第七話
「あの、またっていうのは……」
ハッとして驚いたような顔をしていた。「しまった。聞こえてしまったか」と言いそうなそんな顔だった。
私はとても不安そうな顔をして目を見つめた。
「あ、あぁ、気にしないでくれ。それにしても僕はうかつだったよ。こんな目が覚めた直後のお嬢さんに、あれこれ聞くのはマナーが悪いというものだ。珍しいお客さんだったから、少し舞い上がってしまったのかもしれないね。申し訳ない。今は思い出せなくても、いずれゆっくり時間を取れば回復するだろうさ。どれ、薬でも持ってこよう」
ニカッと歯を見せて笑いながらそう言ってはいたけれど、どこかなにかを隠しているような、誤魔化しているような顔だった。
笑顔とは言えない笑顔。
私は、そうですね……と力なく返し、視線をベッドに下ろした。頭の中はまだぼんやりとしていた。
鍵をどこに置いたとか、照明を切ってきたかとか、日常的な事を忘れるならまだしも、名前や出身、年齢、誕生日、私自身の情報を、私自身が忘れるなんてことがあっていいことではない。いいことではないというか、ありえないことだと思う。
私はただ「私」として生きてきたのではなく、きっと何か名前があって、使いながら、何十回と誕生日を迎えて、今という私が存在している。つまりその一切を忘れるということは、それまでの私はいなかったこと、私ということを自覚する存在自体を、無くしてしまっていることになる。
友人でもいれば、過去のことを話してもらって、思い出すきっかけにできるのだけれど、話によると私はここらでは見ないらしいし、見たとしてもペットみたいな扱いらしいので、その可能性はとても低く、無いに等しいものだと感じた。
「まぁまぁ、そんな切羽詰った顔しなくても。記憶というものは大きな樹のようなものでさ。一部を揺らせば、勝手に周りが揺れて、木の実が落ちるなんてこともあるんだから。名前が思い出せなくても、他の事を思い出せば自然と出てくるでしょう。きっとね」
いつの間にか机がベッドの横にあって、鍋敷みたいなものが置いてあった。なんだろうと思っていると、ドンっと机に置かれたものを見てゾッとした。
「いやー薬を飲むなら空きっ腹じゃいけないからね。少しだけでも食べてから飲んでほしいな。いや、そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ。ほんの少し失敗してしまったけれどなんの問題もないさ」
大丈夫、大丈夫と言わんばかりの笑顔でさっきの鍋を勧めてきた。正直言うと忘れていた。それどころじゃなかったし、まさか食べるとも思っていなかった。
あれをほんの少しの失敗というなら、私の記憶をなくしたことは失敗というよりおっちょこちょいとして扱えるかもしれない。
ここで断るのは流石にできなさそうだったので食べる事にした。何を使えばこんな色を出せるのかが不思議でたまらなく、聞いてみようかとも思ったけれど、とんでもない材料が入っている事を暴露されるかもしれないのでやめておいた。
ちなみに味は匂いや見た目ほど不味くはなく、ゲテモノ系だと思えば食べられなくもなかった。慣れれば美味しいんだよ、と言うけれど、動けるようになったら、自分で無難なものを作って食べよう、と決心するのだった。