01
「はっ…はっ…はっ…」
幾何学模様を描くように規則的に並んだ木々。草に覆われた足元はコンクリートみたいに固くて、地面を蹴る力が、ダイレクトに跳ね返ってくる。空気は初秋のようにひんやりとしていて、そのおかげで、体内に発生した運動エネルギーは適度に発散されているようだ。
「はっ…はっ……はあ…はあ…」
私は、走っていた。
いくあてなんて何もなかったけど、とにかく全力で走り続けていた。
足を動かしたまま、一瞬後ろを振り返る。今はもう、さっきの彼女の姿は見えない。
長く延びた耳…それに、可愛らしさと美しさが奇跡的に同居した、整った顔つき……まさに彼女は、妖精のようだった。きっとここは、『妖精女の亜世界』なんだろう。
あのバカ王子は、今度は私を『妖精女の亜世界』に送り付けてきたってわけだ。『モンスター女の亜世界』のように、私にかけた契約の魔法でこの『亜世界』を消滅させるために……。
そんなこと、絶対にさせない。あのバカ王子の思い通りになんて、なってたまるもんか。私はもう、誰のことも悲しませたりしないって決めたんだ。
だから私は、ひたすら走り続けていた。『管理者』を名乗ったあの金髪のエルフから逃れるために。
でも。
「ああ、そんな…」
結局私は、それから5分もしないうちに、立ち止まることになった。
森を走り抜けていくと、突然、太陽を遮っていた木々がなくなった、開けた明るい空間に出た。でも、そこは周囲の木々がない代わりに、大地もぶっつりと途切れてしまっていて、その先には、きれいなエメラルドグリーンの海があるだけ。つまり、完全な行き止まりになっていて、これ以上進みたくても先に進めなくなってしまっていたんだ。
「うふふ…」
しかも、後ろにはいつの間にかさっきのエルフが追い付いてきている。
「や、ヤバ……」
早く、逃げなくちゃ…。
でも、後ろには海、前はそのエルフに挟まれている今の私には、逃げ道がない。どうすれば…どうすれば…。
全速力で走ったところにそんな焦りも加わって、軽い興奮状態の私。1度乱れた呼吸は全然収まらないし、鼻息もだいぶ荒くなってる。こんな状態じゃあいい考えなんか思い付くわけないし、逆に、焦りばっかりが増えていく。どうすれば…どうしよう…どうしたら……。
目の前の彼女は、そんな私とは正反対のいたって落ち着いた様子で話しかけてきた。
「うふふ、面白いですね?」
……え?
「これが、貴女の世界の挨拶の方法なのですよね?」
……は?
「だって先程の貴女は、わたくしに会うなり一目散にこちらへ向かって走り始めましたでしょう?つまり、全力疾走することが貴女の世界流のご挨拶、ということなのですよね?」
は、走るのが、私の世界流の挨拶?いやいやいや…そんなわけないじゃん…。
「とても健康的で、楽しい方法だと思いましたわ。うふふ」
「い、いや…あ、あのぉ…」
皮肉なんかじゃなく、彼女は本心からそう思っているらしい。当然、それは彼女の勘違いで、私は彼女に挨拶なんかしたつもりはない。
この人、口ぶりはしっかりしてるっぽいのに、意外と抜けてんな…。
「は、ははは……」
彼女のそんな一面を見つけたせいで、なんだか一気に緊張が緩んで、私はほっこりとした気分になった。
「え、えーとぉ……さっき私が走ったのは、そういう訳じゃなくってですね…」
って……。
これじゃダメじゃんっ!
ぶんぶんと首を振って、私はそんな気分をかき消す。
このエルフがどんな人かなんて、そんなの今はどうでもいいんだよ!私は『管理者』に会っちゃいけない人間なんでしょっ!?『管理者』だっていうこの人とは、一緒にいちゃいけないんでしょっ!?だったら、会話なんてしてないで、一刻も早くこの場から逃げなくっちゃでしょーがっ!
改めて、自分の置かれている状況を思い出した私は、最初の考えに戻る。
よ、よぉーしっ、こんな感じの彼女なら、上手く隙をつけば逃げ出すことも出来るはず…。息を整えて、もう1度全速力で……。
「あら……?」
そこで急に、彼女がきれいな顔を少しだけ歪ませた。
「あ、ああ……なんてことなの。そ、そんな……」
「…?」
そして、まるで風邪でもひいたみたいに青ざめて、ブルブルと体を震わせ始めた。
「ああ、ああああ…ああ…」
どうしたんだろう?
ちょっと心配になってしまって、私は思わず話しかけてしまう。
「あ、あのー…大丈夫です、か?」
「貴女は……」
「え…?」
「ここにくるまでに、貴女はとても辛い思いをされてきたのですね…」
「……はい?」
「何も知らない『亜世界』にたった1人で放り出されて…。分からないことだらけの中で、必死に生きてこられたのですよね…」
「え、えっとぉ…」
「きっと、嫌な事ばかりだったでしょう?理不尽なことばかりだったでしょう?おかわいそうに…。でも、もう大丈夫ですよ?この『亜世界』にやってきた以上は、もう何も心配することはありませんからね?」
「い、いやいや……」
そして最後には目をうるうると潤ませて、そんなことを言い出したんだ。
なんだ。何事かと思ったら、またしてもこのヒトの「勘違い」か。焦って損した。
私は彼女を心配するのをやめて、改めて逃げ出す隙をうかがい始めた。
確かに。
彼女が今言ったことが、何から何まで全部間違ってるとは思わない。彼女の言う通り、私はこれまで、『モンスター女の亜世界』や、バカ王子の策略のせいで、いろんな辛い出来事を経験してきた。
それについて考えると今でも死にたくなるほど気が滅入るし、一刻も早く、私はその罪に見合うだけの罰を受けなくちゃいけないんだって思ってる。
でも、それはあなたには関係ないことだよ?
会ったばかりのあなたが、私のこれまでのことなんか、知る訳ないじゃない。どうせ適当なこと言って、私を分かったような振りしてるだけなんでしょ?耳触りのいい言葉で、私に取り入ろうしてるんでしょ?悪いけど私、そんなの相手にしてる暇なんかないから。
まさか、私の考えていることが顔に書いてある訳でもあるまいし…。
「顔に、書いてありますよ?」
「えっ!?」
私は慌てて、両手で顔を拭う。
「う、うそっ!?マジでっ!?えっ、そういうことっ!?もしかして、この『亜世界』って、考えてることが顔にでちゃったりするルールがあって……」
「まあ、冗談ですけれど」
「冗談かよっ!」
「うふふ……」
し、しまった……また話しちゃった…。てか、何普通にツッコんじゃってんの私…。さっさと逃げ出すって話だったのに、完全に彼女のペースじゃん…。
で、でも、今のは正直仕方なくない…?
私、この『亜世界』に来たばっかで、ここのルールとか何も知らないんだし。そこでいきなり冗談とか言われても、そんなの通じるわけないじゃん。これは、完全に言った彼女の方が悪いよね…。
必死に頭の中で言い訳を繰り返していると、今度はそのエルフ、自分の顔を私にゆっくりと近づけてきた。
「まあ、顔に書いてある、は冗談なのですけれども……」
「え…?え…?」
「貴女のお気持ちが分かるのは、真実ですよ。貴女は今、とても悲しんでいることがありますよね?お辛いことがあって、それを、ご自分のせいだと思いこんでおいでですよね?」
「ちょ…ちょっと……」
「でも、安心してください…。貴女は何も悪くありません。いえ、むしろそれどころか、貴女は本当はとても素晴らしい方なのです。この『亜世界』にとって、貴女が来てくださったことは幸福でしかないのですから…」
「私が来たことが、幸福?な、何言ってるか、全然意味わかんないし……。て、てか、近い……。顔が、近…近すぎて……」
喋りながらも、彼女はどんどん近付いてくる。お陰で彼女の顔が、私の顔にくっつきそうになる。彼女の高い鼻、長いまつげが、ぷるぷるの唇が、私の顔の同じ場所とくっつきそうになる。
こ、この人、私とキスしようとしてるの?
それ、まずいってば…。私と『管理者』がキスしちゃったら、『亜世界』は結合しちゃうんだよ…?この人も、アシュタリアみたいなことになっちゃうんだよ…?そんなの、「うっかり」じゃすまないよ…。
顔を近づけてくる彼女に合わせるように、私は背中を反り返らせてそれを遠ざける。
「ちょ、ちょっと、止めてください……。あんまり近付くと、ヤバイんです…。わ、私って、こういうことしちゃ、いけない人間で…」
「わたくしは、貴女がこちらにお出でくださることを、心の底からお待ちしていたのです……。ですから、貴女のためでしたら、これくらいのことは……」
「や、止め……止めて……」
この人、マジだ……。
どれだけ逃げても、着実に私を追いかけてくる彼女の唇。それは本当にみずみずしくて艶やかで、まるで、何かの果物の果実みたいだ。見ているうちに、なんだか私の胸はドキドキと高鳴りを増していく。気持ちでは逃げたいはずだったのに、自然と、私の体もその唇の方へと吸い込まれていくような気さえしてきて………。
「や、や、や……止めろぉーっ!」
もう少しで、私と彼女の唇が触れてしまうんじゃないかってところで、私は何とか理性を取り戻すことが出来た。反り返らせていた背中を前に戻す反動を利用して、私に迫ってきていたそのエルフを押し返して、私の唇は守られた。
あ、あっぶねえぇ……。ぎりぎりだったぁ……。
「はあ、はあ、はあ…」
でも、やってしまった後で、すぐに私はその行動を後悔することになった。
「はあ、はあ…………はっ!」
どさっ!
私に押されたせいで、その華奢なエルフは勢いよく後ろに倒れた。そして、そのまま固い地面に思いっきり背中を叩きつけられてしまったんだ。
「い、痛たた……し、失礼しました……」
強打した背中をさすりながら、申し訳なさそうに微笑むエルフ。
「先程のように『口と口を重ね合わせる行為』が、貴女の世界の愛情表現になると予想していたのですが……どうやらそれは、わたくしの見当違いだったようですね。貴女に親愛の気持ちを示すつもりが、逆に、嫌な思いをさせてしまいました。申し訳有りませんでした。どうか、ご無礼をお許し下さい」
そう言って、彼女は私に向かって「土下座」をする。
さっきの自分の行動がショック過ぎた私は、それに反応することが出来ない。
「私、何てことを……」
いくら『管理者』とのキスを避けるためとはいえ、こんな、か弱そうな女の人を、乱暴に押し退けてしまうなんて…。焦りまくってた私が手加減なんて出来るはずもないし、もしも押された彼女が頭を木にでもぶつけてしまったら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない……。
「あ、あの…あの…」
「この『姿勢』は、わたくしの深い謝罪の気持ちを現しているつもりなのですが……もしかするとこれも、『見当違い』でしたでしょうか?」
膝を地面につけながら、申し訳なさそうな顔で私を見上げるエルフ。その表情からは1ミリの嘘も感じられない。押し倒したのは私の方なのに。彼女は何も悪くないっていうのに…。
「ご、ごめんなさい!」
私はもう逃げ出すのなんて忘れてしまって、とにかく急いで彼女に謝り返した。
「こっちこそ……っていうか、完全に私の方がごめんなさいですっ!あなたは何も悪いことしてなくて、ただ、私に挨拶してくれてだけなんですよね!?なのに、私ってば、あなたのことを押し倒したりして……」
「ああ!それでは、貴女は先程のわたくしのご無礼を、お許し下さるということですか!?」
「ゆ、許すも何も!無礼だったのは私の方ですからっ!あなたのこと見るなりいきなり逃げ出したり、こんな乱暴なことをして……」
「いえいえ。わたくしのことでしたら大丈夫ですから。どうか、お気になさらずに」
手を貸して、土下座の姿勢のままだったそのエルフを立ち上がらせる。彼女は、私に倒されたことなんか微塵も感じさせず、まるで、さっきまで地面に座り込んで休憩でもしていただけ、って感じに、何でもない風で私に微笑みかけてくれた。体を見回してみるけど、幸運にも、どこにも怪我なんかもしていないみたいだ。
「よかった……」
でも、例え彼女が無傷だったとしても、さっきの私の行為が無かったことになる訳じゃない。彼女が許してくれていても、私は自分で、さっきの私の行動を許すことが出来ない。
「本当に、ごめんなさい……。ああ…私、最悪だ…。もしかしたら、あなたに大ケガをさせてしまってたかもしれないのに…」
「うふふ……。どうか、本当にお気になさらずに……」
「で、でも…」
それから彼女は、また心の落ち着くような優しい笑顔を私に向けながら、言った。
「本当に、大丈夫なのですよ。貴女が心配するようなことには、なりませんでした。なるはずが、無かったのですから」
「はずがないって、そんなわけ……」
「だってこの『亜世界』は、『絶対に間違えない』のですから……」
「え……?間違…えない?」
「はい」
今までもずっとそうだったけど、そのとき彼女が言った台詞は、特に意味が分からなかった。
「この『亜世界』は、起こりうるあらゆる可能性の中で最良の結果のみが起こる世界なのです。だから、この『亜世界』で起きることは、その全てが正しい。貴女が意図せず私を傷付けるようなことは絶対に起こりませんし、そもそも貴女がこの『亜世界』に来てくださったことでさえも、この『亜世界』にとっての最良の結果の1つなのです……」




