02
「うわぁーっ!すっごぉーいーっ!」
360度、何も遮る物がないパノラマ。澄み切った空気を通して地平線まで続くビビッドな発色の森。緑と空の淡い水色との、絶妙なコントラスト。
その光景は、まさに絶景だった。
「ここまで来るとー、結構風強いんだねーっ!?」
「アリサ…。あんまり動くと、危にゃいにゃよ?」
太陽はいつの間にか私の真上にまできていて、じわじわと気温と湿度も上がっている。でも、扇風機の「中」くらいの強さの風が絶えず吹き続けているお陰で、私はまるで、長い下り坂を自転車で滑走してるみたいな爽快感を感じていた。
風に負けないように大声になっている私に、呆れた様子で助言をしてくれたティオ。申し訳ないけどそのときの私には、そんな彼女の言葉は全然届かなかった。
私とティオは今、熱帯雨林の木々の中でもひときわ大きくて背丈の高い巨木の、てっぺんに立っていたんだ。
ほんの10分くらい前。
汚れてしまった制服を諦めて、たまたまこの『亜世界』に持ってきていた体操着のジャージに着替えた私に、ティオはこんなことを言った。
「それじゃあまず、ティオたちがこれから進む道を、確認しておこうかにゃ!」
それからヒョイっと私を担ぎあげると、猫特有の身軽さで楽々と近くの木を上り始める。そしてあっという間に、この高い木のてっぺんまで私を連れてきてくれたんだ。
そこから見える景色は本当に恐ろしく壮大で、雄大で、広大で……もうとにかくバカみたいにスケールが大きくって。例えるなら、テレビとかでたまにやってる海外の大自然特集って感じ?
当然、そんな景色をナマで見ることなんて今までの人生で一度もなかった私は、あまりの感動にテンションがおさえられなくなってしまった。だからティオに注意されるくらいに羽目を外してはしゃぎまくっちゃったのも、ある意味じゃあしょうがないことだったんだ。
「ヤーッホーッ!なーんちゃってー!あははははー!」
「全く、にゃにがそんなに楽しいんだか……。もう、勝手にしろにゃ」
一向に興奮が覚めなくって落ち着きのない私を、ティオはもう放っておくことにしたらしい。私に忠告するのを諦めて、1人で勝手に自分の仕事を始めた。
「くんくん…」
「この熱帯雨林ってー、こぉーんなにどこまでも果てしなく広がってたんだねー!?全部でどれくらいの面積あるのかなぁー!?東京ドーム何個分かなぁー?」
「くんくん…くんくんくん…」
「あ、そっかー!ティオが東京ドームなんて、知ってるわけないかー!あはははー……」
「くんくんくんくん…」
「……って」
そこで、熱心に鼻をヒクつかせている彼女の姿に気付いた私。少し冷静さを取り戻す。
「くんか…くんか…」
「え、とぉ……ティオもしかして今、臭いを嗅いでるの?え…?なんか臭う…かな?」
「くんくん…」
「クンクン…クンクン…」
彼女を真似して、私も自分の臭いを嗅ぐ振りをしてみる。
う、うーん……。
自分としては、まだ「そこまで」じゃあないって思うんだけど…。でも、猫娘の鼻だとやっぱり気になっちゃうのかな…?ティオの種族は、人間より嗅覚が強かったりするのかな…。そっか。やっぱ、そうだよね…。
だって私、昨日この『亜世界』に来てから結構動いたり汗かいたりしてるのに、お風呂どころかシャワーだって浴びてないんだもん…。普通に考えて、今の私の体臭って、相当なヤバさになっちゃってるよね?だいぶ香ばしい感じに、なっちゃってるよね?
この『亜世界』の住人はみんな私とおんなじ女の子だし、そもそもモンスターな訳だし、その辺のことはスルーしてくれるかなあとか思って、油断してたんだけど……やっぱ、気になる?
「くんくん…」
気まずくって、ティオの顔を見ることが出来ない。でも、そんな私の心配なんかお構いなしで、ティオはさっきからずっと小刻みに鼻を動かし続けていた。
「ん?あれ?」
いや、鼻だけじゃない…?
よく見たらそのときのティオが動かしていたのは、鼻以外にもしっぽとか、頭からはえた猫耳とか、それから体の他の部分も。まるで全身が敏感なセンサーにでもなったのかっていう具合に、彼女は自分の身体のいろんな部分をピクピクと反応させていた。そしてしばらくすると突然、痙攣でもするみたいにビクンッ!と体を揺らしてから、ビシィッと地平線の向こうを指差した。
「うん!あっちだにゃ!」
「…?あっ…ち?」
ティオの指した方向に目を向けてみるけれど、私には緑の森が広がっている以外は何も見えない。でも、何故だかティオは自信満々でその方向を見つめている。かと思えば、1人で勝手に何かに満足しちゃったみたいで、さっさと木から地上に下りていってしまった。
「ちょ、ちょっと!ティオ!?」
「アリサ、何してるにゃっ!もう目的地は分かったにゃ!早く先に進むにゃ!」
んもう…何なのよあの子?私はまだこの木の上からの絶景を楽しんでいたいのに…。マイペースとか通り越して、自分勝手すぎるよ!
それでも私もしぶしぶティオを追いかけて木を下り始める。
「だから、ちょっと待ってってば、ティオ!何?何があっちなの?あっちの方から、何かの臭いがしたってこと?」
「臭いじゃないにゃ!『感じた』んだにゃ!」
「は、はあー?」
上るときはティオに抱えてもらってたから楽々でてっぺんまで来れたけど、自分1人でこの大木を下りようと思うと、結構大変だ。高さ数十mはあろうかっていう大木だったから、高所恐怖症じゃない私でも下を見るとちょっと足がすくむ。なるべく丈夫そうな木の枝を選んで伝いながら、おっかなびっくり少しずつ地上に向かって降下していく。ティオの方は、もうとっくに地上についてしまっていた。
「か、感じた?あんた、またワケわかんないことを…。感じたって、一体何のこと?」
私の当然の質問。それに対して、ティオも当然のように答える。
「あっちの方角から、『レベルの高いアイツ』がいるのを、『感じた』んだにゃ!」
えぇ…。またレベルの話?
いい加減その話題に飽き飽きしていた私は、ちょっとティオの話から興味がなくなった。それでも一応質問は続ける。
「ま、まあ、何でもいんだけどさぁ…。いきなり、『レベルの高さ』を『感じる』とか言われても…そんなの普通に意味不明なんだけど…。もしかして、『オーラ』とか、『気』を感じちゃったとか言うつもりじゃないよねえ…?」
「オーラ?気?何のことだにゃ?ティオはただ、『アイツのレベル』を『感じた』って言ってるんだにゃ!」
はは、さすがにオーラなんてのはないか…。だってそれだと、ゲームっていうより少年マンガの世界になっちゃうもんね?
「そんにゃことより、アリサも早く下りて来いにゃっ!ちんたらしてたら、『アイツ』が逃げちゃうにゃっ!」
「はいはい、行きますよ。行けばいいんでしょ?分かったから、ちょっと待っててって……って言うかさ…」
上の枝から下の枝へ、手を伸ばして移動していく私。手が届かなそうなところは、勇気を出してジャンプして飛び付いてみたりもする。それはまるで、動物園のお猿ちゃんがアスレチックの遊具で遊んでいるときみたいだった。
「って言うかティオ、さっきから言ってるその『アイツ』ってゆーのはさ、この『亜世界』の『管理者』って意味でいいんだよね?」
だって、私の目的はその『管理者』を探すことだってのは、昨日ティオに言ってあるもんね?
「確か『管理者』っていうのは、レベルが100になったモンスターのことなんだっけ?ってことは、よく分かんないんだけどティオはさっき、その『管理者』のレベルを『感じた』ってことでいいんだよね?………あれ?でも、それってなんかおかしくない?だって、この『亜世界』で誰かのレベルを知ろうと思ったら、その人に触ってステータス見ないといけないんじゃなかったっけ?」
私がいる場所から地上までは、まだまだかなりの高さがある。だんだん慣れてきた私は、下りるペースを徐々に上げていく。
「あ、ってことはもしかして、実は相手に触んなくてもレベルを知る方法があるってことなんじゃないの?そう言えば昨日のティオも、ドラゴンに触ってないのに、あいつが自分よりもレベルが高いって分かってたような気がするし。え?そんな方法があるんなら私にも教えてよっ!そしたら『管理者』を見つけるのがちょっと楽になるじゃん!ねえ、ティオ!ティオってば…」
「ち。ごちゃごちゃうるせーにゃあ…」
おい、聞こえてんぞ…。
木の上からあんまりいろいろと質問する私にめんどくさくなっちゃったのか、地上のティオはぼそりとそんなことを呟いた。それにはちょっとイラッとしたけど、だからって私も質問をやめるわけにはいかない。
「ティオっ!私は早く『管理者』に会いたいんだよ!だから、その人のことを知るのが楽になる方法があるんだったら、それをどうしても知りたくって…!」
「管理者じゃないにゃ」
え?
「ティ、ティオ…『管理者』じゃないってどういうことよ?だって、私は『管理者』に会いに来たんだって、言ったよね?そんで、ティオは私の手伝いをしてくれるって言ったんだから、それって当然、『管理者』を見つけてくれるってことじゃあ…」
「にゃーん?」
とぼけた顔をするティオ。
お、おい、コラ…。
「ティオだって、『管理者』の居場所なんて分かんないにゃー。でも、それと『似たようなもの』なら、分かるんだにゃー」
は、はああー…?
「『管理者』に、似たようなものおー…?な、何よそれえー…?って、ていうか、私の仕事を成功させるためには、多分、『管理者』の偽者じゃあ意味がないんだけどっ!ちゃんと本物の『管理者』を見つけてくれないと…」
「違うにゃっ!偽者じゃにゃいにゃっ!『管理者』本人じゃにゃいってだけで、ほとんどおんなじようなものだにゃっ!だって、だってさっきティオが『レベル』を『感じた』のは、『現時点で管理者に一番近いヤツ』って意味にゃんだからっ!」
い、いや、それこそホントに意味わかんないってば…。
そのときのティオは、私に説明しているっていうより、自分に言い聞かせてるみたいだった。そして彼女は、私のことなんか放って、独り言でもいうみたいに呟いた。
「だって……きっとアイツ…ティオの妹のサラは…、そのうち本物の『管理者』になってしまうハズにゃんだから…」
え…?
私は、そのときの彼女の言葉を完全に理解出来なくって、頭の中がパニックになってしまった。
「え…え…?ちょっ、ちょっと待ってよティオ。一旦整理させてもらえる…?っていうかあなた、今妹って言った?え?ティオって妹がいるの?し、しかも、その妹が『現時点で管理者に一番近い』っていう……。え?どういうこと?どういうこと?その言葉の意味が、私、ちょっとよくわかんなんだけど……」
「うにゃ?分かんにゃい?にゃんで分かんにゃいんだにゃ?にゃにが分かんにゃいんだにゃ?」
「な、何がって…全部だよ全部っ!だから、ティオの知ってること全部を、ちゃんと私が分かるように説明して見せてくれないと…!」
「ぜ、全部って……」
そこで、何故かポッと顔を赤くしたティオ。
あ、あれ?
「ティオの『全部』を、ちゃんと『見せて』にゃんて……。アリサったら、ずいぶん大胆なことを言うんだにゃ…。昼だろうが夜だろうが、お構い無しなんだにゃ…」
「は、はあー!?」
今度は私の顔が赤くなる。
「な、何言ってるのよティオっ!?わ、わ、わ、私、そんなこと言ってないでしょっ!?」
「ちょっと恥ずかしいけど…。でも、ティオはアリサだったら、どんな所でも見せてあげられるにゃ……」
暴走を始めるティオ。私は必死に弁解しようとする。
「だ、だから人の話を聞けーっ!?わ、私はティオの『恥ずかしい所』見たいなんて、一言も………キャッ!」
気づいたときには、もう遅かった。
誤解を解こうとするのに夢中だったそのときの私は、足元への意識がおろそかになってしまっていた。そして、ついうっかりそのとき立っていた木の枝から足を踏み外してしまったんだ。
だいぶ下りていたとはいえ、地上まではまだまだ10m以上の距離があった。バランスを崩して、頭を下にして地面に近づいていく私の体。それにつれて、私の落下速度には重力の加速度が加算される。いくら、熱帯雨林の地面が湿ってて、ぬかるんでて、柔らかくなってるとは言っても、こんなスピードで頭から墜落して無事で済むわけがない。
え、う、嘘でしょ?もしかして、こんなところでゲームオーバー?そ、そんなのって、全然笑えなくって…。
絶望と、ものすごい脱力感が、私を襲う。
思わず恐怖で目を瞑ってしまった私。次の瞬間に感じたのは………地面に衝突した衝撃ではなかった。
そのときの私が感じたのは、柔らかくて大きな2つのクッションと、優しい毛に顔全体を包み込まれる感触だった。それは、吸い付くような瑞々しい肌触りで、思わず顔がほころんでしまうほど気持ちよくって……って、ていうか…こ、これって、また……。
「にゃふふふ……」
間近で、妖しく笑うティオの声が聞こえる……。
は、ははは……。
私はそのとき、目を開けるのが怖かった。でも、開けないわけにはいかない。だって目を開けずにこのままでいたりしたら、それこそ何て言われるか分からないし…。そ、それにこの2つのクッションが、まだ『ティオのアレ』だって決まったわけじゃないし……。
「アリサったらぁ…」
恐る恐る、目を開ける私。
そして目の前には……案の定、どアップにされたティオの大きな胸が現れた…。
「あ、あのティオ……落ちた私を受け止めてくれたんだね…?ま、また助けてもらっちゃったなあ…。あは、あはははー…」
「木の上から、ティオのおっぱい目がけて飛び込んでくるにゃんて……木の上から下りてくる時間さえも待てなかったってことかにゃ…?アリサは、本当にティオのことが大好きにゃんだにゃ…」
「ち、ち、ち、違うからっ!?こ、これはティオの胸に飛び込んだんじゃなくって、落っこちただけだってばっ!偶然落っこちた場所が、狙いすましたみたいにティオの胸の上だったってだけで…」
「近くでよーく見たかったってことだにゃ?顔全体で感触を楽しみたかったってことだにゃ?いいにゃよ…。ティオは、アリサの前だったら包み隠さず全てをさらけ出してあげるから……」
あ、あははは……。私はもう、笑うしかなかった。
もちろん私の言ったことは嘘じゃないし、私が女の子のティオの体に対して、わざとこんなセクハラ行為をするはずがない。
でも、正直言って今の私ってもう、言い逃れ出来なくない…?昨日、今朝って続いて、懲りずにまたまたやらかしちゃって…。いくら事故とはいえ、「普通」の女子高生が、女の子のティオにこんなに頻繁にセクハラ行為しなくない…?もう、自分で自分が怖くなってきたよ……。これ、無意識で私に「そういう」気持ちがあるってことだったり……いやいやいや…。そんなわけない。そんなわけないってば…。うん。そうだよね……ない、よね…?た、多分…ね…。
「そ、そ、そんなことよりティオっ!」放っておいたらまた何かやらかしてしまう気がして、私は半ば強引に話を進めた。「私に、さっきの話を教えて……」
そしてティオは、さっき自分で言った言葉通り、包み隠さず私に教えてくれたんだ。
私に言っていなかったレベルのルールと、自分の妹のことを。