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05.シュガーチョコレート



 二人が隠れた場所は借り手のいない雑居ビルらしく、その一室は何も置かれずにがらんとしていた。照明器具も外された状態で薄暗く、道路側の窓からの西日だけが部屋の所々を赤く照らした。

 千代子は窓から、というよりは心から離れて、向かいの壁に背中を預けて座り込んだ。徹底的に相手を遠ざける構えを取る。

 気を許す素振りすら見せない彼女だったが、心は動じることなく近寄って隣へと移動した。相手の神経を逆撫ですると知った上での行動で、当然ながら千代子に強く噛みつかれた。


「ちょっと、こっちに来ないでよ。私からもっと離れて!」


「大丈夫です。僕は気にしません」


「私が気にするの。アンタの気持ちなんて知ったことじゃない。何でもいいから離れてってば」


 本当に噛みつきかねない剣幕に、心は心なりの言い分を率直に言い渡す。


「そう言われても、僕は貴女に危害を加えるつもりはないし、恋愛対象にも見ません。性別的にも魅力があるとは言い難いので、貴女と距離を置く理由はないんですが」


「…喧嘩売ってんの?」


「いいえ。仮に売ったとするなら、僕の負けは明白です。なので買わないで下さい」


「だったら、つべこべ言わずに、離れなさいよッ。…ハァ、もういい」


 軽い応酬の末、鬱陶しそうに千代子は折れた。一定の距離は保ったがそのままの位置に収まる。

 心はここまでの彼女の僅かな言動を観察して、非常に人を信用しない性格であると判断していた。そういう場合は、下手に相手に合わせて信頼感を得ようとすると逆に疑われて不信感を持たれることが多く、あくまで自分のペースを維持して本心を偽らずに接するのが得策と考えた。

 好意を持たれるかどうかは別として、だが。


「ところでアンタは」


「木之本です」


「…木之本は、どうして私がここに来るのが分かったのよ。アンタも私を待ち伏せしていたように思えるんだけど」


「彼らの情報を盗みました。彼らや自分の能力について調べていく過程で貴女を知って、彼らに捕らわれる前に接触してみようかと」


「ふーん。おかげで私は助かったんだし、お礼をするべきなのかもね。ありがとう」


「…、」


 嘘の説明に千代子は顔を傾けて感謝の意を示す。心はそれを横目で眺め、言及はしないで【組織】に関する情報を話し始めた。

 聞かせる内容は灼童から受けた説明とほぼ変わらない内容にした。知られても困らない程度に留めて、常逸者、超過能力、【組織】、それと自身の能力についても話しておく。千代子が狙われている理由については、心もまだ詳しくは聞いていないので、分からないと答えておいた。

 勿論、推測は容易だし既に済ませてはいたが、話せば彼女の敵愾心を一気に煽ることになるので止めた。


「超過能力、ねぇ。私の場合は触覚って訳…」


 千代子はおもむろに手を動かし、指先で床を擦る。ピシリと亀裂が入ったかと思うと指はズブズブと床に埋まって押し広げていき、手で掴める大きさにくり貫いた床の欠片を持ち上げて見せた。それはやがて砂となり、手のひらから零れて落ちていく。

 その様子を始終見つめていた心は、灼童の話を思い出していた。




 曰く、超過能力は大別して二種類存在する。


『一つは体躯型。多くは通常の筋肉の限界を短時間ながら超えて発揮される。最も戦闘に適した形であり、糧を得る為の闘争本能に根差したものだ』


『一つは五感型。視覚や聴覚など 、人が認識できるそれぞれの五感が常人を超えて発揮される。他者から身を守る為という趣が強く、より防衛本能に根差したものとなる』


 例えるならば、前者は矛で後者は盾。世の常が弱肉強食であるように、一方が襲いかかれば一方は食われ、そうはさせまいと防ぎにもかかる。そうして顕れたのがこの二つなのだ。

 しかし、必ずしも互いが同等であるとは限らない。


『体躯型に比べて、五感型はどうしても見劣りしがちだ。なんたって外部への干渉ができないんだからな。見ただけで相手を傷つけられるか? 匂いを嗅いだだけで殺せるか? 聞いてはどうだ? 舐めては? ーーできるはずがない。五感強化はあくまで自己防衛が目的で特化されたものであり、だからこそ危険度合いも低く【組織】としてはさほど問題視されない。“一部、例外を除いては”』


 何事にもある例外。それは体躯型が攻めるばかりでなく守りにも運用できるように、五感型にも他者への干渉を可能にするものがあるということ。対象を感じるだけでなく、操り動かすことも解き崩すこともできる、矛と盾を両方兼ね備えた形。

 標的たる佐藤千代子が有する能力、触覚強化である。




「ーーー昔からそうだった。私が触るものはなんでも壊れやすかったの。それもわざとしたようにしか思えない壊れかたをするもんだから、親もカンカンに怒ってさ。自分が原因だって気づいてからは、なんとかコントロールできるようにって必死になったっけ」


 心が情報を提供し終えてしばらくした後、沈黙を嫌ったのか千代子が口を開いた。

 半ば親しげな雰囲気を醸しながら少しずつ自身のことを語り出す。心への誠意と信頼の証を立てる為に。

 気を許せる相手として、心との私的な会話を望む。


「周りの人と打ち解けるのにも苦労したわ。こんな能力だから、相手に迂闊に触ることもできないじゃない? 友達から遊びに誘われても大抵は断らないといけなかったし、たまの付き合いでも相手を傷つけないよう気を使わなきゃいけなかった。それが面倒なことこの上ないったら」


「大変な幼少期を過ごしたんですね」


「まあね。アンタはいつから知ったの? その、自分が普通じゃないって」


「さあ。あまり自覚したことがないので分かりません。僕にとってはこれがずっと普通だったので」


「へえ…、私と同じね。私にとってもこれが普通よ」


 そう言って微笑みを見せた彼女に、初対面の時の警戒は見受けられなかった。

 弁舌は次第に饒舌となり、わだかまりを取り払おうと滑らかに紡がれる。


「その制服ってウチの学校のよね。最近転入したばかりで男子のはうろ覚えなんだけど、同じ学校の生徒? 学年は?」


「同じです。一年のA組。佐藤さんは最近越して来たんですか」


「そう、この街に来てまだ二ヶ月ってところよ。何処になにがあるのかも分からなくて困っちゃうわ。もうしょっちゅう道に迷うし、それにーー」


「はあ。そうですか。ええ…、」


 時間稼ぎは順調に進んでいた。千代子の方から積極的に話をしてくれるようになったので、現状を維持すれば灼童が現れるまでいくらでも延ばせると心は謀る。


 この不毛なやり取りを、いつまでも。


「佐藤さん」


 心は、放っておけばそれこそいつまでも勝手に話していそうな千代子を呼び止めた。

 彼女との距離は置いたまま立ち上がり、正面に向き直って見下ろす。熱心に話す千代子がすぐに対応する様を見つめる。


「ああ、ごめん。私ばっかり話してたわね。何?」


「本当のことを話します。嘘です」


 心は躊躇なく教えた。悪びれることもなく、平坦な声で、ただ真実を。


「はい? 嘘って、何が?」


「僕も【組織】の差し金です。彼らの仲間ではないけれど、脅されて仕方なく」


「……へえ」


 千代子は特に驚いた様子もなく、白状された内容に頷いて受け入れた。雰囲気はまた初めの頃に戻って他を寄せ付けないものとなり、心への敵意を(あらわ)にする。

 油断なく立ち上がり、身構える彼女は疑問を口にする。


「それで、本当の目的は? なんで急に芝居を辞めたの?」


「目的については時間稼ぎ。とにかく向こうから合図があるまで足止めするようにと言われました」


「合図って、まさか」


 早とちりする千代子に心は(かぶり)を振った。


「合図はまだです。僕の独断で足止めを中止しました。理由は…、自分でもいまいち分かっていません。ただ、なんとなくです」


「はっ。なんとなくね。本当、訳が分からないわ。」


 不明瞭な答えに嘲笑されてしまうが、心は別段気にしなかった。それよりも千代子に問われた理由の方が心には引っ掛かった。

 計画を頓挫させるような選択を取った理由が本当に分からなかった。失敗すれば自身の命も危ないのに、自らの意思で辞めるなんて有り得ない。それなのに気づけば行動を起こしていた。全くもって腑に落ちない。

 いくら自問しても答えは出ず、意識にもやがかかったような感覚を覚える。視覚強化の癖にまるで見通しが利いていないとは皮肉なものだ。

 まさか、千代子の“偽り”が癇に触った訳でもなしーー、


「ホント、なんだかなあ」


「!?」


 心と千代子が睨みあう中、失望の声が割り込んだ。二人が屋内に侵入した窓のある方を見れば、追跡者が腕を組んで壁に背を預けている。

 両手にサバイバルナイフを持ったまま、腕を組んで刃を覗かせる危険人物。

 【組織】に属する常逸者、灼童がそこにいた。


「いやいやいや、なんでそんなにアッサリ明かしちゃうのよ後輩くん。イイカンジに会話も弾んでいただろうに、明かすにしてももうちょい長引かせるべきでしょーが。いくらなんでも短すぎ。これはもうはっきり言って落第点だ。バッテンだね」


 灼童は千代子の存在をまるごと無視して心の不手際を責めた。協力関係を結んでいたのに突然裏切るような真似をしたのだから当然…、というのは彼の主観であり、実際は脅されている身で裏切るも何もあったものではないのだが、心は素っ気ない態度で一応は言い繕う。


「それはそうですが、貴方がそうやって姿を見せたのなら、これで充分だったのでは?」


「まあねー…。包囲網はしっかり敷けたけどねぇ」


「っ!」


 渦中から離れて壁際で小細工を施している千代子を一言で牽制した。

 不敵な笑みを浮かべながら灼童が教える。


「壁抜けの最中に悪いんだが、逃げるのはオススメしないぜ。このビルを中心に五十メートル以内に人員を配置した。俺以外の人間が出てくれば即射殺してもいいと命じてあるからな」


 至極親切な忠告が為され、彼女はすぐに疑う。


「嘘ね。関係のない一般人だっているのに、人目のある街中で包囲なんて出来る筈がない。人払いだって無理でしょ。そっちにどれだけの権限があるのかは知らないけど、」


「はは、ごもっともなご意見だ。だが都合良く忘れんなよ。俺達は常識に囚われない存在だってことを、大勢の意識に働きかける超過能力だってあるかも知れない可能性を」


「…チッ」


 千代子は憎々しげに灼童を睨み、背後の壁から手を放した。真実かどうかが分からない内は賭けに出るべきではない。

 従順な態度に灼童はニッコリ笑顔で、心は静観の姿勢で成り行きを見守る。

 太陽がさらに傾いて、室内に射し込む光が赤みを増していく。


「それで、アンタ達は私をどうしたい訳? こんな回りくどい真似をしてまで追い回す理由は?」


 追い詰められながら、千代子は強気な態度を崩さずに詰問する。内心では動揺と焦燥に苛まれていて、質問への解答など微塵も気にかけてはいない。とにかく時間を稼いで窮地を脱する為の策を練る魂胆らしい。

 浅はかなその徒労を、灼童は面白がって乗っかった。


「そうだな。敢えて回りくどい言い方をするなら、俺達【組織】は非公式の法執行機関であることと、あとは自分の胸に手を当てて聞いてみな」


「…そう」


 ふざけた上に曖昧な内容の答え、だが千代子は妙に納得した様子を見せた。焦りと不安が一挙に引いた彼女は、何処か無感情な表情を浮かべる。

 さらに二、三は質問をしてくるだろうと読んでいた灼童は、千代子の次の行動にやや驚いた。勝ち目も策も何も無いまま、腹を括ったように躊躇なく歩き出したのだ。


「おっと、ヤル気満々?」


「…、」


 やられる前にやろうとでもいうのか。心のそばを通って部屋の中央を横切ろうとする千代子を相手に、灼童も楽しそうに体勢を整える。

 身近に迫る彼女に対して、心は一歩も動かなかった。これは二人の問題で、自分は利用されただけだ。役目も大体はやり遂げた。あとは殺しあいでもなんでも勝手にすればいいとぞんざいに思う。


 或いは、自分を人質にするのも一向に構わない。


「っ」


「わお」


 今まで味わったことのない感覚が心を襲った。

 不意に千代子の左手が胸元へと伸びて、抵抗感もなくゾブリと差し入れられた。服も皮膚も骨すらも貫いて、内側で脈動するモノをしかとその手に握られる。


「…油断したわね」


 悠々と向かっていた灼童は立ち止まり、興味深げに肉体の繋がった二人を眺めた。それを見て取った千代子は、心の心臓が脈打つのを感じながら鋭く警告する。


「それ以上近づかないで。さもないとコイツの心臓を崩す。殺すわよ」


 灼童への脅しを聞きながら、千代子の手に力が籠っていくのを心は感じた。

 殺される。自身の命をその手に握られて死の瀬戸際に立たされるのを心は自覚する。だが、それについては特に感慨が湧くことはなく、ただ醒めた眼差しでたじろぐ千代子を見据えるばかりだった。

 彼女は、急に笑い声を上げた灼童に気を取られて心の視線に気付かない。不気味にさえ思える大男に疑問をぶつけている。


「何が可笑しいの?」


「いやだってさ、今しがたのやり取りで俺と後輩くんの仲は脅迫関係だって知れただろうが。それなのに、まさか人質としての価値があるとでも?」


 その一言で愕然とする千代子を尻目に、灼童はゆっくりと一歩ずつ、楽しげに歩みを再開した。

 ここにきて本格的に焦り出した千代子が喚き散らすが、灼童には通用しない。人質となった心への配慮など欠片すらも持たない。


「近づくな! 殺すって言ってんのよ、本当に!!」


「だからさ、殺ればいいじゃん。こっちはさして困らねーよ」


「はあ!?」


 思わず間の抜けた顔を晒した千代子を笑って、灼童はさらに追い打ちをかける。


「というか、そもそもその状態から手を引き抜けるのか? 半解した体組織を治しながら、そっくりそのままの健康体に? …有り得ないな。お前の触覚強化は複雑な構成の物体を再構築するのに拙い。これまでの逃走経路の痕跡を見れば、それは一目瞭然。崩せはしても直すに難いんじゃあな。ーー結論、後輩くんはすでに死に体で助けるのは無理! ってことで」


 触覚強化の欠点を完全に論破された。千代子は二の句を次げず、勿体振りながら近づいてくる灼童を眺めるしかなくなっていた。

 彼女の手が震えている。冷や汗を流し、この危機的状況をどう乗り切ればいいのかを悩みに悩んでいる。

 その姿をずっと傍観していた心が、長い長い溜め息を吐いて注意を向けさせた。


「もう止めにしませんか。佐藤さん」


「うるさい。あんたに構ってる余裕なんてないの、黙ってて」


 相手にしようとしない彼女に、心はしつこく話しかける。


「佐藤さん、もう良いでしょう」


「黙れって言ってるのよっ。そんなに死にたいの? いいから黙って、」


「止めませんか」


「何をよ!!」


 あまりのしつこさに感情を剥き出した千代子を、心は対照的な表情で見つめ返した。

 千代子もまた目の前にある顔を直視する。話の流れからして死んだも同然だというのに、命の危険に晒されながら動揺も焦りも恐怖すらもないその表情と無機質な目が、千代子をさらなる混乱へと陥れる。

 さらに後押しするかのように彼女は気付く。その手に握られたものの脈動が、一度として乱れることなく一定を保っていると。演技でもなんでもない、差し迫った死への実感を持っていないことを。まるで血の通わない機械を相手にしているようで、千代子は鳥肌を立てて戦慄した。

 いつの間にか灼童も歩みを止めて二人を眺めていたが、心は千代子だけを見て行動を続けた。自分の体に突き刺さるその手を、無遠慮に掴んで引き抜きにかかった。

 千代子はぎょっとして反射的に抵抗した。


「何してるの。話を聞いてなかったの? この状態で抜いたらどうなると思ってんの!?」


「出血多量で死にますね。それがどうかしましたか?」


「どうかって…、どうかしてるのはアンタよ!! このままじゃ死ぬのよっ? アンタ頭おかしいんじゃないの!?」


 言い合う間にも、少しずつ腕が引き抜かれて結合部が血に染まってきた。心の制服に紅い染みがジワリと滲んでいく。それを目にした千代子の顔が著しく青ざめて、彼女は空いた手で心の引き抜こうとする腕を掴んだ。

 強まる抵抗に、心は引き続き栓を抜こうとしながら、残酷なまでに冷たく言い放つ。


「どうせ殺すつもりだったんでしょう? 何を躊躇うんですか。“これが初犯という訳でもなし”」


「!?」


 千代子の驚きと戸惑いの眼差しを、心の目が容赦なく射抜く。

 彼女は過去に人を殺している。今と全く同じ方法で。

 胸を突かれる際に、心はその超過能力でじっくりと観察していた。一度目ならば必ず陥るであろう躊躇いよりも手慣れの方が勝っていることを。そして、それならば【組織】に狙われる理由にも説明がつく。

 【組織】が最も許さない犯罪が殺人行為。佐藤千代子は既に取り返しのつかないところにいたのだ。


「貴女は既に人殺しだ。その事を彼に責められ、罪の意識を自覚して自暴自棄になり、僕への凶行へと及んだ。違いますか?」


「…」


「もう一度言います。僕を殺すことに、何を躊躇う必要があるんですか。同じ行為を繰り返すだけですよ」


 殺される当人が、殺そうとしている相手に殺人を勧めるという異常な事態。蚊帳の外に出された灼童も、ナイフの柄をしかと握り直す。

 わずかに流れた沈黙を、千代子がか細い声で破った。


「…違う、殺してない。殺すつもりなんて、なかった」


 身に纏っていた気丈さと強がりの演技がボロボロと剥がれ落ちていく。心の目に、嘘偽りのない彼女が姿を見せる。

 千代子の目にも、かつての記憶が映し出された。思い出したくもない悪夢が蘇る。


「私は…、忘れたかったのに。住む場所も変えて、二度と会わなくて済む筈だったのに!」


「向こうも私のこと、覚えてて」


「何度も謝ったのに、許してくれなくて」


「一生、仕返ししてやるって。友達を裏切った、報いだって」


「わざとじゃない…。ただ、 触 れ た だけなのに」


「あの時とおんなじ。気がついたら、壊れてた」


「違ったのは、壊れたのが、あの子がくれた髪飾りじゃなくて、アノコダッタ。それだけのことよ」


「殺そうとしたんじゃない。壊すつもりなんてなかったの! ただ、私だって仲良くしたかった。それだけ…、それだけなのに」




「 私にどうしろっていうのよ!! どうすればよかったのッ?」




 血の色に染まる世界で慟哭が響き渡る。

 千代子の叫びに答える者はいなかった。誰も何も言わない。同情も嘲りも必要なかった。

 ただ、心は千代子の手を引き抜く作業に戻った。彼女が嫌がるのを知った上で。


「嫌、やめて。そんなことしたら死んじゃうって言ってるじゃない。お願いだからやめてよ!」


「どうしてですか?」


「どうしてって…、殺したくないからよ! 分からないの? もう誰も殺したくないのっ、嫌なの!!」


 千代子は涙目で、必死に自分の手と心の手を押し戻そうとする。心臓からも、もう手を離した状態にある。彼女の言葉は本物だ。

 それを知りながら、敢えて苛むように無理難題を押しつける。


「それでは集中して下さい。“崩した物質を元通りにする感覚を”」


「ぇ、え?」


「壁を通り抜けた時と同じ要領です。物体を透過した状態から、元あった場所に粒子の一つ一つを戻していけばいい。押し退けた骨や血液、脂肪や皮膚まで、可能な限り配置し直す。出来ないことではないと思います」


 言う程簡単でないことは心も分かっている。大前提に医学の知識も要するだろう。だが関係ない。

 この際、成功するかどうかは二の次だ。自身の命すら後回しだ。

 彼女には選ばせる必要がある。否、必要がなくとも選ばせる。そうしなければ心の気が収まらない。


「無理よ。無理無理っ、そんなこと出来ない!」


「してもらわないと困ります。どちらにせよ、このままでは僕は死んでしまうので、貴女に命を預けるしかないのですが」


「そんなっ」


 何処までも薄情な物言いをする心は、最後にこれだけを言い残す。


「僕を生かすも殺すも貴女次第です。どうするかは貴女に任せます。どうか、悔いのない選択を」


「…っ」


 彼女は、心の目をじっと見つめる。

 心は彼女を見据えたまま、ゆっくりとその手を抜き始めた。

 じわり、じわり、と血の色が服に広がっていく。千代子の息は荒く、顔には汗が噴き出して滴が止めどなく流れ落ちていく。

 千代子は全神経を集中させて心の肉体の再構築を行った。それでも血が溢れるのは止められず、床下に出来た血溜まりは少しずつ拡がる。

 いつしか千代子の目からは涙が零れていた。待ち受けるものに恐怖しながら、一心不乱に常軌を逸する。

 彼を殺さない為に。

 誰も殺さない為に。

 同じ過ちを繰り返さない為にーー、


「隙あり☆」


 手首まで抜かれたところで、ふざけた声が緊張した空気を割った。同時に、右手のサバイバルナイフが宙を横切る。


「え?」


 敵の存在を完全に見失っていた千代子は声に釣られた。ナイフの切っ先はちょうどそちらを向いた彼女の顔へ、晒された額に深々と突き刺さった。

 さらにその勢いを受けて、千代子の残りの左手が一気に引き抜かれた。心の胸から多量の血液が噴き出す。

 灼童がナイフを投擲するのを、ナイフが千代子を仕留めるのを、自分の体に大きな穴が空く一部始終を、緩慢な時間の流れの中で、心は見届けた。

 血を失って急速に意識が遠のいていくのを感じる。千代子と一緒になって倒れながらも、心は未だに当事者である自覚を持たずに置かれた状況を客観視している。これから死ぬという事実よりも、先程の心変わりした理由の謎にばかり考えを費やす。

 しかし、結局思考は纏まらず、視界は薄れて瞼が下りていった。

 先に目を閉じて横たわる千代子の姿を網膜に納めながら。

 そして意識を失う直前に思い至った。


 アレは『同族嫌悪』だ。


 彼女の言動、その姿が。

 まるで鏡によって照らし合わされているかのようで。

 自分自身を、見るに耐えなかった。


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