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01.無為に生きる心



 ーー小学校低学年の頃だったか。


 溌剌とした真面目な女の子が、眉尻を上げて声を上げる為に大きく息を吸った。彼女が次に取る行動は、掃除をサボって遊ぶ同級生の悪童を叱ることだと予見する。僕は机を教室の後方へ運んで箒で掃く作業を続けるが、その間、諍いに巻き込まれなくてもいいように彼らの姿を目端で捉えておくのを忘れない。真面目過ぎると悪童達の目に留まってしまうので、いくらか手を抜いて、床に埃を残す程度で終わらせる。


 ーーあの頃はよく悩んで、適当な解決案を模索していた気がする。


 授業はしっかりと聞き、予習復習も適量をこなし、過不足ない平均的な点数を取る。返されたテストの答案用紙を両親に見せても良いように。良くても悪くてもとやかく言われたので、どちらでもない平均点を取ることにしたが、差し当たり両親は過度の期待も失望もしていない。これからもそうしよう。


 ーー親の情愛を手ずから打ち切った。


 登下校中、視界に入る映像を淡々と処理していく。行き交い通る人、信号機の合図で停止と発進を繰り返す二車線道路の自動車、移り行く空の色に移り行く白雲の形、日の傾きで煌めく植物の葉、住宅の合間に吹く風の流れと運ばれる塵芥、路上でくつろぐ猫や吠える犬、羽虫を食しながら飛ぶ小鳥、など。うんと小さい頃は混乱して目を回してばかりいたが、成長していくにつれて慣れていき、気づくと支障は出なくなった。残された問題はと言えば、見たくないものでも否応なしに見てしまうことか。


 ーー両の目の良さに苛まれる。視界に入る有象無象が煩わしい。


 相手の良いところを目撃することは少ない。表向きは仲良くしている風を装っていても、表情に表れる筋肉の痙攣を見れば内心で不愉快に思っているのが容易に知れるし、気に入らない相手への嫌がらせを秘密裏に行うやら、人目を忍んで卑しい行為に手を染める場面を何度となく見せられたら、誰だって、自分以外の人間に対して嫌悪感を抱くものだろう。


 汚ラシイ。ドレモコレモ等シク唾棄ニ値スル。視界カラ消エ去レバドレホド清々スルダロウ。悩マナクテ済ムナラバーーー…。


 いつからだったかは覚えていない。いつの間にかそうなっていた。極力他人と距離を取る自分がいた。それで損をしたことも、改めたいと思ったこともなかった。




 ーーー。




 何故か、思いが駆け巡った。過去の情景が激流の如く流れ去った。こういうのを走馬灯と呼ぶのだろうか。


 ーー…想だが、見逃せないなぁ。悪く思うなよ、少年。


 僕は人生の岐路に立っている。実際は尻餅をついて、両手に血塗られたサバイバルナイフを持った長身の男に見下ろされているのだが。


 ーー…れた以上は、消さないといけないんだ。たとえ罪を犯していなくとも。


 右手の凶刃の切っ先が僕の額に向けられる。滴る血の雫が伝ってゆっくりと肌に移る。そこから刀身が男の左肩まで引き上げられ、喉元を薙ぐ軌道を描いて吸い込まれていく。恐ろしい速度で行われる、僕という個人の一生の幕引き。


 ーーさようなら、不運な少年。




 その所作の一つ一つを、

 まるで他人事のように、

 最期まで僕は見届けた。




◇◆◇◆◇




 隣の席の机上から使い古された消しゴムが転がった。ノートを開いて物思いに耽る男子生徒の肘に当たったのだ。

 木之本心(きのもとこころ)はその消しゴムが肘に当たる前から落下することを予測し、床に辿り着く前に片手ではしと掴んだ。仕方なく。


「うぉ。すげえな、木之本。反射神経抜群じゃん」


 肘からの感触で気づいたのだろう、男子生徒はその様子を目撃して驚きの声を上げた。純粋に隣席の同級生がやってのけるとは思わなくての感嘆だった。

 褒められることをしたつもりはなかった。心はただ目端に映った挙動から次にどう転じるかを推測し、消しゴムの行方が自分の机下の足元であると断定し、それを拾おうとした彼が頭を下げた為に額を机の角にぶつけた上、結果として自分の机が揺らされると知れたので先んじて捕った。前の授業の復習中で、彼と同じくノートの書き取りをしていた為、筆記中の文字を乱されたくなかった。予備の少ないシャープペンシルの芯が折れるのも防ぎたかった。ついでに頭を痛めた彼が必要以上に謝らなくても良いようにと配慮した。それだけのことだった。

 それにも関わらず、男子生徒は心への関心を強めてきた。そういえば彼は野球部に所属していたなと思い出して、心は内心にて嘆息する。隣の席に座る同級生でしかない、互いの認識は入学式以来ずっとそれで変わらなかったのに、今の男子生徒は顔に喜色を浮かべて口を開こうとしている。

 心はすぐさま断れる文面を思い描いた。それ以上なく、それ以下もない文言を。


「木之本、スポーツに興味はないか? 福元先生が朝のホームルームで話していただろう、なるべく部活動のどれかに入りなさいって。木之本はまだだったよな。文系に見えていたけど意外に運動系もいけそうだな。今な、野球部の新入部員が減ってきていて先輩達が焦ってるんだ。もし興味があればだけどー、」


「僕は野球をしたことがない。やってみたいと思ったこともない。朝夕の練習に時間は取れないし、戦績に貢献できそうもない。部活動費を納めるのも難しい。申し訳ないけれど」


「そ、その反射神経は活かさないと勿体ないんじゃないかなー? 捕手なんかはほら、あまり目立たないけど、打たれてきた球を横っ飛びで颯爽とキャッチすれば、観に来た女子のハートを鷲掴み…」


「恋愛にも興味はないんだ。辞めてしまった生徒の代わりにもなれない」


「代わって欲しいなんて言ってないだろう。いや、別に、彼女とか要らないならそれでいいさ。それならそれで、男同士の熱い友情とか仲間の団結力を確かめ合うっていうのもスポーツの醍醐味な訳で」


「同性愛は否定しないけれど、やっぱり興味はない。そして、部費は払えない」


「あぁ…、そう」


 スポーツ刈りの黒髪が白けた。そう表現しても良いくらいには男子生徒の顔は間が抜けた。魂胆を見抜かれてましたか、とすごすご引き下がっていく。

 再び頬杖を突いて物思いに耽り、先輩達も加減してくれればなあ…と内情を垂れる熱血で苦労性な彼。それを見て取った心は、話を打ち切らずに続ける。


「できることはと言えば」


「うん?」


「転げ落ちた物を拾って、落とし主に返すくらいだよ」


 右手に掴んだままのゴムの切れ端を差し出して、うっかり忘れていた男子生徒に手渡した。悩みを聞いてやることもなければ励ましもしないが、必要最低限の付き合いはこなしておいた。




 公立の高等学校に通う木之本心は、ずば抜けて高い視力を持ち合わせている。当時に行われた小中学校での検査において、視力を測るのに用いられたボードのもっとも下の記号も全てくっきりと判別できたほどだ。…申告こそしなかったが。高校に上がっても変わらず、両目共に1.5ということになっている。

 類い希な視力を持って生まれた心は、それを有意義に活用した。ーー視界に入る一切の面倒事をいち早く察知し、関わらないにはどうすればいいかを思索したのち、これを避けるか退けてきた。自身の常識として日常化してしまうほどに。

 眼球を通り抜ける情報の多くに関心を持たなくなった。初めは見たくないものがどうしても視界に入るから、せめて関わらないようにしようと努めていたのが、いつの間にやら他者への関心が持てなくなっていた。

 誰隔てなく、自分に対して好意的な接触であったとしてもだ。




「…木之本、今日も一人で帰るの?」


「野谷」


 午後の授業も終わって、至るところで背を伸ばして雑談に興じる者、部活動へ向かう為の準備に追われる者、帰り支度を済ませて席を立つ者と、教室内は賑々しい。それらに混じって平たい革の黒鞄に教材を詰めていた時のこと、心の背後から同級生の野谷空(のたにそら)が声をかけてきた。

 心はひとまず周囲の視覚情報をまとめて、教室の出口に辿り着くまで阻害する生徒の立つ位置と行動範囲、室内中央付近にある自分の席と出口との概算距離、背後から近づく野谷の用件をかわす口実、諸々を意識して振り返る。

 眼鏡をかけた彼の溌剌とした顔と向き合った。


「ああ、もう帰るよ。また明日」


「ちょっと待って。もし予定がないなら俺の帰りに付き合ってくれないかな。書店に寄って色々と見たいものがあるんだけど、一緒にどう?」


 野谷はいつものように誘ってきた。期待と不安と少しの緊張と、それと今日こそはという決意を漲らせた表情。 人の好さが随所に見受けられる。

 心もまたいつも通り平常心のまま繰り返す。


「せっかくだけど、今日は書店に寄る予定はないんだ。なるべく寄り道しないで帰宅したい」


「そう言わずに。木之本は漫画とか読まないんだったね。小説なんかは? 最近流行ってるシリーズの最新刊があるかも知れない。オススメの面白い作品を紹介するよ」


「そういうもの全般に興味はないんだって」


「漫画も小説もアウトか。えーと、他に残っているのはー…。え、まさか、成年コーナー…? いやいや駄目だって木之本。そういうのは河原の土手に置かれたものを拾…、もとい、慈善回収するものであって、お店で購入するのは十八才になってからじゃないといけないんだよ。まあ、それでも気になるって言うなら、個人的に勧めたいジャンルを教えてやっても良いけどさ」


「…、」


「心配しなくても、アブノーマルは避けるよ?」


 冗談を織り混ぜてなお野谷は食い下がり、心は一時口を閉ざした。

 入学して同じクラスになってからというもの、彼はことあるごとに近づいては交流の場を設けようとしてくる。責任感が強く、困っている人がいたら放ってはいられない性分の野谷は、率先して学級委員になった物好きと周りに揶揄されているが、人付き合いと面倒見の良さから友人の数は多いことで知られている。周囲が楽しく賑やかになることで自身も喜びを得られるのだろう。

 自分への接触も善意からだと心は察している。誰とも仲良くせずに独りで過ごしてばかりの心と打ち解けたいのだと。

 だが心は野谷のそれを必要としていない。察してはいても理解ができない。

 心は素早く視線を逸らして彼らの動向を確認し、タイミングを見計らって立ち上がった。


「ごめん、野谷。やっぱり付き合えない。誘うなら他の人にしてくれ」


「あー、待って待って。それなら校門前まででも良いからさ、ちょっとくらい話をしようよ。ねえ!」


 最短経路で教室の出入り口へ進んだ心を追って野谷も廊下へと急ぐ。それを見越した心は、関心があるふりをしてわざと立ち止まり、身を引いて前方にある光景が野谷に見えるようにした。廊下の一角を陣取って複数の生徒が一人を囲んでいるところを。


「ほらどうした、早く金を払えよ。遊びにいく時間が無くなるだろ」


「それともお前がうちのクラスに居ていいって権利を手放すか? 明日から悲惨だなー、同情しちゃうぜ」


「なに泣きそうな面してんだよ。チョー笑えるんだけど。高校生にもなってウジウジしてんじゃねえよ、さっさとしろよウジ虫くん」


 それはありふれた光景だった。どんな学校でも行われていそうな、幼稚で厄介な問題。遊び半分で人を傷つける輩と、耐えることでしか身を守ることができない弱者の関係。

 人の良い野谷が決して見過ごさない場面。


「あいつら、また…! 木之本、ごめん。さっきの話は忘れて良いから。俺はやることができた」


「うん。頑張って」


 野谷は挨拶もそこそこに心と別れ、いじめの現場へ赴く。気弱そうな男子を囲む四人の内、主犯格となる同級生へと真っ向からぶつかっていく。


「石井、そこでなにをしているんだ。彼にちょっかいを出すな」


「…ハァ、良い子ちゃんがまた来たよ。放っておけよなぁ、ちょっとしたスキンシップだろうが。いちいち目くじら立てるなよな」


 両者はすぐさま険悪な空気となって周りをざわつかせ始める。その対立を仕込んだ張本人は、結末は知れているので反対の廊下を進んで離れていった。途中で騒ぎを聞きつけた眼鏡の担任教師がすれ違ったのを眺めて、騒ぎは程なくして収まると改めて確信した。

 三階から一階の玄関口まで、心は誰とも話さないし目すら合わせない。靴を履き替えたら前庭まで一直線。校門を出て家路へと着き、仮に道中で人身事故などが起こったとしても、彼は冷静に対処して足早に去って行くだろう。

 彼の心は波立たないし、一滴の波紋すら起こらない。

  周囲の喧騒からは離れて過ごし、厄介なことは避けて通り、誰の迷惑にもかけられることなく生きる。それが木ノ本心の日常であり当たり前の常識。誰がなんと言おうとどんな大事が起ころうとも、その考え方と行動は変えられなかった。

 そう断じることができたのは昨日までのことだったが。


「いやはや、お見事だな。しっかりと常識の範疇内で暮らせているじゃあないか」


 行く先の電信柱の陰、道路脇の白いガードレールに腰かけた人物が、道行く心に話しかけてきた。教室からここまで、ほぼ歩みを止めなかった心を一声で停止させた。

 その人物は若い男性で、柱から覗かせた手足は黒一色のスーツに包まれている。互いの位置の関係上男の顔は見えなかったが、相手が誰なのかを心は知っていた。

 その誰かは楽しげな声色で続ける。


「探せばいるもんだ。俺達の中でも、その特異性を無意識に抑え込める真逆の異常者ってのは。一般人を装って生きていける奴がな。ただしーー、今のお前を“活きている”と表現して良いかは甚だ疑問だが」


「…今日一日、監視していたんですか?」


 心が本日初めてとなる、自ら寄せた他者への関心。自分からなにかを問いかけるのは心にとっては極めて珍しいことだ。それを知ってか知らずか、男は心の問いをあからさまに無視する。


「ま、きちんと予定を空けてくれて大いに助かるぜ。これで協力もされないばかりか逃げられでもしていたら、俺の評判はがた落ちだった」


 元から高くもなかったけれど、と嘯いて。

 男はガードレールから腰を上げてアスファルトの上に立つ。物陰から一歩を踏み出し、異様に背の高いその姿を現そうとする。そして、



「逃げられもしないけどな」



 続きの台詞は背後から。

 電信柱の陰に人影はいなくなって、男はいつの間にか真後ろに。声の通る方向からして、心と背中合わせに立っている。

 およそ有り得ない現象に、それでも心は落ち着いていた。

 人を逸脱したその動きが、彼には見えていたから。


「協力するなんて一言も言ってませんが」


「そりゃあないぜ。昨日お前を見逃したのは利用価値があると踏んだからだ。俺の、俺達の仕事に加担してくれないのなら、やっぱり死んでもらうしかなくなるんだぞ。それでも良いのか、木之本くん」


「脅迫されても困ります」


「それならせめて困ったふりくらいしろ。本当、“生きてるのか死んでるのか分からなくなるよなぁ”。それがお前の欠陥なんだろうが」


 埒の明かない問答が繰り返されて、男は両腕を力なく拡げて諦めのポーズを取った。心は発言を気にした訳でもないが、振り返って男を見上げ、昨日の出会いを思い返す。

 これまで心が見てきた中で、もっとも驚異的で自身を瞠目させた出来事。どんな事柄でも特別に見たことのない彼が、初めて刮目した事例。

 先日、目の前にそびえ立つ男が起こした殺人の現場を脳裏に映し出した。

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