06'
エア様の死因が毒殺と聞いて、私には真っ先に思いついたことがあった。
毒殺ってことは、きっと誰かに毒を盛られたわけだ。ってことは、その「誰か」として1番可能性が高いのは、この『亜世界』で食べ物を管理している人ってことになるんじゃないだろうか?
そりゃ、気付かないうちに毒を注射されたとか、蜂とか蛇とかに刺されたり噛まれたりしたとか、そういうのの可能性だってあるのかもしれないけど……。でも、やっぱり毒が入った物を食べさせるっていう方法が1番オーソドックスだし、手っ取り早い気がする。
そしてその前提に立って考えると、今1番犯人の可能性が高いのは…………アグリちゃんだ。
私がこの『亜世界』に来てから、食事の機会は全部で2回あった。1回目は、アグリちゃんやけみ子ちゃんと一緒に食べた昼食。そして2回目は、アグリちゃんが寝てしまったあと、作りおきしておいてくれた物を温めて食べた、夕食だ。
そのどちらのときも、私たちはテーブルに拡げられた料理の中から各自が好きなものを選んで取り分ける、いわゆる中華料理みたいなスタイルで食事をとっていた。だから、もしもそれらの中に毒が入れられていたとしても、それをエア様が確実に食べるって保証はどこにもなかったんだ。ただでさえ、体調の悪かったらしいエア様はどの料理にもあんまり手を出していなかったし。逆に私の方は、がっついててほとんどの料理に手を出していたし(私がバカ食いし過ぎちゃってたせいで、エア様が食べたくても食べられなかったんじゃない? ってツッコミは置いといて)。
そこから考えても、アグリちゃんが作ってくれた料理の中に毒が入っていた可能性なんて、ほぼ無いって言っていいと思う。
あの、スープを除いては。
それがテーブルに出されたのは、確か昼食のときの終盤、私がデザートを食べていたときだった。突然、唐突とも言えるような変なタイミングで、アグリちゃんがエア様の前にスープの皿を置いた。他の誰にも出していなかったのに、エア様にだけ、特別に追加の料理を出したんだ。
もしも、あの中に毒が入っていたんだとしたら…………。
そう思い始めたら疑惑が止まらなくなって、私にはもう、その事しか考えられなくなってしまった。
アグリちゃんが犯人で、彼女が、あのスープの中に遅効性の毒を入れてエア様を毒殺した。
少なくとも理屈の上では、その論理には特に大きな矛盾はないように思える。植物から薬用の料理を作ることが出来るアグリちゃんなら、それと同じ理屈で、自分の望み通りの毒を作り出すことだってできるんだろうし。多分、その毒を誰にも知られずに料理に混ぜることも…………。
でも、本当にそうなんだろうか?
だって私が見たときの彼女は、他の娘たちと同じように……いや、他の娘たちにも負けないくらいに、エア様の事が大好きって感じだった。
それなのにそんな彼女が、大好きなエア様の事を殺す? エア様の事を思いやる振りをして、裏ではこっそりと毒入り料理を用意をしていた? 本当に?
……分からない。
気持ちの上ではそんなことあり得ないって思いたいのに、私にはそれが真実とも、ただの私の妄想とも、断言することが出来なかった。
つまり…………どちらの可能性もあり得るように思えてしまったんだ。
そしてこの『亜世界』では、本当にごくごくわずかでも起こり得る可能性があるならば、それは『亜世界樹』の計算するパターンの中に出てきたとしてもおかしくないってことになるんじゃないだろうか。つまり、『亜世界樹』のシミュレートである今の私が経験してもおかしくないってことに……。
…………ううん。もう、考えるのはよそう。
答えが出ないことをいつまでもウジウジ悩まない、それが私のモットーだったでしょ?
とにかく今は、様子を見るんだ。
『1周目』と同じように、きっと今日も私たちの料理はアグリちゃんが作ることになるんだろう。そのときに、アグリちゃんの一挙手一投足を監視するんだ。そしてもしも彼女が何か怪しい行動をとったり、エア様の料理に毒を入れているのを見つけたときは……それを全力で阻止する。それが、『1周目』の悲劇を知っている私の使命。エア様を守るために、私がやるべきことなんだ!
って、最初はそう思ってたんだけど……。
※
「……ほんで、『悪い悪い犯人のウチから、お姉やんのことを守ったるでぇー』と、そう思ったわけかい?」
「い、いやあ……そういうわけではなくってね? な、なんというか、軽いジョークというか、私も本気にしてたわけではなくってぇ……」
「えーねんえーねん。今更そないに無理して言い訳言わんでも、ウチにだって分かっとるねん。あれやろ? あんたの立場からしたら、ウチが犯人て考えんのが1番手っ取り早かったんやろ? ちゃあんと頭使うて考えんのが、面倒かったんやな?」
「い、いや……ほんとに、そういうアレではなくってね……」
「農業家……もう、そのあたりで良いではありませんか? アリサ様も、ときには勘違いをされることだってあるでしょうし……」
「お姉やんは黙っときぃ! これは、ウチとこいつの問題やっ!」
口を挟んで私に助け船を出そうとしたエア様を、バッサリと切り捨てるアグリちゃん。厳しくされるのに慣れていないらしいエア様は、ショックで言葉を失ってしまった。
悪くなってしまった空気を建て直すために、私はあえて明るく振る舞おうとする。
「あ、わ、わかったー! あれでしょー!? これって、ホントに怒ってるわけじゃないんでしょー!? 私のこと驚かそうとしちゃってるんだー? も、もおー! アグリちゃんってば、冗談きついなあー。あは、あはは……」
「は、は、は……やて? おいマジかこいつ。この状況で笑うとるで? 信じられへんな」
「……ごめん」
でも、私のそんな考えは、ただの甘い妄想でしかなかった。
食卓の前の地面に正座をさせられている私。それを、軽蔑するような目で見降ろしているアグリちゃん。その隣では、おろおろと心配そうな顔をしたエア様が立っている。
あれから。
『1周目』と同じように森の中のテーブルがある場所に行った私たちを、アグリちゃんはたくさんの料理でもてなしてくれた。でも、どうしても『アグリちゃん犯人説』が頭から離れなくなっていた私は、ついつい彼女の料理を警戒し過ぎてしまって、ほとんどそれを食べることが出来なくなっていた。『1周目』はバカ食いしていたのが嘘みたいに、全然料理に手を付けることが出来なかったんだ。
まあそれだけなら、アグリちゃんには『1周目』の記憶がないわけだし、それほど問題になんてならなかったと思うんだけど……。問題はそのあとに、アグリちゃんがエア様にスープを出したときだった。
最初は「怪しいところがないか監視していよう」程度だったはずの私の警戒心は、時間がたつに連れて勝手にその疑惑を強めてしまっていた。怪しいと思って見始めると、アグリちゃんの全ての行動が怪しく思えてきて……途中からは、もうほとんど確信に近いものに変わってしまっていたんだ。
だから『1周目』と同じように彼女がエア様にスープを出した時には、もはや私の目には、アグリちゃんがエア様に凶器を突きつけているようにしか見えなくなっていて……。
「ダメーっ!」なんて叫びながら、私はエア様の手からスープを乱暴に取り上げてしまったんだ。しかもしかも、そのときの勢いがあまりにも強すぎて、勢い余りすぎて……取り上げるだけじゃあきたらず、盛大にテーブルにぶちまけちゃったりして……。
「あんたなあ……ホンマ、ええかげんにしいや? ウチが、お姉やんのこと殺すわけないやろが? どこをどう見てたら、そういう考えになるんねや? お姉やんのことなんか、めちゃくちゃ好きやっちゅうねん。そないなこと考える、あんたの方がオッソロしいわ!」
「はい。その通りです……」
突然おかしな挙動をしたことをアグリちゃんから追及され、私はどうして自分がそんな行動をしたのかを、洗いざらい話してしまっていた。今の自分たちがデータであることや、私が『今日』を繰り返していること。でみ子ちゃんが、「6人の妹の中の誰かが、エア様を毒殺するかもしれない」という意味の言葉を私に言ったこと。
そして、その殺人の犯人が、アグリちゃんなのかもしれないと思ってしまったということも……。
ああ……私、一体何をバカなことを考えてたんだろう。だって『1周目』のアグリちゃんは、本当にエア様の体調を気遣って薬用のスープを作っただけだったのに。そのスープを毒だなんて勘違いして……。こんなにもエア様想いのアグリちゃんが、毒なんて飲ませるはずがないのに……。
「これか? あんたの目にはこれが、毒入りスープに見えたっちゅうことなんやな?」私がぶちまけたスープの器を拾い上げ、底の方に少しだけ残っていた液体を一気に飲み干したアグリちゃん。器をひっくり返して中身が空っぽになったのを見せつけるようにしながら、「これでええんか? ウチが自分で飲めたんやから、これで毒なんか入ってへんって証明されたんやな? ああ? どうなんや!? なんか言うてみいやっ!」と私を詰問した。
「はい……。私が間違ってました……」
「ちっ。これやから、人間いうんは……」
『1周目』には無邪気な笑顔を向けてくれていた彼女が、今は、眉根に皺を寄せて舌打ちをしている。それも全部、私がバカみたいな疑惑を持ってしまったせいだ。私は、自分のしてしまったことの罪の大きさに押しつぶされそうになっていた。
「もう、なんでもええわ。あんたのことなんか知らん。勝手にしたらええねん」
苛立たしそうにそう言うと、正座している私に背を向けて、アグリちゃんはその場を立ち去ろうとする。もうどんな言い訳すらも出来なくなっていた私は、その背中を見ていることしかできなかった。
ああ……。
私って、いつもこうだ。
根拠のない未熟な判断でいろんな人を傷つけて、最後にはみんなから嫌われてしまうんだ……。
やがて、私の目に大粒のしずくが溜まって、うるうると揺らめき始めた。ああ……こうやってまた私は、1人で自分勝手な涙を流すんだ……。こんなことになるんだったら、やっぱりこの『亜世界』にやって来たときに自分で自分を…………。
そのとき、私から10mくらい離れたところまで歩いていたアグリちゃんが、急に立ち止まった。そして、そこで肩をがたがたと揺らし始めると………。
「……なんてな」
「え?」
意図が分からなくて、思考を停止して彼女の背中を見つめ続ける私。そのあと勢いよくこちらを振り向いたアグリちゃんの顔は、120%のいたずらっ子の顔だった。
「なーんんんてなーっ! じょーだんや、じょーだん! 全部冗談に決まっとるがなーっ!? なーに本気にして泣きそうになっとんねん、だっさいなあ!? ウチが、こないなちいちゃいことでキレるわけないやろがぁーっ! なははははっ!」
「は、はは……じょう、だん……?」
「ホンマ、これやから人間いうんは冗談が通じんねやから! からかいがいがなくって敵わんわーっ!」
「…は…はは……ははは」
「なーっははははーっ」
「もう、農業家……。驚かせないでくださいよ……」
私を指さして、おなかを抱えて笑っているアグリちゃん。そんな彼女をあきれるように横目で見ながら、小さく笑みを浮かべるエア様。私はその2人の姿をしばらくの間交互に見て、そこでやっと、自分がアグリちゃんに騙されていたのだということに気付いた。
「よ、よかったあ……」
だから、私がそのとき漏らした言葉は本当に、心の底からの本心だった。
彼女が私のことを怒っていない、私のことを許してくれたんだと知れて、私の心は安心感で満たされていった。
そして私は、自分の推理がやっぱり間違っていたんだということを確信することになる。やっぱり彼女は、エア様を殺した犯人じゃあなかった。
その理由は、さっき彼女がスープを自分で飲んで見せたっていうこともあるけれど、それだけじゃあない。それよりも、そのあとの彼女の行動を見て、私はアグリちゃんを完全に信用することが出来るようになったんだ。
「はははは、ホンマおっかしーわー………はぁーあ」
笑い続けていたアグリちゃんは、突然真顔に戻って私を見つめる。
「ところで、さっきの話の続きなんやけどな」
私はさっきまで怒られていたのをまた思い出してしまって、ビクッと体を揺らす。彼女は、そんな私のことはを気にせずに言う。
「あんたがウチのことを何て思おうとも、それは『ちいちゃいこと』や。そんなことにウチはいちいち目くじら立てたりはせえへん。でもな、お姉やんのこととなれば話は別や。それ、ホンマなんか? あんたが『1周目』に、お姉やんが口から血を流して死んでたの見たゆうんは?」
今の彼女は確かに怒ってはいない。でも、その見つめる瞳の真剣さは、さっきの比じゃなかった。いわゆる、刺すようなまなざしってやつだ。
「どうなんや? ホンマのことを教えてくれや。……頼むわ」
さっき私がスープをひっくり返しちゃったときに説明したことを、彼女はちゃんと聞いていてくれていたらしい。そして、それが私が苦し紛れについた嘘じゃないのかと確認している…………いや、むしろ今のアグリちゃんの様子は、「本当は嘘だよ。私はそんなの見てないよ」と、私に言って欲しいようにさえ見えた。
さっきまでとは明らかに違う彼女の態度に、私は慎重に頷いて見せる。
「う、うん。本当に、私は『1周目』にエア様が死んでいるところを見たよ……。そしてその時のエア様は、口から赤い血を流していたんだ……」
「そう……かいな」
アグリちゃんは考え事でもするように上を見上げて、小さくため息をつく。そして、胸の前で腕を組んで、ぶつぶつと何かを呟いた。
「まあ、研究者もそうや言うとるわけやし、毒殺されたいうんは間違いないんやろうな……。だとしたら、きっとウチ以外の誰かがお姉やんに毒を飲ませたわけや……。午後の2時にウチが眠ってしもた後に、お姉やんに毒入りの料理を食わせた奴がいるんや……」
それから、今度は私からエア様の方に視線を移して、真剣な表情で言った。
「お姉やん」
「はい?」
「これから、ウチと約束してくれへんか?」
「や、約束ですか?」
迷いのない、力強い声。力強いまなざし。
エア様は、どうしてアグリちゃんがそんな風になっているのか分からないようで、軽く首をかしげてきょとんとしている。
「ああ。今からしばらくの間は、お姉やんはウチが『良い』って言うたもんしか口にしない。そういう約束をして欲しいんや。食事はもちろんウチが作った物だけを食べる。間食もダメやで? 小腹が空くとかゆうんやったら、それ用にウチがおやつ的なものを用意しとくさかい、それを食うんや。他のヤツが作った料理とか、他のヤツから食事を分けてもらうとかしたらあかんで? それから、うがいやら顔洗うのに使う水も、ウチが事前に調べてOK出したもんだけを使って欲しいな。そういうもんの中に毒が入れられる可能性もあるさかいな。とにかく、お姉やんの体内に入る可能性があるもんを、全部ウチに管理させて欲しいんや」
「え? で、でも、それでは農業家に過度の負担を強いてしまうことになるでしょう? 貴女には『農業家』としての普段の仕事があるのですから、そのような雑務までもお願いするわけには……」
「大丈夫や。普段のウチの仕事はきっちりやる。実際、みんなの食べる料理の準備やら食材用の植物の世話は、今日の分はもうほとんど終わってるんや。ウチは自分が眠るまでの残りの時間で、できる限りのことをするだけやから。誰にも、迷惑をかけたりはせーへんから」
「し、しかし……」
エア様の目をしっかりと見つめているアグリちゃんは、有無を言わさない説得力があって、すごく頼りがいがあるように見えた。女の子にこんなことを言っても全然誉め言葉になってないのかもしれないけど、そのときの彼女はものすごく男前で、カッコよく見えたんだ。
心なしか、エア様は頬をピンク色に染めて、恥ずかしそうに目をそらしているようだった。
「そ、そもそもわたくしのことを殺すような者が、この『亜世界』にいるはずなどありませんし……。そんな話は研究者の冗談でしょうから、農業家がそのようなことをする必要は…………!?」
そこで突然、アグリちゃんはエア様の手を両手で握って、そのままその手を自分の唇に優しく押し当てた。びっくりしたエア様が絶句する。
「お姉やんが、心配なんや……」
手を離すと、にっこりと微笑みながら彼女は言う。
「これが、研究者とそこの異世界人がグルになって仕掛けただけのただの冗談で、ウチが笑いもんになってるだけゆうなら、それが1番ええ。でも、本当はそうやなくって、1ミリでもアンタが死んでまう可能性があんのやったら……ウチにはそんなの見過ごせへん。アンタのために多少の無茶くらいはしてまう……せずには、いられへんのや」
「農業家……」
「もしも、明日になったらアンタが毒殺されるかもしれへんゆうのやったら、ウチはそれを全力で邪魔するで? こうやってアンタの体内に入るもんを全部管理してしまえば、もう毒なんて飲まされることはなくなるやん? これでもしも明日もアンタが毒で殺されたとしたら、それはもう、ウチが犯人ってことや」
「そんなっ!? 農業家がわたくしを殺すなんて、そんなことあるはずがありませんっ!」
「嬉しいこと言ってくれるやないの……」と、アグリちゃんは小さく微笑んでから、続ける。
「当たり前や。天地がひっくり返っても、『亜世界樹』がひっくり返っても、ウチがアンタを殺すことなんてありえへん。だから、これでもうアンタが毒殺されることもなくなったちゅうこっちゃ」
なるほど……。私は、心の中で1人呟いた。
エア様を毒殺する可能性があるものを1人の人が完全に管理するという彼女のその提案が、とても理にかなっているものだと思えたからだ。
エア様がアグリちゃんの毒味済み、調査済みの物しか口にしなくなれば、アグリちゃん以外の人間がエア様に毒を飲ませることは相当困難になる。ほとんど不可能になったと言って良いだろう。
それに加えて、仮にアグリちゃんが犯人だったとしても、もうエア様を毒殺することなんて出来なくなったんだ。だって、仮にこの状況で『1周目』と同じようにエア様が毒殺されてしまったとしたら、その時点でアグリちゃんが犯人だということが確定してしまうんだから。
そうなったら、その『パターン』のエア様を助けることは諦めるしかないけど、次の日、つまり『亜世界樹』が計算する『次のパターン』で、エア様が生きているうちに問答無用で私がアグリちゃんを捕まえてしまうという手段をとることが出来るようになる。そうなれば、その『パターン』はエア様が死なないまま終わるわけだから、エア様が死んでしまった『パターン』なんかよりも優先されることは明らかだ。『亜世界樹』のシミュレートが全部終わって、本当の『今日』がやって来たとしても、『亜世界樹』が『最良のパターン』として採用するのは、エア様が生き残る『パターン』になるってわけだ。
というか、こんなことを言える時点でアグリちゃんが犯人っていう線はほぼなくなったって言って良いと思うけどね。
「これは、ただのウチのわがままや。ウチは、こんな風にしかアンタのことを守ってやることが出来へんのや。でも、堪忍してな……? だって、ウチはアンタのことがホンマに……」
そう言いながら、アグリちゃんは自分の顔を、エア様の方へと近づけていく。驚きと喜びが混じったような表情のエア様は、体が硬直したようにそんなアグリちゃんを見ている。
近くにいた私はその2人の様子を見ていただけなのに、どんどん心臓が高鳴っていくのを感じていた。え? こ、これって、もしかして……。
やがて、背伸びをしていたアグリちゃんの口が、エア様の口元に限りなく近づいて、その距離がゼロになった………と思ったとき。
今にもくっつきそうになっていたアグリちゃんとエア様の口の間に、生き物のように動く植物が枝を伸ばしてきて、割り込みをいれた。
「ぶほっ! 何やこれ!? げほっ、げほっ……」
今にも自分の唇がエア様の唇に触れると思っていたアグリちゃんは、その予想が外れて固い木の枝にキスをしてしまい、ショックで軽くむせている。
その植物は、2人の足元の地面から伸びてきたようだ。つまり、さっきまでは平らな地面だった『亜世界樹』の根っこの一部がぐねぐねと「クレイアニメのように」動いて、2人の間に割って入ってきたってこと。そしてこの『亜世界』で、そんなことが出来るのは………。
私が振り向くよりも早く、苛立たしそうな「彼女」の声が届く。
「ちょっと農業家、貴女一体何してやがるんですの? 抜け駆けなんてさせなくてよ?」
「ちぃ。今ならイケる思たんやけどな……やっぱあかんかったか?」
「だめに決まってるでしょ! 当たり前よ。誰も見てないと思ってお姉様に手を出そうなんて、そんな破廉恥な行為が許されるわけがないわ。そんなの、私が絶対に許さない!」
声のする方、アグリちゃんが作ってくれた料理が並んでいるテーブルの方を見ると、そこにはやっぱり、建築家のアキちゃんがいた。
さっきのアグリちゃんとエア様のキスの妨害は、やっぱり彼女が職能で『亜世界樹』を操ってやったことだったようだ。『1周目』は私の部屋を作るっていう仕事が入ったせいで食事のタイミングがずれてしまった彼女だけど、『今回』はそれがなかったから、私たちと同じような時間にここにやってきたらしい。
あわやキス寸前までいったアグリちゃんに、彼女は明らかにご立腹の様子だ。
「お姉様は私たち妹全員の共有財産なんだから、1人で抜け駆けなんてしないという協定になっていたはずでしょう? それをこんなにあからさまに破ろうとするなんて、まったく貴女いい度胸してるわね? 覚悟なさい。みんなに話して裁判でも開いて、今回の件にふさわしい罰を与えてあげるから!」
「はは……」乾いた笑みを浮かべながら、アグリちゃんは返す。「どの口でそないなことゆうとるねん? 抜け駆けゆうたら、あんたの専売特許やないの? あんた、起きてから寝るまで、暇さえあればお姉やんにくっついとるやろ? 一線を越える前になんか手を打たなあかんなって、研究者が悩んどったで?」
「あら? 私のは抜け駆けではないわよ? 妹の中で最もお姉様に愛されているからこそ認められている、当然の権利だわ」
「いや、どんだけ都合よく解釈しとるねん……。共有財産ゆう話はどこ行ったねんな?」
呆れ切ってしまったように、アグリちゃんは小さく首を振る。はたから聞いていた私も、やっぱりアキちゃんはとんでもない娘だって再認識する。どうやら彼女のあのエキセントリックさは、妹ちゃんたちの中でも問題になっているらしい。よかった。私だけが彼女のことをおかしいと思ってるわけじゃないんだ。
まあ、さっきのアグリちゃんの行動もなかなか肉食系で、ビックリしちゃったのは事実だけど……。
「抜け駆け? 愛? 2人とも、一体何の話をしているのでしょう? アリサ様には、2人の話の意味が分かりますか?」
で。当のエア様は、そんな2人の気持ちには全く気付いていないという……。何だ、この都合が良すぎるとぼけっぷりは……。あんたはラブコメの主人公か。
「ところで……」自分に不利な話になりそうなのを察したのか、アキちゃんは話を変える。「貴女のさっきの話は聞かせてもらってたんだけど、一体、これのどこが『今日の分の仕事はもうほとんど終わってる』のよ? テーブルの上の料理、めちゃくちゃになっちゃってるじゃない! ふざけてるの? さっさと作り直しなさいよ!」
「あ、あー……」
確かに彼女の言う通り、現在食卓のほとんどの料理が、ぐちゃぐちゃの台無しな状態になってしまっている。でもそれについて、アグリちゃんが責められるいわれはないだろう。だって、アグリちゃんはちゃんと時間通りにたくさんの料理を用意してくれていたのに、スープを毒入りなんて勘違いした私が、料理の上にそのスープをぶちまけてしまっただけなんだから。
「ご、ごめんアキちゃん。それは、アグリちゃんは悪くなくって、全部私のせいで……」
だから、急いでそれを謝ろうとしたのだけど……。
「うわっ! びっくりしたっ! いきなり野猿が言葉を喋ったわ!?」
彼女はそんなことを言って、私の話なんて聞いてくれないのだった。
あ、ああ、そっか。『1周目』のときは妹ちゃんたちの中でアキちゃんに最初に会ったわけだけど、『今回』は、これが彼女との初対面なんだ。だから、いきなり自己紹介もしないで話しかけたって、彼女をびっくりさせるだけで……。
「すごいわね!? 最近の野猿って言葉を話せるのね? それとも、研究者が何かの実験にでも使ったのかしら?」
ってか……。
やれやれ、野良犬の次は野猿ですか……? ほんとに、この娘はどれだけ人のことをバカにすれば気が済むのか……。
「ちょっ、建築家っ!? こちらは、本日この『亜世界』に来てくださったアリサ様で、野猿などではなく……」
「ええ。分かってますわよ、お姉様。これはただの野猿ではなく、珍しい種類の猿なんですわよね? だって普通の野猿だったら、子供を育てるためにもう少し胸に膨らみがあるはずですもの! こんなに痛々しいくらいに貧相な胸の猿なんて、私、今まで見たことがありませんわっ!」
「こ、こらっ! 建築家っ!」
『1周目』に続いて、またしてもエア様を怒らせるアキちゃん。でも、やっぱり彼女には全然こたえていない。
てか……え? 私の胸って、猿以下なの……?
「でも、これ以上この野猿の不細工な顔を見ていると昼食がまずくなりそうですし、その痛々しい貧乳が伝染ったりしたら嫌ですから、さっさと追っ払ってしまいましょうね? ね、お姉様?」
「ああもおう……建築家、貴女って人はあ……」
「は、はは……やっぱりアキちゃんの冗談が、1番キツいなあ……」
私たちがそんな風な話をしているうちに、仕事の早いアグリちゃんは、私がだめにしちゃった料理をいつの間にか作り直してくれていた。私とエア様とアグリちゃんに、アキちゃんも加わって、私たちはさっき中断された昼食の続きをした(結局、私のことを野猿呼ばわりし続けていたアキちゃんに本当のことを理解してもらうには、その昼食の時間いっぱいかかってしまったのだけど……)。
食事が終わると、アキちゃんは『1周目』と同じように私の部屋を『建築』するようにとエア様に命じられて、しぶしぶながらもそれに取り掛かり始めた。一方アグリちゃんはさっき自分で宣言した通り、エア様が使うための安全な水を用意したり、おやつを作る作業にとりかかった。私とエア様は、少し遅れて昼食にやってきたけみ子ちゃんに、アグリちゃんの作った料理を提供したり、アキちゃんの『建築』風景を見物したりしながら、それからしばらくの間、時間をつぶしていた。
実は、その時の私の頭の中には、新しい考えがまとまり始めていた。『アグリちゃん犯人説』とは別の、エア様殺しの犯人に関する推論が……。




