選択が招いたものじゃ。自分がどのような仕打ちにあい、どのように命を終えることになったとしても、それを今更どうこう言うつもりはないのじゃ。自分が選んだ道ならば、どのような苦難も受け入れられるというものじゃ。
ただ1つだけ、心残りがあるとすれば…………ナナシマアリサ……。「あのとき」あやつに受けた仕打ちを返せんのはいささか残念な気もするが……まあ、それも仕方あるまい。
それは、彼女がかつては1つの判断ミスで命を落とすような『亜世界』の住人だったこと。しかもそこで、『管理者』という名の頂点にまで上り詰めたという事実から生まれる、ある種の矜持のような物だった。
「もう、好きにするがいいのじゃ」
「い、いい心がけだ……はあ、はあ……そ、それでは……」
そうして、そのローブ男はアシュタリアのボロ布に手をかけ、力を込めてそれを剥ぎ取ろうとした。
そのとき。
「ん?」
最初にその異変に気付いたのは、アシュタリアだった。
「はあ、はあ………あ?」
続いて、ローブの男もそれに気付く。
「な、何だ?」
彼の顔に、またさっきのように闇の渦がまとわり始めていたのだ。だが彼はもうそんなことにいちいち相手をしている気分ではないらしく、手でそれを払いのけてしまう。
「またこんなことを……。もう、こんなものはいい……それより今は、その体を……はあ、はあ、はあ…………ああ!?」
払ったはずの闇の渦がすぐにまた彼の顔に集まり、まとわりつく。彼は苛立たしそうに、それをもう1度払う。
「だから、これはもういいと……!」
払っても払っても、やはりその闇は彼の顔から離れない。それどころか、どんどんどんどん、その量と闇の深さを増しているようでもあった。
「ああ! だから、こんなこと意味ないってわかっただろっ! 止めろっ! 早く、止め……」
まるでダンスでも踊っているように、両手で顔の周囲を払い続けるローブ男。もはやその闇の渦によって視界は完全に失われているようだ。無意識のうちに、アシュタリアから離れていってしまう。
「ど、どういうことじゃ……?」
驚いたのは、アシュタリアも同じだった。
なぜならば彼女はローブ男の言う通り、1度失敗したその闇の魔法をもう使う気などなかったのだから。しかし、現在男を包み込んでいる闇の渦は、自分がさっき使った魔法によく似ている。しかも……。
「うっわ、何だよこれっ! ちょっ! キッモ!」
「くそっ! 油断したゼっ」
今回のその魔法のターゲットはローブ男だけでなく、最初にアシュタリアに襲い掛かってきた2人にも向けられていたのだ。彼らも、ローブ男のようにその闇を払おうとして手を払っているうちに、アシュタリアから離れて行ってしまう。未だに金縛りによって身動きがとれない彼女は、そんな謎の力に踊らされている3人のことを見ていることしかできない。
やがて……。
「うっ!」「ぐはっ!」「うあぁっ!」
3人の呻くような声。それからすぐに、ドサッという人が倒れるような音が3つ聞こえてくる。
それが、さっきの3人の最期になった。
「動ける、のじゃ……」
気づいたときにはアシュタリアの金縛りは解けていて、彼女の体は自由になっていた。
「む?」
そして彼女は、自分から少し離れた闇の中、さっき3人がうめき声をあげて倒された方向から、とてつもなくおぞましい気配がするということを感じとった。
カツ……カツ……カツ……。
固い靴が、地面を蹴る音が響く。同時に、そのおぞましい気配がゆっくりとこちらに近づいてくる。
アシュタリアはそれを、かつての自分の世界にあった「レベルの高いモンスターが出す気配」に、よく似ていると思った。圧倒的で絶対的で、近寄りがたいオーラ。レベル100になったアシュタリアにとっては、久しく味わっていない感覚だ。彼女は腰を低くして、その気配に身構えた。
「ふ……やはり、俺の思った通りだったな……」
やがて、その闇の中から1人の男が現れた。
見た目は30台前半程度。燃えるような赤い髪に、漆黒の鎧を身にまとい、湾曲した2本の三日月刀を両手に持っている。その刀には、どちらにもさっきの男たちの物と思われる血がべったりと付着していた。
アシュタリアが訊ねる。
「おぬし、何者じゃ……?」
ニヤリと口元をゆるめる男。彼女のそばまでやってくると、優雅な動きで片膝を地面についてから、仰々しい口振りで返した。
「これはこれは……自己紹介が遅れて申し訳ありません。私は、ここより東に半日ほど行ったところにあるアヴァロニアという国で君主をしている、アウグスト・ノヴァールス。以後お見知りおきを、魔物の王女よ」
「なに……?」
アウグストと名乗った男は、それからアシュタリアの小さな青い手を取り、その手に軽くキスをした。それは、この『亜世界』の貴族がよくやる親愛を込めた挨拶のようなものだったのだが、アシュタリアにはとてもそんな風には思えなかった。
それは、彼女がこの『亜世界』の習慣を知らなかったからというだけではなく、目の前で片膝をついて頭を下げているその男が、少しでも警戒を緩めれば一瞬で喉元をかっ切られてしまいそうなほどに、強い殺気を纏っていからだった。
「おぬし……人間か? おぬしからは、まるでかつての我らのような、血に飢えたモンスターの匂いがするのじゃ」
「ふっ。誉め言葉と受け取っておこう……」
彼の言葉づかいも身のこなしも、一見するとさっきまでの男たちに比べればはるかに紳士的だ。実際、その立ち居振る舞いにはどこか芯の通った「本物」らしさがあり、彼の出自がそれなりであるということを感じさせる。
しかし、それと同時に彼から化け物じみた殺意がにじみ出ているのもまた事実で、自分を襲おうとした追手たちを彼が全員倒してくれたというのに、アシュタリアには自分の身の危険が去ったという気がまるでしないのだった。
「それで? そんな一国の君主殿が、一体こんなところで何をしているのじゃろうな……」
アウグストの出方を伺いつつ、彼につかまれている手を慎重に引き抜くアシュタリア。彼ももう下手に紳士ぶるのは止めたようで、膝を立てて立ち上がると、アシュタリアを高圧的に見下しながら言った。
「さしずめ、囚われの身の王女様を助けに来てやった王子様とでも思えばいい。まあ、お迎えの馬車も綺麗なドレスもありはしないけどな」
「迎え? 私をか?」警戒心を強めていくアシュタリア。「……分からんな。おぬしも見たじゃろう? 今の私は、この『亜世界』では力も魔法も使えん、無価値な存在じゃ。わざわざおぬしが国に連れて帰っても、何も喜ぶようなことはしてやれんぞ?」
「おぬしに先程の男のような趣味があるのなら、話は別じゃがな……」と続けて呟きつつも、アシュタリアには彼がさっきのローブ男のような目的で自分に近づいているわけでないということは、何となく感じ取っていた。
この男が纏っている気配は、そんな薄っぺらい気持ちからくるものではないじゃろうな……。これは、もっと深くて、強い気持ち……。
「くっ、くっ、くっ……」
アウグストは邪悪な笑いをこぼす。
「お前は……いや、お前たちは……この『亜世界』での自分たちの価値というものが、まるで分かっていない……」
「なんじゃと?」
それから彼は右手を前に出すと、手のひらの上に黒いエネルギーの塊を出して見せた。
それは、さっきアシュタリアが使った闇の魔法と同じもの。そして、彼女をとらえようとした男たちの視界を奪ったものと、同じものだった。
彼はその塊をいとおしそうに見つめながら、言う。
「例えば、この闇の魔法だ……。我々の『亜世界』では、闇というのはただの『光が届かない場所』でしかない。それを固めて何かの形を作ったり、闇そのものを操って攻撃するなんてことは出来ない。そんなことは、今まで誰も考えもしなかったのだ……」
それから彼は、その闇のエネルギーを握りつぶすように、手のひらを握りしめようとした。だが、そのエネルギーの塊はアウグストの指にバチバチと黒い火花を散らしながら反発し、ゴムボールのようにへこむだけで潰れることはなかった。
「しかし、さっきのお前はいとも簡単にその闇を操ってみせた。闇は光の不在などではなく、それ自体が1つの存在として成立するということを、証明してみせたのだ。お前にとっては、ただ自分の『亜世界』で使っていた魔法を使っただけに過ぎないかもしれないが……この『亜世界』にとってみれば、今まで存在しなかった全く新しい概念が、たった今生まれたのだ。お前が、この『亜世界』の未定義部分を決定したということなんだよ……。くくく……素晴らしい……とても素晴らしいぞ……。俺はお前のようなヤツに出会える日を、ずっと待っていたんだ……」
妖しく瞳を光らせるアウグスト。それは、やはり人間というよりも自分たちの仲間のそれに近いもののように、アシュタリアには思えた。
そうか、やはりこれは……。この男が纏っている物は……憎悪じゃ……。
「『亜世界』に潜む未定義部分を決定できるのは、何も『管理者』だけじゃない。それ以外にも、『他の世界』からやってきた者もそれと同じくらい……いや、ときには『管理者』以上に、この『亜世界』のことを決定づけることが出来る……。そいつが元いた世界との差分という形で、この『亜世界』の未定義部分を侵食できるのさ……」
やがて、アウグストが右手に握りしめていた闇の塊はその形状を保っていられなくなったようで、気体が霧散するように彼の指の間からすり抜けて消滅しまった。彼は、ふん……、と小さく鼻を鳴らしてから、その手にわずかに残った闇の気配も払い捨ててしまった。
「見よう見まねでは、こんなものだな……」
「見よう見まね、じゃと……」
詰まらなそうにこぼすアウグストの言葉に、アシュタリアはあきれ顔を作った。
私が、かつて死ぬ思いをして鍛え上げた闇の魔法をあっさりと越えて見せたかと思えば……それが見よう見まねだったじゃと? ふっ、涙が出てきそうじゃな……。
彼女の目の前にいる男は、今まで『亜世界』に概念すらなかったはずの闇の魔法を、アシュタリアが1度使うところを見ただけで使ってしまった。しかも、本家の彼女よりも強力にだ。アシュタリアとしては、自分が弱体化しているという事実を改めてまざまざと見せつけられた形になったわけで、内心のショックはかなりのものだった。
しかし、それを表に出して彼に弱みを見せるべきではないと考え、代わりに別のことを言った。
「つまり、おぬしが欲しいのは私の魔法か? おぬしは、この『亜世界』にない新しい魔法を求めて、私に近づいてきたということか?」
「いいや」
アウグストはアシュタリアを小ばかにするように笑みを浮かべながら、首を振る。
「俺が欲しいのは、力だ。今この『亜世界』にある全ての物を超越し、蹂躙する力が欲しい。『管理者』でさえ凌駕するほどの圧倒的な力が欲しいのだ。別の『亜世界』からやってきたお前が協力してくれれば、俺はそれを手に入れることが出来るはずだ。お前だけでも、この『亜世界』の概念を軽々と飛び超えることが出来たのだ。お前と俺で互いの『亜世界』の力を合わせれば、どちらの『亜世界』にも存在しなかったような全く新しい力だって創造することが出来る……。俺の狙いはそれだ。その力ならばきっと、『管理者』ごときでいい気になっているあのアカシニアの坊やにも、一泡吹かせてやることが出来るだろうさ……く、く、く……」
「なるほどのう……」
妖しい笑みをこぼしている彼を見ているうちに、アシュタリアは不思議な気持ちになってきた。まるで、自分がかつての『モンスター女の亜世界』に戻ったような気がしてきてしまったのだ。
目の前のこの男は、恐らくこの『亜世界』に住む他の人間たちとは、全く違うことを考えておる。既存のルールを破壊し、自ら新しいルールを作りだそうとしておるのじゃ。もしもこやつの企ての全てが上手くいけば、『亜世界』はきっとこやつの物になるじゃろう……。
私の『亜世界』でも、「チート」という名の力を発見した者たちが、このような考え方をしていたな……。『亜世界』のルールの穴をつき、公平さを破壊しようとした者たちが……。かつての私ならば、そんな者たちを排除することが自分の役割だと信じて疑わなかったものじゃが……。
彼女は、そんなことを考えている自分をおかしく思い、小さく笑みをこぼす。
「しかしな……」
そして頭の中で何かを決心し、「それではお前ばかりが得をして、私にメリットがないのう。公平でないのじゃ」と言い放った。
「ふっ……」
アウグストはそんな彼女を鼻で笑う。
「お前は、今の自分に交渉の権利があるとでも思っているのか? 悪いことは言わないが……俺の誘いに素直に乗っておくことを忠告する。今の話を知ってしまった以上、俺以外の誰かにお前を利用される訳にはいかない。だからお前が俺の誘いを断るなら、俺がお前に何をしなければいけないか……ちょっと想像すれば、分かるんじゃないのか?」
もちろん、それはアシュタリアにも分っていた。
アウグストがこれだけ手の内を明かしてみせたということは、もしも自分の提案が断られてしまったときには、彼はアシュタリアのことをあっさりと始末するだろう。『亜世界』同士の契約によって作られた、「モンスターは人間よりも弱い」という事実が依然として存在している以上、今の彼女の命はアウグスト次第なのだから。
しかし、彼女はひかなかった。
「交渉? そんなもの私には分からん。ただ私には、やらなければいけないことがあるのじゃ。私をこんな目に合わせた人間に、借りを返さなければならん。それが出来ぬのなら、生きていても死んでいても大差はないのじゃー」
「借り、だと?」
「じゃが、今のままではそれを果たすことはおそらく出来んじゃろうな。今の私には、協力者が必要じゃ。『契約』によって弱体化していない、人間の協力者がな。お前がその協力者になってくれると約束するのならば……よかろう。お前に利用されてやろう。お前のその企てに、乗ってやろうではないか」
そのときのアシュタリアは、本当に交渉のつもりなどなかった。もちろん、恐怖もしていないし、強がりでもない。ただ自分の「目的」のために、自分がすべきだと思ったことを実行しているだけだった。
微笑みを浮かべた表情の中に、強い覚悟のこもった瞳が輝く。アウグストはそんな彼女のことを、しばらくの間、見下すように睨みつけていた。
だが、やがて……。
「ふ……」
また、彼はバカにするように軽く鼻で笑った。
「要するに、自分をこんな目に合わせたやつに復讐したいということだな? なるほど、その思いは俺にもよくわかるぞ。俺にも、復讐したい男がいるからな。……いいだろう。お前の復讐の手助けをしてやろう」
「……? おぬしの言っておることは私にはわからんが……。まあ、これで契約成立、というわけじゃな?」
「ああ、そういうことだ……」
それからアウグストは、また最初のようなわざとらしい紳士風の演技をしながら、アシュタリアの前に手を伸ばした。
「さあ王女様、それでは私の国にまいりましょうか? 精一杯歓迎させていただきますよ……」
「そうじゃな。とりあえず、何かうまいものでも食わせてもらうことにしようかの。……じゃが、その前に」
「何かご用ですか、王女様?」
顔をしかめるように、眉にしわを寄せるアシュタリア。
「私のことをその、プリンセスとか呼ぶのは止めるのじゃ。なんだか間抜けな感じがして、好きになれんのじゃー」
「そうですか? それでは、私は貴女のことを何とお呼びすれば?」
「むぅー……そうじゃなあ……」
彼女は、何か考え込むように宙を見上げて……、
「例えば……………タルトちゃん、とか?」
「あぁ?」
ふざけ半分で言った言葉に、明らかな嫌悪感を表すアウグスト。紳士らしさを完全に忘れてしまって、アシュタリアをにらみつける。
「ふ……冗談じゃよ」
そんな彼の様子をすこし愉快そうに見ながら、アシュタリアはすぐに訂正した。
「私の名前はアシュタリアじゃ。じゃから、アシュタリアちゃんでもアシュちゃんでもタリアちゃんでも、何でも構わん。お前の好きに呼ぶがよかろう」
「……ああ、好きにさせてもらおう」
少し調子に乗り始めたアシュタリアに辟易した様子のアウグスト。彼女の手を取るのはやめて、さっさと1人で行ってしまう。しかし、身軽な体のアシュタリアはそんな彼にすぐに追いつき、にやにやと笑いながらその隣を歩いた。
そうして、それぞれの思惑を抱えた2人は、そのまま闇の中に消えて行ったのだった。




