――八――
彼女の予想通り雨が降った。午後七時現在の降水量は百ミリを超えこの時期にしては珍しいくらい多い方だ。発達した熱帯低気圧が日本海側を中心に広く展開している。
まったくをもって迷惑この上ない熱帯低気圧に対して僕はぼやきながら宿題をしている。
僕の通っている高校は偏差値が若干低い。なぜなら高校は市内の中学校が複数集まってきた様な学校であり、本当に成績の良い奴は電車で一時間以上かかる様な県庁近くの高校に通っている。つまりこの学校は平凡からちょっとできの悪い奴が集まってくる学校で、そこから国公立大学に行けるのは二〇〇人中二〇人という所だ。僕も一〇番くらいにいる為、地元の国立大学を考えている。
そんな学校から出る宿題なので比較的、僕にとっては簡単だ。
(ええっと、リン酸と糖と塩基でヌクレオチドになって……)
特に一年生の生物Ⅰはとても簡単だ。なぜなら基礎しかない為だ。覚えればどうにでもなる科目という認識が生物にはある。
(二重螺旋構造が……彼女は今どうしているのかな)
雨は幾らでも経験しているはずなので雨なんて問題は無いはずだ。でも知り合ってしまった以上はどうしても気になってしまう。
ザー。
とても強い雨が家の屋根を打っている。
僕はずっとシャープペンシルを動かしながら考えていた。
(どうしたら彼女は戻れるのだろう……)
何も良い方法が思いつかない。数学の証明だったら、英語の長文だったら、古典の文法だったら簡単なのに……。解は全く見つからない。どうしたら良いのだろう?
シャープペンシルを置き宿題を片付け、パソコンの電源を入れる。
どうやって調べようか……ブラウザを起動し検索してみる。
『生き霊は思い残しを無くしてあげることで元に戻すことが出来る』というのが調べたサイトの殆どだ。
(彼女の思い残しは何だろう?猫にもう一度は違うと言っていたし……何をしてあげれば……)
『……ありがとう。そんな人に会ったのは初めてかな……』
不意に彼女の赤みを帯びた顔を思い出した。
(もしかして……いや、あり得ないな……)
僕は自分の心をそう納得させた。彼女が僕に好意を抱いていたとしても恋愛的な感情は向けていないはずだと。その判断が彼女の気持ちを裏切るかも知れないと理解した上でも僕はそう思い続ける事にした。
僕はふと空を見上げカメラを手に取る。雨雲は二十三夜の月を隠し鉛色の空を鈍く照らし続けていた。
七月二五日の天気は曇りだ。
僕は彼女が眠っている病院に足を運んだ。三日前と変わらず彼女はベットの上で眠っている。無機質な脈拍計の音が病室の壁に反射し空虚感を掻き立て続けている。
僕は彼女の顔を見てそのまま病室を出る。
何がしたいのか僕にも分からなかった。ただ、彼女が静かに眠っているだけで僕の気持ちが和らぐ様な、そんな感じがした。メランコリー感の強い僕の感情が溶けていく様なそんな感じだった。
「……今日も会いに行こう」
白い廊下を歩きながら誰に聞かせるわけでもなく僕はそう呟いた。
「勝見さんは相変わらず暇かつ体力が余っているのですね。仕方がないので勝見さんの暇潰しと体力の減耗に協力してあげましょう」
息を切らしながら公園に着いた僕に労いの言葉もなく彼女はそう言った。昨日一日、雨の降る公園に一人だけだったのに彼女の様子は全く変わっていない。むしろ一昨日より元気に見える。
白色のワンピースを着た彼女はいつも通り屈折していて可愛い。
「そうだね。綾香さんは今日何がしたい?」
「そうですね……、今日はこの廃工場を歩きませんか?私は何度も見ていますが勝見さんは見た事が無いと思うので丁度良いです」
「二人で街探検か……面白そうだね。まずどこから行こう?」
「東から見て回って北に行きましょう。まだあそこには動かせる機織り機が何台か残っているはずですから」
彼女は楽しそうに公園の外に出て行く。僕もその後に続いた。
「勝見さんは機織り機の原理を知っていますか?」
「ううん、飛び杼が左右に動く事くらいしか知らないよ」
「機織り機は経糸に緯糸を交差させて布を作る機械の事です。経糸を上下に分かれさせてその間に緯糸の飛び杼を左右に動かして筬を打ち付けて経糸と緯糸を組み込むという簡単な仕組みで動いています。この廃工場では力機織り機のシャトルレス機織り機が導入されていました。導入した当時は世界で最高水準の早さだったと思いますよ。」
彼女は得意げに僕を見上げながら話してくれる。
「隣町にもダウンジャケットとかの素材を輸出している会社があるじゃないですか。あの会社もこの廃工場のノウハウを生かしてウオータージェット方式の機織り機で大量に布をしていますし、現在は一秒間に六回も杼を動かす機械もあるそうです」
「へ~。綾香さんはよく知っているんだね、僕はそんな事を気にした事も無かったよ」
「……勝見さん、私たちの県の主要産業に繊維産業が入っている事を知っていますか?もし知らないんだとしたら小学校の教科書を見直して見るべきです。私たちのいる県には何もない様で沢山の驚くものがありますよ」
「そうだったんだ。他にどんな物があるの?」
「そうですね……湖の地質学的な年代測定の世界標準だとかですね」
「地質学的な年代測定?」
「炭素年代測定の事です。動植物の遺骸を使用した年代測定方法ですね。湖の年縞のなかに含まれている放射性炭素の量を調べて正確な年代測定を行う方法です」
「それでその、世界標準ってのは?」
「誤差が極めて小さいので世界的な標準として使いましょう、みたいな会議があったそうです。そこで実質的な世界標準って意識が強まったようですね。少しくらい調べればこんな事くらい分かると思うのですけれど……」
「そ、そうだよね……はははぁ~」
「勝見さんは何か私に有益そうなことを知っていますか?」
「あんまり無いかも……。綾香さんに知識量で勝てる気がしないよ」
「ふふふっ、それは私にとって嬉しいことを聞きましたね。ストレス発散として勝見さんを弄る為にわざと知らない知識をぶつけることにします」
「えっ?……それはちょっと……僕はマゾじゃないんで全く嬉しくないです」
「それは残念です。私はサディストとまでは言いませんがサドの気があるのは理解していますから」
「……」
「それじゃあ三国志の続きをお願いします」
僕は鞄から三国志を取り出すと一昨日と同じように朗読を始めた。
「……―――――――――――――――」
どれくらいの時間が経っただろう。
分かることと言えば読み始めていたときは天気が曇りだったが今は快晴で空が赤みがかっているということだ。その間に三国志は二巻読み終え六巻目に突入している。
僕はブランコに座ったまま真剣に朗読を続けている。
彼女は僕のとなりのブランコに座り目を閉じながら、髪を涼しくなった南風に梳かせている。
お互いのブランコの間六〇センチの距離が僕と彼女の距離のように錯覚してしまう。否、それは僕の思い違いなだけできっともっと遠いはずだ。そうであって欲しいと僕が幼稚にも願っている距離なんだ。だから僕が思っている距離は偽物の距離で彼女が僕と作ろうとしている距離はもっと遠い。
読んでいる間に何回思っただろう。何十回考えただろう。何百回感じてしまったのだろう。
だけど、きっと、たぶん、僕は間違っている。
「――見さん、勝見さん、聞こえてます?」
「あっ、うん。何?」
「いえいえ、勝見さんが私の胸を見て黄昏れていたので、もしかして貧乳教の信者さまなのかなって思ってしまっただけです」
「その貧乳教ってのは?」
「世界の宗教辞典には貧乳を愛してしまうロリータ趣味の集団、と記述されていますね。嘘ですけど」
「嘘なんだ……」
「何となく勝見さんが私のことについて考えているような気がしたので、何を考えているのか気になたのですよ」
「……まぁ、確かにそれに準ずることは考えていたけれど……」
「何を考えていたのか教えてくれませんか?」
「えっと、それは……」
「私に言えないことを考えていたのですか?私は大人の階段を上れないので諦めて下さいね」
「いや、そんなことは……考えていない、筈」
「はぁ~、まあ勝見さんがなにを考えようと私にとっては関係は有りませんけど、隠し事をされているということはあまりいい気がしません」
「まあ、そうだよね」
「じゃあ、気が向いたら話してくれますか?」
「……気が向いたら、ね」
「分かりました。もう五時半過ぎですよ。帰らなくて良いんですか?」
彼女にそういわれ僕はスマホを見る。
「ホントだ、じゃあまた明日来るよ」
「そうですね。またじゃあ明日」
そう言うと僕は彼女に背を向けた。すると突然後ろから「勝見さん!」と彼女が僕を呼ぶ声が聞こえた。
「勝見さん!あしたはカメラを持ってきてくれませんか?」
「えっ?どうして?」
「いいから、前もって来たカメラを持ってきて下さい」
「……分かった。持ってくるよ」
「絶対ですよ!」
「はいはい」
僕がそう返事をすると彼女は夕日に向かって微笑んだ。