春の歌。
春は、けだるい。
うっかり口に出してしまおうものなら待ってましたとばかりにゆっきーが「春というのは春分からはじまりなんだから、旧暦で生きてる人間以外は三月一日の今はまだ春じゃない」と面倒くさいことを言うのがわかってるのでわたしは黙ったまま壁にもたれて座ったまま伸ばした足の先の上靴を見た。
早春だって春なんじゃないの、と思うけど。少なくとも、今はもう冬とは言えない。
「はなのーいろーくものーかげーなつかーしいーあのおーもいーでー」
階段の踊り場に響くゆかりんのソロは、二曲目に入って絶好調だ。
「キミいい加減うるさいよ、ゆかりさん」
くるり、とシャーペンを回すとわたしの左側に座っていたゆっきーが顔を上げてため息をついた。苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「まったくだ、歌いたいんだったらちゃんと体育館行けばよかったのに」
わたしも尻馬に乗ってみた。耳障りではないけれど、誰かに見つかったら困る。
「むう」
明りとりの窓の向こうを眺めつつ機嫌よく歌っていたゆかりんはわたしたちに一斉に非難されて、つまらなそうに唇を尖らせた。屋上へ上がる階段の踊り場はただでさえ音が響くのに、今朝はいつもと違って校舎全体が静まり返っているだけにどこまでも声が通るのだ。
人が誰もいなくなった校舎は、どこかよそよそしい。わたしたちはまだ卒業生ではないのにどこか他人の顔をされてる気分だ。
そのかわりにというわけではないだろうけれど、天井側の窓から幾筋も外の光が差し込んで階段の埃をなんだかいいものみたいにキラキラ光らせている。
きれいなものみたいで勘違いしそうになるけれどやっぱりただの埃だ。
「うにー、ていうかさ歌いたいも歌いたくないもそもそもわたしら全員ちゃんと体育館へ行くべきだったんじゃないの? せっかくの卒業式だもん、ちゃんと送ってあげた方がよかったんじゃないかなあ」
首をかしげたゆかりんは反論代わりに正論を述べた。
「誰かに流されない、自分の行動は自分で。ゆかりさんが出席したいならそうすればいいと思います。自主自立の精神はだいじですよ。別に部活も委員会もやってないから私にはお世話になったセンパイもいないし」
こないだは友達が間違ったことをしていたら腕ずくでも止めるのが真の友情と、ポッキーの最後の一本をこっそり食べてしまおうとしたわたしの手首をひっつかんだ人が、もっともらしく真顔で言い切った。
「……残念だけどわたし、長く立ってると貧血で卒倒しちゃうからなあ」
ゆっきーに異議を申し立てるかどうかほんの五秒だけ悩んだけれど結局やめた。面倒だからだ。多分ゆかりんもわたしと同じ気持ちなのだろう。何か言いたそうにしたけれど、結局大きく息を吐いてやめた。
退屈そうなゆかりんとは正反対に、さっきからゆっきーはお行儀悪く片膝を立てその上に下敷き代わりのノートを置きピンクのルーズリーフにせっせとなにやら書き込んでいる。
時々内容に詰まるのか首をひねりシャーペンが止まったり回ったりしているけれど熱心だ。
「まあ、いっかー。いまさら途中参加もできないもんねえ」
言いながらゆかりんは投げ出していた自分のカバンを引き寄せて中身をごそごそかき回している。通常授業もなく、自分たちのではない卒業式の日にわざわざそんなざわざ大きなカバンを持ってきて何を持ち帰るつもりなんだろう。
「じゃじゃーん」
どこかの四次元ポケットつきのネコ型ロボットのように得意満面な顔でゆかりんは包みを取り出した。可愛い紙袋は結構な大きさで、なるほどこんなものを入れていれば確かにカバンも大きくなるだろう。わたしの謎は数十秒で解決した。
「ありがとう、卒業祝いとは気が早いけどありがたくいただきます」
わざとそう言いながら受け取ろうと手を出したら顔をしかめられた。
「さくらちゃんの卒業祝いじゃないよー」
わかりきったことをいちいち口に出して否定されるとちょっと傷つかなくもない。
「ハイハイ、わたしにじゃないんだよね」
背中のコンクリートの壁にもたれながらわたしが手を振ると、ゆかりんはまたしても不思議そうに首をかしげた。
「卒業祝いではないけれど、さくらちゃんと雪子ちゃんへであってるよー?」
「あ、そう?」
てっきり彼氏へのプレゼントの披露だとばかり思ってたのでちょっと拍子ぬけする。
「おやつにと思って」
にこっとゆかりんが愛くるしい笑みを浮かべる。わざわざ桜の花のシールで袋の口を止めていたのをはがしてゆかりんが取り出したのは手作りマドレーヌだった。
卒業式しかない日におやつを持ってくるとは、口ではどういっても結局この子も卒業式に出る気は皆無だったのではないかと思ったけれど黙っておいた。
「はい、雪子ちゃんも」
「かたじけない」
「誰だよ」
ゆっきーは大真面目な顔で受け取るが、どうしても突っ込まずにはいられない。どうしてわたしの友達はどこか違うベクトルでずれた人ばっかりなんだろう。
「で、ほかには何が入ってんのそのカバン」
マドレーヌを出したくらいでは小さくならなさそうなカバンを横目に、わたしは何気なくたずねた。
「うーんとねえ、サイン帳とね。この後カラオケ行くからおにぎりとサンドイッチとクッキーとポテチとチョコ」
「ほぼ食べ物ばかりですな」
聞いたわたしではなくゆっきーが、何か書いてる手を止めないまま口を開いた。
「だっていっぱい歌うとおなかすくって言ってたしー!」
何時間カラオケボックスに閉じこもるつもりなのかゆかりんは胸を張って答える。わたしは聞かなきゃ良かったと小さく後悔した。ゆっきーは何も気にしてない涼しい顔をしている。
「しかし、キミは我々に付き合わずにちゃんと卒業式に出たほうがよかったのではないかい? ちゃんと送ってさしあげたほうがさ」
長い髪を耳にかけてゆっきーがからかうような目をあげた。ゆかりんは少し赤くなりつつラップに包んだマドレーヌを撫でた。
「えー、べつに……この後ずっとカラオケだし」
「ふふふふ」
ゆっきーはおかしそうに笑った。
ゆかりんと一学年上の先輩が付き合いだしたのは去年の年末のことだ。受験生だというのにずいぶん呑気なその先輩は悠長に大晦日に告白をしてきたのだった。
わたしたちと同じく部活も委員会もやっていないゆかりんと先輩にどんな接点があったのかは不明である。当のゆかりんが不明だというのだから、この先先輩が口を割らなければ永遠に明らかになることはないだろう。
それでもその先輩はゆかりんを見つけ出し、ゆかりんは先輩の手を取った。それだけのことだ。
「それより雪子ちゃんはさっきから何を書いてるの?」
形勢逆転を狙ったのかゆかりんはずいと膝を乗り出し手元をのぞこうとした。
「ラブレター」
「えっ!」
さらっと返った答えに、ぐいっと額を押し返されたゆかりんとおんなじ表情と別々の声で思わず叫んでしまった。こんな日にあるはずもない宿題や課題だと言われたほうがまだしも驚かなかったと思う。
「誰に? 誰に?」
チャレンジャーなゆかりんはすぐさま直球で勝負を挑む。わたしはとりあえず動揺したまま手元のマドレーヌに食いついた。
「プライベートな質問はちょっと……」
ゆっきーは芝居がかったしぐさで髪をかきあげながら伏し目がちに答えた。パブリックな質問なんかあるのかと突っ込みたかったけれど、口の中がマドレーヌでいっぱいなのであきらめてもぐもぐしている。
「じゃあじゃあ、それはそれとして。だったらそんな紙に書いちゃだめだよ雪子ちゃん!」
なぜかゆかりんが大慌てで自分のカバンの中をまさぐりはじめる。ゆかりんはかわいいメモ帳や便箋をたいてい常備しているのだ。
けれどさすがに今日は三年生の卒業式しかない日だったので、ちょうどいいものが見つからなかったのだろう。しばらく探してがっかりした顔をあげた。
「いいんだよ、紙なんてなんでも。そこに心がこもってさえいればさ」
「だからオマエは誰だって……」
相変わらずいかにも意味深げに微笑するゆっきーに、ちょうど口の中が空になったわたしは小声でようやくそれだけ言えた。
「心かあ。そうかもだけど、でも可愛くラッピングして見る前から楽しみにしてもらえたほうがよくない?」
ゆかりんは納得いかないように食い下がる。
「ふふふふふ」
ゆっきーは答えずただ笑った。そしてそのまま続きを書き始める。そんなに長く、そんなにたくさんの言葉が出てくるほど誰かを好きなのかと、普段のゆっきーの行動や態度を考えると意外である。
「さくらちゃんは好きな人いないの?」
ゆかりんは唐突にあっさりと矛先を変えた。ぐう、と喉の奥が鳴る。
「いないよ、ていうかついでまるだしで聞かないでくれない?」
「えっ、そういうわけつもりじゃなかったんだけど! でも、ごめん」
顔をしかめるとゆかりんは素直に首をすくめた。
「んーと、雪子ちゃんの好きな人はどんな人?」
反省しても堪えない女、ゆかりんは優しく笑って今度はまたゆっきーに別の質問をした。柔らかい春の光は温かいのに、踊り場の空気はなぜかひんやりしている。
「知らない」
ゆっきーは顔を上げずに答えた。
「えっ?」
さらっとした返事に、ゆかりんは不意をくらってびっくりした猫のように目を丸くし背を伸ばした。
「どどどどどういうこと?」
「そんなにあわてることかな?」
さらに問いを重ねるゆかりんにゆっきーは苦笑をもらした。
「話したことがないから、わからない」
ゆっきーは長い髪を揺らして首をかしげるようにした。
「半径三メートル以内の近くに行ったこともない。だからどんな人なのか知らない」
「へ、へえ……」
ゆかりんはぱちくりと瞬きをした後、それからやっぱりにっこりとした。
「でも、好きなんだね」
「うん」
「えへへ。そっか。じゃあこの手紙渡して、それで相手の人が雪子ちゃんのことを知ってくれたらいいね」
ゆっきーは答えずただ笑って、そしてシャーペンを持ち直す。わたしは黙ったまま二個目のマドレーヌを口に放り込んだ。
手作りのマドレーヌは作った人とよく似て、生地がしっとりしていてそして甘い。
それからしばらく主にゆかりんとわたしが、おしゃべりをした。明日の授業のこと。春休みのこと。それから三年になった後のクラス分けの話。
「また三人が同じクラスになる奇跡がおきるといいねえ」
「安い奇跡だなあ」
妙にしみじみと言うのに思わず突っ込んでしまったけれど、ゆかりんは不本意そうに唇を尖らせる。
「そう? 地球上にこれだけたくさんの人がいて、その中で気があった人とわずかにでも一緒にすごせる時間があるのって十分奇跡だと思うんだけど」
「そ、そう、ですね」
ゆかりんの至極真面目な反論になんとなくたじろいで、わたしは後ろの手すりにもたれる。ゆっきーがおかしそうに笑った。
「判定。どっちも正しいと思います」
「えー?」
口を挟んだゆっきーにゆかりんは不満の声を上げた。
「ゆかりさん。わたしたち三人が一緒にいることなんて奇跡とかいうそんなたいそうなことじゃないんだよ。たまたま家が同じ学区内でたまたま同じクラスになった。それだけのことだよ。出会うことが奇跡だったらキミは何万何千何百何十の奇跡をムダにしてきてるのさ」
「う? そうだけど。でもそうかなあ。うーんうーん」
つらつらと流れるように喋るゆっきーに、ゆかりんは首を傾げたまま悩んでいる。
「当たり前のことだから奇跡なんだよ」
「なんか……わたしが言うのもなんだけど騙そうとされてる気がする……」
「そうよね、そうよねさくらちゃん」
わたしの加勢を受けてゆかりんは意気込んだが、もうゆっきーは何も言わず相変わらずの涼しい顔で三枚目のルーズリーフの途中でペンを止めた。
「完成」
ゆっきーはようやく顔を上げた。
「おお、おめでとー」
ゆかりんが手を叩いて労をねぎらった。わたしは三つ目のマドレーヌを食べる。二人はルーズリーフを間に、主にゆかりんが嬉しそうに手紙の内容について喋っていた。
そうしているうちに外が少し騒がしくなった。
「あ」
背をそらして窓の隙間から校庭をのぞいたゆかりんが明るく笑う。
「終わったみたいだよー。卒業式」
確かに校庭にはぞろぞろと今日の主賓と思われる制服の胸に花飾りをつけた生徒たちが体育館から出てくるところだった。
「よっし。そろそろ行こっか」
ゆかりんは弾かれたようにぴょんと立ち上がった。プリーツのスカートの裾を手で払いながらわたしたちを見たけれど、わたしはもとよりゆっきーも座ったままの姿勢で変わらない。
「行かないの?」
「別に急がないから……」
「右に同じく」
「もー、さくらちゃんも雪子ちゃんもほんとに怠惰だなあ」
そういわれても別にまだ帰れるわけではないし、卒業生たちと別れを惜しむ必要がない以上下に降りても所在がないだけなのだった。
「ボタンをもらう人はお急ぎを?」
言いながらわたしが手のひらを階段に向けると、ゆかりんは拗ねたような照れたような表情を浮かべた。
「もらわないもーん」
「あれ、そうなの?」
「だって、まだ公立高校の受験終わってないし」
「たしかに」
わたしは納得してうなずいた。
「ボタンをもらわれる先輩たちのお母さんは、受験のためだけにわざわざ縫い直すわけだね。予定外に息子がもてて予備がないとかいう家庭はあるんだろうか?」
ゆっきーは折りたたんだルーズリーフを脇によけて真面目な顔でつぶやいた。
「えーと、予備なかったら買うだけじゃないの」
「そのためにだけにかい。大変だな」
ゆかりんは本当に真面目に答えたけれど、ゆっきーは大げさに肩をすくめてみせた。
「でもきっとそういうのはいい忙しさなんじゃないの? お母さんだってモテない息子よりモテる息子のほうがうれしいはずだもん」
「なるほど。それでもキミはもらいにいかないと。未来のお母さん予定を喜ばせてはあげないのかい?」
くすりとゆっきーが笑うと、ゆかりんは真っ赤になって声を張り上げた。
「いっぱんろん!」
ゆっきーは今度は声を上げて笑った。
二人のやりとりを聞きながら、わたしは自分のナップサックを引き寄せる。さすがにもうマドレーヌはお腹いっぱいで食べられない。ウーロン茶のペットボトルを持ってきてたのだった。
どうにも甘いマドレーヌは美味しいけれど食後は口の中がもさもさする。ウーロン茶を三分の一ほど一息に喉に流し込んだ。
「ま、いいからとりあえず行きなよ? センパイ待ってらっさるんじゃ?」
「もう」
ゆっきーの台詞にからかわれたと思ったのかゆかりんはちょっとだけふくれた。そして上靴の音も軽やかに階段を一気に半分駆け降りていく。
そして不意に振り返った。ちょっとぽかんとしたような、不思議そうな顔で。
「どした?」
何か忘れ物かとわたしが辺りを見回しながら尋ねると。ゆかりんは丸い目で問いかけた。
「ねえ雪子ちゃんの手紙の相手は、三年生なんじゃないの?」
やっぱりど真ん中ストレートで勝負をしかけてくるのだった。
「ふふふふふ」
ゆっきーは笑うだけで肯定も否定もしない。ゆかりんはいつもいつもおっとりしていて鈍いくらいでイライラする時もたまーにあるのだけれど、時々、ほんっとーに時々こうして鋭いことを言ってきてやっぱりそれはそれでちょっとだけイライラするのだった。
「渡さないの?」
ゆかりんは悪意も何もない柔らかな声で重ねて質問をした。
「もちろん渡すよ?」
あっさりとゆっきーはうなずいた。
「そっか」
何を納得したのかゆかりんもうなずいた。
「じゃあまたあとでね」
ひらひら、と手を振ってまたゆかりんは階段をおりていく。わたしとゆっきーだけが屋上に続く階段の踊り場に残された。
「渡すのか?」
「なんで?」
思わず確認してしまうと、ゆっきーはおかしそうに笑った。なんでと言われても困るけれど、渡すのかどうか疑問だっただけだ。
ゆっきーは自分の書いたルーズリーフの手紙を取り、眺めなおして満足そうにしている。
「我ながらよくも書いたものだよ。長文乙だ」
言いながらゆっきーは、何の躊躇もなく惜しげもなく真っ二つに破った。
「げ」
渡すといった端からなにをしてるのかと驚くわたしを尻目にゆっきーはさらに細かくびりびりと破っていく。
「さくらさん」
「ハイ」
ゆっきーの口角は上がっているけれど笑っているのかどうなのか判別しづらかった。だからわたしは慎重に返事をする。
「キミはわりと嫌な人だ」
「……それはどうも」
「でも、いい人だ」
「どっちだよ」
「ふふ」
ゆっきーは目を伏せて笑うと、立ち上がった。わたしもそれにならう。わたしよりほんの少し背が高いゆっきーはわたしを見下ろす形になる。
「キミと友達でよかったなってことだよ」
「全然わからんわ」
「いろいろ気を使ってもらってありがとうゴメンナサイってことだよ」
「――――」
「知らん顔しつづけてるのも骨が折れるだろう?」
「……なんのことだか」
わたしは肩をすくめる。そう言われたら最後まで知らん顔し続けるしかないじゃないか。
「ちゃんと渡すと言っただろう?」
「……言ったね」
「でもこのまんまじゃ渡せなかったじゃないか。そうだろう?」
「…………」
答え難い質問はパスするに限る。三回まではパス可能のはずだから。いまそう決めた。
ゆっきーは紙片を握りこんだ側ではない手で、屋上へ続く鉄のドアを開けた。外からふわりと風が吹き込む。建物の中より外のほうが温かかった。
そのまま屋上へ出ていくゆっきーについていくと、手すりの向こうのグラウンドに在校生と卒業生と先生たちと保護者が混然となっているのが見えた。休んでいる人以外ほぼ全員勢揃いなんじゃないだろうか。
そんな中でもゆかりんと先輩はすぐに見つかった。グラウンドとバレーコートをわけるイチョウ並木とフェンスのそばに立って何やら楽しげに話している。
楽しげにというのは百パーセントわたしの想像で顔までは見えないから雰囲気だけの話だけど、少なくとも別れがたくて泣いてる様子はなかった。
しばらくそうやって二人を眺めていると、どうやら視線に気が付いたらしい。先輩とゆかりんがほとんど同時に顔をあげ、こちらを向いた。
その反応の良さに思わず、おお、とわたしがたじろいでいる間に隣のゆっきーが大きくぶんぶんとあげた腕を振った。最初は横に。そして手招くように前に。
ゆかりんはちょっとだけなんだろうというように首をかしげたように見えた。けれど迷うことなく校舎のほうへ走ってくる。今日の主役である先輩の手をつないだまま。
「ふふふふーん」
ゆっきーはわたしを見て笑い、そしてフェンスに振ってた手をかけた。まさか飛び降りるようなヤツだとは思わないが何をするつもりなのだろう。
二人がちょうど真下に来て、ゆかりんがおーいと声を張り上げながらわたしたちに手を振り返した。先輩は困惑しような照れたような顔でその隣でやっぱりわたしたちを見上げている。
「よっ、と」
掛け声とともに、ずっと掌に握っていたピンク色のルーズリーフがぱっと空に散った。三枚分の小さく破かれた紙片は最初は思ったほど綺麗に広がらなかったけれど、すぐに吹いてくる春の風に乗ってふわりふわりとグラウンドに舞い落ちる。
ゆかりんと先輩の上に。たくさんの卒業生たちの上に。そんなにたくさんの量ではないけれど、まるで卒業生を祝福するせっかちな桜の花びらみたいだった。
卒業生ではないくせにゆかりんはぱあっと嬉しそうに顔を輝かせてた。きっとこの花弁の正体には気が付いてないと思う。
先輩は雪を受ける時のように指をのばしたけれど、気まぐれな風はそこまで紙片を運ばなかった。
その紙切れを先輩が手にしたからといって、何が伝わるわけでもないのだけれど。
「ね?」
さらりと長い黒髪が揺れた。ね、と言われても困る。二度目のパス。
「ふう」
一仕事終えたとでも言うようにゆっきーは大仰に息を吐きフェンスに両肘をつくようにもたれた。
何か成し遂げたみたいな顔をしてるけど、君はなんにもしてないぞ。そう突っ込むのは簡単だけれど、考えた末に他の話をした。
「……いいけどさ、これ、後で先生に怒られんじゃね?」
「ふふ」
ゆっきーはにやりと人の悪い笑みを唇に乗せ、わたしの肩に手をおく。
「だから、キミと友達でよかったと言っただろう、さくらさん?」
返事をする前にバタバタと階段を駆けあがってくる怒りのこもった複数の足音が聞こえて、わたしは軽い眩暈を覚えつつこめかみをおさえた。
なんて言い返してやろうかと口をぱくぱくさせてみたものの妙に誇らしげなゆっきーの表情に毒気が抜ける。
結局ゆっきーのそのセリフに対するわたしの返答は、先生たちの乱入によって永遠のパス三度目に消えたのだった。