08
「どうやら、前言を撤回しなければいけないみたい……ニャ…」
私の舌の上に爪を押し付けながら、まるで本でも読んでいるみたいに目を凝らしているサラニアちゃん。実際、今の彼女は多分「読んで」いるんだろう。私の顔に浮かび上がっている、『ステータス』を。
つまりそれは、『百合色コンフェッション』の効果を彼女に知られてしまったってことを意味していて…。
「この世界のレベルって、実は全然不可侵でも、絶対でもなかった…。少なくとも、あなたの『この魔法』がある限りは……ニャ…」
「あ、あが……あが……」
「さっきのが、『この魔法』の呪文詠唱?『コクハク』…っていうのをやって、姉さんをレベルアップしようとしていた?残念だけど、そんなことさせない……ニャ…」
舌を押さえつけられているせいで、私は声を出すことが出来ない。声を出せないってことは当然、『告白』することも出来ない。つまり、『百合色コンフェッション』を使うための条件を満たすことが、出来ない。
「下手に動かないほうがいい。さもないと、あなたの舌がヘビみたいに二股に分かれることになる……ニャ…。大人しくしていた方が、賢明……ニャ…」
終わった……。
私は、自分が敗北したということを理解した。
切り札の魔法は完全に封じこめられて、私にはもうどんな選択肢も残されていない。あとは、サラニアちゃんがちょっと指を縦に動かすだけで舌どころか私の体ごと、裂けるチーズみたいに簡単に切り裂くことが出来るんだろう。
ティオは相変らず瀕死の重体で、私を助けられるような状態じゃない。奇跡でも起きない限り、今の私が助かる方法なんて無いように思えた。
「さっきの姉さんは、あなたの『この魔法』があったから、バカみたいに私を煽ってきていたのね?ちょっと安心した……。姉さんが、この世界のレベルのルールを忘れてしまうほどのバカになってしまったのかと、思っていたから……ニャ…。それにしても…」目を細めて、にぃーっと微笑むサラニアちゃん。「『レベルを1・5倍にする』なんて……こんな強力なスキル、初めて見たわ。うふふ…こっちの方が、私なんかよりもよっぽどチートじゃない……ニャ…」
「あ、あ…がっ!?」
舌の上で、サラニアちゃんの爪がゆっくりと移動していく。
辛い物を食べたときみたいな、ピリッという刺激。べっとりした暖かい液体と、鉄の味が口の中に拡がる。血だ…。
これ以上その爪を舌に食い込ませないために、私は恐怖の震えさえも抑え込んで完全に硬直していた。
「ねえ…?」
サラニアちゃんが顔を近付けてくる。すべすべで、体毛と同じように雪のような純白。私の世界のどんなモデルや女優にも負けないくらいの美しく整った顔が今、私の目の前までやって来る。私はもちろん、それに抵抗することも出来ない。
彼女はたずねる。
「その魔法を、私に使うことは出来る?私に対してその…『コクハク』…っていうのをやるの。そうしたら、私のレベルは100を越えるから、その瞬間に私は神になれる……ニャ…?」
「え……?」
あ、あれ?だって…、だってサラニアちゃんは…?
私は彼女のその言葉の意味を、最初はよく理解することが出来なかった。
「冗談……ニャ…。そんなことをしてレベルを誤魔化しても、多分『神』にはなれない…。そんな小細工でなれるほど、『神』が甘いはずないもの……ニャ…」
でもそれからすぐに、さっきの彼女の言葉は何もおかしくなかったってことが分かった。彼女が私の魔法を知ったときのように、今度は私が、彼女のステータスを見ていたから。
サラニア
種族 :ウェア・キャット亜種
年齢 :10才
レベル : 70
攻撃力 : 80
守備力 : 80
精神力 : 65
素早さ : 90
運の良さ: 35
スキル :ひっかき、かみつき、体当たり
レベル、70…。
「こ、こ、れ…あ…」
「姉さんは…」ぐったりと倒れているティオを横目に見ながら、サラニアちゃんは微笑む。両目の瞳孔が細い縦長になっていく。「相変わらず、掛け算が苦手みたい……ニャ…」
「そ、そん…あ……」
私はショックを受けて、思わず声を出してしまっていた。
つまり。もう既に、彼女のレベルは61じゃあなかったんだ。
ティオがレベル15から30くらいにレベルアップしてきたように、サラニアちゃんも『あの日』ティオと別れてからレベルアップしていたんだ。
さっきもしも私の魔法が成功して、ティオのレベルが1.5倍のレベル63になっていたとしても、レベル70には届かなかった。どのみち今のサラニアちゃんには、敵わなかったってことなんだ…。
突然、サラニアちゃんが口を私の耳元まで近付けて、ふうっと息を吹き掛けてきた。
「はうぅぅ…………つぁっ!」
思わず変な声をあげてしまい、そのせいで動いてしまった私の舌に爪が更に深く食い込む。あえぎ声は、途中から苦痛の叫び声になった。
ほとんどくっついている顔と顔。彼女の頬から私の頬へ、体温が伝わってくる。胸の鼓動が、激しく高鳴る。
苦痛と恐怖と、それ以上に沸き上がってくるなんだかよく分からない感情が渦巻いて、私の心はぐちゃぐちゃになっていた。
「ふっ……」
それから、彼女は近付けていた顔を私から離した。
いや、それどころか。
私の口に突っ込んでいた指さえも引っ込めてしまって、私を完全に解放してしまった。
「はあ…はあ……。な、なんで…?」
絶体絶命と思っていた状況から急に自由になった。頭の中に浮かんでくるのは、命が助かったらしいということに対する安堵よりも、疑問の方が先だ。私を見つめている彼女の顔を、私も見つめ返す。
彼女はその視線には答えずに、何故か、どこか楽しそうに微笑みを浮かべていた。
「この世界は…レベルが全て…。私のレベルが高ければ高いほど、私はこの世界に対して影響力を持つ…。私よりもレベルの低いモンスターは、私を傷つけることも、私に逆らうことも出来ない……ニャ…」鼻唄でも歌っているみたいな、かぼそい声。「つまり、レベルが最高の100になるということは、この世界そのものが私に逆らえなくなるということ……。この世界を『自由に作り変える』ことだって、出来るはずなんだ……ニャ…。それはもはや、『神』にも等しい存在……ニャ…」
「サ、サラニアちゃんはレベル100の『神』になって、この世界を変えたいの…?」
「ふふ…」くるりと体を翻して、私に背中を向けてしまう彼女。「当然だ…ニャ…」
「そんな……」
それは確かに、この『亜世界』では当然のことなのかもしれない。
『管理者』になると、世界を『自由に作り変える』ことが出来る。
サラニアちゃんのその言葉は、実はそれほど突飛なことじゃない。だって実は私、この『亜世界』に来る前に、あのバカ王子からそんな感じの話を聞いていたから。
すべての『亜世界』は曖昧で、未完成で、まだまだ『未定義』の部分がたくさんある。そしてその『亜世界』の『管理者』は、そういう『未定義』部分を自分の好きなように定義することが出来る……って。
それはすなわち、『亜世界』そのものに対して影響力を与えて、好きなように作り変えられるってことだろうし、『神様』って言ってもいいくらいのすごい力なんだろう。その力を手にいれるためなら、どんなことでも出来るくらいに……。
「でも…」
私はたずねずにはいられない。
「そこまでして……、お母さんまで殺して『神』になって……それでサラニアちゃんは、本当に幸せなの…?『神』って、そうまでしてならなきゃ、いけないものなの……?」
「……」
サラニアちゃんは背中を向けたまま、やっぱり私の疑問には答えてくれない。私には、彼女の気持ちが全然分からなかった。
「妹のティオのことまで、平気で殺そうとするなんて……。そんなの…そんなのってやっぱり、なんか…」
「あなたは」唐突に、彼女の声が私を遮る。「どうして、姉さんの味方をしているの?」
「…え?」
私は一瞬言葉に詰まる。でも、すぐにはっきりと強い口調で言い返した。そんなの、決まってる。
「ティオは、私の友達だから…。友達を守るのは、当り前のことだよ…」
「……」
沈黙。
聞こえるのは、カサカサと木の枝が風で揺れる音だけになった。
周囲には私とサラニアちゃん、それからボロボロの体になったティオがいる以外は、生き物の気配はない。もちろん、高レベルモンスターが発するような気配もない。
静かな空間で、私はサラニアちゃんの背中を見つめている。
そのときの彼女は何かを夢中で考えているように、あるいは、私の言葉なんか聞いてなかったみたいに、完全に無反応だった。
ただ…。私にはそのときの彼女の肩が、かすかに震えてているように見えた気がした。
「そう…」
しばらくすると、サラニアちゃんはもう私のことなんて忘れてしまったみたいに、すたすたと木々の入り組んだ奥の道へと歩きだした。
「え、ちょ…ちょっと…」
「それならいい……ニャ……」
「さ、サラニアちゃん?」
そしてそのまま一度も振り返ることなく、生い茂る草木の中に消えてしまった。
ど、どういうこと?
突然のことに、茫然としてしまう私。
さっきまで、サラニアちゃんは確かに私とティオを追い詰めていた。ティオのことなんか、殺そうとさえしていたくらいだ。それなのに、私の『魔法』のことを知って、それから私とちょっと話しただけで、彼女は私を置いて去っていってしまった…。
気が変わった?
妹のティオを殺すなんて間違ってるって気付いて、それを思いとどまってくれて……でも……。彼女はかつて、自分の母親を手にかけているんだ。そのときには止めなかったのに、ティオのことは助けてくれた?どうして?
もしかしたら今の彼女にも、ティオと仲の良かった昔と同じ気持ちが……。
いくら考えても、サラニアちゃんの行動は不可解で、よく分からなくて、ただの気まぐれにしたって意味不明だった。
でもやがて、彼女の姿が見えなくなって、彼女が発する『レベルの気配』も十分に遠くなってくると、私は考えるよりも先にやるべきことがあるということを思い出して、急いでティオのもとに駆け寄った。
「ティオ!大丈夫!?」
「う、うう…」
「良かった…」
体はボロボロだったけど、彼女はちゃんと息をしている。なんとか、一命はとりとめたようだ。私は安心して、「ふう…」っと大きく息を吐いた。
「あ、ア…リ、さァ…」
「ティオ、しゃべらなくていいから…。今は、安静にしていて…」
「アリサァ………あの、魔法…を……」
いまだに、私に『百合色コンフェッション』を使わせようとしている彼女。でもサラニアちゃんがいなくなった今は、もうそんなことをする必要はどこにもない。
「ティオ、もういいんだよ……。もう誰とも戦う必要なんか…ないんだよ…」
「ア、リサァ……」
「もう、全部大丈夫だからね……」
私はティオの体を抱き抱えて彼女の背中をさすりながら、何度も何度も「もう大丈夫だから…」を繰り返していた。
日はかすかに沈み始め、蒸し暑いような陽気が少しだけ和らいできている。
相変わらず私たち以外の生き物はまわりにはいない。こんなたくさんの木々に囲まれた熱帯雨林の大自然の中なら、普通に考えれば少しくらいは小鳥とか虫の音があってもよさそうだったけど、今はそんなものさえも聞こえない。辺りは完全に静まり返っている。
2人きりの森の中で、抱きかかえたティオを見つめている私。
心の中では、1つの決意を固めていた。
サラニアちゃんとティオ、元々仲の良い姉妹だったはずの2人が今日、お互いに殺し合いのようなことをしてしまった。しかもそれに敗れたティオは今、ひどい大ケガを負って倒れている。それもこれも全部、レベルなんていう、この『亜世界』のルールがあるせいだ。レベルさえなければ、きっと2人は傷つけあう必要はなく、今でも仲のいい姉妹でいられたはずなんだ。
2人をこんな風にしてしまった、この『亜世界』のルールは、どう考えても正しくない。この『亜世界』は、間違っている。
だから私は、この『亜世界』の『管理者』を見つけて、このルールを終わらせる。この『亜世界』を『革命』してやるんだ。
この『亜世界』を他の『亜世界』と結合して、間違ったルールに縛られている2人を、解放してあげるんだ。
「ティオ……大丈夫だからね……」
その言葉は、この『亜世界』に対する私の宣戦布告だった。




