06
「さあアリサ…。早くティオに、あの魔法をかけるにゃ…」
あと数歩踏み出せば、眠っているサラニアちゃんに手が届きそうなほどの距離で、ティオは私にそう言った。
でも私には、彼女の言葉に応えることが出来ない。
「ティオ…だって、それって…」
今のティオのレベルは42。そしてティオと別れた時のサラニアちゃんのレベルは、61…。
この『亜世界』のルールに従うなら、今のティオじゃあどうやってもサラニアちゃんには勝てない。きっと、完全に眠ってしまっているらしい今のサラニアちゃんに奇襲を仕掛けたとしても、彼女の体にかすり傷1つ作ることもできないんだろう。
でも、私の百合魔法を使えば…。
ティオのレベルは42の1.5倍、つまり、63にまでレベルアップする。サラニアちゃんの61よりもレベルが高くなって、彼女への攻撃が通るようになる。彼女を、倒すことが出来るようになる。
「ティオ、一体サラニアちゃんをどうするつもりなの…?レベルを高くして、サラニアちゃんよりも強くなって……それで、サラニアちゃんのことを…」
「そんにゃの、決まってるにゃ」
恐る恐る聞いた私に対して、ティオは即答する。
「サラは、ティオの母さんたちを殺したんだにゃ?そんなヤツ、ぶっ殺してや…」
「そんなのダメだよっ!」
無意識のうちに、私は彼女の答えを遮って叫んでいた。
「ああ?」
「だってティオとサラニアちゃんは、姉妹でしょっ!?友達みたいに仲が良かったんでしょっ!?そ、それなのに、そんな相手を…殺す、なんて…そんなの…」
「アリサぁ…」呆れたような顔で私を見るティオ。「お前、何言ってるんだにゃあ?」
「だって、そんなのって…」
ティオは私の方に体を向き直す。そして、私を睨みつけた。
「最初にティオを裏切ったのは、サラの方だにゃ。アイツはティオを裏切って、母さんたちを殺した…。そのことを、ティオは絶対に許さないにゃ。だからティオは、アイツをぶっ殺すんだにゃ」
当り前のことを、当り前に言うような口調。
その瞳には1ミリの曇りもなく、彼女は、自分自身が言っていることの正しさを少しも疑っていない。
確かに。
自分の母親を殺されてしまったティオが、その犯人に対してそんなことを思うのは、少しもおかしいことじゃない。きっと私だって、自分の家族が誰かに殺されてしまったら、そいつのことを殺したいほど憎むだろう。
でも…。
相手はお母さんを殺した犯人だけど、同時に、友達のように仲が良かった実の妹なんだ。
私はこのとき、ティオに何て言って欲しかったんだろう?サラニアちゃんを見つけたティオが、彼女に対してどんな態度を取れば、満足出来たんだろう?
それは、分からない。
でも私は、友達のティオなら……私の命を助けてくれた優しいティオなら、もしかしたら、私の想像も出来ないような優しい答えを出してくれるんじゃないかって、どこかで期待していたんだ。自分勝手に、彼女に自分の期待を押し付けていたんだ。
だから、今みたいに当り前の態度をとる彼女に対して、こんなにもショックを受けてしまっていたんだ。
私はしつこくも、彼女への説得をやめることが出来ない。
「で、でも!ちゃんとサラニアちゃんと話してみたら…も、もしかしたら、彼女には彼女の何か特別な理由があったんじゃないかな!?だ、だからティオ、殺すとかそんなこと言わないで、まずは………ぐっ!」
突然、喉に強い力が掛かって、私の言葉は途中で途切れてしまった。こ、呼吸が…出来ない…。苦しさで、顔がゆがむ…。
辛うじて閉じずにいた右目には、片手で私の首を絞めるティオの姿が映っていた。
「お前、馬鹿かにゃ?」
ティオの手の力は、私がどれだけ抵抗しても全然びくともしない。まるで、万力でガッチリと固定しているみたいに私の喉元を押さえ付けていて、体内への酸素の供給をストップしている。
段々と、目の前の光景のコントラストが低くなって、景色がホワイトアウトしていく。頭の中もぼんやりとしてきて、何も考えることが出来なくなっていく……。
「この世界に、母親を殺したサラが許されるような『特別な理由』なんて、あるわけ無いにゃん…」
うっすらと聞こえる、吐き捨てるようなティオの声。まるで彼女に、すごく遠くから話しかけられているような錯覚を覚える。
それは、私の意識が朦朧としていたからなのか、それとも、私が彼女の心を遠くに感じてしまっていたからか…。
やがて彼女が首にあてていた手を下げてくれて、私はまた呼吸が出来るようになった。
「はあはあはあ…はあ…はあ…」
フットサルの試合を全力でこなした後のような、マラソンを走り切った後のような、激しい呼吸。止まっていた酸素の供給が再開して、ぼんやりとしていた私の脳がまた働き始める。
確かに、ティオの言う通りだ…。
サラニアちゃんがやったことは、絶対に許されることじゃない。彼女を断罪することは、とても普通のことだ。
でも……でも…。
それが普通で、すごく当たり前だってことは分かっているはずなのに、私は心の奥に何か引っ掛かるものを感じて、『あの魔法』を使うことを決断することが出来なかった。
「ティオ……でも、私は…」
「いいからっ!お前はさっさと、ティオにあのときの魔法を………っ!?」
何かを言いかけたティオが、突然ビクッと体を揺さぶって、素早く後ろを振り返…………ろうとした。でも、それは出来なかった。
背後に立つ白い影が彼女の肩に手を添えていて、そのせいで、さっきの私みたいに今度はティオの身動きが取れなくなっていたから。
「姉さん……」
「くっ」
忌々しそうに、眉間に皺を寄せるティオ。振り返らなくても、背後に立つ人物が誰であるかは、彼女にはとっくに分かっていた。
「どうして、私の後をついてきてしまった……ニャ…?」
「サぁ…ラぁ……」
それは、さっきまで茂みの中で眠っていたはずの、サラニアちゃんだった。
姉妹とはいえ、彼女の雰囲気はティオとは全然違っている。
切れ長の目に、全てを見透かすような冷めた瞳。真っ白な猫っ毛の体毛は、白いパンツと丈の短いTシャツを着ているみたいに体から生えていて、ティオより肌の露出度はずっと少ない。肩まで届くセミロングの白髪は、サイドの一部を三つ編みにしていた。
天真爛漫で明るいティオに対して、サラニアちゃんはとても大人びていて、落ち着きがあって、妹というよりは彼女の方がお姉さんに見える。ぴくぴくと動いている頭の猫耳と、申し訳程度につけている語尾の「ニャ」が、そんな容姿には明らかにミスマッチだった。
さっきよりも強く、大きく、ティオは毛を逆立てて体を震わせる。でも今のそれには、怒りよりも恐怖の意味の方が強いみたいだ。
「姉さんには、分かっているんでしょう?私の方が、姉さんよりも強いってこと……。私がその気になれば、いつだって姉さんを殺せるってことを……ニャ…」
「そ、そ、それは、どうかにゃ…」
「はあ…」
ティオの精一杯の強がりも、サラニアちゃんには通用しない。彼女は億劫そうに頭を振って、ため息をついた。
そこで、肩に触れていた彼女の手が体から一瞬離れたらしく、ティオは素早く飛びのいて距離をとった。サラニアちゃんは気にせずに、続ける。
「母さんたちは2人とも、私よりも姉さんの方をよく可愛がっていた…ニャ…。高レベルの肉が手に入ったときは、私よりもまず姉さんの方に食べさせていたし…。大変な仕事は、姉さんよりも私にやらせていた…。もしかして、そんな母さんたちを私が殺したから、私のことを恨んでいるの?それで私の後を追いかけて、こんなところまで……ニャ…?」
「な、何言ってるにゃっ!」
対峙する2人の猫娘。私はただただ、2人の様子を見守っていることしか出来ない。
「当たり前だにゃ!母さんたちを殺したお前のことを、ティオが恨んでいないわけがないにゃろうがっ!」
「ふうん…」
恐怖心を押し殺すように声を荒げているティオに対して、目を覚ました時からずっと、サラニアちゃんは落ち着きはらっている。まるで、ティオが何をしようが全然気にならない、ティオのことなんて相手にしていない、って感じだ。そんな妹の様子に、ティオは更に興奮を強めていく。
「お、お前にゃんかに、ティオは負けたりしないにゃっ!お前がやった罪を、その命で償わせてやるにゃっ!」
「うふふ…」
「にゃ、にゃ…にゃにを笑ってるにゃっ!」
「いえ、ごめんなさい…。だって姉さんが、あんまりにもおかしなことを、言うものだから…」
「にゃ、にゃ、にゃにおぉぉぉー!?」
もう限界だ。私はそう思った。
怒りが頂点に達していたティオは、膝を曲げて腰を沈めて、サラニアちゃんのことをまっすぐに睨みつけている。体の震えはどんどん大きくなっていて、今にも飛びかかる直前って感じだ。
「ティ、ティオ…」
ティオを抑えようとして、私は彼女に近づこうとする。
でも、それは間に合わなかった。
「ふにゃあぁぁぁぁーっ!」
ついに彼女は、サラニアちゃんに向かって攻撃を開始した。
低くて素早いジャンプでサラニアちゃんに飛びかかり、地面に足がつくよりも早く、右手から伸びた鋭い爪でひっかき攻撃するティオ。でも、その手が振り下ろされた軌道上には既にサラニアちゃんはいない。まるで誰かに呼びかけられて後ろを振り向くみたいな自然な動きで、彼女はティオの攻撃をよけてしまっていた。
間髪を入れずに、ティオはくるりと体を翻して後ろ回し蹴りを繰り出す。サラニアちゃんはそれも、何でもないことのようにサラリとよけてしまう。
大振りの蹴りをかわされたにも関わらず、ティオは体勢を崩したりせずに、そのまま両手の爪で追撃する。左…右…左…。でもやっぱり、そのどれも、サラニアちゃんにはかすりもしない。
「ふっ…」
それどころか、微笑を浮かべながら最小限の動きでよけてしまうサラニアちゃんに対して、全力で攻撃を繰り返しているティオの方が、疲労がたまっていってどんどん苦しくなっているように見えた。
「ふぎゃああぁぁーっ」
ケンカをする野良猫みたいに、相手を威嚇するような叫び声をあげ続けているティオ。
それからも、猫パンチ、キック、ひっかき、体当たり、猫パンチなどなど……。休むことなく攻撃を繰り出し続けるけれど、結局それらがサラニアちゃんに当たることは一度もなかった。大人と子供の戦いでも、ここまで一方的な展開になったりはしないだろう。
「強い…」
そんな言葉を呟いてしまうほど、そのときの2人は、まるで勝負になっていなかった。
「姉さん」
目にも止まらないようなティオの攻撃をよけながら、サラニアちゃんはティオは話しかける。
「無駄なことは、もう止めましょう……ニャ…?こんなことをいくら続けても、何の意味もない……ニャ…」
「にゃあぁぁっ!?」
両手で同時にひっかき攻撃…後ろ回し蹴りから、鞭のようなしっぽによる連撃…近くの木を使って三角跳びしたあと、死角から飛び蹴り…。サラニアちゃんの言葉が自分を侮辱していると感じたのか、ティオの攻撃は更に激しくなった。でも、どれだけ攻撃が激しさを増していっても、サラニアちゃんの態度は全く変わる様子はなかった。
「はあ…」ティオの攻撃の合間に、大きなため息をつく。「姉さんは昔からもの覚えが悪くて、難しいことを考えるのが苦手だったけど………流石に、レベルのルールまで忘れてしまったわけではないでしょう……ニャ…?全てのモンスターは、自分よりもレベルの高いモンスターには、絶対に勝てない…。そのルールに逆らうことは、この世界の誰にも出来ない……ニャ…。だから、こんなことは、全部無意味で…」
「嘘だにゃっ!」
ティオは叫んで反論する。
「サラは…お前は『あのとき』、母さんたちを殺したっ!レベル15だったのに、レベル60の母さんたちを殺したんだにゃっ!だからこの世界には、ルールを破る方法がある!」地面を蹴って地面の砂利を跳ばしてから、その隙をついて飛び掛かるティオ。「お前が使った、チートがあるはずなんだにゃーっ!」
「……ふっ」
でも。
そのときのサラニアちゃんには、そもそも隙なんて無かった。
顔を狙って跳ばされた砂利は、サラニアちゃんが優しく息を吐いただけで、全てティオの方に弾き返されてしまった。飛び掛かっていたティオは突然の反撃を避けることも出来ず、その砂利をもろに顔に食らって、それによって一時的に目が開けられなくなってしまう。素早く体を転がしてサラニアちゃんから距離をとって体勢を立て直してから、ティオは「ぐぅぅぅ…」と悔しそうに唸り声をあげた。
「もしかして姉さん、あのときの私のことを……?」
何事もなかったかのように、モフモフの手を顎に当てて、考える仕草をするサラニアちゃん。それから、何か思いついたみたいに得意げに微笑んだ。
「ふふん…。相変わらず、姉さんはバカだ……ニャ…」
「にゃああああぁぁっ!?」
完全なる殺意の色を帯びる、ティオの瞳。歯を噛みしめるギリギリという音が私まで聞こえて来るほどの、強い怒り。
そしてそのティオの鋭い眼光が、突然私の方に向けられる。
「アリサっ!」
いきなりのことで、私は体をビクッと揺らしてしまう。
「早くするにゃっ!」
「で、でも…ティオ…」
ティオの言いたいことは、私にはすぐに分かった。私に、早く『あの魔法』を使えと言っているんだ。
でも、私はやっぱり、それをしたくなかった。
だって、私が魔法を使ってしまったら…。レベルが上がってしまったら…ティオはサラニアちゃんを殺しちゃうんでしょ?そんなこと、私はティオにしてほしくない…。実の妹を殺すようなことを、ティオにしてほしくなくって…。
「早くしろにゃっ!」
明らかに切羽詰まっているティオ。でも、私の心は変わらない。
「ティオ…ごめん。やっぱり、私には……」
「ん?」そこで、初めて私の存在に気付いたとでもいうみたいに、サラニアちゃんがチラリと私の方を見た
「ふ…」
でもそれは、本当に一瞬だけだ。彼女はすぐに私から興味をなくしてしまって、自分の姉の方に視線を戻してしまった。
ティオは相変わらず、私に怒号を浴びせ続ける。
「アぁリサぁっ!」
「ティオ…きっと、他にも方法があるよ…?こんな風に、姉妹が戦い合うんじゃなくって、何か、もっといい方法が…」
「ああああぁっ!ごちゃごちゃうるせーにゃっ!」
「ひっ…!」
苛立たしそうに大きな怒鳴り声をあげるティオ。その瞬間、私が彼女に対して感じていた感情は、恐怖だけだった。彼女の顔は怒りで満ちていて、私には今の彼女が、私をドラゴンから助けてくれたときのティオと同一人物だとはとても思えなかった。
「いいからさっさと魔法をかけるにゃっ!いい加減にしにゃいと、ティオがアリサのことを……っ!?」
そのとき、予想外のことが起きた。
声を荒げながら、私の方に向かって来ようとしていたティオ。でもその第1歩で、地面に落ちていた枯れ葉の絨毯に足を滑らせて、彼女はバランスを崩してしまったんだ。
とっさのことで反応できずに、ティオは体を斜めにして倒れていく。しかもその倒れる先には、角の尖った大きな石があって、このままだと、ちょうど彼女の頭がその石の角にぶつかってしまそうで……。
「ティオっ!」
「おっと…」
一瞬遅れて、サラニアちゃんもそのことに気付く。そしてあくまで冷静に、素早くティオの側に移動した。
「もう、姉さんは相変わらずおっちょこちょいなんだから…ニャ…」
それからサラニアちゃんはティオの背中に手を伸ばして、倒れる彼女を優しく支えてくれた。もちろん、ティオの頭が石にぶつかる前に。
「ああ、良かった…」
それをみて、私もホッと一安心出来た。でも、そう思ったのも束の間、次の瞬間に…。
「にゃひっ」
ティオが突然、邪悪な笑顔を浮かべたかと思ったら、サラニアちゃんの首筋目がけて思いっきりかみついた。ティオの体を両手で支えていて身動きが取れなくなっているサラニアちゃんは、その攻撃をよけることが出来なかった。