その三 濡れ衣 2
「とにかくクラスのみんなが黒石御影って女の子の言うことを信じてる。だって、現に三人も祟られたんだから。しかも早乙女呪怨という人が専門的な立場から裏付けてみせた」
「なんなの、その早乙女じゅおんって?」
「ネットで知り合った自称霊能者。たぶんインチキだ」
「そりゃそうでしょう。インチキでもなけりゃ自分で霊能者だなんて、恥ずかしくて名乗れないわよ」
そうなのか、それが大人の世界での常識か。やっぱりネットの中だけじゃわからないんだな。僕の内部で早乙女呪怨の権威は、ラピュータの城のように跡形もなく崩れ落ちた。
「あと、御影石とかいう女の子。何者なの? 同じクラスの男子に幽霊がとり憑いてるなんて、どんな顔して言ったのかしら」
「黒石御影だよ。面と向かって言ったんじゃない。幽霊が大嫌いで、ぼくには寄るのも避けてた。親しい仲間にだけ話してたのが、いつのまにか噂になって広まったんだ」
「虚言癖なの? 頭の変な子?」
「いや」
僕は我知らず、力をこめて否定した。
「嘘つきでも頭がおかしいわけでもない。彼女の友だちでそんなこと言う子はいない」
「へえ~。それなりに人望があるんだ」
「もの静かな子だよ。みんなをリードして、べらべらまくし立てるようなタイプじゃない。でも嘘をついたりはしない。だからみんなが真に受けたところもあるのさ」
お姉さんは、怪訝そうな顔をした。僕の言ったことじゃなく、言い方に対して。
「その子が噂の出所でしょ? あり得ない内容のデマの言いだしっぺ。きみが風評被害で困ってるのはその子のせいなのに、なぜ弁護するようなこと言うわけ? 嘘つきじゃない、なんて」
ぼくはなぜか、どぎまぎとする思いを味わった。
「べ、弁護なんかしてないよ」
おねえさんは、僕の戸惑いの理由を見きわめようとするかのように、こちらをじっと覗き込んできた。
「その子って、可愛い子?」
「どうかな、好きなタイプじゃない。まず目立たない子なんだ。この僕の周囲で幽霊が群れてるなんて言い出さなければ意識することもなかった」
「ふーん。つまり彼女、きみに自分を意識してもらいたくて嘘を言いはじめ、ついに目的を達したわけね」
「なんだって?」
何を言い出す、おねえさん。
そんなのとぱ違う。御影が僕に惚れてて気を引くために嘘を言いふらしたなんて。絶対にあり得ない。あの子の態度を見ればわかる。今日まで十七年、ダテに生きてきたんじゃないぞ。女の子が自分に恋してるかなんて、僕にだってわかる。あれは、僕なんか眼中にもない反応の仕方だ。御影の関心はあくまでも僕にとり憑いた幽霊ども、それを避けることにだけあるんだから。
でもおねえさんの欠点としていささか自信過剰なところがあったから、自分の通りいっぺんの人間分析について見立て違いなどとは思いもしなかった。僕のさも意外なこと言われたって驚きようを、真を突いた分析だったので言葉も出ないと思ったようだ。
僕はいや参りました、おみごとですという返しでつくろい、あらぬ向きに逸れようとする話題を修正した。
御影のことなんて話したくもなかった。
「それにしても。ずいぶん理不尽な目に遭ってるのにね。きみは何にもしてないわけでしょ」
「そうだよ。自分がしたことじゃないのに、僕が責められてる」
「ほんとにそうね。何にもしなかった」
「まったく。何にもしてないのに」
「そのままでいいと思ってる?」
変だ。話がどこかかみ合わない。おねえさんが責めてるのはクラスのみんなじゃなくて、僕のほう?
「自分を守るために何もしてないでしょ。きみはただ、降りかかる火の粉から逃げてるだけ。」
おねえさんは僕の目を覚まそうとするように、目の前で指をカチッと鳴らしてみせた。
「常識を使いなさい。きみに幽霊がとり憑いて祟ってるなんて馬鹿なことあるわけないじゃない。みんなが言うのってオカルトでしょ、オカルト。洒落じゃ済まない、現実にきみがバッシングされてるのよ。不運が連続するのは誰かのせいだという思い込みからくる濡れ衣を着せられて。そのままにしたら、きみが学校で存在できる余地がないじゃない。せっかく頑張って入った高校なのに」
おねえさんは、宣告するように指を突きつけた。
「いい? みんなにとり憑いた考えこそ悪魔なんだから、守屋護にとっての。全力で排除しなければ。オカルトを排除するか、きみがオカルトから排除されるか、二つにひとつ。なんで祟りも呪いもあり得ないって、みんなが納得するまで説得を試みないの?」
「言ってもどうせ通じないに決まってるから」
おねえさんはもっともらしく、威勢のよいことを言うが。パンがなければお菓子を食べなさいと言うのとどこか似ていた。現場を知らないんだ。
「もう、そういう空気が出来上がってるんだ。担任の先生はあの件で怪我して入院中だし(もとから頼りにならない人だけど)、誰も僕に味方してくれないよ。僕ひとり何を言おうと、空気の圧力で押し切られちゃうのさ」
「なにが空気の圧力よ」
おねえさんは俄然、怒気をはらんだ目で凄んでみせた。どうしても呑み込めない文法や数式を僕に叩き込んだ家庭教師の頃を髣髴とさせる。
「空気に権威なんかあるの? きみのはオカルトよりたちが悪い。空気に平伏するなんて。空気なんて汚れたら入れ替えるだけのものでしょ」
僕は今そこにある空気を読み、おねえさんの忠告に従うことにした。
「そうだよね。おねえさんの言うとおり。空気なんかに負けちゃいけないよね」
さて。
その後はまあ、雑談というかたち。今度は僕が、おねえさんから女子大生の私生活にまつわる不満や悩みを聞いてあげる役目を仰せつかった。こっちの相談に乗ってもらった三倍も時間をとられて。
その間おねえさんは、クラブハウス・サンドと山盛りのフライドポテトを注文し、僕にも勧めた。僕のほうはまるで食欲なくてポテトをつまむ程度だったけど、憂さ晴らしでしゃべりまくるおねえさんは快気炎をあげながらサンドイッチを平らげ、さらにジェラートを追加する。
なんのかんの言いながらおねえさん、僕と違って満ち足りた人生なんだなあ。
そんなわけで。愚痴を語り尽くし清々した感じのおねえさんと僕が店を出たのは、もう日が暮れかけた頃だ。
おねえさん本当は、僕をさらに連れ回し、色々なことをして宵まで過ごしたかったようだけど、相手が高校生なのでさすがに躊躇したらしい。
躊躇しないでもよかったのに。
実際、誰もが振り向かずにいられない魅力あふれる女子大生と、お茶を飲んだくらいで行儀良く別れるとは大人の男だったら悔恨の念を抱く場面に違いない。
喫茶店で同席中も、頭の中のかなりの部分が面と向かったおねえさんの肉体的魅力が引き起こすあらぬ想念を抑えようと懸命だったのは正直に言ったほうがいいかな。
唇を重ね合わせたい可愛い顔。服からつかみ出したいやわらかい光沢の乳房。そしてしがみつきたくてたまらないぷりぷりした感じの両脚。
すべて自分のものにしたかったのに、手を握るくらいしかできないなんて。
家庭教師として同じに勉強を見てもらう間柄だったのに、彼女と性交渉を持つところまでいった別の高校生と、いまだに清い関係のままな僕とではどこに違いがあるのだろう。
別れ際、おねえさんは僕に降りかかった災いのことでダメ押しをした。
「いい、マモルちゃん? オカルトなんて認めたら、ダメ。きみがオカルトを食うか、オカルトにきみが食われるかになるわよ」
それから、またの再会を僕と約し合ったおねえさんは、やわらかなオレンジ色の夕陽が降りそそぐ街の雑踏の中に消えていった。
おねえさんの後ろ姿を見送りながら、僕はこの人にこれまでにない愛おしさを感じた。
勇気以上のものをもらったような気がした。
翌日、僕は屈することなく学校に行った。
そして不幸の連続はまた起きた。
(続く)