03
「さあ、それでは参りましょうか」
そう言って、今度こそ本当に私の手を引いて歩き出したエア様。その方向は、さっき私が走ってきた方の斜め上。
え?斜め……上?
だんだん、私の見ている視点が上がっていく。まるで、テレビ番組とかで、クレーンを使ってカメラを持ち上げて撮った映像みたいだ。
「頭上の枝葉にぶつからないように、お気をつけ下さいね?」
「え、え、え……」
エア様の言った通り、さっきまでは見上げる位置にあったはずの森の木々が、いつの間にか私の目の高さまできている。しかも足元はぶらぶらとして、急に心もとない感じになっちゃってて……。あれ、これって、もしかして?背筋に冷たい汗をたらしながら、ゆっくりと下を見てみると……。
ローファーが触れていたはずの地面ははるか数十メートル向こうに離れて、私はエア様と一緒に、空へと浮かび上がっていた。
「びえーーっ!な、何これーっ!」
思わず、変な大声を出してしまう。
「ちょっ!ちょっと!私、浮いてる!空飛んじゃってるっ!?何で、何で!?どういうことーっ!?」
「うふふ……。驚きましたか?」
「うふふじゃねーよっ!こ、こんなの、驚くにきまってるでしょうがっ!一体、どうしてこんなことになっちゃってんのよー!」
あまりにも予想外の事が起きたせいで、無意識のうちに私は、エア様の体にしっかりと抱き付いていた。
両腕に、エア様の細くて張りのある体の輪郭が。そして私の顔には、そんな細い体には不釣り合いなくらいに大きな、エア様の胸の感触が伝わってくる。それはそれは、本当に信じられないくらいに柔らかくって、まるで、超高級羽毛布団に顔を埋めているような気持ちのよさで……。
なんて。私がそんなことを考えることが出来たのは、ほんの一瞬だけだ。正直言って、今の私にその感触を堪能している余裕はなかった。
「はあ、はあ、はあ……」
驚きと恐怖が入り混じった興奮状態で、息は荒くなっている。
水の中をふらふらとたゆたっているような、浮遊感。重力が極端に薄くなってしまったみたいな、不安定さ。
深い深いプールの底から、浮力だけで水面へと浮かび上がっているような感じって言ったら、1番近いのかもしれない。でも今は、どれだけ浮かんで行っても全然「水面」は見えなくて、たくさんの葉をつけた木のトンネルに取り囲まれているだけだった。
別に私、それほど高所恐怖症ってわけじゃあない。ない……はずなんだけど……。でも、さすがにこれはちょっとキツイってば。
だって今って、既に学校の屋上くらいの高さまできちゃってるんだよ?意味も分からず突然浮かび上がったんだから、落ちるときも突然なんじゃないの?もし今、浮かんでる力がなくなっちゃって、地面に向かって真っ逆さまに落っこち始めたら、絶対無事じゃすまないでしょっ!?
「大丈夫です。何の心配もございませんよ?」
そんな私の心配をかき消すように、私に抱き付かれたまま、エア様が言う。
「この『亜世界』では、空を飛ぶということはそれほど難しいことではありません。地に足をつけて歩くのと同様に、『風』の力を借りて空を飛ぶことは、とても自然なことなのですから」
「ふ、普通って!そんなこと言われたって、私にとってはこんなこと初めてで、今、どうやって自分が浮かんでいるかも分かんないような状態で……」
「精霊です」
「え……」
「この『亜世界』には、精霊という、5種類のエネルギーが存在します。即ち、『木』、『水』、『火』、『風』、そして『心』という5つです。それらは、例えば『木の精霊』であれば木や植物から、『水の精霊』であれば川や海から……というように、対応する自然物から絶え間なく生み出されており、わたくしたちの『亜世界』を満たしているのです。それらをうまく凝縮し、指向性を与えて使いこなすことで、今のわたくしたちのように空を飛んだり、そのほかにも様々なことが出来るようになるのです。この精霊エネルギーによって、わたくしたちの『亜世界』はとても暮らしやすくなり、また、とても『正しく』なったのです」
ふと、エア様が右手の手のひらを胸の前につき出した。
するとその手のひらの上を、ヒューっと音を立てて風が吹いて、次第にそれが竜巻のような渦を巻いた。どこかから落ちてきた1枚の木の葉がその風に乗って、エア様の手のひらの上で、糸で操っているみたいにくるくると舞う。
やがてその風が落ち着いて木の葉が手のひらに落ちると、次の瞬間に何故かその木の葉にボウっと火がついて、葉っぱは黒焦げになった。そして、最後には小さな雨のようなものが降ってきてその火を消してしまい、灰になってしまった葉っぱを洗い流してしまった。
「て、手品?」
「いいえ。これも、精霊の力です。もちろん、今のようなものは精霊を使って出来ることのうちの初歩の初歩ですけれどね」
「精……霊……」
「ええ。面白いでしょう?他にもいろんな事が出来ますよ?例えば、風の精霊のエキスパートともなれば、空を飛ぶだけでなく……」
それからエア様は、私に詳しく精霊の話を聞かせてくれようとしていたようだった。
けど私には、途中からあんまりその言葉が聞こえなくなってしまっていた。集中力が別の方向に向かってしまって、目の前の現実の出来事に関心がなくなってしまったんだ。空を飛んでいることへの恐怖も、気付けばだいぶ薄まってしまっている。
その理由は、彼女の発した「風の精霊」という言葉だ。
その言葉が、私の中に封じ込めていた記憶を呼び覚まして、それで頭の中がいっぱいになってしまったんだ。あの、アシュタリアと私が2人で川沿いの大岩に座って話した、夜の記憶を……。
アシュタリアに言われてナーガの棲みかに向かっていたとき、夜中にアシュタリアが1人で川辺で歌を歌ってた事があった。その声につられるように現れた大量の光の粒子を、アシュタリアは「風の精霊」と呼んだんだ。
今思い返してみるとあれは、本当は精霊なんかじゃなく、昆虫か何かの生き物の群れだったのだろう。あの『亜世界』には、精霊なんていう存在はいなかったんだから。でも、あれほどに小さくて大量の生き物は、あの『亜世界』では他のモンスターたちのレベル上げに利用されてしまうから、あんなに生き残っていたのは普通ならありえないような奇跡だ。きっと、アシュタリアが守っていたんだ。彼女が歌っていたあの「歌」で、虫たちとコミュニケーションをとっていたんだ。そんな彼女を、私は……。
無色だった記憶は、次第に辛い後悔の色へと染まっていく。胸を締め付けるような感覚。吐き気……。
いつの間にかそれが、顔に出てしまっていたのだろうか。気付けばエア様が言葉を止めて、悲しそうに目を細めてこちらを見ていた。
「……」
私は顔を反らして、自分の感情を読み取られないようにする。
それからすぐに、彼女は何も気付いてなかったみたいに言葉を続けた。
「精霊のことについては、わたくしよりも、わたくしの妹たちの方が詳しく知っています。後でアリサ様にもご紹介しますので、詳細は彼女たちから聞くのがよいでしょう」
「そ、そうなん……ですか……」
辛い気持ちを抑え込んで、私も彼女に応える。
アシュタリアのこと、『モンスター女の亜世界』のことを、私は忘れたわけじゃない。忘れていいはずもない。でも、今は落ち込んでいるときじゃないんだ。
私の犯した罪は、他でもない「私」が償わなくちゃいけないことだ。そのことで、目の前で優しく笑ってくれているエア様に心配をかけるわけにはいかない。私に優しくしてくれる彼女の前でこそ、私はちゃんとしてないといけないんだ。
だから私は、いつも通りの態度に戻ろうとした。
「い、妹たちって……へ、へー!え、エア様ってー、妹さんがいるんですかぁー?し、知らなかったー!」
「……ええ」
う。反動で、少しやり過ぎなくらいにテンションが高くなってしまってる……。もしかしたら、私がこんな痛い努力をしていることなんて、エア様には筒抜けだったのかもしれない。彼女はとても落ち着いていて、私のことなんて何でも知っているように見えたから。
でも、私に対して気を聞かせてくれているらしく、エア様は必要以上に私の心の奥には踏み込んでこなかった。
「……うふふ」
「へ、へー。そっかー!エア様の妹ってことはぁー、やっぱりエア様と似て美人さんなんだろぉーなー!ー!うっらやましぃ―!会うの楽しみだなぁー!」
「ええ。すぐに、お会いになれると思いますよ。でも、今は……」
「へ?」
エア様がそこで、また胸の前に手を出す。
今度はさっきみたいに手のひらの上で風や火が舞ったりはしない。どうやら今度のは普通に、手で方向を指し示しているだけみたいだ。
でも、あれ?その手が指す方向を見てみるけど、見えるのは相変わらず葉っぱをたくさんつけた木の枝だけで………。
次の瞬間。
突然、周囲を覆っていた木のカーテンがなくなって、視界が一気に開けた。空に向かってどこまでも続いているように見えた木々のトンネルを通り越して、私たちは森の上空にまで到達したらしい。
無数の葉が日除けになって薄暗かったところに一斉に太陽の光が差し込んできたわけで、私は強い日差しに思わず目がくらんだ。
「うわっ!くぅ……」
「ああ!あらかじめ、お伝えしておくべきでしたね!?申し訳ありません!」
「い、いえ……大丈夫です。もう、慣れてきました……から……」
目をつむって何もみえないけれど、エア様が必死に謝ってくれている事は分かった。
きっと、エア様たちエルフにとっては、森を抜けたら強い太陽の日差しがくるなんてことは、当たり前すぎて忘れていたんだ。っていうか、私だってそれくらいのことは、想像すれば分かったはずじゃんか。エア様は、何も謝ることなんてない。
彼女を安心させるために、私はゆっくりと目を開いて無事である事をアピールしようとした。
真っ黒だった視界は、さっきの強烈な太陽光が復活してきて真っ白に変わる。でも、その白いベールも徐々に薄くなっていって、次第に、色と形が現れてきた。
「はあぁ……」
言葉にならない、ため息のような音を漏らしてしまう。
目を開けたときに見えてきたのは、緑色の山……いや、むしろ、果てしなく空へと伸びる壁のようなものだった。
見上げてもその頂上は見えなくて、まるで、宇宙まで届いているんじゃないかっていうくらいの、桁外れの高さ。しかもその「山肌」をゆっくりと見下ろしていくと、それは地続きに、私の足元の森へと繋がっていた。つまりその「山」は、さっき上昇しながらかき分けてきた木々や葉の一部だったっていうことだ。
こ、これって……これって……。
「『亜世界樹』。それが、この大樹を識別するためにわたくしたちが使用している属性です」
「『亜世界樹』……。つまりこれは、木……?」
エア様に言われて改めて見直すと、その、「壁」とか「山」だと思っていた巨大な緑の塊は、さらさらと風に葉っぱを揺らす、あまりにも巨大な大木だった。
「で、でけえ……」
呟きに、本音が漏れる。
「これが、わたくしがアリサ様に見ていただきたかったもの……。この『亜世界樹』は、わたくしたちにとってとても特別な木なのです」
感慨深そうに、その『亜世界樹』を見るエア様。私も、今まで見たこともない程の巨木に、目が離せなくなった。
……というより、今では視界の半分以上をその『亜世界樹』の緑に覆いつくされているため、目を離したくても離せないような状況って言った方が、正確だった。
これだけ大きな木なんて、きっと私の世界にはどこを探したって無いだろう。『モンスター女の亜世界』でも、最初のころは結構大きな木があった木がするけど、これほどじゃあなかった。
さっきも言った通り、これはほとんど「山」、あるいは、1つの「国」とか「島」くらいの大きさはありそうだったんだから。
「あっ」
そこで、私はあることに気付いて、後ろを振り向いてみた。
それから、ぐるりと首を回して、周囲を見まわす。
「こ、これって、やっぱり……」
首を動かすのに合わせて、体をくっつけているエア様が空中で体を回してくれたおかげで、私はこの『亜世界樹』の枝葉が延びている先を、360度見てとることが出来た。その緑の絨毯は、空に延びて「山」になっている部分を中心に、最低でも半径数キロくらいは広がっているようだ。
そしてその緑が途切れた先には、延々と続くエメラルドブルーの水平線。つまり、海になっていた。
「さ、さっき私が『森』だと思ってたのって、全部、この『亜世界樹』が延びていた枝だったの……?たくさんの木が集まって、森になってるって思ってたのが……この、1本の木だったってこと……?」
「ええ」
エア様は、やっぱり落ち着いた様子で答えた。
「つまり、わたくしたちが先ほどまでいたのは、『亜世界樹』の木の下だったというわけです。いや、それどころか先ほど立っていた地面も、この『亜世界樹』の根を、歩きやすいように平らに変化させたものにすぎません。実のところ、わたくしたちは広大な海に浮かぶこのあまりにも巨大な1本の『亜世界樹』を島に見立てて、その上で暮らしているのです……」
す、すご……。すごすぎる……。
私は、この『亜世界』に来て何度目かの、それも、今までで1番大きな驚きを感じていた。
つまりエア様の話を信じるなら、私たちが今いるのはただの島や大陸なんかじゃなくって、『亜世界樹』っていう超巨大な大木を使った、超巨大なツリーハウス……あるいは、ツリーアイランドとでも呼ぶべき場所だったんだ。
まさに、規格外の大きさにまで育つこの『亜世界樹』だからこそ出来ることなんだろう。
「な、なるほど、これは確かに特別な木…ですね?」
「うふふふ……。『亜世界樹』にとって本当の特別なこととは、大きさではありませんよ?」
「え?だ、だって、これだけ大きいんだから……」
「木を大きくすることだけならば、適切な知識と技術、そして時間さえあれば、簡単に出来ます……。この『亜世界樹』の本質は、そんなことではないのです……」
小さく体を揺らして、微笑みながらエア様はそう言った。私には、その意味が分からない。
「この『亜世界樹』は、その幹や枝や葉の中に、あらゆる精霊エネルギーを蓄えることが出来る木なのです。本来ならば、植物とは相性が悪いはずの『火の精霊』や、生き物しか持てないはずの『心の精霊』でさえ、この木はわけ隔てなく扱うことができる。そんな、特別な特性を持った木なのですよ」
「全ての精霊が、木の中に……?でも、それが一体何の意味が……?」
この「島」みたいな大木が、風の精霊の力で今の私たちみたいに空でも飛ぶというのだろうか?いや、それも確かにすごいけど……。
でも、エア様の言いたいのは、そういうことではないようだった。
「この『亜世界樹』は、葉から葉へ、枝から枝へと、精霊を流通させ、転送することが出来ます。そして『亜世界樹』の中を移動する精霊の速度は、光の速さすらも超越して、ほとんど無限に等しい。それはつまり、この巨大な『亜世界樹』の全ての領域が精霊という5つの状態のいずれかをとり、更にその状態を瞬時に変化させる回路が出来るということ……超高速で超高性能の、『計算機』になりうるということです」
「け、計算機?」
突然、ファンタジーの世界に相応しくない言葉が出てきて、少し驚いた。
聞き間違いかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。エア様の表情も真面目そのもので、冗談と言うわけじゃないようだった。
「光よりも速く動く精霊たちを使用した、5進数の『計算機』。その計算能力はもはや、現実世界に起こるあらゆる事を超越する。それは『亜世界』そのものをモデル化し、そこで起こる無数の出来事をシミュレートすることでさえ、出来るということです。だからわたくしたちは、この『亜世界樹』を使って毎日計算をしているのです。この『亜世界』が進むべき、最も『正しいルート』を……」
「モデル化……?シミュレート……?る、ルート……?」
エア様の使うワードが、どんどんファンタジー離れしていく……。
さっきまでは精霊とか魔法とか言ってたはずなのに……。これじゃあほとんど学校の授業っていうか、それよりも意味不明で……。
「先ほど申し上げたでしょう?『この亜世界は決して間違えない』と……。それはつまり、日々わたくしたちの前に発生するあらゆる選択肢の内、最も正しいルートが既にこの『亜世界樹』によって算出されているということです。わたくしたちはその『決められたルート』の通りに行動することで、常に最良の結果を得ることが出来る。それが、わたくしたちが暮らすこの『亜世界』……」
そのとき、その場に駆け抜けるような一陣の風が吹いて、私たちの髪と服と、『亜世界樹』の無数の葉を揺らした。
エア様が、こちらに優しく微笑む。
そして思いを込めるように一呼吸おいて、続きを言った。
「ここは、『亜世界樹』という『帰納的真理生成装置』によって、常に正しさを担保された『亜世界』なのです」




