02
すべてが、正しい。
私が、ここにやって来たことも……。
そんなの嘘だ。
理性ではそう思っているはずなのに、心のどこかではそれとは違うことを考えてしまう。
嬉しいなんて、思ってしまう。
気付けば私はそれから、エルフの彼女に対して、自分の身に起こった今までのことを全て打ち明けていた。
私がバカ王子に召喚されて、『亜世界』とは違う世界からやって来たこと。『モンスター女の亜世界』で、友達のティオを死なせてしまったこと。『管理者』のアシュタリアにキスをして、1つの『亜世界』を消滅させてしまったことも……。
私は、きっと彼女に自分のことを受け入れて欲しいんだと思う。
あのときはああするしかなかったよね、仕方なかったんだよねって、誰かに言って欲しかったんだ。
なんて自分勝手で、卑しい人間なんだろう。
「……ごめんなさい」
そんな自分を直視するのが辛くて、いたたまれなくて。全てを言い終えたあとはそのまま、その場を立ち去ろうと思っていた。自分は、ここにいていい人間じゃない。貴女と話していていい人間じゃないから。
でも…。
「お待ち下さい」
彼女が、そっと私の手を掴む。
「どうかもう少しだけ…わたくしの側にいていただけませんか?この『亜世界』のことを、知っていただけませんでしょうか?」
「で、でも」
「お願いします。わたくしのわがままを聞いていただけませんでしょうか?」
彼女はそう言った。
真っ白でスベスベな肌の上で、細い目がゆっくりと孤を描く。薄くて滑らかな唇の口角が緩やかに上がり、頬に小さくえくぼのような窪みが現れる。
とても美しくて魅力的な、優しい笑顔。
自分の卑しさや愚かさ、全ての醜い部分を含めて、まるごと私のことを肯定してくれているような、そんな不思議な表情だ。
「ありがとう…ございます…」
私はもうそれ以上は何も言えず、ただ、彼女の手を握り返していた。
※
それから私は、彼女にこの『亜世界』のことを説明してもらえることになった。
彼女に「貴女は正しい」って言われたことを鵜呑みにしたわけではないし、まだ私にも、いくらかの迷いは残っている。でも、これ以上彼女の申し出を断ることは、もはやその行為自体が彼女を傷つけてしまうことになるって気付いたんだ。だから、迷いながらも私は、彼女のやさしさに甘えてしまったのだった。
「さあ参りましょう?貴女には、ぜひ見ていただきたいものがございますので」
「い、いえ…あの……」
さっそく私の手を引いて、彼女は私をどこかへと連れて行こうとする。でも、私はそれをやんわりと拒んだ。どうしてもその前に、やっておかなければいけないことがあると思ったからだ。
「七嶋、アリサです…」
「……はい?」
目を丸くして、きょとんとする彼女。
突然のことだったから、驚かせてしまったようだ。私はもう一度、今度ははっきりと意味が伝わるように言った。
「あの…私の、名前です。私の名前は、七嶋アリサって言うんです」
「なな…しま……」
「えと…。まだ私、あなたに名前言ってませんでしたよね?だから、ここで自己紹介しておこうと思って……」
自己紹介。
それが、私がここでやらなきゃいけないと思っていたことだ。
まあ、会ってから既に結構時間がたっているし、ちょっと今更って感じがあるのは否めないけど。でも、だからといってやらないでおくって訳にもいかないでしょ?
「でも……。もしかしたら『管理者』様は、もうとっくに私の名前なんか知ってらっしゃるかもしれませんね。だって、私が今日ここにやって来ることや、『亜世界』のことを、あなたは知ってたみたいだったし…。それどころかさっきのあなたは、私の世界の、私の国でしか通じないはずの『土下座』のポーズまでやってましたもんね?『モンスター女の亜世界』とか、結合の契約の話にも、そんなに驚いてないみたいだし……」
本当に。思い返してみると彼女は最初っから、だいぶいろんなことを知ってるような口ぶりだった。さっきの「顔に書いてある」じゃないけど、きっと私の知らないこの『亜世界』の「ルール」とかで、『管理者』の彼女には私のいろんなことが分かっちゃってるのだろう。
だとしたら、今の私の行動にはほとんど意味なんて無いのかもしれない。今更私の名前なんて聞かされたって、「え?そんなのもう知ってますけど?」って感じなのかもしれない。でも私は、この場でちゃんと自分の口から、自分の名前を彼女に伝えておくべきだと思ったんだ。
これは、今まで迷惑をかけてしまった彼女に対する、私なりの礼儀。そして、もうこの『亜世界』から逃げたりしないで、ちゃんと自分の呪いの宿命と向き合おうっていう意思表示でもあったんだ。私は、「『亜世界』を消滅させる力をもった七島アリサ」として、『管理者』の彼女と、これからどうすべきかを考えていきたいと思ったんだ。
って………。
「な……ま……え……?」
「あれ?」
強い意思を持ってはっきりと自己紹介した私に対して、なんだか呆けた感じになっちゃってる彼女。まるで、いきなり聞いたこともないような単語を言われて、どうリアクションすればいいか分からないみたいっていうか……。
……そりゃ、この『亜世界』のエルフにしてみたら、人間の私の名前なんて相当奇妙な響きに聞こえるのかもしれないよ?この『亜世界』じゃあ、もっとお洒落で格好いい名前が普通で、和風と洋風がごっちゃになってるみたいな私の名前なんて、笑っちゃうくらいに変なのかもしれないよ?
でもそこはさ、いい感じに事情を汲んでくれたってよくない?人の名前聞くなり、そんなボケボケっとした感じになるなんて、若干感じ悪いって言うかさ……。
だいたい、私がさっき名乗ったわけなんだからさ、貴女も名乗り返してくれたりすると、助かるんだけどなあ。いつまでも「彼女」とか「エルフ」呼びだと、いまいち他人行儀っていうか、分かり合えないじゃん?
「あ、ああーっ!」
そこで突然、そのエルフの彼女が手を叩いて大声を出した。
「な、な、何っ!?」
「名前!?ああ、そうか!名前ですねっ!?そうですよね、そうですよね。そちらの世界では、そういうアレですもんね?」
「あ?」
そして彼女の口から出てきた言葉は、やっぱり完全に意味不明だった。
あちゃー。またしても、この『管理者』様の抜けてる部分が出て来ちゃったかー……。ってか、「そういうアレ」ってなんだよ、「そういうアレ」って。
「いえ、分かります分かります。名前ですよね?あの、あれですよね?『1個体を特定するためのユニークID』のことですよね?『対象とそれ以外を切り分けるために明示的に与えられる、対象の本質とは無関係な固有識別子』の……名前ですよねっ!?」
ほら。
また変なこと言ってる。
「い、いやいやいや……IDとか、識別子とか、そんな大仰なものじゃなくってですね……。私の名前の話ですよ?ただ私の名前が、七嶋アリサっていうだけの話で……」
「ええ、そうですねそうですね。分かっておりますとも」
何故か、自信満々の態度のエルフ。呆れる私を放っておいて、「んふふ」なんていたずらっぽく笑顔を浮かべてる始末。
いや、あなたが明らかに分かって無さそうだから、こんなに呆れてるんですけど私?
ちょっと、イラッとしてくる。
「てか……ほんとに分かってるんなら、なんでそんなめんどくさく言うんです?私、ただ自己紹介しただけなんですから、適当に流してくれればよくってですね……」
「うふふ、申し訳ありません」
それから少しだけ真面目さを取り戻してから彼女は、「実は、現在この『亜世界』では、『名前』という物を使用していないのです。そのため、わたくしも『名前』の概念について完全に失念してしまっておりまして、先ほどのようなお手間をかけてしまいましたのです」と言った。
「……はあああ?」
あんぐりと開けた口が、ふさがらない。
「名前の概念を、忘れてた?な、何それ……」
「うふふふ……。だって、そうではないですか?」子供に言い聞かせるような、丁寧な口調。「『名前』というのは基本的に、同じものが複数存在する場合にその効果を発揮するものです。性質の似通った2つ以上のもの同士を区別しようとするときに、初めてそれらに対して名前という属性が与えられる。つまり、同じものが2つと存在しないこの『亜世界』では、根本的に不要な存在なのです」
「同じものが……存在しない?ええー、うそお……?」
「本当ですよ?先ほども申し上げましたでしょう?『この亜世界は、決して間違えない』、『常に正しい』……と。常に正しいということはつまり、無駄なものや、不要なものなど1つもないということです。全てのものには『亜世界』にとっての固有の役割があり、存在する上でのユニークな意味がある。だから、何かの個体を特定したいなら、そのものが持つ『亜世界にとっての役割』を使えばよいのです。あえて、『名前』なんていう概念を持ち出さなくてもね」
「へ、へー、そうなんですかー。それじゃあ忘れちゃってもしょうがないですねー……」
……って。
いやいやいや!そんなこと言われて、はい、そーですかって納得出来るかい!
同じものがないから、名前が必要ない?名前の代わりに、役割を使えばいい?そんなの、全然意味わかんないし!
「例えばわたくしには、『管理者』という『役割』があります。この『亜世界』で『管理者』と言えば、それは即ちわたくしのこと。ね?名前など使わなくとも、わたくしを特定できるでしょう?」
「そ、それはそうかもだけど……」
「それに貴女のことにしてみても、そうですよ?貴女は現時点で、この『亜世界』唯一の、この『亜世界』史上初の、『異世界人』です。だから『異世界人さま』とお呼びすれば、それは即ち貴女のこと。ですから、あえて貴女の、その…………えっとぉ……あの…………『なまあしアリさん』……でしたっけ?そのような『お名前』を教えて頂かなくとも、わたくしたちはちゃあんと貴女のことを識別できるというわけなのですよ」
「は、ははは……」
勝ち誇ったような顔をしている、『管理者』。私はもう笑うしかなかった。
い、いろいろと、言いたいことがあるぞ……。あるんだけどさ……。
とりあえず、私の名前は「ななしまありさ」だから。「生足アリさん」なんていう恥ずかしい名前じゃないからね?私の名前が本当にそんなだったとしたら、確実に学校でいじめられてるからね?
「あら?もしかしたら、少し違っていましたでしょうか?申し訳ありません。何分わたくしは『名前』に慣れていないものでして……うふふふ」
そしてまたこのヒトは、いつもの微笑を浮かべてるわけです。
くっそぉ……。その綺麗な顔で笑いかけたら、何でもかんでも許されるとか思ってるんじゃねえだろうなあ?散々ワケわかんないこと言っといてよぉ……。まあ、許すけどさあ……。
「でも……」彼女が私の目を見つめる。「やはり貴女の立場にしてみたら、『名前』というものがあった方が何かと都合がよいのですよね?ただでさえ、慣れない『亜世界』生活で戸惑うことが多いでしょうし」
「ま、まあ、そりゃそっすね……」
だって名前なしだと、私はこのエルフさんのことをずっと『管理者』さんて呼ばないといけないんでしょ?そんで私のことは「エイリアン」なんて呼ばれるんでしょ?それは、さすがにちょっと抵抗が……。
「でしたら、今日からわたくしも貴女の流儀に合わせて、『名前』というシステムを採用することにいたしましょう」
「はあ……」
だから、いちいち表現が大げさなんだよな。たかが名前呼ぶってだけなのに……。
「え?でも、どっちにしろ『管理者』様には無いんですよね、名前?じゃあ、私は結局あなたのことを、何て呼んだらいいんですか?」
「ええ、それなのですが……実は先程、思い出したのです」
「思い出した?……え?忘れてたってことっすか?ほんとは名前あったのに、無いと思ってたってこと?」
なんだよ、結局名前有ったんかい……。ビックリさせやがって。さっきまでのやり取りは何だったんだよ、もおう……。
拍子抜けして、ちょっと調子にのる私。
あーあ、やっぱりうっかりさんだなー、このヒト。だって普通、自分の名前忘れたりなんかする?しないよね?うん、絶対しないよ。あ、もしかして忘れてたこのヒトの名前って、「うっかりエルフちゃん」とかそういう感じのやつじゃない?名は体を表す的な感じでさ。
「いえ。わたくし自身としましては、先程も申し上げました通り、名前と言うものを持ち合わせてはおりません」
「あ、あれ?そうなの?」
「この『亜世界』に生まれた時から今まで、わたくしは『管理者』として存在してきましたし、その間、仲間のエルフたちはわたくしを『名前』では呼んだことはありませんでした。『名前』を付けようと、思うことさえありませんでした」
え?じゃあ、どういうこと?やっぱり私はこのヒトのことを『管理者』様、って呼ぶしかないの?ううーん、それだとやっぱ他人行儀だなあ……。
「ただ」私の心配をよそに、彼女は続ける。「今よりずっと大昔に、わたくしたちエルフではなく、人間たちがわたくしのことを呼んでいた呼び名があったのです。わたくしはそんなものに全く興味がありませんでしたので、彼ら彼女らに、勝手に呼ばせていたわけなのですが……。今の状況では、それを使うのが1番適しているようです。アリサ様には今後は『その呼称』で、わたくしのことを呼んでいただくことにいたしましょう……」
へー、そうなんだ?人間たちが、勝手にこのエルフさんに名前を付けてたんだ?
まあ、それがどんな名前なのかは知らないけど、同じ人間の私としては、その呼び名だったら呼びやすいのかもしれないね。
ん?てか……あれ?
私はそのとき、ちょっと気になったことがあった。だけど、その後すぐに彼女が台詞を続けてしまったので、それは聞きそびれてしまった。
「では、先ほどのアリサ様に倣って、わたくしも名前を使って自己紹介をやり直させていただきますね?」
「あ、はいはい」
「わたくしの名前は……」
そう言って、ちょっとかしこまる彼女。一息おいてもったいぶってから、その続きを言った。
「わたくしの名前は、エアルディート・シュヴァリベルツィネアです」
「え、エア…え?」
「確かその由来は、『風を切る漆黒』とか……そんな意味だったと記憶しているのですが……。まあ、それはどうでもよいことですね。どうぞ今度からわたくしのことはその名前、エアルディート・シュヴァリベルツィネアでお呼びください」
「エアル…ディート…シュバ…シュベル……」
なんか、長い……。そしてムズい……。
「それでは、このお話も1区切りついたということで、改めて、この『亜世界』をご案内させていただきますね?」
そう言って、また私の手を取って、どこかに連れて行こうとするエアルディータ…ト……シャベルチア…ネア……だめだ。やっぱ無理だ……。
「……うーん」
「どうしましたか?」
「よし、じゃあ……エア様で!」
「へ?」
「『管理者』様のお名前です。エアル……なんとかーっていうのは、なんか長くて呼びにくかったんで、ちょっと短くして、エア様って呼ぶ事にしようかと思うんです。どうですかね?!」
「エアルディート・シュヴァリベルツィネアの、最初の2文字をとってエア、というわけですか……」
「そうです!」
「随分と、はしょりましたね……」
「う……やっぱ、だめっすかね?」
少し眉間に皺を寄せているように見えるエア様。ちょっと心配になって、私は彼女の顔を覗き込む。
「いいえ」
でも、その皺はすぐに消えて、エア様はすぐにさっきまでの笑顔に戻った。
「なんだかとても可愛らしくて……そのようなお名前は、わたくしにはとても恐れ多いのではないかと思ってしまいまして……」
そう言った彼女の頬は、恥ずかしそうにピンク色に染まっていった。
いやいやいや、何言ってんすか?そんな顔してるくせに。
エア様みたいな超絶美人さんがそんなこと言ってたら、私なんかどうなるんですか?完全に名前負けし過ぎてて、ルイス・キャロルに訴えられますよ?
「でも、アリサ様がせっかくつけてくださった名前ですものね?謹んで、頂戴することにいたします……」
謹んでって頂戴するって……やっぱエア様ってば、ちょっと大げさ過ぎるよ。
まあとりあえず、その名前を気に入ってくれたみたいで、よかったけど……。
「ただ、少しだけ……」
え?
「何だかエアと言う名前は、犬や猫につける名前みたいですよね……」
……。
……。
……。
あ、あれ……?やっぱりほんとはこの名前、あんまり気に入ってない?ってか、むしろちょっと怒ってたりして……。
「いえ、そんなことありませんよ?」
「ほ、本当に……?」
「ええ、本当に……うふふふ……」
で、このタイミングで、その笑いするとか……。
「ふふふふ……」
う……。
優しい笑顔が、逆に怖い……。
エア様の「うふふ」という穏やかな笑い声が、どこかから聞こえる小鳥のさえずりと一緒に混ざり合って、森の中へと吸い込まれて消えていく。何故かそのときの私にはそれは、深い深い森全体の木々が、私を見ながら笑っているように感じてしまった。




