――九――
七月二六日天気は昨日の午後に引き続き快晴だ。
僕は約束通りにデジタルカメラと三国志を持って坂道を自転車で登る。相変わらずだ。
「勝見さん、こんにちは」
初めてだ。僕は初めて彼女に普通の挨拶をしてもらった。
「こんにちは」
僕もそれにならって彼女に挨拶を返す。また彼女が微笑んだ。
「今日も朗読するけど良い?」
「構いませんよ。じゃあ早速始めましょう」
そういうと僕と彼女はブランコに座る。
年寄りみたいにゆっくり座る僕、無邪気な子どものように勢いよく座る彼女。
軋む音のする僕の座ったブランコ、全く動かない彼女の座ったブランコ。
僕はそれを感じながらも無視して三国志の六巻目を朗読し始めた。
九時過ぎに朗読し始めた三国志も七時間も経つと九巻目も読み終えてしまう。
「終わっちゃいましたね」
彼女が少し寂しそうにそう呟く。
まだ少し太陽が高い位置にあり帰るにはまだ早い。
彼女はブランコから立ち上がり僕の前で立ち止まる。
「勝見さんは私をどう思っていますか?」
突然、弱々しい彼女の声が僕に届いた。
彼女は空の遠く昔の楽しい思い出に、郷愁の目を向けていた。
「私は勝見さんのことが友達として好きでした。この四年間、誰にも見向きもされなかったわたしのエーデルワイスになってくれました。でも今は違います」
彼女は茜色の空から目の前にいる僕を見る。
二人の間には遮る物が何もない。
風も、空も、ブランコも、何もかもが僕と彼女を遮ってくれない。
僕はこれから何が有るのかが分かった。
分かったことに関して僕は心臓の拍動を早めてしまう。
時間が長く感じる。心臓の拍動は早くなっているのだから、時間が経つのは早くなるはずだ。
でも、僕の思考はブラックホールの特異点に入ってしまったかのようにだんだんゆっくりになり、目は彼女に当たった光だけが重力によって吸い込まれたように彼女の姿を通り越して茜色の空だけが認識出来る程度でしかない。
そして彼女が白磁のように白く綺麗な肌を薄い紅色に染め、言葉を紡ぐ為に口を開く。
その瞬間僕の思考はブラックホールの消滅と共に速度を戻した。
「私は勝見さんを好きになってしまいました。男性として、一人のアイデンティティを持っている個人として勝見さんが好きです」
そういうと彼女は一歩下がる。
僕は反射的に左手を伸ばすが彼女には届かない。
「勝見さん。私を撮ってくれませんか?」
「えっ、でも……」
僕と彼女は分かっている。彼女が決して写真に収められないということを。
でも彼女は自信あり気に言う。
「大丈夫です。撮って下さい」
僕は言われるままにカメラを取り出し構える。
安いデジタルカメラに写るのか?いや、写って欲しい。このカメラのメモリーカードに彼女の姿を収めるんだ。
ファインダー越しに見える彼女は僕に向けて微笑む。
僕はシャッターを切った。
一瞬ファインダーがブラックアウトし、再び景色が戻る。
ファインダー越しの景色には彼女はどこにもいなかった。
僕は周りを見渡すが彼女はどこにもいなかった。
僕は慌てて荷物を持つと自転車に跨り、全力で漕いだ。
行き先はどこか?
そんなのは決まっている。
国立鏡原大学病院だ。
坂道を下る途中、横を流れる小川を見た。
工場のトタンの赤錆はここに流れ込んでいた。
自転車と僕のスペックぎりぎりのドリフトを坂道で決め、転びそうになるもケガをせずに大学病院まで来れた。
彼女が消えてから一時間と少し経っている筈だ。
僕は汗だくの体をおしながら彼女の病室に向かう。
病室の前には教会の神父さんが立っていた。
「四日ぶりですね。そんなに汗だくでどうかしましたか?」
「いっぃえ、……椎名綾香さんの病室には入れないんですか?」
「綾香とは面会謝絶ということらしいですが意識が戻ったと電話が来ました」
「そうですか……」
僕は安心してすぐに帰ろうとする。
「良いのですか?会わなくて」
「……はい。それに面会謝絶じゃあどうしようも有りませんよ」
「そうですか。失礼ですがお名前は?」
「勝見寿一です」
「では、勝見さん。綾香と会えるようになったらお電話をしますが……」
「……」
神父の優しさには感激したが僕は何も言わずに会釈すると病院から出る為に出口へ向かった。
七月二七日
僕は雨の降る公園に来ていた。
彼女と出会った公園。
彼女と会話をした公園。
彼女に三国志の朗読をした公園。
彼女に告白された公園。
そして彼女のいない公園。
雨が工場のトタンを叩く音が煩く聞こえる中にできた空白地帯。
季節遅れの朝顔が公園の隅で花を咲かせている。
僕は雨の公園をカメラに収めていく。しばらく経ってまた彼女がこの景色を思い出したいときにこの写真を見せてあげようと、そう思って。
僕はふと上の雨雲を見上げる。
(勝見さんが好きです)
彼女のいった言葉。
僕の中で何度もリピートされた言葉の返事のバラエティは一つしかない。
八月四日
昨日、神父さんから電話で連絡があった。
『綾香が勝見さんと話したいといっているので会ってあげられませんか?』
僕は兎に角も二つ返事で承諾した。
神父さんは言いづらそうに話を続ける。
『それで場所なんですけれど……』
綾香へ
綾香は僕に気持ちを伝えてくれました。
だから僕もその気持ちに応えたいと思います。
でも僕はヘタレなので、その言葉を口に出す自信がありません。
なので少しでも多くの事を伝えるために手紙にして伝えたいと思います。
まずはじめに綾香に報告したい事があります。
僕に友達と言っていい人ができました。
一五歳の変わった女の子です。
彼女と初めて会った瞬間僕は「神に仕える巫女の様だ」と思った程です。大人しそうで今にも儚く壊れてしまいそうな外見と誰もが振り向いてしまう様な容姿、でも彼女の内側にはとてもしっかりした芯を持っていて、それでいてよく僕に毒を吐きます。そして彼女には他の人に話せない普通じゃない秘密もありました。初めてそれを知ったとき僕は驚いて混乱したのを覚えています。でも僕はその秘密を教えてくれた事を嬉しいと思った事も覚えています。
友達については他にもありますが、これ以上書くと僕が恥ずかしいので止めておきます。聞かれても絶対に誰にも話しません。
次に綾香に報告したい事は、
僕にも季節外れの春がやってきました。
今の季節は猛暑が続く真夏ですが、僕の心は桜模様を呈しています。
理由は簡単なもので女の子に告白されたからです。
そして今日、その子から返事をしに行きます。
恥ずかしくてむずむずしています。
最後に綾香に伝えたいことがあります。
この手紙を読んだとき、綾香は僕と会ったあのときの事を思い出して、どう思いますか?
僕はあの廃工場の公園で綾香と出会えた事で、僕の人生が大きく変わったと思います。
もうこの手紙はここで終わりにしたいと思います。
ありがとう。
勝見寿一
――追伸
さっきまで降っていた雨が今は止んで晴れ間が見えます。
そして晴れた空の下、今から出掛けようと思います。
僕は晴れも良いと思いますが、最近雨も好きになったんです。
理由は、雨の景色も雨なりの味があるという事を彼女に教えてもらったからです。
それでは行ってきます。
手紙を書き終わった僕はシャープペンシルを机に置き、手紙を写真と一緒に封筒に入れ封をした。
机の横のコルクボードには、今日の予定が貼ってある。
『返答』
と。
僕は鞄の中にカメラと三国志、そして封筒を入れ家を出た。
当然、行き先は廃工場の中の公園だ。
――END――