雲海に潜むは
「蒼天を往く騎士」
空を知らぬ人々は、僕をこのようにして称える。
「空の王者を屠るもの」
そこに潜む脅威は竜だけだと信じる彼らは、僕をそのように仇名する。
眼下に広がるのは、どこまでも続く白綿のような雲海。身を締め付けるベルトを少しだけ緩めて身を乗り出せば、遮風板以外に遮るものもない無蓋のコクピットに収まる僕に、風が容赦なく吹き付けていく。視界を占めるのは相も変わらず空の蒼さと雲海の白さのみ。シンプルな、空そのもののような空を飛んでいると、自分は飛んでいるのではなくて浮かんでいるのではないか、という気分に襲われてくる。風は、そんな錯覚を正してくれる。頬を切り裂く冷たい疾風は、僕が今確かにここにいる証でもある。
僕ら人間が神の領域にして竜の住処である空へ足を踏み入れたのは、つい三十年ほど前のことだ。それ以来、このどこまでも蒼く高い空は、神罰の具現にして災厄の象徴たる竜に占有され、人間には害悪のみをもたらすものから、僕ら人間にとっても恩恵のあるものへと、少しだけその意味を変えた。
空を飛ぶ機械、飛行機。
翼を持たない僕らが蒼天へと飛び立つための機械。
この機械によって、僕らは生身では届かない領域へ往き、ときに竜すら凌駕する。
飛行機には、いくつかの種類がある。一括りに竜と言ってもその生態に応じて千差万別の姿を持つように、僕ら人間にもその目的に応じたいくつかの飛行機種が、そこから派生する各メーカごとの特徴を持ったバリエーションが存在するのだ。
民間の旅客機、輸送機、郵便機、観測機。そして軍用の戦闘機、爆撃機、偵察機。変わったところでは速度や飛行距離で記録を樹立せんとする競技機や、空を往くライバルにして最大の敵対者たる竜を狩るための竜撃機といった飛行機もある。とりわけ、人類の敵である強大な竜との戦いに挑む竜撃機のパイロットは、空を飛んだことのない人々からも英雄視されることが多い。
この僕が駆る複葉機『ベオウルフ』も、そんな竜撃機の一つだ。軍用戦闘機『イロンデル』をベースに一葉半へ改造、チューンを施したラ・シゴーニュ水冷V型8気筒エンジンは250馬力を誇る。バラデュール式可変ピッチプロペラと増槽の採用によって得られた時速200㎞を超える高速と1000㎞近い飛行距離で竜に喰らいつき、機首に取り付けられた7.7mm機銃と37mmの大口径モーターカノンで分厚い竜殻を貫く。竜殺しの英雄の名を頂くにふさわしい、竜を屠るための飛行機。
竜狩り。
それが僕の仕事だ。
ちょうど30分ほど前にも、僕は一匹の竜を墜としている。民間旅客機の救難信号を受けて所属基地から飛び立ち、墜落地点から推測して追撃をかけ、住処へ戻ろうとする該当個体を撃墜せしめたのだ。
人からよく聞かれるが、竜の撃墜について、特に感慨はない。撃墜したからといって失われた人命が戻るわけではないし、そもそも人命や名誉のために竜撃機に乗るパイロットは、僕の見る限りでは少数派だ。
操縦桿を軽く握ったまま、視線を落として計器に目を走らせる。方位、燃料、油圧、異常なし。油温がやや高いが、これも許容範囲内。帰ったら整備の連中に伝えるべく、太ももに固定したメモ版にさっと書きつける。時間にして、十秒足らずの作業だっただろう。しかし高速で飛ぶ飛行機は、その間にも500m以上は前へ進む。速度のみを追求する競技機や、高速での一撃離脱を行う強襲竜ならばその倍、秒速100mを超すこともあると聞く。
だからこれは誰が悪いわけでもない。
僕が視線を落とした瞬間に合わせるようにして雲海を割って竜が現れたこと。
それがベオウルフの下後方、死角に当たる場所であったことは。
強いて言うのなら、運が悪かった。
それだけのこと。
顔を上げた僕は、そのときになってようやく、視界の右端に異形を捉えた。
飛行機とは明らかに異なる、空を切り裂く剣のような頭部。肩に当たる部分は見当たらず、翼は首から滑らかに広がり、翼膜は空気を受けて波打っている。生物的なフォルムでありながら、同時に非生物めいた金属光沢を放つそれは、気流から保護するためにガラス質の器官で覆われた眼球で僕と飛行機を観察していた。
――――竜。
彼我の距離は10m足らず。
僕が竜撃機のパイロットとなって丸三年。
こんなにも間近で竜を捉えたのは、初めてのことだった。
ご丁寧に相対速度まで揃えて並走するそいつは、見たところまだ若い個体のようだ。
幸いなことに、今のところ相手からの敵意は感じられない。それ以前に、明確に人間を敵として認識する成体であれば飛行機は今ごろバラバラに砕かれていてもおかしくない。しかし、竜は時速200kmを超える速度で併走しながら優雅に羽ばたいている。まばたきを必要としないため感情がないようにも見える瞳は、こちらに興味を持っているのだと言われれば納得してしまいそうだ。
とはいえ、相手に敵意がなくても安心はできない。
全身を金属殻で覆った竜を甲虫に例えるなら、飛行機は薄くもろい卵の殻に等しい。
人と飛行機は、プロペラや翼にほんの少しじゃれつかれただけでも墜落する運命にある。
武装のない民間機が竜の『遊び』で撃墜される事例は枚挙にいとまがないし、種によっては家畜や人間をエサとするものもいる以上、墜とせるのなら幼体のうちに墜としておくに越したことはない。空域が民間航空機も頻繁に利用するエリアであればなおのことだ。
――――ここで墜とす。
左ラダーを蹴りつけ、竜と反対方向へ機体を滑らせる。
速度で劣る人間の飛行機が竜とやり合うためには、人の持てる対竜空戦技術の粋を駆使して、竜殻をも喰い破る37mm鉄鋼榴弾を真正面から撃ち込んでやるしかない。
操縦桿を左へ倒して旋回、竜に対して尻を向ける形を取って正立へ戻す。
限界まで首と体を捻って後方を確認。
思った通り、竜は興味を惹かれてついてきている。
それを確認したら視線を戻し、左手を伸ばしてスロットルレバー脇のスイッチを押す。
機体後部に軽い衝撃。同時に操縦桿をやや右めに、思い切り手前へ倒す。
宙返りに備えて操縦席に身体を押し付けながら、目を閉じた。
直後、目蓋を閉じてもそれと分かる閃光が広がる。
強烈な光に困惑するような竜の咆哮。
目を開け、頭上を見やる。
そこに竜はいた。
そのまま宙返りの最高点を超え、正面から竜を捉える。
閃光に慣れていない竜は、視力を潰されてとっさに速度を落とすことが多い。
この幼体もその例にもれず、その場で後退をかけるかのように羽ばたいて動きを止めていた。
――――奪った。
そう確信し、息を止める。
ラダーを操作し射線を合わせ。
親指で機関砲のトリガを押し込んだ。
機体が押し戻される錯覚を覚えるほどの反動。
放たれた鉄鋼榴弾は首の付け根へ吸い込まれ、爆発した。
翼が、不自然な形に折れ曲がる。
そいつの翼はもうほとんど取れかけていた。
竜は羽ばたく力を失い、ぐらりと身体を傾ける。
飛行機との戦闘経験がないのか、閃光弾で怯んでくれたのが幸いした。
今はまだ身体を宙に留めているが、そう長くはないはず。
操縦桿を握り直し、機を立て直す。
こちらも宙返りの直後で機速を失っている。
無理な上昇や方向転換は失速に繋がりかねなかった。
墜とした側が先に墜ちるようでは世話はない。
そのまま翼を立て、機首方向を微調整。
顔と翼の間を抜けるしかない。
大丈夫、やれるはず。
その瞬間。
エンジンの轟音越しに嫌な感じの音が鼓膜に届き。
直後、コクピットは激しい振動に包まれた。
どれくらい、意識を失っていただろう。
多分、一瞬だけだ。
最初に眼に入ったのは、固く握りしめた操縦桿。
体感で、水平飛行に戻っていることを悟る。
視線を上げる。
目視する限りではエンジン、プロペラに問題なし。
首を振って、左右と後方の確認。
思わず舌打ちが漏れる。
左翼が三分の一ほど吹き飛び、尾翼も左側水平尾翼が丸ごとと、垂直尾翼の方向舵が脱落している。
ふと額の辺りに垂れてきたものを拭うと、革手袋にべったりと血が付着していた。
どこかに頭をぶつけたらしい。
思考ははっきりしているが、少々気持ち悪い。
察するに、竜が最後の力を振り絞って頭か翼をぶつけてきたらしい。
深く、息を吐き出す。
地上なら白く曇るだろう吐息は、一瞬の内に後方へさらわれていく。
幸いと言っていいのかどうか、機は傾きつつも安定している。
落ち着いてもう一度状況の確認を始めよう、と心中で呟く。
ラダーの反応なし。方向舵がないのだから当然。
操縦桿を左右に動かしエルロンの確認。手ごたえはあるが、鈍い。
計器確認。高度2500mから降下中。油圧が極端に低く、燃料が妙に少ない。
ベルトを緩め、身を乗り出して機の下部を確認すると黒っぽい液体が筋を引いていた。
最後に革手袋を外して頭部の傷にそっと触れてみる。地は出ているがあまり痛くはなかった。
総じて、最悪ではないが楽観もできない状況だった。
取り急ぎ、西向きの機首を基地のある北へ戻すところからだ。
方位計が壊れている可能性も考え、空を見上げて太陽を確認してみる。
方位計と照らし合わせて向かうべき方向が確認できたら、そろそろと操縦桿を操作。
緩旋回し、やや高度を失いつつも機首を北へ戻していく。
破損した左翼が嫌な音を立ててびびっている。
正直、いつ根元から折れてもおかしくない。
機首が北を向いたところで、機体が安定するポジションを探して操縦桿を固定。
知らず詰めていた息を吐き出す。
とりあえず、やれることはもうない。
山岳地帯で無線はほとんど機能しないし、通じたところで自機の位置を伝えることもままならない。
視界は、相も変わらず晴れた空と一面の雲海に覆われている。
変わった点と言えば、高度を失ったせいで雲海がだいぶ近づいていることぐらいか。
ふわふわで真っ白な雲は、竜を飲み込んだことなど素知らぬ顔だ。
濃い雲海は、ともすればその上に着陸できそうなくらい。
降りていきたい、という衝動に駆られる。
こうしている間にも、燃料は刻一刻と流出していく。
減り具合からして、あと十分持つかどうか。
それまでに適当な不時着場所を見つけねば、山肌か谷底に激突する羽目になる。
しかし、安易に雲の中へ降りていくわけには行かない。
真っ白な雲のすぐ下が地面でないという保証はどこにもないのだ。
この翼で高度を上げるのは自殺行為である以上、失った高度は取り戻せないと見た方がいい。
大体、そもそも雲がなかったところで飛行機が不時着できる場所など限られている。
歩きなら気にならない程度のほんの少しの段差でも、飛行機には命取りになるからだ。
柔らかそうな牧草地、不時着のために誂えたように見える場所が、飛行機の細い足を取るほんの小さな流れや小さな岩塊のために死神の罠と化すことも、決して珍しくはないのだ。
飛行服の懐に手を突っ込んで、地図を取り出す。
広げれば、色々なものが描きこまれていることがわかる。
それは、僕と仲間で作り上げた飛行士のための地図だ。
そこでは、地理学者が気にかけるようなあれこれはさしたる意味を持たない。
それよりもっと大事なのは、例えば丘の上に立つ教会だったりする。
変わり者の神父が神に仕える教会は、僕の親友がいる街へ向かう際の目印となる。
あるいは、羊飼いの一家が住む赤い屋根と、少し離れたところに生えるオレンジの樹。
これを繋いだ先には絶好の不時着地となる柔らかな牧草地があるのだと先輩に教えられた。
この地図が、僕はどうするべきか教えてくれる。
竜と交戦するまでの状況と、交戦の内容を思い返す。
予想される進路から現在地を推測し、胸ポケットに挟んであったペンで地図に点を打つ。
問題となるのは、進路上にあるはずの1800m級の山を越えているかどうか。
行き過ぎれば適切な不時着地を飛び越えてしまうし、手前過ぎれば山に激突するだろう。
気絶していた間にどれくらい進んだのか、それによって結果は変わってくる。
機体にがくんと振動が走る。
計器を見れば、いよいよ燃料が尽きたらしい。
それなら、覚悟を決めるしかない。
操縦桿を軽く握って。
笑みを浮かべ。
柔らかな白銀の絨毯へ、僕は機体を沈めていった。
星の王子さまの友人、偉大なる飛行機乗りへ。