02.働き者の童
その日はなにかと不運が重なった。
帰りがけに遊ぼうと相談する同級生達が頭数を揃える為に言い寄って来たり、丁重に断って校門手前までやってくると、今度は野谷に捕まって逃れるまでにやや時間をかけたり。普段行き帰りに通る道が交通整備の為に立ち入り禁止になるわ、カモを探す不良達がたむろするコンビニを迂回しなければならないわで、学校から自宅まではそう遠くないのに段々と距離が離れていった。
大抵の人は面倒なことが迫ると不用意に近づいて巻き込まれるものだが、それら全てを回避したらしたでこのような弊害が生まれるとは想定していなかった。だからといって慌て苛つくような精神の持ち主ではない心だが、しかし帰宅が遅れれば親が無用の心配をすると考え、もっとも早く帰れる道を選んで迷わず突き進むことにした。ビルの合間に広がる、暗く湿った裏路地を。
腐ったゴミが散乱する中、心は器用に避けながら一定速度で歩いていく。粗大ゴミが積み上げられて通れなければまた別の道を行き、そうしてジグザグに進むにつれて、出口まであと僅かに差し掛かった。
後は真っ直ぐ進んで反対側の道に出れば良い。それで帰路に戻って万事解決となる。そうなる筈なのに、心は左にある、より幅の狭い路地に足を向けた。
急に方向を変えて、自宅へは明後日の方へと進んだ。ーーその直後、彼がいたであろう場所に、錆びついた鉄の非常用階段が派手に崩れ落ちてきた。
「…、気のせいかな」
心は甲高い騒音を聞きながら先程の様子を気にかけた。階段は確かに錆びていたが、なんらかの衝撃がなければ崩れそうにはなかったことを。だが、階段を一目見た彼は咄嗟に崩れると感じて進路を変えた。そういえばその時、階段の上層辺りを何かが過ったような…。
考察はそこまでにして頭を振る。今まで自分が何かを見落としたことはない。そうであれば目の錯覚だろうと、心は適当な見解を打ち出して先を急ぐ。
その瞳が錯覚するなど、それこそある筈がないのに。
途中で引き返しても良かった。風の流れを読む限り、行く先に路地を出られる道はないと知れたから。そうしなかったのは、訪れてみたいという好奇心が湧いたからだ。
そこには廃墟しかなく、四方を背の高い建物に囲まれていた。通じる道は一つだけで、再利用出来なくなって捨て置かれたのか、人の出入りが絶えて久しい様子だ。街中であるのにも関わらず、周囲の喧騒が届かなくて随分とうら寂しい。
静寂に満たされた場所で、心は立ち止まって虚空を見つめる。
ここにはなにもない。煩わしいものが一切ない。誰に邪魔されることもなく、誰に憚ることもない。見たくもないものばかりが見える、鬱陶しい世界からは切り離された理想郷しか映らない。
ここでは木之本心一人きりだ。彼が望む世界がそこにはあった。
“ーーそんなもの、ただ目を閉じれば済む話じゃないか。”
「…帰らないと」
ふと両親を思い出して、来た道を戻ろうとする。こうなってはいくら急いだところでもう日は沈むだろうが、労を惜しまないに越したことはない。廃れたビルをずっと眺めていても仕方ないだろう。心は踵を返して路地を向いた。
そのまま歩き出せば良かったとのちに後悔することになる。そうする前に、背後のビルから異様な音響を肌で感じ取った。
再び建物を見遣る。人気は…、あった。先程は気づけなかったのか、三階辺りに確かに人の気配を感じ取れる。
自分の位置からビルまで、いくら目を凝らしてみても人の通った痕跡はない。地面なり石畳なり、その上を何かが踏み締めれば微細な違いから判別できるのに。それならば上階にいる者はどうやってそこへ昇ったのか?
取るに足らない疑問だ。わざわざ確認しにいくこともない。大抵の者なら見過ごすだろうし、心も普段ならそうした。見えた事実と現実が違えていなければ。人より見えすぎるからこそ沸き立った疑問。それに逆らえず、足は自然と廃墟へと運ばれる。
建物内部は外見以上に荒れ果て、やはり人が立ち入った様子はなかった。割れた窓から中に入った心は、一瞥して間取りを把握して階段へ行き着き、階を上がっていく。
最上階に差し掛かる頃、二人の男の話し声が聞こえてきた。争うような騒音と激しい金属の衝突音も響く。
◇◆◇◆◇
ほとんど仕切りのない吹きっさらしの状態にある四階部分。埃とカビが被さり、腐りかけの家具がちらほら散見する中、停滞する空気を引き裂いて動く二つの影がある。
一つはニット帽を被った青年。ローマ字がプリントされたジャンパーにゴム製のロングパンツ、使いふるされた運動靴と、そこらでよく見かける若者の様相を取り、右手には折り畳んで携帯する小型ナイフが握られている。片やこちらは二メートルに近い縮れた黒髪の男。異様に長い裾の黒背広を着こなして、両手に握られた大振りなサバイバルナイフをこれでもかと誇示している。
青年と黒スーツの男は互いに刃を向け、切りつけ合っていた。主に黒スーツが攻勢を取り、青年は冷や汗を流しながらナイフや足から繰り出される攻撃を捌く。返す刀で青年も反撃するが、男は愉しげにかわしてはまた先手を打つ。それの繰り返し。
埃が一面に浮かび上がる。戦闘が巻き起こす烈風に煽られて空中を漂い、時々静止する。二人の動きが所々で急加速する為に錯覚を起こさせる。
息もつかせぬ攻防、その主導権を握る男が、両者の間合いを開いて一息入れた。自分ではなく相手への配慮。“疲れただろ、まあ休めよ”と言わんばかりの嫌味な労りだった。
「ハハッ、粘るじゃないか。標的に武術の心得があるのは初めてじゃないが、十分も持ちこたえられるとはちょっとした誤算だったな」
「ぐ…く、」
無邪気にケラケラ笑う黒スーツの声が青年を追い詰める。まだまだお遊びの範疇で、殺し合いと呼ぶにも値しない。一方的にそちらを打ちのめすちゃんばらごっこであると。
それでも救いには違いないと息を整える青年だったが、自身の置かれた状況の理不尽さが込み上げ、堪えかねて悲鳴を上げてしまう。
「なんだよ…なんなんだよ! 俺が一体なにをした。お前に狙われるようなことをしたのかよ。なんで俺が殺されなきゃいけないんだ!!」
「答えなんて聞かなくてもとっくに出ているだろうに。殺される理由はただ一つ、人を殺したからさ」
無慈悲に腹の内を抉る解答。青年は言葉に詰まる。
「ダメだぜ? 軽犯罪くらいならウチの【組織】は見逃してやるんだが、逆に決して許さないのが殺人だ。ただでさえ“俺達”は一般社会に受け入れられないっていうのに、やらかしちゃったよなあ?」
「違う。あれはあっちが悪いんだ。あいつが俺を馬鹿にして、俺は我慢していたのに、ちょっかいさえ出されなきゃ!!」
「そうだなぁ、一線を越える決断を下したかつての自分を恨むんだな。残念無念、ナム〜」
ナイフは持ったまま両の手を合わせて合掌。青年がそこで見たのは、勿論仏の顔ではなく悪魔の微笑みだ。
戦闘が再開される。
両側から挟み込むように振るわれる斬撃。それをすれすれでかわしつつ、時には腕に腕を打ち合わせて防ぎ、隙あらば関節技を決めようと腕を取りにいくか直接顔面を刺そうと刃の切っ先を送り出す。相変わらず追い詰められているのは青年の方だが、次第に攻守が入り乱れ始める。
時間が経てば経つほどに順応していくのがわかる。自分が襲撃者と同格の使い手に近づいていくのが。その実感が優越感を生み、青年の自尊心と熱狂を駆り立てていった。
「ヘッ、へは。へはは! 分かってきたぞ、お前の動きが。偉そうなことをほざいといて、大したことはないな?」
「いやーそれほどでも」
「誰も褒めてねえよ! …お前が仕掛けてきたんだ、俺は悪くない、これは自己防衛、そうだ、俺の行いは正しいんだ、許されなければならないんだ、あの時だってそうだった、悪いのはお前らなんだ、だからっ」
全身から熱気が揺らめき、握られたナイフの柄がミシリと歪んだ。襲ってきた黒スーツの男を返り討とうと力をみなぎらせる。
自己の正当化を掲げて。
「俺は赦される!!」
「そーだな。お前は許されるんだろーな」
踏み締めた床が砕けるほどの力みを以て突撃する青年に、男は諦めたように両腕を下げて無防備な姿を晒した。為すがままとなる。
青年の主張は否定しない。
する必要すらなかった。
「お前が許す限りは、な」
男の言葉を境に青年の体が床に崩れ落ちた。かろうじて手足を屈めたことで全身を打ちつけることはなかったが、四つん這いのまま、それ以上体を起こすことが出来なくなった。
青年は自分の身になにが起こっているのかわからずに狼狽する。黒スーツの男が歩み寄りながら教えてくれるまで。
「俺と同じ類型の奴って、大体勘違いしているのが多いんだよな。その能力が体力の続く以上は持続されるって。そんな訳ないだろうが、ド阿呆」
手に入れた能力。万能のように思えた未知なる力。限界も知らず、好きな時に好きな分だけ引き出してきた。いつまでも続くと、そう夢想していた。
「体は鍛えている方だし、勘違い野郎の中では十分以上持ったのはお前が初じゃねえかな。いや良く頑張った、及第点を上げよう」
現実はそんなに甘くはない。どんなものにも限りはあると気づくべきだった。
必ずしっぺ返しが来ると、警戒すべきだった。
「鍛練に励んでいるのはお前だけじゃあない」
「むしろ能力を開花させてからサボリの目立つお前とは違って、俺は欠かしたことがないからな。限界に差が出るのは至極当然ってものだろう。なあ?」
「因果応報だよ。罪を犯せば裁かれる。殺したらいつかは殺される。常に覚悟を胸に刻め。死ぬ瞬間まで囚われろ。誰も彼もが逃れられず、生ある以上は死あるのみ」
汗だくで床を凝視するしかなくなった青年へ、まるで呪いのような言葉が届けられる。
腰を曲げて前屈みになり、男は耳元で告げてやる。
「てめえの命運もこれまでだ」
「ーー、」
頭の中でナニカが千切れた。青年は凄まじい形相で顔を上げて、ふざけた顔の黒スーツ姿を捉え、雄叫びを上げて死に物狂いでナイフを振り上げて天と地がぐるぐると回ってころころと転がってゆっくりと傾いて。
遠くで九十度傾いた自分の首根っこから血飛沫が上がるのを眺めて。
笑顔でナイフを振り抜いた悪魔の笑顔とナイフに見送られた血飛沫が傾いて回って転がって二回瞬きして、ソシテ。
階段近くの物陰から、木之本心はその様を目撃していた。一部始終を。
今なお映している。頭を失った首から噴き上げる血の雫、その一滴一滴が恐ろしく緩やかに動いて見える。
最初に二人の殺し合いを目にした時はまだ霞んで見えた。だがそれも束の間、心の目はすぐに男達の動きを捉え始め、完全に追えるまでに至った。殺された彼が戦いの最中に成長していったように、その能力が劇的に引き上げられた。
人の領域を明らかに超えた能力。
「終わった終わった、つっかれったなーっと。聞こえてるか、聞こえてるよな、“地獄耳”。死体が腐る前にお掃除係の派遣を頼むな。俺は片付けないからなー。まあそれはさておき」
心の存在に気づかない男は、何処へともなく語りかけている。サバイバルナイフはそのままに、右の人差し指を耳の穴に突っ込んで陽気に喋りまくる。誰かと交信をしているらしく、耳にワイヤレスのイヤホンが嵌めてあるらしいのだが、それにしてはマイクが見当たらない。
そんな悠長に観察している場合でもない。
「さっきの決め台詞はどうよ。“てめえの命運もこれまでだ”って、…ちょい臭かった? もっとこう洒落た感じにすべきかなー…ぁあ、そういう問題じゃないと」
逃げなければ。あそこにいる黒スーツが何者であろうと人殺しには違いない。こんな場面に遭遇した第三者の末路なんてたかが知れている。ろくな目に遭わないことがわかりきっている。
「だってよー、実働担当の俺が一番ヒマだろ? こういうアホは滅多に現れないし、多少のお遊びは見逃し、いや聞き逃して…え? …ああ、……そうか」
そっと忍び足で後ろに下がった。男は話し込んでいて気づきそうにない。極力音を立てないよう気をつけながら階段を目指し、心は背後へ振り向く。
目が瞬時に反応する。
「覗き見は良くないな、少年」
振り返るまでに、部屋の真ん中から階段のある廊下までの距離を踏破した男が、にこやかに立ちはだかって注意してきた。退路を断たれた。
心は驚きこそしなかったが、腹に重たいものを抱える感覚を覚えた。どうしようもなく追い詰められている。死が間近に迫っているのを感じる。
「可哀想だが、見逃せないなぁ。悪く思うなよ、少年」
思わず後退りして、深くにもガラクタに足を取られた。尻餅を突く子供を前に、近づく男は可笑しそうに、何処か空しそうに口角を上げる。
ナイフを持ち上げて、心の額に切っ先を向ける。殺したばかりの凶刃から血が滴り落ちて肌を濡らす。
先程の繰り返しだ。男にとって大した手間ではない。すぐに肩がつくだろう。
「見られた以上は、消さないといけないんだ。たとえ罪を犯していなくとも」
終わる。呆気なく。右腕を振り絞って。また首が転がる。今度は心の。一閃が迫る。最後の最期まで。目を見開いて。煌めく刃の。その軌道を。つぶさに見て。視て。観て。
「さようなら、不運な少年」
彼の黒い瞳を見つめてーーー。
………。
……。
…、
「…こいつは驚いた。お前、全部見えているんだな」
首を切り落とされなかった。刃は寸前で止められ、薄皮一枚で済ませている。
呆ける心を余所に、男はまたもこの場に居ない何者かと話し込んで相槌を打ち、一人で納得した様子で向き直った。
「そうだな、そういう方向で行こう。という訳で、だ。少年、予定変更。まだ死にたくないなら俺と付き合って貰おうか」
危険人物はさっさと血塗られた凶器を背広に仕舞い込むと、心を立たせようと遠慮なく手を差し伸べてくる。本人にその自覚はなく、あっけらかんとした態度で自己紹介をも始める。
「俺の名前は灼童、働き盛りのプーさんだ。短い間だがよろしく頼むな、後輩くん」